不受不施日蓮講門宗読本【5】

法華経の大要

日蓮講門宗読本から 故:日省
○本尊とは

 迹門の形の上からは十界互具の実相、本門に於いては久遠の生命、この二つを組織立てたものが本尊であって唯一の信仰の対象とする。
 法華経の『倶出霊鷲山』の文は本尊まんだらの儀相であり、如来秘密神通力、は本尊の生命とする明文である。

 この本尊は不浄の心をいみる、故に不受不施の本尊でなくてはいけない。
 不染世間法如蓮華在水の明文あるによる。
 ヨソの宗門では死んだら天にのぼるとか、西方極楽へ行くとかいろいろに指方するが、本宗では御本尊のほかにどこへも行かない本仏の座に在って久修行所得の安心がつづくのである。
 我等の合掌供養によって絶えまざる訓練がつづくのである。

○題目とは

 我本行菩薩道の明文による、菩薩の体育(心身)鍛錬のために用意されたものであって、仏種(仏性)育成になくてはならぬものである。
 此訓練で本仏体内にゴールインする菩薩とは正法、正師、正義三具の人格を指す、依って不受不施の題目でなくてはいけない。
 経に云く「不受余経」。我等こそ、地涌の菩薩の出現にあらずんば唱え難き題目なりと宗祖のお言葉によれば皆菩薩である。

○戒壇とは…

 世界第一の「お寺」をたてることである。
 本尊、信仰、修行、安心(あんじん=請願活動)の中心道場であって、天の神々まで天降って来て礼拝する。
 地上万象は勿論のこと、常在此不滅の明文、これを示し本仏実在の道場となる。

 これは形の上。常に我々信念確立活動の上に体内に厳然として大戒壇の建立成就の鐘は鳴っていることに油断あってはならぬ。
 然らずんば形の戒壇無益である。例えば何万をいれるほどの体育館が出来ても、それだけでは何もならぬ。
 肝心なことを忘れていては四処道場の意味はそこにある。
 これは末法万年流通の一段大誓願行としての大仕事である。
 これには不正不義を排撃し、正常化を以てする不受不施の発度、即ち此メートルの尺度を忘れては絶対に完成しないのである。

 ザンギャクに見えるボクシング、レスリングにもチャンと規則があるではないか。
 体育、教育皆そうである。
 我々の行動のすべてに正常化を期するゆえんのもの皆不受不施の律法のフヱンである。

 前記安心門について重ねて一言する。
 これは末法万年流通の一段として大変大切な門であって、ヤレヤレ安心といったような低俗な安心を指すのではなくて、本仏の大慈悲願海にさおさし、本仏不滅の生命に抱かれて久修行所得の功徳を積んで行く、その信念確立の法悦によって安心するのである。

 よってこの安心は一通願海に活躍し戒壇建立成就の責任があることを忘れてはならない。
 此安心は如是我聞に始まり、合掌たん仰に至り、当具奉行に進んでいるので如何なる迫害、誘惑逆境に遭遇しても微動だもしてはならない安心である。
 田中智学先生の教義編に不受不施を安心門に置く所以偶然でない。

○本仏とは…

 史上釈尊の教法の父と、これに共鳴する多宝の母、此境、彼の智によって、自然、人生を一体の人格化した宝塔を形成、其中核は妙法のお題目、かくして全智全能にして、不滅の人格をつくる。
 そして、未曾暫廃の行動をつづける。

 これを本仏という。
 畢竟・応身(史上)の釈尊を通して、其智徳の応報を認め更に拡大強化して、天地宇宙を本仏一体化とする応・報・法、三身コースを持って成る。
 故にウラン鉱石も、本仏の、み手、ダムも本仏の一滴、母の乳も本仏愛の一滴、如何なる行動も本仏体内の動き、経に「所作仏事」の明文これを証する。
 結局これを固定化し我々合掌洗練のマトとしたるもの、これを形式の本尊まんだらという。

 即ち横に実相界を展開して秩序(不受不施)の感恩の世界をひろげ平和の楽土を。縦に本仏久遠の生命を以て実相を貫き生々発展の一途を指ざし不滅の人生観に徹し而も殊に本仏の体内に在って、毎自作是念の本仏の燃ゆる意欲に対し、一心欲見仏と答えて菩薩行を怠らない。
 この誓いを立てるのが、ご本尊への合掌である。