不受不施思想解説 6

関ケ原合戦で一転、赦免運動が実る
 関ケ原の戦いは、わずか一日で西軍の決定的大敗に終った。
 しかし、家康は戦後、西国諸大名に懐柔策をとったため、対馬の宗氏らの領地などは安堵し、敗戦の痛手は殆ど受けなかった。
 だから、日奥の配所生活も戦前と余り変わらなかった。
 ただ、流罪の歳月が長引くにつれて苛立ち始め、時には謗法人たちが野さばるのを憎んだり、望郷の念に駆られて矢も盾もたまらなくなったりしたようである。
 対馬に流されて十二年たち、慶長十六年になると日経らが盛んに赦免運動を展開したので、少しずつではあるが赦免の機運が熟してきたようでもあった。
 日奥自身も、赦免の日が近付いているのを悟るようになっていた。
 一方の家康もこの頃、京都所司代・板倉勝重に「日奥に変わりはないか」と日奥の安否を尋ねており、板倉が「変わりはございません」と答えると、さも満足そうに頷いたという。
 そして慶長十七年の一月六日、駿府城で「日奥をすぐ本寺に還住させよ!」との赦免状が発せられ、直ちに出迎えの船が対馬に出されたのである。
 ………喜んで帰路した日奥であったが、ずく京都妙覚寺には戻らずいったん有馬温泉で数日過ごしたのであった。
 なぜなら、京都中の法華諸寺の大半が日奥の主張を是として支持していたが、なお一部に不満が残っていたので、その成り行きを見守るためであった。
 (千僧供養会消滅し、法華宗内も和解へ)
 天下の形勢は一変し、家康は完全に国内の実権を握っていた。
 慶長十年(一六○五)家康は、将軍の職を秀忠に譲ったが自らは駿河城に移り、大御所と称して悠々と大坂の豊臣方を圧していた。
 さらに、あれほどまでに法華宗内を粉砕させた方広寺の千僧供養会も、催されてはいたがこの頃はもう出・不出の件は余り問題にされなくなっていた。
 それと云うのも、元々この供養会は豊臣家の先祖を弔うものであったから、その豊臣氏が衰えると家康や諸寺の態度が冷ややかになるのは当然の成り行きだった。
 日奥は京都に帰ってからも、この供養会には不出仕を続けていたが何のお咎めもなく、却って家康とは二度ほど会っているのである。