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旧満州地域に残留孤児が大量に出た理由

〜旧満州地域と中国本土との根本的差異〜

 支那派遣軍地域(今日でいう中国本土)の残留孤児数は絶無ではないが、僅少である。
 これには、それなりの根拠・理由があるのである。
 幸か不幸か、私自身、関東軍および北支那派遣軍の兵員として戦闘に参加した。
 だから、その辺りの事情は一通り心得ているつもりである。

 今ここに昭和20年8月の終戦前後における支那総軍の作戦・停戦について述べるのは略するが、そこでは終戦直後、蒋介石総統により、「報恩以徳」という大方針が宣示されている。
 この点がまず、ソ連軍が侵襲して来た満州戦場との根本的差異である。

 すなわち、我が支那派遣軍に対して国府軍=蒋介石軍は、「報恩以徳」であったのに、関東軍に対したソ連軍は、全く、その反対に「報徳以怨」を敢えてしたのである。
 スターリンは、その対日宣言に於いて、「我らは日露戦争の怨みを、この一戦に晴らさなければならない…」と云う意味のことを大きく呼号している。

 考えてみれば、日露戦争は帝政ロシアとの戦争で、レーニン・スターリンの共産ソ連帝国の成立は、日露戦争のお陰によるところが少なくなかったのである。
 このように日本は、怨みどころか大いなる徳をこそ彼らに与えたにもかかわらず、この徳を逆怨みして大東亜戦争末期、我が国の弱り目に乗じ、中立条約を踏みにじって暴戻極まる参戦・侵襲を強行したのは不届きである。

 果たして大東亜終戦前後における中国大陸戦線の作戦・停戦の実行・推移は、すこぶる緩焼的・微温的・温情的であった。
 それに比べ、満州戦線の作戦・停戦の実行・推移は、極めて急焼的・冷酷的・苛虐的であった。
 すなわち、一方はおだやかな春雨的であり、他方は荒れ狂う二百十日の台風であったのだ。
 もっとも戦争のことだから、相手の冷酷非情を責めても始まらないが…。
 八月十六日の停戦という、戦争状態が終わった後まで、長く苛虐状態が続いたのは、天人ともに、許し難いところである。

 果たして、その二として言えるのは、国府(中国)側は、よくポツダム宣言を守って、出来る限り早く、在支日本軍の本国帰還に力を貸したが、ソ連軍はポツダム宣言を完全に無視・蹂躙したということである。
 すなわち、蒋総統の「報怨以徳」の精神は、軍はもとより、民衆一般にまで徹底した上に、支那派遣軍は、大体において、その建制を保持したまま随時、天津・青島・上海・広東の乗船地に集結して、帰国している。

 もし、関東軍に対するソ連の取扱いが、ポツダム宣言弟九項の、
 「日本国軍隊は完全に武装解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得せしめる」
という、寛大というよりも普通のものであったとすれば、誰が考えてみても、今日における残留孤児問題は、旧満州地域において生起しなかったであろう。

 中国本土にいた日本居留民70万人は、武装解除された支那派遣軍将兵百万人と一緒に、内地に帰還した。
 果たして、しからば、満州にいた日本居留民二百万人も、武装解除された関東軍将兵七十万人と一緒に日本本土に帰還したはずだという道理が成立し、離散家族や残留孤児も出なかったはずである。