智鑑院日相上人略伝

 徳川幕府の不受不施派弾圧は、たびたび起こり、打ち続く法難のために壊滅状態に陥っていました。
 当時、日相上人は岡山の蓮昌寺の管長として、備前・備中・美作地方の不受不施派を統率していました。
 上人は、岡山市野田の出生で、幼少の頃前代の本寿院日船上人を師として得度されました。
 非常に聡明で、智鑑院と名付けられたそうです。
 また、不思議なことに、日に三度お姿が変わられたそうで、朝は天の童子、昼は堂々たる法華経の行者、夜には円満なる大黒様の姿を現されていたので、日相と名付けられたと伝えられています。
 当時の不受不施の僧侶や信者たちは、すべて流罪か追放されているのに、日相上人だけが今だに捕えられていなかった事は不思議なことでした。
 が、ある晩、信徒の役人が密かに上人を訪れ、
 「受不施僧から訴えがあり、今夜半に上人を捕えに踏み込むことになっている。
 是非とも、お寺を退出してお逃げ下さい」
との知らせがあり、その夜、京都を目指して旅立ったとのことです。
 上人は蓮昌寺を退出後、京都の北野に身を構えて宗教活動を続けられました。
 その態度は、権勢に媚びず、威武に屈せず、ますます不受不施の正義を宣伝されたのであります。
 この間、上人は泉州方面に、大覚大僧正が開かれた妙泉寺を訪れ、六年間滞在されました。
 その頃、同地方に疫病が流行し、民衆が苦しんでいるのを見て、阿伽陀山に法華経を書き写した経塚を築き、その上にお題目石塔を建立して大祈願したのです。
 すると、不思議や不思議、さしもの疫病も退散したのであります。
 時に、天和二年(一六八三)蓮昌寺を退出して十七年が経っていました。
 「私の用は終わった。
 汝ら、一生懸命に信心に励むように」
と、信徒が惜しむ中を京都に向われ、その十年後の元禄七年五月十一日に、京都の北野で六十歳の生涯を閉じられました。
 上人の遺骨は、泉州寺田の阿伽陀山の経塚の下に埋葬され、弟子たちによってお守りされました。

天保法難と泉州さま再興
 それから一五○年ほどして天保法難が起こります。
 数々の法難によって壊滅的な打撃を受けた不受不施派でしたが、僧俗の尽力で次第に持直し、その勢力も増大してきました。
 そこで、徳川幕府は一計を案じ、不受不施派の全滅を図ったのです。
 つまり、「よく法難に耐えて辛抱した。
 信徒が何処にどのくらい居るのか明細に報告すれば、宗門を認めてやろう」
というものであった。
 長年、禁制の圧迫に耐え「それは嬉しや!」と、万歳を叫んで出ていったのですが、一網打尽に捕えられてしまったのです。
 まことに不実の極みであり、これを天保法難と呼んでいます。
 ちょうどその頃、岸和田の殿様が参勤交代のために阿伽陀山のふもとを通りかかり「「「「「山上にそびえる石塔は何だ」
と家来に問い、調べてみると………、
 幕府に反抗し、禁制されている不受不施僧の石碑である、という事であったので「「「
 「なに! けしからん。
 壊してしまえ」
との命令であった。
 時に天保九年(一八三八)の八月、夏祭りの日に大坂の与力三十余人を呼び寄せ、寺田の庄屋を案内役に石工や真言宗の僧なども来て、山上のお題目石塔をとり壊そうとしたのでした。
 しかし、山に登ると俄に空は暗くなり、雷雨が天を揺るがし、雨が地を流さんばかりに降ってきました。
 十手を持って指揮する役人は、そのまま手が動かなくなり、石工は石の破片が目に入って潰れ、案内役の庄屋は狂乱し、真言坊主は顔が膨れあがり、皆おそれおののいて大地にひれ伏したと云われます。
 そのため、取り壊しは中止になったのですが、今度は、それを聞いた幕府が厳令をもって取り壊そうとしたのです。
 役人、狂気のごとく叱咤し、縦横に石柱を割り、中央のお題目と日相の文字、側面の年号を削りとって、後世の人に拝ませぬように、徹底的に打ち砕いたのでした。
 石塔の破片は山から下ろし、用水の橋や万人の土足にし、経石は俵につめて大津の浜に沈めたと云われます。
 以後、石柱の橋は、どうしても牛や馬が渡ろうとせず、大津の浜は三年の間、漁ができなかったと伝えられています。
 しかも、泉州妙泉寺に祀ってあった日相上人の木像を、荒縄でしばって引き回し、海に投じて日相死後の流罪を宣告し、幕府は対面をつくったのでした。
 天保法難から約五○年後の明治二十七年、本蓮院日心上人らは、辻氏の案内で当地を調査しました。
 阿伽陀山の南の用水路には、石橋が一本よけいに架けているが、その橋が昔から、「神様の石じゃ!」
と言われ、線香を立ててオカゲを受けている人が多い「「「と聞き、もしやと思って検分すると、確実ではないが、日相上人の筆跡と当時の御難が偲ばれました。
 その後も次々と破片が発見され、阿伽陀山の山頂に奉安し、明治二十七年五月十一日に開眼供養をしたのであります。
 その時には、近辺からはもとより、備前からも多くの参拝者があり、盛大に法要が営まれたのでした。
 不受派の金川妙覚寺が、日相上人を『法破り日相』と攻撃しても、日奥「「日講「「日相は、不受不施の直系であり、それを祀らなければ不受不施とは言えません。
 また、金川不受派初代の釈日正師も、もとを正せば我が講門派の小僧です。
 釈日正師は、天保法難の時に、現在の岡山市新保に隠れていましたが、親族に引かれて金川不受派に入った方でした。
 そういった訳ですから、泉州の日相さま再興も、金川と競争になったそうです。
 大正八年一月二十八日には、前管長の横山日省師によって寺門法華正教会が設立され、その後、阿伽陀山開発によって今現在の場所に移転し、昭和五十二年四月五日には、移転開堂供養が行われました。
 阿伽陀山山頂から、次第に東に下り、上人も三度の移転となった訳です。
 なお、御命日は五月十一日ですが、春の農繁期と重なるため、四月十一日を参詣日と決めて毎年法会を行っています。
 将来は、これで移転することもなく、御宝塔を安置して未来永劫に御遺徳をお伝えできることと思います。
 『仰ぎ見れば、
 天保法難のキズ生々しく
 尊きかな
 正法弘通』

 この原稿は、故本覚寺住職・佐藤日明師のものです。 文中にある「天保法難」については別の説もあります。
 大坂に、衆妙庵という当時の不受不施派最大の拠点がありました。
 外見からは旅館のようでもあり、今で言う住職の隠居施設とも言われています。 内信を信仰していたのは一般大衆ばかりではなく、普通の法華宗(日蓮宗)の上人の中にも心の中では不受不施を信仰していた人もいたようです。 秘密寺院となっていた衆妙庵を幕府側がかぎつけ、偽の不受不施僧を内偵して、根こそぎ信者を摘発した‥‥との説もあります。 命を張って自らの信仰を守り通した先祖たちの逞しい精神を垣間見ることが出来るのではないでしょうか。 そういった時代に生きた日相上人の手による石塔を拝むことが出来るのも何かの縁でしょう。