不受不施思想解説 4

身延・不受不施派、慶長法難を契機に結束
 身延山の第二十二世日遠は、この法難を聞いて大いに驚き、急いで山を下り駿府(静岡市)幸町の感応寺に向った。
 そこには、苞産二師から不退転の決意を示す意見書が届いていた。
 法華宗内では、これまで常々受・不受論の意見が対立し両派に分かれていたが、ここに至って一致団結し、家康に対抗するようになった。
 日遠は、家康に向って「日経のどこに非があるのか」と問い、かつ「日経に代わって浄土宗と再対論したい」と願い出た。
 家康はまたまた激怒し、その場で日遠を取り押さえ、「五月十二日、安部河原にて磔(はりつけ)の刑に処す」と言い渡したのである。
 (一気に法華宗潰しを)
 養珠院お万は、事の意外な進展に驚いた。
 日遠といえば、天台・法華両学の奥義を極め、祖師の再来とまで仰がれ熱心に帰依していたお万であったから、すぐに家康にすがって上人の助命を嘆願(たんがん)した。
 しかし、家康がいかに寵愛一方ならぬお万の願いとは云え日遠を許すわけにはいかなか
った。
 それというのも、家康の本心からすれば仏法をして幕命に従属せしめようと各宗ごとに寺院法度を定めるように命じている最中であったにもかかわらず、法華宗は一向にその統制に服さなかったからである。
 その上、法華宗は宗内に二派あって騒擾が絶えず、この際いっそのこと喧嘩両成敗で双方を刈り取る好機だとさえ思っていたのだから、日遠の処刑をそう易々と許すわけがなかった。
 日遠処刑の日は刻々と迫ってきた。
 お万は、居てもたってもいられない。
 お万は、一心にお題目を唱えながら「この上は師の訓(おし)えに従い不惜身命、わらわの命は恩師に捧げて、ただ一筋に身延の法灯を守るのみ」と覚悟したのである。
 一刻の猶予もならじと、お万は近侍の成瀬正成を通じて家康にお目通りを願い出た。
 「すぐ、余の居間にまいれ」との、家康の返事であった。
 そして、お万の必死の説得で、日遠の処刑は中止されたという。