呉音が原則の経文

漢訳法華経

 漢訳の法華経には三種が存在することは知られていますが、私たちが毎日拝読している「妙法蓮華経」は、5世紀の初めに鳩摩羅什によって翻訳されたものです。
 妙法蓮華経は名訳の誉れが高く、我が国でも長い間人々に親しまれてきたので、単に法華経と言えば、妙法蓮華経をさすようになりました。
 但し、28品(章)の中には羅什の訳ではない部分も含まれていると言われていますが、それはこれから述べようとしていることにとって大きな問題ではないので無視します。(笑)

法華経はもともと外国語

 法華経は梵語(=サンスクリット)即ちインド古典語から中国語─それも文章語、つまり「漢文」に翻訳されたものですが、漢文もまた日本人からみれば外国語であります。
 漢訳:法華経が我が国に伝来した当初は、おそらく中国音で読まれたと思われます。
  つまり、字音による棒読み、即ち真読です。
 その習慣が現在も続いているため、お経を読むのを聞いても、意味が一向にわからないという声が出るわけです。
 もっと分かりやすい日本語にならないものだろうか、いやそうすべきだ、というような意見も出て来るわけです。
 もちろん、法華経は棒読みだけではなく、一般世間の漢文と同じように日本語読みもします。
 いわゆる訓読ですが、これとても原文をなるべく忠実に直訳する方法であり、その日本語は文語体を用いる習慣がありますから、訓読のお経もただ耳で聞いただけでは、程度の差こそあれ、今の多くの人たちにとっては、意味がわからないという点で五十歩百歩でしょう。

漢字の話─形・音・義

 法華経の文章を構成する基本単位は一つ一つの漢字ですが、法華経がワカリニクイとかムズカシイとか言われる最大の理由は、今の若い人々には概して漢字の知識が乏しい、という所にあると思われます。
 漢字はいわゆる表意文字ですから、原則として一字に字形と字音と字義とが備わっています。
 つまり、一字が一語であって、表音文字のカナとは全く性質が異なるのです。

 山や川という字は、「やま」や「かわ」の形から出来た象形文字ですし、明や家は日と月、宀と豕(ぶた)という意味をもつ二つの字を合わせて作られた字で、会意文字と名づけられ、花・財などは意味を表す部分と発音を示す部分(化や才)とから成る字で、形声文字と呼ばれています。

 文字の音は、時代や地域によって大きく変わります。
 日本に最初に伝えられた漢字音は、今の揚子江下流地方の音で、この辺りは昔の呉という国があったところなので、後世になって漢音が伝わると、漢音に対して呉音と呼ばれるようになりました。
 奈良朝から平安朝の初期にかけて、中国に渡った遣唐使や留学僧が目ざしたのは、唐の都、長安(今の西安)でした。
 この都会の新しい字音が伝えられると、長安が昔の漢の都のあった処であることから、これを漢音といいました。
 そして、若干の例外はありますが、同じ漢文でもお経は呉音で読み、一般の漢籍は漢音で読むということがならわしとなって、今日に及んでいます。
 この二つの音の区別がよくわからぬことが、法華経を難しいと思う第一の理由でしょう。

 お経では自然を(じねん)、敬礼を(きょうらい)と読みますが、一般の漢籍では(しぜん)、(けいれい)と読みます。
 前者が呉音で、後者が漢音です。
 しかし、どちらの音で読んでも意味に変わりはありません。
 また、すべての文字が呉音と漢音で異なるわけでもなく、呉音漢音が同じな文字も少なくないのです。

 誓喩品の三界無安、猶如火宅の無は呉音ム・漢音ブ、猶は呉音ユ・漢音イウ(ユウ)、如は呉音ニョ・漢音ジョ、宅は呉音ヂャク・漢音タクですが、三・界・安・火は呉音漢音ともそれぞれサン・カイ・アン・クヮ(カ)です。
 但し、宅は経文読誦の際には漢音でタクと読んでいることは、皆さんのご存じのとおりであります。

 このように、呉音と漢音という発音上の大きな区別があり、経文は呉音で読むとは言ってもそれは原則であって、実際には漢音も用いられているわけですね。
 ここらがむずかしいと言えばむずかしいところでしょう。

 また、漢字は若干の例外を除けば、一字で一つあるいは二つ以上の意味を持っています。
 例えば「方」という字には、ざっと拾ってみただけでも(一)方角、(二)真四角・正方形、(三)いまや・まさに、(四)てだて・方法、(五)医術、(六)薬の処方など、さまざまな意味があり、まだまだ数えればあります。

 提婆品の四方求法は(一)、無量義経徳行品の非方非円短長は(二)、信解品の今我等方知は(三)、方便品の方便は(四)、誓喩品の順方治病は(五)、寿量品の明練方薬は(六)、の意味になります
 ですから、実際の経文について、その時その時で文字の意味−−−即ち字義をよく考えて正確に判断しないと、文章全体の意味がわからなくなったり、意味を取り違えたりする危険がああるわけです。

 こう申しますと、だから漢字はむずかしい、と思うでしょう。
 たしかに易しくはありません。
 しかし、こういう現象は漢字だけにあるものではないのです。

 方角という意味の英語directionには、そのほかに(二)傾向、(三)指導、(四)使用法、説明書、(五)手紙などの所書(address)、(六)演劇、(七)音楽では楽譜上のテンポ・強弱などを指示すること、などの意味があり、英文を読む時には、どれがその場合の適訳かを見きわめる必要があるのと同じことです。

 更に、法華経−−−法華経はかりではありませんが−−−は世間一般の漢文とは異なり、滅度・納衣・三十二相・八十種好など、仏教特有の言葉がたくさん出て来ます。
 とくに三十二相八十種好などの名数は、外典(論語・史記など仏教以外の書籍)の六経・二十四史・六十四卦などと同じく訳しようのない成語で、その具体的な内容を知る以外に理解する方法はありません。

 つまり、こういう言葉はそのままにしておくほかはなく、やさしい現代語に翻訳することは不可能なのです。
 また、涅槃・阿練若・般若波羅密などのように、原典の梵語を意訳せずに、漢字の音をかりて音写した言葉もたくさんあります。
 先に漢字は表意文字だと申しましたが、先のような例は、一つ一つ漢字本来の意味とは全く関係なく、ただ音が似ているというだけの理由で、漢字を表音文字として使用しています。
 ちょうど英語のgentlemanをジェントルマン、shakespeareをシェークスピア、フランス語のsalonをサロン、mademoisellをマドモアゼルと書くように、カナのような表音文字の無い中国では、漢字の音をあてたのです。

 英国の文豪シェークスピアはシェークスピヤとも書きますし、ドイツの文豪ゲーテはゲヨテ・ゲヨォテなどとも書かれます。
 カナでどう書いても、syakespeareもgoetheも、正確な原音を文字に写すことはできません。
 「ゲヨテとは俺のことかとゲーテ言い」というのは、この間の事情をよく示しています。

 この他、法華経には一般の純粋漢文では使われない口語や俗語も入っています。
 提婆品の「提婆達多、却後過無量劫、当得成仏」は、一般に「提婆達多、却って後無量劫を過ぎて、当に成仏することを得べし」と訓読していますが、これでは文意を誤解するおそれがあります。
 この文は「提婆達多は、無量劫を却後過(すぎて)」あるいは「提婆達多は、無量劫を過ぎて却後(のち)」と読むべきなのです。

 普門品の「念彼観音力、応時得消散」を多くは「彼の観音の力を念ぜば、時に応じて消散することを得ん」と訓読しています。
 この読み方では意味がわかりにくく、誤解を生ずる危険がありますから、この応時という口語的表現は二字で「ただちに」と読む方がよいのです。
 以上のことを総合してみますと、お経は新聞の社会面や娯楽雑誌を読むようなわけにはいかない。
 ある程度はどうしても勉強しなければならない、ということになります。