不施思想から不受不施思想へ

 不受不施の「不受」は、「不施思想」を発展させたものである。
 その「不施思想」というのは、釈尊の真意を説いた法華経を誹ることを禁じ、唯一絶対の法華経を重んじ、法華経を信じぬ者・誹る者(謗法者)に対して、信仰的供養を止めて法華経への入信を強調するものである。
 教えの面における折伏と、経済的圧力を加える「不施」という態度を採り、法華経を広めていくのである。
 ところで、このような謗法者への「不施」が模範的規則として成立すれば、逆に、謗法者からの供養物は当然の事ながら、これを拒否する「不受」の態度になって現れなければならない。
 謗法者を責め・その教えを折伏しながら、一方で、謗法者から供養を受けていたのでは片手落ちで、あくまでも謗法を許さないのであれば、受ける訳にはいかなくなる。
 謗法者からの供養物を受けることは、謗法を容認することになり、矛盾が生じてしまうのである。
 折伏と不施思想が結びつけば、当然にして「不受」が生まれる必然性がここにある。

 「不受」は、折伏と不施を徹底させれば生じてくるものだと言えよう。
 『法華経こそ真実の教えであり、法華経以外の経典は方便の教えである』は、不受不施思想の基本的性格であるが、これは単に日蓮宗だけが持つ特性ではない。
 実は、仏教諸宗が有するものであって、諸宗はすべてこのような観点に立って、自宗が他宗よりも優れていることを論じているのである。
 自宗が他宗より、どこがどう優れているのかを論ずるのを「教相判釈」…略して教判という。
 華厳宗の五教判、天台宗の五時半、真言宗の顕密判等々、これらの教判を強力に推し進めば、当然にして不受不施思想にまで発展しなければならないものである。

 だが、これらの諸宗は必ずしも「我が唯一なり」を強調せず、他宗他教と併存して寛容的態度を採ったのである。
 その中で、浄土宗だけは異なっていた。
 浄土三部經をもって唯一最高のものとし、諸宗諸經と比べて自宗を「十即十生」「百即百生」の教えと優位付け、他を「千中無一」と非難した。
 法然上人に至っては、浄土三部經以外の諸經を捨てよ、という選択集の主張となって「浄土唯一が正法なり」の旗を高く掲げたのであった。
 これは、不受不施思想に到達する共通の基盤に立つものである。
 だが、この主張による風当たりは強く、当時の比叡山やその他の仏教諸宗からの迫害は極めて強いものがあり、かつ執拗であった。
 根を上げた法然上人は、七箇条起請文を作って、この抑圧から逃れようとした。
 つまり、当時の法然上人の弟子や信者である念仏者が、真言・天台の教えを非難し、阿弥陀仏以外の仏や菩薩を誹っていたのを厳禁し、これに背く者は阿弥陀仏の救済から外れて地獄に堕ちると論じ、同時に破門にすると通告したのである。

 これは、天台・真言と妥協したもので、浄土三部經以外にも正法の存在を認めたことになる。
 これによって、内面はともかく表面的には寛容となり修正されたのであった。
 この態度は、不受不施的な考え方の放棄といえる。
 しかし、こうした妥協的態度は日蓮聖人が厳しく戒めるところであって、あくまでも法華経を主張して僅かの譲歩も許さなかった。
 その結果、「大難四度、小難数知れず」という波乱の生涯を送られたのである。

 弟子信者もその後を受け継ぎ、弾圧迫害の中に法難意識を高揚しつつ教団を発展させてきた。
 その中で、不受不施制は教団の規則と信仰の純潔を守るために不可欠な行軌となっていったのである。
 つまり、浄土宗と異なり、不受不施の行軌は日蓮教団だからこそ生まれ、生育すべきものであったと言えるだろう。
 さて、不受不施制は中世の時代では何らの異議もなく守られていた。
 もちろん、時には混乱し変化することもあったが、直ちに修復し正されて教団統制の大網となっていた。
 この不受不施制が日蓮教団の特別な行軌として大きく前面に押し出されるに至ったのが、強力な近世統一政権の樹立に伴う宗教政策の施行にあたって、この制度が障害になることから始まる。

 文禄四年(1595)、豊臣秀吉は京都の東山妙法院大仏の千僧供養会を営むにあたり、日蓮宗のも出仕を命じた。
 しかし、法華未信・謗法者である秀吉が主催する法会に出席して供養を受けることは、不受不施の制度に照らして如何か…と、出仕の可否をめぐって、本満寺日重と妙覚寺日奥との間に意見が対立した。
 秀吉の命令を契機として、「宗教と国家」どっちが大切か・どっちが重いのか…の判断となって現われたのである。
 日重は、「増大し、強力になった統一政権に順応する寛容な立場」に立ち、国家権力を重視して国主の供養は例外として受ける「王侯除外の不受不施」を創案した。
 これに対して、日奥は「変転する世相に実相を見極め、厳粛な折伏主義に立って釈尊の権威を重視し、この世界は遙かに遠い昔から釈尊が領有しているところである」と断じている。

 その統治は、梵天に委託されているが、この日本の国主が如きは梵天と比べて粟粒ほどにしかならず、一小国を領する小王に過ぎぬ。
 したがって、主たる釈尊の仰せが、そのような一小国の国主の意志によって左右されるべきものではないと主張するのである。

 これは、国主といえども法華未信・謗法者ならば、その供養は受けるべきでなく、王侯除外の不受不施のような特例など出てくる余地もない。
 国家権力を宗教的権威の下に置いたものであると言えよう。

 かかる権力無視は、統一政権確立のために阻害となるもので、徳川家康はついに、『天下御政道の手始め、万人見せしめのため厳重な御成敗』を決意し、慶長5年(1600)、日奥を対馬に流罪するに至った。
 対馬にあること13年にして赦されて京都に帰り、幕府も不受不施公許の折り紙を与え、京都諸寺も改悔して不受不施義が再確認された。
 だが、王侯除外の提唱者・日重の弟子である日乾・日遠とは再び対立し、身延と池上の対論に発展する。
 この対論(身池対論)以後、両派(受派と不受派)の対立は幕府の宗教政策下における公的なものとなり、日蓮教団を大きく受派と不受派に分かったが、寛文5・6年(1665〜6)の弾圧を迎えて不受不施派は地下に潜行していく。
 この時に、今まで教団の行軌・信条であった不受不施義は根本宗義となり、かくて不受不施派が「派」として成立する。