不受不施思想解説 7

豊臣の滅亡と不受派公許
 秀頼は家康の命令で方広寺の大仏殿を再建したが、新たに鋳られた同寺の鐘銘に「国家安康」とあるのは、家康を呪ってその名前を二つに裂けたものだ………と言い掛かりをつけ−−−−、
 また「君臣豊楽」とは、豊臣氏を「君」に崇める下心からだ−−−と難癖をつけたりしていた。
 儒者の林羅山や五山の僧たちは、これらを種に家康を煽ったり阿諛(あゆ)したりして、大坂城攻略に向って駆り立てていたのである。
 慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣。
 家康は二十万の大軍をもって大坂城を囲み、脅迫して外堀を埋めさせ、一度は和議がなったが翌、元和元年の夏の陣で東軍の凄まじい砲火を浴びた大坂城は、淀君・秀頼の自刃と共に落城したのである。
 こうして栄華を極めた豊臣氏も滅亡したのである。
 これにつれて、法華宗を分裂させるほど動揺させた方広寺の千僧供養会も全く自然消滅し、受・不受両派も次第に和解の方向に向っていったのであった。
 (家康が亡くなって不受不施派も公許)
 豊臣家の滅亡によって受・不受両派の和解がなったが、その証しとして元和二年(一六一六)六月一日、受派諸寺の名代・日昭が京都妙覚寺に赴いて改悔の作法を行った。
 一方、日奥も妙顕寺に出向いて挨拶し、受不受の和解はまったく成ったかのようであった。
 この年、家康が亡くなっている。
 元和九年十月十三日には、不受不施派は所司代・板倉伊賀守勝重から遂に公許を得たのである。
 宿願を達して大喜びの日奥は、直ちに門中ならびに諸寺に披露し、各寺連署して宗義の万代不易を誓い合ったのであった。
 このようにして、表面上は不受不施義の公許と宗制確立が約束されて宗内は再び平穏に戻ったが、何分にも千僧供養会の出・不出仕問題で血を血を洗うような争いをした後だけに、両派の和解は、そう容易なものではなかったのである。