日蓮講門宗読本から 日蓮講門宗宗史

不受不施とは

第12回
 受けず、施さずという語はすべてを否定している如く見えるが、決してそうではない。
 釈尊八十歳入滅の間際に説かれた涅槃経の金剛身品に仏陀人格の構成要素として「不受不施」の語がある。
 法華経の中にもその意文が散見される。
 これは結局、我が欲旺盛を制したもので、また偏向を戒めたものである。
 人間は欲で生きているが、欲で滅びるのである。
 暴力−喧嘩−戦争、すべて欲からくる。
 仏陀は彼此愛憎の心なしと言われている。あれは憎い、これは可愛いなどとエコヒーキの心はない、偏向はないと明言されている。
 こういう釈尊の性格を、不受不施といったところから始まるので、故に釈尊を金剛身と断言された。
 火にも水にも何ものにもオカサレないという確信である。
 故に現代人もこの不受不施精神で正常化し、国際国連もこの浮腫不施精神で偏向なく我が欲を制し、同胞握手合掌すべく其の一大道標となるものは一人この不受不施ではなかろうか。
 わが宗名も先師からの名称は日蓮宗不受不施講門派(現在は不受不施日蓮講門宗)であるが、要約して日蓮講門としたので、日蓮大聖人を祖述継承したる日講聖人門流という意味である。
 日奥聖人は「三世諸仏説法の大儀式」という法華経の要文をあげて、この大儀式とは不受不施という法度である。
 厳粛なる不受不施の法度なくんばいかなる大儀式もあり得ないと、断じられている。
 更に進んで寿量品における「倶出霊鷲山」の本仏説法の大儀式こそは十界勧請大曼荼羅御本尊として表現され我々信仰の大道標となっていることに考え及べば、わが宗門のごとく不受不施実践の実績あるところにこそ本門の御本尊が確立しているのであって、他宗門には形のみあって実がないと断言してはばからない。
 この頃大石寺一派が堂々として折伏立教宗祖復活に奮起している。
 壮とすべきも、古受の時にはのがれたが、すでに新受の時に不受不施の法度を破り謗法に堕している歴史のキズ跡拭うべくもない。
 そのほかはそうなめの状態で悉く一列謗法、無間の境涯におちている。
 何のかんばせあらんやである。
 不受不施一党は法難連続で施設は悉く焼かれ、追われ、没収され何一つもなくなった。
 ただ「法王の一人は無勢なり」という如説修行抄の通り、末法万年の聖火をふりかざしてきた。
 歴史の実績を見のがしてはならない。
 上行所伝の題目−生きた法華経実績の所有者こそわが日蓮講門宗であると断言してはばからない。