日講上人略伝 5

流罪地の講師

 講師は、佐土原配流によって社会と教団・信者から隔離され、その活動が禁止されたことは言うまでもありません。しかも、当初の一ヶ月間は屋外への出歩きも自由に出来ないほど不便な思いをされたようである。
 また、信者の面会なども禁止され、関係者以外は出入り出来なかった。講師が佐土原へ配流された年の暮れには、江戸から遠路はるばる面会人が訪ねてきたが、いずれも許されず、虚しく帰らざるを得なかったのである。

 読書は自由であったが、日蓮聖人の御遺文や法華経に関するものは一切禁じられ、著書にいたっては短編と言えども許されなかった。講師は、初めこのような拘束の中に不自由な生活を送られ、法要などの会式は配流の身分ゆえに執行不可能なことであった。
 さて、配流の翌年春には、あの芸州夫人から多くの書籍が送られてきた。講師にとって、書籍は心を慰める唯一の友であり、また念願の日蓮聖人御遺文注釈の研究に必要欠くべからざるものであったから大変喜ばれ感謝されている。不受不施の制法の乱れを嘆き、教えの衰退を懸念された講師は、日蓮聖人の御遺文の註釈、及び法華経の註釈を行って、不受不施の思想的確立を目指したのであった。

 配流されて約一ヶ年、やっと屋敷内の自由な散策が許され、江戸から帰国した領主の島津飛騨守の慰問を講師は受けたのである。間もなく、領主の招きで講師は初めて城に登り、その時、書院の増築と宅地の拡張を告げられたのであった。
 このようにして講師は、配流後いくばくもなくして、その人徳が島津藩内に伝わり、領主からは賓客の礼をもってもてなされたのである。

 ここにおいて、面会も年を追って緩和され、公にあるいは内密に、講師への面会が許されるようになったのである。配流後、二度目の正月には年始の読経に障るほど人の出入りが賑やかだったようである。おそらく、島津藩内だけでなく江戸や大坂そして備前からも信者たちが参ったであろうことは想像できる。
 また、かねてから増築中であった書院や文庫、拡張中の蓮池や庭園が完成したのもこの年の春であった。庭園や池は、かなり広かったと推測されており、配流の身分である講師を慰めようとした領主飛騨守の心情と厚意がうかがわれるのである。

 また、この年には外出も相当自由になったようで、公に城下内の出歩きが許されている。この寛文8年(1668)は、講師の長い配流生活の中で、最も恵まれた悠々自適の年であったといえよう。
 幕府の命に背き、流罪となった講師ではあったが、その人徳に打たれ、好意をもって接した領主の島津飛騨守や家老たち。不受不施の制法は分からなくても、講師の態度に共感するところがあったのだろうか。
 講師は、配流後に多くの講義を奉行や藩士、禅僧や神主など、島津藩内にとどまらずその願いに応じて行っている。それは仏書に限らず、あらゆる分野にわたっており、とても紹介出来るほど紙面を持ち合わせていないほどの量と数である。講学の師として仰がれたのも分かる気がする……。
〜つづく