不受不施思想解説 10

 池上本門寺十六世は血気盛んな青年僧の頃から、京都の長老派が唱える摂受主義より、関東学派が主張する折伏主義を奉じていた。
 元和五年(一六一九)六月、池上前住の日友が五十歳で入寂した為、日樹は招ぜられて池上の座に就いた。
 日友が在世当時のこと、池上本門寺は大火災に見舞われ、大堂や客殿その他多くの堂宇を焼失している。
 この池上の大堂は、慶長六年(一六○一)、肥後の大守・加藤清正に関わるもので間口二十五間、奥行二十三間、巨石を領国から運んで造ったものであった。
 日友は、これら大堂を焼失したことに責任を感じ、どうやって復興させるか心を痛めて寿命を縮めてしまったと云われてい。
 後任の日樹は、池上復興の大任を担って入山したのであった。
 寛永五年(一六二八)一月十二日、大堂の柱建てを行い、諸末寺・諸方面の信者に勧化して翌年十一月に遂に大堂を再建している。
 この予算は当初、三・四千両で出来るものと日樹は考えていたようだが、さて工事にかかると材料の値上がりなどから一万両でもどうか………と案じられるほどの費用が嵩(かさ)んだのであった。
 その有力な外護者は、前田利家の側室で二代目利長・三代目利常の母である加賀の寿福院日栄や、先の大堂の建納者で今は亡き加藤清正の妻・正広院、そして酒井雅楽守の息女たちであった。
 しかしその半面、また強力な妨害者もあった。
 その妨害者とは誰あろう、養珠院お万である。
 お万は、身延系諸寺を外護して堂塔を寄進すること百十数に及んだが、池上本門寺の大堂復興にあたっては強力に妨害した。
 池上の日樹が日頃から、お万の外護する身延山を非難・誹謗して世人の身延参詣を押し止めたり、あるいは尊崇してやまない日乾・日遠に対して悪口を放ったりするので、お万としてはいつも不愉快な思いを日樹に抱いていたからであった。
 日樹にとって最も手痛かったのは、肥後の加藤家に対してのものであったろう。
 加藤清正の五女・八十姫はお万の長男・紀伊藩主の頼宣と縁組をし、その正室であったからお万と加藤家とは深い姻戚関係にあった。
 清正亡き後も、池上本門寺と加藤家との関係は続いており、未亡人の正広院が池上の復興に協力することは当然のことであった。
 それを、姻戚ゆえを以てお万が強力な妨害を池上の復興に加えようとは、日樹は思ってもいなかった。
 日樹は激昂(げきごう)した。
 「彼の和歌山の袋魔め。
  この度の大堂造立の妨害工作は無量無辺に候」
と、日樹はお万のことを「和歌山の袋魔」と罵っている。
 その憤激のさまが眼に見えるようである。