雑談雑話(22)

不受不施と内信と・・・

 不受不施派がなぜ二派に分派したのかを考察する場合、あらかじめ日蓮宗の根本的な教えや、法華経の勉強をして、ある程度の知識を持ってからの方が理解しやすく、また誤解を招く心配もないのであるが、その紙面を有さないので、いきなり「内信」の話から始めていこうと思う。

 「内信」とは、字の如く「内に信ずる」という意味であるが、分かりやすく云うと、外見の信仰と、内つまり心中の信仰とが違うということである。
 不受不施派は江戸幕府や受不施法華からの禁制と迫害によって表向き、つまり歴史の上からは抹殺されたかに見えた。
 外見・第三者から見ると、他宗他派の信者が、実は心の底では不受不施を信仰していた…というのが、内信の時代である。

 萬代亀鏡録などには、内信者を外染内浄と表記しているが、身と心の二元論に立脚した表現である。
 外見からの身体(身)は他宗他派に染まっているので外染と言い、心は不受不施なので内浄と云うのである。
 内信時代の不受不施派が二派に分派する原因の発端は、天和元年(一六八一)の美作に始まるのであるが、その根底には先ほどの内外(身心)二元論なるものが存在している。
 
 迫害と禁制によって身心ともに不受不施を信仰することは不可能になったから、不受不施再興の時までは命脈を保つため、外見上は他宗他派を装って幕府の目を遁れ、心中では頑なに不受不施を信仰して受け継いでいく…そんな信仰の形態が、自然にでき上がっていったようである。
 しかしそういった信者とは別に、不受不施僧は、幕府の手の届かない無宿者となって不受不施の法燈を守っていたのである。
 こういった、身も心も不受不施の僧を清僧と言うが、これら不受不施僧を支えたのは、他ならぬ内信者であった。

 ところで、身染心浄の内信者を不受不施の立場からは、一応、謗法者として規定する。
 つまり、身浄心浄の者以外は総て謗法者とみなし、そういった信者から清僧は直接供養物を受けとることが出来ないのである。
 その理由は、謗法者から供養物を直接受け取ると、清僧も謗法を犯したことになり、清僧ではおれなくなるからである。
 汚れた物に手を触れると、手が汚れるように…と喩えてもいい。
 謗法者からの供養を直接受けると、不受不施義を遵守できないのである。

 なお「謗法者」とは、正しい教えに従わず、謗ったり非難する者をいう。

# 内信者は、正しい教えに従わない・正しい教えを謗ったり非難はしてない。しかし、外染の者である。

 だが、現実には、清僧はそういった内信者からの供養物を受け取っているのである。
 清僧と内信者の間に、ある者を立て、その中継者が内信者から供養物をいったん受けとって自分のものとし、改めて清僧に供養する…という形をとったのである。
 この中継者を「施主」と言う。

 「直接…」、「直接…」と述べた理由は、ここにある。
 謗法者からは直接供養できないので、一度施主に渡し、その施主からの供養物として清僧に差し出すのである。

 この「施主」は、内信者のように身染心浄でなく、不受不施僧つまり清僧でもない。
 身浄心浄の純粋な不受不施信者のことである。
 したがって、人別帳に記載されていない、言わば無国籍の信者とも言えよう。
 禁制不受不施派では、清僧を法中、施主を法立と言った。
 禁制中は、一つの内信者グループに一人の法立のが居たという。
 法要などの読経の場を持つ時なども、必ず法立が内信者と清僧の間に立ち、
 清僧───施主───内信者
(法中)  (法立)
の図式が、自然に定着していった。

 明らかに、身浄心浄(法立)と身染心浄(内信者)の区別が存在していたのである。
 不受不施派が二派に分派したのは、この身浄心浄の法立と、身染心浄の内信者との混同に始まったと言っても過言ではあるまい。
 禁制中は、江戸幕府や池田藩によって備前の不受不施派は厳しく取り締められ、不受不施を信仰する信者は否応なしに内信の形を採ってその身を守らねばならなかった。
 したくて内信をやっているのではない。
 仕方なしに内信をするしか、自分の信仰を守る方法がないのである。
 だから、身浄心浄の法立と身染心浄の内信者は同等である─と主張したのが金川の日指派である。
 いや、身浄心浄の法立と身染心浄の内信者とは、やはり区別すべきである─と主張したのが、日講・日相上人らであり、津寺派であった。
 どういう風な経緯で、分派するに至ったかは、別の講で述べていくつもりなので、ここでは深入りしませんが、簡単に説明しておきましょう。

 天和元年(一六八一)、美作の久世で法立の浅島助七という人が、自分のお曼荼羅を掲げて、内信者の導師を勤め拝したのが始まりで、それを見ていた法立の宗順という人が、翌年の九月、岡山栄町の内信者万助の仏前を拝み、十月には同町の九郎太夫宅で内信者看経の導師を勤め、それが問題となった。
 宗順が内信者看経の導師を勤めたのは、清濁(身も心も不受不施に捧げている者・そうでない者つまり内信者のこと)雑乱・混同の修行であるとして、この十月下旬に論争が始まっている。
 以後、これを契機として清濁雑乱か否かをめぐって日相上人・日講上人を巻き込んだ論争が展開する。
 備中津寺方は混同であるとみなし、備中日指庵方は混同ではない…とする立場を採るのである。
 これと同時に、清僧が内信者に本尊曼荼羅を直接授与できるか否か…という問題も含まれている。
 いずれも身浄心浄の者と身染心浄の者との区別をすべきか、否かが問題になっている。

 前述の通り、混同すべきでない立場を採ったのは日相日講上人らであり、間違いのない完全無欠な不受不施直系の僧侶たちであった。
 詳しくは、いずれ・・・。
2007.4.19_UP