雑談雑話(8)

歯止めの必要な科学

 脳死の問題を手掛かりとして、仏教のあり方を考えてみましょう。
 問題は脳死そのものではありませんから、これについては余り知識を必要としません。
 いや、むしろ科学的・技術的知識はない方が良いでしょう。

 例えば、キリスト教のカトリック教会に於ける「避妊」の問題を考えてみて下さい。
 カトリック教会では、伝統的に避妊を「悪」としています。
 男性がパイプカットをしてもいけないし、女性が不妊手術を受けるのも認めていません。
 コンドームを使っての避妊もダメですし、女性が避妊リングを使うのも認めません。
 ただ、オギノ式の受胎調節が認められているだけです。

 ところで、ご存じのように、世界では人口が爆発的に増え続け、人口増加にともなう食糧危機が心配されています。
 しかしながら、だからと言って、カトリック教会が避妊を是認するでしょうか。
 避妊を公認するでしょうか…。

 カトリック教会が、避妊を不可とするのはそれが聖書の教えだからです。
 人口増加に世界が困っていますが、どのように時代が変わろうと、避妊の技術が向上しようが、カトリック教会がキリストの教えを変える必要はありません。
 「カトリック」とは、普遍的といった意味ですが、カトリック教会が教えを変えると、それは「カトリック」ではなくなってしまいます。
 カトリック教会は、時代や技術の進歩とは無関係に「永遠の真理」を説くべきなのです。
 それでこそ「カトリック」でしょう。

 仏教が宗教である限り、仏教は「永遠の真理」を説かなければなりません。
 世の中が、どのように変化しようと、科学技術がどれだけ進歩発達しようと、仏教は仏陀の教えを説き続けるべきです。
 世の中が変わったからといって、世の中の動きに合わせて、仏教の教えを変える必要はないのです。
 世の中の動きに合わせて教えを変えるのは、「時代への迎合」です。
 絶対に「迎合」しては、いけないのです。
 迎合すれば、仏教は滅びてしまうでしょう。

 したがって、臓器移植が可能になったからといって、慌てて仏教が教えを変える必要はないのです。
 私たちは、釈尊の教えを守っていれば良く、教えを時代に迎合させて歪めてしまってはいけないのです。

 その点では、イスラム教はシッカリとしています。
 イスラム教の聖典『コーラン』では、死体を火葬にしたり、死体を傷つけることは、生きている人間を火あぶりにし、生きた人間を傷つけるのと同じである、と断言しています。

 だから、イスラム教徒は、絶対に火葬を行いませんし、ましてや臓器移植も行いません。
 いくら医学が進歩したからといって、『コーラン』を変える必要はないのです。
 『コーラン』を書き変えたなら、イスラム教は死滅してしまいます。
 ですから、イスラム教の学者は、医学の進歩について勉強をする必要はありませんし、むしろ反対に、臓器移植をすることが医学の進歩だとするならば、「医学は進歩してはならぬ」と中止命令を出すのが、イスラム教の学者の仕事なのです。

 科学技術は、どこかで歯止めをかけないと見境いなく前進していきます。
 大量殺戮兵器が造られ、実用化されています。
 その内、脳死状態の人間を生かし続けて、その人間から採血できるようになるかもしれません。
 いや、これは現在の技術でも可能だそうです。
 輸血用の血を採る…考えると恐ろしい話ですが、歯止めがなければ科学は平気でそれをやってしまうでしょう。
 科学には、歯止めが必要です。
 そして、その歯止めは宗教によってしか掛けられないのです。
2007.4.17_UP