不受不施思想解説 9

 身延の日乾と日遠が弟子の名で日奥に対する反論を作成し発表した。
 この書には題がなかったがその内容から、後に「破奥記」と呼ばれて有名となる。
 日奥も黙ってはおらず、反論の反論として翌年三月に「宗義制法論」三巻を著して「破奥録」を論破したのである。
 関東の法華諸山は、日奥の説を支持したのであった。
 寛永元年(一六二四)の頃、日奥は再び養珠院お万に対して書面を送った。
 「日乾・日遠二師に帰依し、身延に詣でることは却って謗法を重ねる所以であるから、これを止めるように………」
 お万は、重ね重ねのことで我がことのように怒ったという。
 それというのも、身延の日乾・日遠と云えばかねがねお万が尊崇して止まない高僧で、深く帰依していたからである。
 日奥への返事は出さず、お万はすぐ様日乾・日遠に、この事を伝えた。
 それを知った日奥は、
 「これ程の悪僧を取り持ち給う檀那は、養珠院一人なり」
 「もし今の分にて身延の法水濁り、天下のお参りが止まり候はば、養珠院一人の過がにて候うべし」
 「今後とも音信ご無用に候」
と音信の断絶を申し入れた。
 かくて京都の法華宗は各寺とも法理通用を約し、元和九年には不受不施公許の折紙さえ出て、しばらく宗内和融の道がひらけたと思った途端、関東では養珠院お万を渦中に巻き込んで、身延の日乾・日遠と京都の妙覚寺日奥との対立が激しくなったのである。
 しかも、関東の盟主を以て任ずる池上本門寺の日樹を初め、関東の諸寺が日奥に同調して次第に反身延同盟が醸成(じょうせい)される成り行きになっていったのである。