雑談雑話(14)

仏像は仏教のシンボル

 キリスト教の聖典の『旧約聖書』の中に、神(神道の神と区別するため以下ゴッドと言う)が、モーゼに与えた十戒というのが出てくる。
 その「モーゼの十戒」と云われる第二に、

 「あなたは、自分のために刻んだ像を造ってはならない。…どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」

という戒律・規則がある。
 そのために、ユダヤ教やキリスト教では、絶対に「ゴッド」そのものを像にすることはないし、偶像崇拝を極端に嫌っている。
 欧米人は、日本の仏像の豊富さに驚き、仏教は偶像を崇拝する低い宗教だと考えているようである。

 人間が、自分の手で造ったり描いたりしたものを、そのまま仏陀や菩薩そのものと信じて、崇拝したならば、たしかに仏像崇拝は偶像崇拝かもしれない。

 昔、中国が唐の時代に、天然という禅師(禅宗の僧侶)が、旅の途中に余り寒いので、ある寺の本堂に、安置してあった木造の仏像を火にくべて暖をとった─、という故事がある。
 即ち、仏像とは、彫刻されたり描かれたりした像自体に価値があるのではなく、仏陀やその教えを表現したものとしての価値があるのだ。

 したがって、たとえどんなに芸術的に価値のある仏像であっても、仏陀やその教えに対して信仰を持っていない人にとっては、単なる偶像に過ぎないのである。

 ここで忘れてならないことは、古代や中世の仏師は、自己の信仰を通して仏像を造った人が多かったということ。
 単なる芸術ではない何かがそこに秘められているからこそ、その作品が千年以上もの後の現代人の心をも打つのであろう。
 一言でいうなら、仏像はキリスト教の十字架のように、仏教のシンボルであると言える。
2007.4.18_UP