不受不施日蓮講門宗読本【7】

戒壇とは

 世界第一の「お寺」を建てることである。
 本尊、信仰、修行、安心(請願活動)の中心道場であって、天の神々まで天降って来て礼拝する。
 地上万象は勿論のこと、常在此不滅、の明文これを示し本仏実在の道場となる。
 これは形の上。
 常に我々信念確立活動の上に体内に厳然として大戒壇の建立成就の鐘は鳴っていることに油断あってはならぬ。
 しからずんば形の戒壇は無益である。
 例えば何万をいれるほどの体育館が出来ても、それだけでは何にもならぬ。
 肝心なことを忘れていてはダメで、四処道場の意味はそこにある。
 これは末法万年流通の一段大誓願行としての大仕事である。
 これには不正不義を排撃し正常化をもってする不受不施の法度すなわちこのメートルの尺度を忘れては絶対に完成しないのである。
 ザンギャクに見えるボクシング、レスリングにもチャント規則があるではないか。
 体育、教育皆そうである。
 我々の行動のすべてに正常化を期するゆえんのもの皆不受不施の律法の敷衍である。
 前記安心門について重ねて一言する。
 これは末法万年流通の一段として大変大切な門であって、ヤレヤレ安心といったような低俗な安心を指すのではなくて、本仏の大事秘願海にさおさし、本仏不滅の生命に抱かれて久修行所得の功徳を積んで行くその信念確立の法悦によって安心するのである。
 よってこの安心は一通願海に活躍し戒壇建立成就の責任があることを忘れてはならない。
 この安心は如是我聞に始まり、合掌たん迎に至り、当具奉行に進んでいるので如何なる迫害、誘惑逆境に遭遇しても微動だもしてはならない安心である。
 田中智学先生の教義編に不受不施を安心門に置くゆえん偶然でない。