宗祖の法華経観

法然上人は、どう見たか

 かの法然上人(浄土宗宗祖)は、法華経をどう見ていたのであろうか。
 法然師は、
 『法華経は宗教的訓練を受けたエリートの為に説かれたものであるから、その理論は難解であって、現在の世には仏の教えに従って修行する者も修行できる者もいない。
 ましてや教典への理解力も劣る末法の衆生には不相応で適切な教典ではない』
───と評した。

 しかし宗祖は、
「高山の水、よく低き谷川を潤すが如く、最上の教えこそ最下の機(者)を救う」
という立場から、法華経こそ世が乱れた時代(末法)に必要適切な教えであると論じられている。
 「仏の出世は、霊山八年の諸人の為に非ず………末法の始め、予が如き者の為なり」(昭和定本七一九)
と云われて、法華経の末法適切を強調されているのである。
 法然師は、法華経が優れた教典である事を知らないワケではなかった。
 しかし、そのお経はエリート中のエリートの為に説かれたものであるから、釈尊の時代から遠く離れた人々には難しすぎて役に立たないと判断された。
 しかし、日蓮聖人は、全く逆の立場から、優れたお経であるからこそ乱れ切った末法の世に住む人々に相応しい───と考えたのであった。
 これは、日蓮聖人が、単に法華経が釈尊の時代とその社会・衆生を救った教えであるばかりでなく、末法の時代つまり私たちの時代をも救わんが為に、釈尊が説いておかれたと見られているからである。
 確かに法華経は、釈尊によってその時代の人々を救わんが為に説かれたものである。
 しかし、そこに説かれている精神は、時間空間を超えて何時の時代にも、また如何なる社会衆生にも信じられるべきものであって、この法華経によってのみ真に導かれ、救われるものであると云うのである。
 法然上人は、末法の時代の人々は教典に対する理解力も劣っているから、阿弥陀仏による絶対他力救済の浄土教をもって末法適切の教えであるとされた。
 そして、宗教的訓練を受けたエリートたちを対象とした法華経は不適切と見放したが、宗祖は、そういったエリートたちを救う教えこそ仏教と無縁の者たちをも良く救う───という立場を採られた訳である。。