雑談雑話(25)

内信

 「内信」という言葉があります。
 これは、特に不受不施の用語で、「内」に「信」ずる、という意味です。
 何を内に信ずるのかと云うと「法華経」を信ずるのです。
 それも、ただの法華経信仰ではなく、日蓮聖人の明かされた法華経を信ずるのです。

 法華経の前では、何人たりと雖も仏陀釈尊から見れば子供であり仏子なのです。
 「人のうえに人をつくらず 人のしたに人をつくらず」
という有名な言葉がありますが、身分や権力の上下有無などの差別はありません。
 ただあるのは、この法華経を信ずるか、信じないか、だけなのです。
 法華経を信仰しない者、誹謗する者を「謗法者」として区別し、その謗法者を法華信仰に入らせる為の手段として「不受不施」があり「折伏」があるわけです。

 ところで、法華宗は古来より、時の権力者が法華経を信仰しない者であれば、公的場に出席し、ましてや読経をする事などは考えられませんでした。
 執権が替わる度に、不受不施という義ゆえに法華信仰者以外に対しての読経や供養への出席が出来ぬ旨を伝え、免許書を受けるほどであったのです。

 ところが、信長や秀吉以後、中央集権主義の政府が登場すると、その強大な権力、特に武力の力は脅威でした。
 もともとは、法華宗内にも二つの学派があったのですが、秀吉の大仏供養を契機に、受不受の形として表に出てきた、というのが真相でありましょう。

 時の権力者の言うことに刃向かえば、武力によって法華宗は潰される恐れを感じた者が、王侯除外の不受不施というものを立てたのです。
 不受不施という義を立てながら、時の権力者には例外を認めるという、一つの妥協案と言えるでしょう。
 これに対して、古来からの純正不受不施を主張したのが、日奥上人を始めとする若手の僧侶だったのです。

 当時としては、妥協した長老の日重上人らも止むを得ない面もあったのでしょうが、最初は「一度だけ」のつもりが、結果的には、大仏供養が終了するまでの20年の間、供養に出席したのですから、その罪は大きいと言わねばならないでしょう。
 大仏供養の終了後は、それに出席した僧侶たちの、日奥上人に対する懺悔によって解決したかに見えたのでしたが、この事件によるシコリは残っていたのです。
 結局は、「不受不施の禁制」を徳川幕府から取り付けた受不施派によって、不受不施を信仰する者は、断罪に処されるか、改宗改派を迫られる事態までになったのでした。

 ともかくも、禁制になった以上は表立った宗教活動は出来ませんから、当然地下に潜ることになります。
 しかし、人別帳というものがあり、完全に世を捨てる訳にはいかない一般信者は、表向きは他宗か、法華宗でも不受不施派以外を装い、外見からは不受不施信仰者でないようにカモフラージュしたのです。

 外見からは他宗他派ですので、信仰の上から見れば汚れている─とみます。
 しかし、汚れているのは外見だけで、「内」つまり、心の中では法華経の不受不施を信仰しているので、「内信」と言われました。
 不受不施派が迫害を受け、歴史の上から抹殺されたかのように見られましたが、この「内信者」の力によって、不受不施の法燈は受け継がれ、守られてきた事実があります。
 なお、本覚寺に「斗有の八幡さま」、霊源寺に「九谷の八幡さま」がありますが、これらは信仰活動や集会を隠すためのものだったのです。
 明治15年に再興するまで、寺院という建物を有することが許されない・出来なかったからです。
2007.4.20_UP