不受不施日蓮講門宗読本【1】

すべてのものには基礎

 家を建てるのでも何でも、一番に基礎が肝要であることはいう迄もない。
 しかし、形に現われた基礎は、すぐ見積もりが出来て、その考えが実現し易いので大した問題ではない。
 ではなくて、我々にとって大変重大な問題が一つある。
 それは何でしょうか?。
 それは「心の据えどころ」としての基礎である。

 それは私共が生きている事実に対する問題であるので、簡単なようでなかなかこれは難しい問題であると思う。
 いろいろの学問なり、生活様式もあるわけであるが、生きてる事実に対しシッカリした信念があって基礎が確立して居なければ、ウロタエ、迷い、なやみ、などの心が悪魔となっていつも私共の前途を遮り、方向を誤らせ、いつも不安がのかない。
 調子のよい時は忘れて居ても、一寸何かケツマヅクとすぐ不安になって心の正常化を失う。
 「無信心、気楽にいうて死を忘れ」の川柳流儀になる。

 だから生きてる事実をプラスするような人生最大の基礎をシッカリ打建て々置かなくては人間万事徒労に帰す。
 世に不運とか病気災難とか其他の悩みが、生きてる事実の上に常に蔽いかぶさってくるのであるから銘々勝手な「幸福」といっても実はそれは頗る縁遠い。
 いつ水の泡になるやら分からない。
 これに打ち克って行かなければ生甲斐がないので前記基礎の確立を要するわけである。

 この基礎がぐらつくと、生きてる責任をどうするかの問題が横たわる。
 責任といえば我々地上のつとめに対する責任を考えるが、然し根本的のものは、生きてる事実に対する責任である。
 これを否定すれば、悲観し自殺というような命かまわずの無謀もあるがこれは例外である。
 正常ではない。

 さて生きてる事実の基礎とは何か言い換えれば、我々運命の基礎である。
 運命とは何か、人間の生命を支配することである。
 我々の生命は、それ自体のもので、他の支配があるわけはないという方に答えよう。
 自分の運命という舟を河に浮かべて見る。
 どうなるか運命の流れの早さに応じて下流へ流されて行く事実を見る。
 万物もそうだが、人間は孤立してはいないで運命というワクの中で生きてる事実を見るのである。

 仏教は因縁の上からこれを指導して居る。
 我々生きてる事実から生活を続けて居る手近な所に約束というものがあって、教育は人間を利口にするものであり、政治は我々の相互の生活に順序を立てるものであり、経済は物の公正分配をするものであり、道徳は人間に礼儀を教えるものであり、芸術は人間の品位を高め上品にするものであり、産業は物をこしらえ出すものであるように、生きてる事実の上に生活を約束して居る一つ一つのワクであって、まだいくらもあり、また後から出来て来るでしょう。

 さて宗教は何か人の心を正常化し、其の運命を支配する後目を持って居るこれが常識である。
 以上分類的に述べて来た順では宗教も文化的な人間のワクの中の一つである。
 依って生きてる事実の条件の一つであり、約束であるから宗教に無関心ということは許されない。
 人間生存の条件を欠くことになるので絶対にいえないのである。
 よってこれを前提として、生きてる事実の根本問題を説き進めて行きたい。
 そして人間個々の運命から大きく天地宇宙の運命を決するものへ、そしてこれが渾然一体となる全能の運命を開顕したい。