不受不施日蓮講門宗読本【2】

運命は唯物か唯心か

 人間の運命は唯物か唯心か。
 つまり心で解決すべきものか、物の世界で解決出来るかという問題であるが、これは一応、心の世界として解決すべきものである。
 が、すでに科学の方で物質不滅と言っているから、唯心不滅をいうても当然である。

 何となれば物と心は紙のウラ、オモテの如きもので物も心も独立しては考えられない。
 知識に入ってこなければ、用をなさない。
 心の方も物の交流がなくては用をなさない。
 故に物、心は一つの両面であって独立すべきでない。
 物にも心あり、心にも物あり。
 そこで一応運命は心で解決する順序を持つと仮定して置きましょう。

 昔から心の方を霊魂などと名称し、物質界と対立してきたが、これではいつ迄経っても解決は出来ない。
 物の中に心、心の中に物、目で見ゆる物、心で見る物、相関的のもので対立すべきものでない。
 例えば人間が死んだからって、生きてるからって一つも変わりはない。
 物質も心も不滅である。
 唯々、目で見る形が変わるだけのものである。

 科学者の一つの見解では物質の密度の高いものが、脳髄などであって、精神の働きをするんだと言っているが、そんな分析的なことにこだわる必要はない。
 私共に「考える」事実と、考える働きのない物との区別を直観しているだけでよろしい。
 此の考えることによって新しい人生と世界が生まれてくる。
 そこに悟りがひらけ運命の指向が決まるのである。
 それが法華経に説かれてある。
 運命は孤独的な考え方から天地の大きな繋がりを持つ考え方に進んで、久遠の生命を見出し、全能の生命力を発揮するのである。
 そうした鉱脈を発見して運命の解決を図っていく教育を「おかげ」、「ごりやく」というのであって、これが法華経にある。
 大鉱脈は法華経である。