雑談雑話(16)

お経は、なぜわかりにくい?

 分かり難いといっても、お坊さんの読むお経を聞いていても分からない・チンプンカンプン…というのと、書かれたお経を読んでも理解できない………という二種類あると思います。
 英語の勉強、とりわけ英会話を身につけようと努力したことのある人なら、すぐにお分かりでしょうが、「会話ができる」という事は、実は相手の言うことが分かる・聞きとりヒヤリングが出来るということです。
 こちらがいくら頭の中で、文を組み立てて話しかけることが出来ても、相手の言うことが聞きとれなくては、会話は成立しません。
 会話の難しさは、むしろ聞きとり・ヒヤリングにあると言えましょう。

 お坊さんは、日本に仏教が伝わった時代の中国の発音、いわゆる呉音に近い発音でお経の漢字を読んでいますから、学校で習った漢音の発音知識で聞きとろうとしても、不可能なのは当然なのです。
 英語に限らず、外国語を学ぼうとすれば、日常語の他に、その分野の特別の勉強をしなければなりません。
 少なくとも、仏教を理解しようとするなら、漢字の発音・漢文の構成、さらに中国語や梵語という外国語などの、専門語と呼ばれるものも勉強しなければならないのです。
 こう言うと、何だか仏教は私たちから縁遠いような気がしないでもありませんが…。

 ただ、仏教が日本に伝わってから千三百年以上も経つのに、どうして日本語でお経を読まないのか?、という疑問は有ると思います。
 これは仏教が伝えられた当時の日本語には、お経を翻訳できるような「やまと言葉」がなかった、というのが答えとなります。
 学問・芸術・建築・医術などの文化的、また抽象的な言葉はすべて、日本が仏教によって学んだことです。
 仏教によって得た漢字語言葉が日本語を形作っている以上、翻訳ができなかったのは当然のことでしょう。

 明治時代になって、西欧の科学や思想が入ってきた時、それを漢字の日本語に翻訳する事が出来たのは、仏教による下準備があったからなのです。
 「アメリカ合州国」と訳すべきところを、「和合衆」という仏教の知識を応用して、アメリカ合衆国とした例は、その証拠と言えます。

 お経が難しい─という問いの陰には、「お経は易しくあるべきだ」とか「あって欲しい」という気持ちがあるのも事実です。
 しかし、英語を学び、英語圏の人々の心理を理解しようとすれば、勉強努力が必要であるように、仏教を自分の人生問題の解決に役立てようとするなら、知識としてだけでも仏教(仏教語)を勉強することが必要だと思います。
 英会話と同じように、聞きとりの出来る線を越えれば、聞きとることを通して、より高い内容の理解が得られるようになるでしょう。
 少なくとも、仏教語は外国語でもあるのですからね…。
2007.4.18_UP