業報

善悪ともに報いが…

 「この間、或る雑誌を読んだのですが、死に方は、その人がどう生きたかによって決まるとあったんですが、そうとばかりともいえないと思います。」

 それは事実であると共に、そう簡単に割り切れぬものがあるのも確かです」
 誠実に生きた人がみじめな死を迎えたり、放逸な人生を過ごした人が安楽な死によってその生を終わる。
 すこし世間を眺めてみても、人々から指弾されているような人が豊かな暮らしをし、真面目に生きている人がいつも貧しい日陰の道を歩いている。
 数えあげたら矛盾の多い世の中です。

 でもすこし考えてみましょう。
 私たちはあまりにも近視眼的に、考えてはいないでしょうか。
 仏さまの眼はもっと大きく、久遠にわたっています。私達の命もまた悠久の流れの中にあります。
 その一瞬をとらえて吉凶、幸不幸を決定づけるのは早計です。
 昔から蒔かぬ種は生えぬ、といいますが、仏様の教えに「業報」という教えがあります。

 私達のすべての動きを「業」といい、その結果を「報」といいます。
 私達の身体と、口と心の一切のハタラキが業となって、善悪の果報をつくっていきます。
 私達の身口意の三つが善い方にハタライタ時、それは善い果報となって現れ、身口意が悪い方に動いた時、悪い結果となって現れる道理です。

 この業報には二つあります。
 現世の善悪の業が、現在の吉凶となって現れるのを現業といい、前の世の善悪の業が、今の世に幸不幸となって現れるのを宿業といいます。
 ですから、身に覚えのない不幸、悲しみは、遠い昔に蒔いた種が芽を出したのかもしれません。
 悪いことばかりではありません。
 現在の幸せ・喜びは、善い行いの報であり、また遠い前世からの善業の表れかもしれません。

 ですから、現在の日々を大切にしましょう。
 未来の種を蒔いているんです。
 現在の善業は未来の幸せ、豊かな実りの種をまいているんです。

 お釈迦さまが或る時お弟子を連れ、舎衛城に入られた時のことです。
 道に一人の婆羅門がまちうけ、お釈迦さまの行方を遮りました。
 「シッダールタ(お釈迦様の名前)よ、おん身は私に金を払わねばならぬ。払わぬうちはここを通すわけにはいかん」

 お弟子達は驚きました。
 お迎えに出ていた信者の人々も、お釈迦さまを仰ぎみました。
 お釈迦さまは黙ったまま、そこに立って居られました。
 急を聞いた波斯匿王=舎衛国の王=は、すぐ使いの者に金を持たせてやりましたが、婆羅門は承知しません。
 このとき須達長者=祇園精舎の施主=が500金を持ってかけつけ、婆羅門に与えて、やっとお釈迦さまを迎え入れることができました。

 怪しむお弟子や信者の人々に、お釈迦さまは静かに語りかけられました。
 遠い昔、波羅奈の国に一人の太子がいた。
 ある日、外遊した時、大臣の子である親友が賭けごとをして500金の負けを作った。
 太子は、もしこの友が払わなかったら、私が払うであろうと軽く約束をした。
 しかい、大臣の子は太子や父の威勢をたのんで、ついに払わずして終わった。

 この負債は幾世を重ねて今日に至った。
 その時の太子というのは私で、ついに払わなかった大臣の子というのは須達長者であり、今の婆羅門はその時の貸主である。
 負い目は必ず償わねばならぬものである。

 一切衆生の業報処を示し給う 法華経序品