不受不施思想解説 1

日奥流罪の跡を継ぎ、日経らが活動
 日奥が対馬に流されて以後というもの、盟主(リーダー)を失った不受不施派の勢力は全く地を払って、昔の面影がなくなってしまった。
 この有様を痛く嘆いていたのが、京都の常楽院日経(にっきょう)であった。
 日奥の赦免運動に努めつつ、慶長十一年ごろには不受不施再興のため、京都・大坂を中心に盛んな折伏運動を始め、その教線は僅か二・三年で尾張方面にまで及んだ。
 これに強い脅威を感じた他宗もまた対抗手段に出たため、近畿方面の宗教界は俄に騒然となってきた。
 何といっても日経は、かの日奥の直弟子であり、かねて自ら日奥の後継者を以て任じる傑僧であったから、一層他宗としては脅威を感じたであろう。
 現に、熱田の浄土宗のある末寺が、日経に法論を挑んできた。
 ところが、却って日経のため散々に打ち負かされてしまったものだから、助けを江戸の大本山・増上寺に求めて訴え出たのだが、あいにくこれが家康の耳に入ってしまった。
 浄土宗といえば、将軍・徳川家の宗旨である。
 一方、法華宗の不受不施派といえば、家康が目の敵にしている相手だから、一刻も捨てておく訳がなかった。
 「憎っくき不受派の悪僧どもめ!
  日奥のみならず、日経まで出くさって余に逆らおうというのか!」
と、家康は激怒した。
 直ちに、日経のもとに家康から緊急の命令が送り届けられたのである。
 「慶長十三年(一六○八)十一月十五日、江戸城において浄土宗増上寺と宗論せよ」
との命令が京都の所司代を通じ、物々しく日経に伝えられたのであった。