法華経の世界 3

特殊な表記方2

 私たちは、何よりもまず「人間である事実」を確認しましょう。
 人間は、人間であることに目覚めて、初めて人間になれるのです。
 人間を最終的に救うのは、人間の目覚めです。
 人間が、人間を救わなかったら、誰が人間を救ってくれるのでしょうか。
 どのような人でも、その人の心の奥底に、人間を人間たらしめる「仏性=仏の心」が埋め込まれている、という事実を教えてくれるのが法華経なのです。
 花が咲き、葉が散るのは一過性の無常なものではなく、その現象の奥底には永遠の真理・久遠の生命が潜んでいると示し、どこまでも現実を肯定するのが法華経の教えなのです。
 思えば、般若心経で「空を知る知恵」を学んでも、学んだままでは単なる観念で終わってしまいます。
 しかも、社会生活をしている限り、山中で修行するわけにもいきません。
 たとえドロドロの生活でもよい、今、ここで豊かに生きたい───と願わずにおれないのが、世俗に生きる一般人の本音というものでしょう。
 この意味で、極めて現実を直視する立場に立つ法華経の教えは、日常生活を営む私たちに、素直に受け入れやすいものだと言えるのです。
 現代人の心に、豊かな人間性が少しでも芽生えるようにする為には、物事を非合理的に深く認識する学習をチョットでも学ぶ必要があるのではないでしょうか。
 しかし、これは現代から逃避する意味ではありません。
 私たちは少なくとも一度は、合理的認識を超えて、非合理的なものの見方や考え方を味わわなかったなら、現代人が謳歌する「合理主義」すら正しく把握することが出来ないでしょう。
 言い換えると、合理主義を超えた非合理の世界に学び、再び合理の社会へ戻ってこそ、より深い合理的生活が出来るという事になります。
 その学習に最適なのが、比喩によって非合理の真実を説く法華経の思想を身につけることなのです。
 そして、「ポエムが分かるようになると、仏教思想が分かり、人生の意味も理解できるようになるから、俳句・短歌・詩のどれでもよいから親しみなさい」という、ある僧侶の話も納得できるのです。
 仏教思想の解明に、いかに比喩が必要かお分り頂けたと思います。
 白隠と日蓮は、法華経の文字を文字では表現できない仏の命を表わした文字───すなわち「生身の仏」の心と読み取れたのです。
 その喜びから溢れ出る涙を日蓮は拭きもせず、真っ暗な日本海に向かい、怒涛よりも大きな声で「南無妙法蓮華経」と唱題したのです。