雑談雑話(9)

対話

 碁は、歴史が古いだけに、いろいろな別称がある。
 「手談」というものもその一つだが、これなどは、まことに味わい深い言葉であると思う。
 およそ、将棋にしても碁にしても、対局では口でものを言わず、打ちおろす一手一手が口の代わりにものを言い、対局者の意思を表現するわけである。

 外国人と碁を打ったことがある人なら痛感させられることだが、言葉がまったく通じないのに、こちらの意思が向こうにスムーズに伝わり、顔を見合わせてニヤリというようなことも少なくない。
 まことに碁は「手談」であり、あらゆる国境・国語を越えた「地球語」であると言ってもよい。
 外人は、碁は神秘的であり幻想的であり、東洋的で日本的な芸術だと誉めます。
 私たち日本人同志が碁を打つ時、碁の「手談」の面をおろそかにしていないだろうか。

 それにしても、碁や将棋の対局では、言葉でない言葉でお互いに会話をする。
 盤と駒・盤と石、それを共通の触媒として会話・対局が進められるのである。
 仏陀は、いつも私たちに説教をして下さっているのだが、私たちには聞こえない。
 いや、聞こえないのではなく、聞こえていても理解できない言葉で説教されている。
 それを理解・聞けるようになるには、仏陀の教えを記録している「お経」を媒としてまさに、仏陀と対局をしなければならないのかもしれない。
 それは、一生という持ち時間が終わるまで、いや、この身がなくなった後も続けられる長い長い対局である。
2007.4.17_UP