秋季彼岸会法話

『人間反省週間』

 彼岸がやってまいりました。
 日頃忙しさに追われて真剣に人生とか、仏教とかに縁のない人もこの一週間の期間、心を静かにして自分自身と対話をする行事です。
 「交通安全週間」とか「動物愛護週間」のようなものがあって、「人間修道週間」「人間反省週間」なるものがない。と春の彼岸会の時に話をしましたが、実はその週間が、この彼岸の期間なのです。それでは人間として、反省いたしましょう。

 いつの頃からでしょうか、高等動物そか下等動物とか、動物を区別して呼ぶようになったのは?。
 高等動物とは人間を含め、人間に似た類人猿・猿などであり、下等動物とはそれ以外の動物をいう。
 人間が動物いや、生物の頂点に立つ生物であるという考え方は、今に始まったわけではなく、古代ギリシャでは生物を三段階に分け、一番下が植物。
 植物は生殖と生きようとする能力を持ち、その上の動物にはさらに行動、快不快の能力が備わり、一番上の人間にはさらに思考能力が備わっているので、人間が生物の中で一番優れた生物である、とした。

 自分が一番優れているんだあ。と自分でいうのもオカシイ気がするが、ともかくその考え方はキリスト教とウマク結び付き、その思想は今日まで続いている。
 しかしこの考え方はハナハダ身勝手であり、その分類法は、人間中心的な考え方ではなかろうか。
 何を基準に高等・下等に分けるのだろうか。

 たとえば“走る”という能力において、百メートルを十秒で走れば速い、といってもカモシカやチータには勝てない。
 “力”においても象には、プロレスラーでも重量挙げの選手でもフッ飛ばされようし、“泳ぐ”能力でも魚に勝てるわけがない。
 “空を飛ぶ”、“土にもぐる”においては、虫にも、ミミズ、モグラにもその能力において、人間には欠如している能力であり、論外である。

 これらの能力には触れず、他の生物と比べて何が自分にとって都合が良いか。
 何が自分にとって他の生物に優れた能力を持ちあわせているか、人間は考えた。

 つまり、思考する能力だけを引っ張り出し、これを高等、下等の判断基準のひきあいに出したのである。
 古来より、人間は万物の霊長であることを自ら言ってきたが、しかし、本当に他の動物(生物)と比べて優れているのであろうか。
 その唯一優れているという思考においても、そうであろうか。
 ここで、その思考能力を使いたい。

 ちょっと前にこういった事件があった。
 覚えている人もいるかも知れませんが、ある動物園で深夜動物が虐殺された。
 関係者は「アレはとても人間がやったとは思えない」と言ったが…。

 また最近では、山口で通り魔殺人があったし、ムシャクシャしたからだとか、面白いからだとかで同類の人間をいとも簡単に殺したり、害を加えたりする事件は後を絶たない。

 人間より劣るハズの動物が、同類の仲間を殺した話などないし、危害をヤタラに加えたりしたことはない。

 たとえ自分の目の前を好物の餌が通っても、腹いっぱいの時には襲って食べたりしない。
 人間なら自分の胃袋の事など考えずに無理をしてでも食べてしまうだろうに。

 動物が“殺す”事をするのは、自分の生命の保存の為と、自分を危険から守る時にヤムヲエナイ時だけである。
 動物は好んで“殺す”事をしない。
 “殺す”事を楽しみとしてヤルのは人間だけである。

 つまり、人間なるが故の殺戮であり、前述の言葉は言い直す必要がある。
 「人間がヤッタとは思えない」のではなく「人間だからそこヤル愚かな行為」と。

 これで果たして万物の霊長、などと呼べるのだろうか。
 はなはだオコガマシイではないか。
 チョットした事でハラをたて、善意に対しても感謝を述べることもなく、悪い事をしていて注意されたら反って不快になるし、他人が困っていても手を差し伸べることもしない。

 自己中心的な物の考え方、他人の事などどうでもよい、これでなんで高等動物と言えようか。

 人間はそんな意味では高等動物、いや虫にも劣る生き物であるとも言えるのではないか。
 それこそ思考能力を発揮して反省し、本当の意味で万物の霊長として、何をすればいいのか、考えなければならないであろう。

 このような事を真剣に考えていくのが、この彼岸の趣旨なのです。
 反省なくして進歩なく、反省なくしては人間とは言えないのです。
 日頃、自分が本当の意味で高等動物としての人間であったか深く考えてみよう、と秋季彼岸会の席でお話をしてみました。
 都合で参拝できなかった方々にも文字にして、読んでいただき、もう秋季彼岸も終わって月日が経ちましたが、遅ればせながら一時の間、このような事を考えていただければ幸いです。

▽あとがき
 人間にとって唯一の武器である思考する能力、これは諸刃の剣。
 そして、思考と言語は密接な関係にあることも述べておこうと思う。
 使いようによっては素晴らしい仏になれるが、地獄に落ちて自分自身を傷つける事にもなる。