明治再興と

明治再興と昭和の統一問題そして佐土原日講様


◆明治再興・・・
 法難の話ばかりでは何ですので、明治に信教の自由が認められ、不受不施派再興の時代が訪れた時代にまで一気に飛びたい。
 
 金川不受派を再興した釈日正師は、もとは講門派の僧であり、天保法難の際には現在の岡山市新保(新保村)にあったが、9歳の子供であったので難を逃れ、堯門派の縁者に引き取られたという。
 明治になって信教の自由が認められる頃から不受不施派再興のために活動を起こす。派名公称申請中に、単称日蓮宗の日薩が、『不受不施は非宗義であり、行政上障りがあるので認可しないよう。もし派名を認可すれば、その恥を海外にさらすことになろう』と上申するなど、反対運動もあった。果せるかな、明治9年4月10日に日蓮宗不受不施派の派名公称認可を受けた。
 講門派は再興運動に遅れをとり、明治13年4月17日に申請を行ったが、先に認可を受けた日蓮宗不受不施派との相違点を提出しなければならなかった。しかも、「不受不施」の派名を共有するものの承認も得なければならなかったのである。

 そこで本華院日心師は、釈日正師に手紙を送り、別派独立のために協力を依頼し……、講門派が認可されれば後に合併してもよい旨を披露したのであった。……これが後に問題となる。明治15年3月9日に承認され、同10日に不受不施日蓮講門派として認可された。

 その後、金川不受派内で、釈日正師が講門派認可に手を貸したことを責める者が出た。協力したという事は、講門派の教義を是認したことになる……許せん、という訳だ。そして、本華院日心師が釈日正師に協力を依頼したことが気にくわない者が講門派内にもいた。
 本華院日心師が派名公称申請から岡山に帰省したら、「生かしておかぬ!」と気を吐いた人物がいた。日心管長が東京に出向し、その留守役であった日允その人である。本華院日心師は、知らせを受け急遽、汽車を船に換えて京橋に着いたのであった。
 日允に同調する者が、日心師を狙っている事を聞きつけ、大安寺からも京橋に信者が護衛に出向いたという。
 この事件を発端に、「日允を歴代の管長に入れてくれるな」という日心師の遺言があるほどである(前管長日省師伝、日允師は管長になったことはない)。
 話をもとに戻そう。
 講門派認可に協力を……という日心師の手紙の件であるが、講門派はそんな依頼書は送った覚えがないと、双方で「ある」「ない」の争いが生じた。では、という事で明治15年6月2日、金川の妙覚寺へ日心師らが出向いて日正師らと面談し、その手紙を検閲した。

 その結果、講門派の申請書に日正師が奥書した事を責める者が出て、日正師の立場がなくなり、それを援護する為に誰かが偽造したのではないか……という結論に達した。だがこの結論は、双方の争いにピリオドを打つものではなかったようである。この紛争は明治政府の耳にまで届き、両派に対して通達を発した。
「日正の奥書は、申請上の手続きであって各種の願書に市郡町長の奥書を必要とするに等しく、これを直ちに宗義上の問題として考えるのは誤りである」と、すぐに紛争をやめるべしという事であった。金川不受派が再興申請した時にも、単称日蓮宗管長の奥書が必要であったように、講門派の時も同様であると……。
 金川不受派の申請時にも、単称日蓮宗の奥書を得たのを「不受不施主義の軟化」と受け止めて離脱した者もあり、講門派内にも金川不受派の奥書を得たのを理不尽と責める者があったようである。

 しかし再興を迎え、とにかく不受不施を公然と唱えることが出来るようになったことは、喜ばしいことである。
 ところで不受不施派中に二派、つまり堯派と講派があることは前述した通りであるが、再興後、この二派を一つに統一する話があったことを御存知であろうか。
 まず戦時中に、「本化正宗」として仮にではあるが一緒になっていたこと。現在の大安寺山門に「法華正教会」という文字が見えるのがそれだと云う。しかしこれは軍部の命で、自発的な統一ではなかった為、終戦後だらだらとモトの鞘におさまってしまった。

 そして昭和30年前後に再び、こんどは内部から不受不施派統一の話が持ち上がった。だが、金川不受派の、「ウチは分限者じゃけぇ」の一言が、故:太田上人を始めとして講門派側の猛反発をかってしまった。「宗教に富みも貧しいもあるか!」と。統一の話は御破算となり、以後出ていない。
 金川不受派との話をもう少し……。
 日講師は、若き日に教鞭をとった関東の野呂檀林(僧侶育成学校)と,大坂にも万部の塔を建てられたそうである。関東の方は不明で、大坂の方も太田上人らが「どうも、ここら辺りらしい……」という所を探したが、田んぼの中に不自然な石があるだけで分からなかったとか。今となっては、もう調べようがない。
 宮崎の佐土原への日講さま再興の時にも、いろいろと調査したが日講師が建てられたという万部の塔も墓も発見できなかったらしい。
 現在祀られている万部の塔と、日講師供養塔は、昭和14年に再興されたもの。当時、岡山から貨車一両を借り切って石を送ったのである。開眼供養の時には、佐土原町からも稚児行列が出て、なかなか盛況であったという。どこかに記念写真がある筈なんだけど……。

 佐土原には講門派のものと、金川不受派のものと二つのものが祀られている。今でこそ同じ敷地内にあるが、金川のものは昭和50年始めに町の区画整理事業のもとで移転されてきた。金川不受派の供養塔が建っている所は、もと竹薮であり、町がその移転の為に造成したのである。
 その移転について昭和55年から56年にかけてトラブルが発生……。登記上、講門派の土地内に無断無登記で移転されている事実が判明したからである。金川不受派と佐土原町と講門派の三者会談で、まず佐土原町長がこれを謝罪し、講門派も善意から土地を分筆した経緯がある。そして、土地の境いには今、フェンスが設けられている。
 当初、講門派は「境いはクイだけでよろしい、その方が便利でしょう」と言っていた。金川不受派は「境界は木で垣根をする」と。垣根だと後の管理が大変なので反対したが、強いて金川不受派が境いを作るよう求めた為フェンスを設置することに承諾した。
 地元の人たちに言わせれば「日講さま供養塔が二つあるのも不思議なのに、なぜ境いにフェンスなどするのか」と怪訝顔である。日講さまの前にある遊具は、子供の遊び場が近くにないので無償で貸しており、十年で契約の更新を行い、その時期がもうそろそろ。また、消火栓が設置されているが、これは休憩所(昭和56年建築)の水道料金免除と交換条件で認めているところである。

 先にも述べた講門派と堯門派との違いは、禁制下の不受不施組織を、清派を以て本と為すか、濁派を以て本と為すかであろうか。また、その紛争下で講師を歴代の不受僧と認めるか否かの違いも言える。堯門派は、講師の主張を受容れず、純粋な不受不施信者と内信者を混同したのであった。それを正当化する為に「日講師は流罪されたとは云え領主たちに厚遇されて、弾圧の憂き目にあっている信者の事は何一つ分かっていないのだ」という批判をしています。
 しかし、弾圧の様子は江戸・大坂・備前などからの手紙によって手に取るように知っておられたことは前述した通りです。内信者と純粋な不受不施信者の混同は、あくまでも否定されたのが、日講師であり泉州さまの愛称で呼ばれる日相師でした。
 分裂に際しては、いろいろなエピソードがあるのですが、結局は喧嘩別れみたいな事になったようです。その業が、明治再興時にも現われ、以後の不受不施派統一問題にも出てきたのでしょう。
 不受不施派の分派については、萬代亀鏡録にも出ていますし、本講の中でも簡単ながら触れておきました。しかし、細かい教義上のことですから、一般向きではないと思われます。
 本講に当りましては、数々の著書を参考に、それを出来るだけ簡単に纏めることに重きをおきました。本講を読んで、少しでも日講師のこと……不受不施のこと……に思いを馳せて頂ければ有難いと思います。
 特に、宮崎県佐土原の「日講さま」については、生き証人であった中武喜一氏が昭和61年の10月に亡くなり、また、日講師の住居跡らしき場所も区画整理されて様子が全く変わってしまって、既に歴史の中に埋もれてしまった感があります。日講師が亡くなられた後に、不受不施への弾圧の手によって万部の塔と墓は壊され、ハッキリとした資料が残されていないのは残念ですが、私たちの祈りは日講師に届いていることでしょう。(編)