萬代亀鏡録

断悪生善 上巻【前】(仏性院日奥)

断悪生善 序

 それおもんみれば法華一乗の慧日は普く極悪謗法の闇冥を照らし、本化弘経の智剣は能く執権謗実の群賊を剪る。
 「巧於問答人中之宝」の聖語あに虚しく設けんや。
 ここに吾が祖本化の再誕として二千余回の当初多宝塔中の別付を稟けて生を日域に示し、一宗建立の初め四箇の名言を立つ。
 その第一は念仏無間の法門なり。
 この義強言に似たりといえども彼の宗祖師の所立大いに諸仏の本懐に背けり。
 故に金言に合わせて能く能く糺明するにその義深く経釈の源底に徹せり。
 誠に本化地涌の応作にあらずんば誰か能くこの法門を立てんや。
 予国主の勘気をこうむり対州に左遷せられし時、処々に於いて多く書籍を求む。
 中に一巻の書あり、名付けて催邪興正集と言う。
 開いてこれを見れば浄土家の学者実慧が所造なり。
 その学もっとも広博なり、その義ははなはだ粗レイなり、
 大謗法の書なり。
 当家所立の念仏無間の法門について三十五箇の条目を立て広く経論伝記を引いてこれを難ず。
 浅学の輩時に当たって驚動せんか。
 然りといえども皆以て邪見なり。
 未だかつて当家所立の念仏無間の道理を知らず、またすべて一代諸経の権実偏円を弁えず、またまた師に於いて邪正あることを知らず、たやすく管見に任せて正法正義を謗ず。
 祖師の邪義を救わんと欲していよいよ誹謗の咎を増すこと、猛火に薪を倍すが如く暴水に雨を添うるに似たり。
 哀れむべし悲しむべし、謗罪の報い何れの劫にか阿鼻の苦患を免れんや。
 また古来浄土家の学者邪会を構うるの義多分はこの趣を出でず世間の道俗愚痴の故に是非を知らず多く彼の邪教を信じて謗法の深坑に入る。
 悲しいかな末代の衆生慧眼永く盲いて仏日を見ず。
 冥きより冥きに入って深く直道に迷えり。
 この書を破らんが為に先学一通の難答を制せり。
 然りといえども委悉ならず依って経釈の正文を勘え筆を染めて彼の悪義を破す。
 名付けて断悪正善という。
 これしかしながら専修念仏の悪行を断じ法華修行の大善を生ぜしめんとなり。
 文体調わず章句を飾らずただ初学の見易く解し易きを以て卑懐の志と為す。
 敢えて以て智人の前に進めず、乞い願わくば一覧を歴るの輩深く壁底に埋めて外見せしむることなかれ。
断悪生善 上巻
 およそ彼の書を破せんと欲するに略して三段あり。
 一には題を破し、二には序を破し、三には入文三十五箇條を破す。
 第一に題を破すとは彼の書摧邪興正集と題する所以は何ぞや。
 一巻の大旨を以てこれを見るに法華宗を以て邪となし、浄土宗を以て正となす。
 法華宗をくじき浄土宗を興さんと欲す。
 これこの書の大体なり。
 この大体を以て題号となす。
 故に摧邪興正集と名づくるなり。
 今いわく、当宗を以て法華宗と号する所以は何ぞや。
 法華経を持って所依の経となすが故なり。
 しかるに法華経は邪正の中には何ぞや。
 釈迦諸仏の掟の如くんばこの法華は正が中の正なり。
 故に序分には「文理真正尊無過上」と説き、正宗に至っては「正直捨方便但説無上道」と宣べ、あるいは「皆順正法」と示す。
 また結経の普賢観には「正法治国」と言い、流通の涅槃経には「除此正法更無救護」と定む。
 これらの文の如きは法華を以て正とすることは明らかに金言の所判なり。
 よって法華の題号に妙法と言えるは即ち正法なり、妙は即ち正、正は即ち妙なり。
 故に羅什三蔵は正法を以て妙法と題し、法護三蔵は妙法を以て正法と号す。
 正法華経妙法華経これなり。
 然れば法華経は正を以て一部の精神となし、妙を以て八軸の骨髄となす。
 故に妙を離れて正無く、正を離れて妙無し。
 正妙の二字その理この経の深義を顕す。
 しかるに当宗はこの正法正直の法華を以て所依の経となして宗の法理を立つ。
 いかでか毫末の邪有らんや。
 しかるに彼の書に法華宗を以て邪に属す、これあに釈迦諸仏の金言を破する者にあらずや。
 謗仏謗法の咎いかでか無間の焔を招かざらんや。
 これまず略して彼の題号の摧邪の二字を破するなり。
 次に興正の二字を破せばそもそも彼の宗を以て浄土宗と号する所以は何ぞや。
 いわく浄土の三部経を以て所依の経とするが故なり。
 この三部経は邪正の中にはいずれぞや。
 釈迦世尊、龍樹、天台、妙楽、伝教等の正義に任せば浄土の三部経はこれ邪法なり。
 故に無量義経にいわく「四十余年未顕真実」と云云。
 未顕真実とはあに邪法にあらずや。
 また同経にいわく、「行於険径多留難故」とこの文に険径とは即ち邪路なり。
 これ浄土の三部経等を指すなり。
 秀句下に釈していわく、「未だ方便を捨てず故に険径と名づく」云云。
 険径あに邪にあらずや、法華流通の涅槃経にいわく、「世尊これより前、我等ことごとく邪見の人と名づく」と、この文の如くんば法華涅槃を聞かざる人をば皆邪見と名づくるなり。
 大論にいわく、「諸法実相を除く余は皆魔事と名づく」と龍樹の意法華実相の外をば皆魔事に属す。
 魔事あに邪にあらずや。
 止観第二にいわく、「自余の三教皆名づけて邪となす」。
 弘決九にいわく、「法華の以前なおこれ外道の弟子なり」と、この釈の如くんば浄土の三部経すでに外道に属す。
 あに邪にあらずや。
 弘決七にいわく、「円より外をば皆名づけて邪となす」と、これらの経釈の如くんば法華以前の諸経を以て皆ことごとく邪に属す。
 浄土の三部経あに法華以前にあらずや。
 然らば即ち彼の三部を以て邪法なりと言うこと敢えて当宗の新義にあらず。
 まさしく釈尊の直説衆聖一同の評判なり。
 外道天魔にあらずんば誰かこれに背かんや。
 しかるに浄土家の如きはこの邪曲の法を以て宗旨を建立す。
 体曲がれば影直からず。
 依経は体の如くその宗は影の如し。
 彼の依経すでに邪曲なり宗義いかでか正直ならんや。
 しかるに彼の書浄土宗を以て正に属す。
 これしかしながら釈尊の金言を背き龍樹、天台等の論釈の掟を破る者なり。
 興正の語はなはだ以て不可なり。
 もし経釈の実義を以て翻じて彼の書に題せば、宜しく摧正興邪集と号すべし。
 法華の正義をくだき念仏の邪義を興する故なり。
 すでに実経の正釈を以てこれを糺す。
 敢えて自讃毀他にあらず。
 乞い願わくば明哲の君子教の権実を明らかにして宗の邪正を悟れ。
 以上略して彼の題号を破す。

 第二に序を破せば、彼の序にいわく、「けだし聞く邪人正法を説けば正法還って邪となり、正人邪法を説けば邪法自ずから正と成ると誠なるかな、」云云。
 弾じていわくこの発端の句は当宗を以て邪人と称し、浄土宗を以て正人と号するか、この義はなはだ顛倒せり。
 汝執権の眼僻める故に実教の正人を指して還って邪人と思えり。
 譬えば酒に酔える人、己が眼の眩めくを知らず、山河大地皆転ずると思うが如し。
 所以は何となれば当宗は既に正直の経を行ず。
 所持の経正直なるが故に持つ人もまた随って正直なり。
 譬えば墨を打てる木の曲がらず、麻の中の蓬の矯めざるに直きが如し。
 故に経に「質直意柔軟」と言い、また「是人心意質直」と言う。
 何ぞこの経文を背いて法華宗を以て邪人というや、迷見なり。邪見なり。

 次に浄土家の人はことごとく邪人なり。
 全く正人にあらず。
 所以は何となれば所持の経邪曲なるが故に持つ人もまた随って邪曲なり。
 譬えば江河の流直からず、薮の中の荊棘屈曲せるが如し。
 故に無量義経にいわく、「行於険径多留難故」と。
 注釈にいわく、「この経を聞かず、故に三乗の道に紆廻す。
 二乗の険と権大の径とは留難多きが故なり」と。
 この釈の如くんば権大乗を以て明らかに留難に属す。
 権大乗の念仏あに留難の法にあらずや。
 留難は即ち邪曲の義なり。
 疏の四にいわく、「五乗はこれ曲にして直にあらず。通別は偏傍にして正にあらず」と。
 これらの経釈の如くんば浄土の依経まさしく邪法に属せること、仏説分明なり。
 敢えて吾が宗の自義にあらず何の諍いか有らんや。

 また序にいわく、蛇水を呑めば水即ち毒となり、牛水を呑めば水即ち薬と成ると。
 これまた当宗を非とするの語歟、法華の行者を以て蛇に喩える故なり。
 弾じていわく、蛇は水を呑んで毒と成す。
 浄土家の人は妙法の良薬を飲んで毒となす。
 所以は何となれば法華宗より彼の宗の専修念仏の誤りを責むる時、その難遁れ難き故に諸行往生を許して、ある時はまた法華経を読誦す。
 然りといえども執権謗実の心を以てこれを読むが故にすべて経の心にかなわず、故に妙法の良薬還って毒害となる。
 例せば法相の慈恩法華経を読むといえども経の意に背く故に伝教大師、「雖讃法華経還死法華心」と責め給いしが如し。
 然らば即ち蛇水を呑んで毒となるの譬え、あに浄土宗の上にあらずや。

 また序にいわく、牛水を呑めば水即ち薬と成る云云。
 汝この喩いを以て汝が宗の徳と為すや。
 弾じていわく、これまた大いに謬れり。
 もし経文の正義を以て実にこの喩えに合せば、これまさしく法華の行者の徳なり。
 所以は何となれば法華の行者はあるいは他経を見、あるいは儒典を読むといえども助顕第一義の心を以てこれを見るが故に敢えて執権の思い無し。
 これによってよく実相の深理を助発す。
 故に爾前の当体皆分に薬と成るなり。
 これあに牛水を呑むの喩え、法華の行者に相応するにあらずや。
 何にいわんや相対開会の眼の前には三惑五住の毒変じて三身五眼の妙薬となる。
 達多が三逆龍女が愚痴にわかに変じて万徳円満の如来となる、これあにその証にあらずや。
 ここを以て龍樹菩薩法華の不思議を釈していわく、「譬えば大薬師の如し。よく毒を変じて薬と為すなり」と。
 天台大師のいわく、「二乗の根敗これを名づけて毒と為す。今の経に記を得る即ちこれ毒を変じて薬と為すなり」と。
 論釈の意明かなり、訓釈するに及ばず。
 かくの如きの不思議は余経に絶えて無き所なり。
 浄土家の人はなお妙薬を以て毒と為す。
 いわんや水を以ていかでか薬と為さんや。

 また序にいわく、法体失無し但邪執をえらぶ云云。
 弾じていわく、浄土の門の法体に失ありと言わん人は誤りか。
 無量義経にいわく、聞くことを得ざる者はまさに知るべし、これらはこれ大利を失えるなりと。
 この文の如くんば無量義経を聞かざる以前をば大利を失うとなす。
 もし大利を失うあに大失にあらずや。
 浄土の依経すでに無量義経以前なり。
 大失の條紛れ無き者なり。
 法華経第五にいわく、この経を信ぜずば則ち大失と為すと。
 疏にこの文を釈していわく、仏の方便を執して以て真実と為す。
 円道に会せざる故に大失と言うと。
 この経釈の如くんば法然所立の法門が大失の根本なり。
 偏に方便の念仏に執して以て真実と為す。
 法華の円道に会わざるが故なり。大失の段鏡に懸けて曇り無し。
 何を以てか失無しと言わん。
 汝すべて自過を知らざる者なり。

 また序にいわく、一地の所生なり。
 むしろ土地差を成すをいれんや。
 一雨の所潤なり。
 あに雨水に隔つる所あらんや云云。
 弾じていわく、一地一雨の開会は爾前の意なりや、法華の意なりや。
 もし爾前の意なりと言わば眼前の誤りなり。
 法華以前には未だかつて一地一雨の開会を明かさず、何を以てか爾前の意と言わん。
 もしこれによって法華の意なりと言わば、しからば汝何ぞ能生能潤の妙法を捨てて所生所潤の念仏を執するや。
 親を捨てて子に就き、主に背きて所従を敬うが如し、あに道理に叶わんや。
 爾前に枯稿の三草二木は法華開顕の雨の潤いをこうむり、而して後薬草と成りぬ。
 爾前当分には未だ薬草と為らず。
 故に疏の七にいわく、今雲雨をこうむってたちまち薬王と成ると。
 記にいわく、薬草今に在りと。
 この本末の釈に今とは法華の時なり。
 明らかに知んぬ、五乗の草木薬の名を得ることは法華の時なり。
 弥陀経等の当分に於いては全く真実の薬と為らず、いかでか延年不死の徳を備えんや。
 故に双観経の四十八願を聞ける阿難、阿弥陀経の六方証誠を聞ける舎利弗爾前の間は全く毒身を離れず。
 故に天台は二乗の根敗これを名づけて毒と為すと釈せり。
 これらの声聞法華経に来たって毒身にわかに変じて薬王の身と為る。
 故に「今経得記即是変毒為薬」と称す。
 なお証文を出さば、文句の七にいわく、それ薬草は叢育の日久し、一たび雲雨をこうむって扶疏イ曄たり。
 もろもろの無漏の最後身有余涅槃に住して更に無上仏道を願求せざりき。
 今経を聞くことを得て自ら仏乗に乗じ兼ねて以て人を運ぶに譬う、故に薬草喩品と称すと。
 記にいわく、今始めて開顕す、故に一蒙雲雨と言う、イ曄と言うは明らかに盛んなるかたちなり。
 一たび雲雨をこうむり草木をして敷栄せしむ。
 今初住に入るは同じく仏乗の芽茎等と成るが如しと。
 この本末の釈いよいよ明かなり。
 汝経釈の深意を知らず、爾前当分に於いて実の薬の思いを成す、はなはだ浅識なり、はなはだ不覚なり。
 よくよく経の元意を習うべし。

 また序にいわく、「自法愛染の故に他人の法を毀呰す、当来の苦果最も遁れ難き者か」云云。
 弾じていわく、此の難の如きは自法を愛するが故に他の法を毀る者は堕獄必定か、もししからば善導法然の堕獄は一定なり。
 自法の念仏を愛するが故に他の余行を毀って千中無一と言い、捨閉閣ホウと斥う故なり。
 法華経を持って已今当の諸経を非毀するは釈尊の金言諸仏の本懐なり。
 何ぞ苦果を得ると言わんや。
 難勢の趣はなはだ以て非なり。

 また序にいわく、「ここに近代悪見に住し邪義を興する者あり、その義を日蓮義と名づけその宗を法華宗と号す。いわゆる真言は亡国の宗なり、禅門は天魔の法、爾前は妄語の説、念仏は無間の業なりと。これについて難勢競い易く不審散じ難し」云云。
 弾じていわく、汝は当宗に於いて邪義ありと言い、当宗は汝に於いて謗法罪ありと責む。
 両方の是非私に決し難し。
 所詮実経の文を以てこれを糺明して自他の疑いを散ぜん。

 しかるに日蓮聖人の立義は全く自義を交えず専ら仏知仏見に依る、何ぞ悪見に住すと言うや。
 諸経中王の文に依って宗旨を建立す、何ぞ邪義を興すと言うや。
 はなはだ理不尽の謗言なり。
 謗人謗法の咎いかでか泥梨を免がれんや。
 次に真言禅門両宗の義は彼の宗の所問を待つ、ここに於いて論ぜざる所なり。
 今まさしく論ずる所は念仏無間の法門なり。
 一々経釈の明文を以て答釈し汝が邪難を破せんに、利刀を以て爪を切り、大水の小火を消すが如し。
 難問の趣一々條を挙げてつぶさに難破を加えん。
 以上略して序を破しおわんぬ。

他難條目
第一、七仏通戒乖反難
第二、六仏勧悪引例難
第三、五逆勧作引証難
第四、釈尊慈劣外道難
第五、自過譲仏重罪難
第六、菩薩声聞不疑難
第七、三宝随一無差難
第八、三性各別校合難
第九、涅槃会座無決難
第十、文殊結集無利難
第十一、阿難結集無益難
第十二、馬鳴菩薩勧化難
第十三、龍樹菩薩弘通難
第十四、無著堅慧同罪難
第十五、天親菩薩造論難
第十六、新古三蔵翻訳難
第十七、天台等師造疏難

 第三に入文の三十五箇條を破すとはこれに就いて難問端多し、今略して詮を挙ぐ。
 第一、七仏通戒乖反難
 一、彼の集にいわく、およそ念仏の行は浄土の三部経及び余の諸経に懇ろに讃むる所多くは弥陀に在り。
 これらの諸経に勧むる所の念仏既に無間地獄の業と言わば汝寧ろ未だ諸悪莫作衆善奉行は七仏の通戒なることを知らざるなり。
 何ぞ先仏に異にして今日の釈尊諸々の衆生に無間の業を勧め給うを容けん。
 汝が義既に七仏の通戒に乖く云云。以上他難

 弾じていわく、法華已前の諸経に於いて多く念仏を讃るは皆これ随宜一往の方便にして法華の為の弄引なり、敢えて如来出世の本懐にあらず。
 故に無量義経にいわく、「四十余年未顕真実と。文句にいわく、「四十余年これを抑えて懐に在く」。
 しかれば念仏讃歎の経々千万ありといえども未顕真実と破する上は何の憑みか有らんや。
 次に七仏通戒の偈を以て念仏無間の義を難ずるか、この義はなはだ謂われざるなり。
 今汝に問う、七仏の通戒に法華を謗ぜよと言う義ありや。
 もし有りと言わば大妄語なり、もし無しと言わば汝が難すべて非義なり。
 今当宗に立つる所の念仏無間の義は善導、法然等法華を誹謗する咎より起これり。
 所以は何となれば過去の七仏一切の諸仏は法華経を以て本懐と為して世に出現したまう。
 故に経にいわく、「諸仏世尊唯以一大事因縁故出現於世」云云。
 この経文に一大事の因縁と言うは即ち法華経なり。
 法然既に諸仏の本懐を破りて法華を誹謗す。
 法華誹謗の人阿鼻に堕つる事まさしく金言の定むる所なり。
 法華経第二の「若人不信毀謗此経則断一切世間仏種乃至其人命終入阿鼻獄」の文これなり。
 誰か諍いを為さんや。

 しかるに悪の中の極悪は法華誹謗なり。
 善の中の極善は法華修業なり。
 法然已に極善たる法華経を抛ち極悪たる誹謗罪を犯す、これあに七仏の通戒を破り、諸仏の本懐に背くにあらずや。
 堕罪無間いかでかこれを脱れんや。
 一、彼の集にいわく、もし念仏を勧むることはしばらく方便と言わばこれまた然らず、如来の智慧無量無辺にして善巧方便また一准にあらず乃至その方便を設くること八万四千、門々異なりといえども皆善業を勧めて善処に生ぜしむ云云。
 以上他難

 弾じていわく、そもそも念仏を勧むることは方便にあらずと言うか。
 もし念仏を以て方便と言う人は誤りか。
 無量義経にいわく、「以方便力四十余年未顕真実と念仏は四十余年の内なり。
 これを指してまさしく方便と言うその文分明なり。
 法華経にいわく、仏方便力を以て示すに三乗の教を以てすと。
 またいわく、更に異の方便を以て第一義を助顕すと。
 またいわく、「まさに知るべし諸仏方便力の故に一仏乗に於いて分別して三と説く」と。
 天台のいわく、「三は衆生による、仏の本意にあらず」と。
 この経釈の如くんば浄土の三部経の弥陀念仏は方便の説たること仏語明白なり。
 何ぞ金言に背いて方便にあらずと言うや、仏説に背かば謗法なり。
 謗法治定せば何ぞ無間に堕ちざらんや。

 次に八万四千門々異なりといえども皆善処に生ぜしむ云云。
 弾じていわく、この義の如くんばなんじは諸行得道を許すか。
 善導和尚のいわく、「千中無一」云云。導綽禅師のいわく、「未有一人得者」云云。
 法然上人のいわく「諸行は機にあらず時を失う」云云。
 祖師三人の義と汝が義と大いに相違せり。
 師敵対なり。あに逆路伽耶陀にあらずや。
 一、彼の集にいわく、所立の如くんば仏地獄の業を勧めて地獄に堕して後如来の善巧何の及ぶ所か有らん、如来の方便何の利益か有らん云云。
 已上他難

 弾じていわく、この難ことに非なり。
 そもそも当宗の立義に仏地獄の業を勧めたまうと言う事何の処にかこれ有るや。
 汝当宗に於いて無実の失を付けること大罪業にあらずや。
 釈尊は昔「如我等無異」の誓願を立てたまいて世世番々種々の方便を設けついに本懐を遂げて法華経を説きたまう。
 然れども善導、法然等の邪師仏の本意を悟らず方便の念仏を執して真実の法華を謗ず。
 故に吾と無間の業を招くなり。
 これ只邪師の咎なり。
 何ぞ如来地獄の業を勧めたまうと言わんや。
 この義に於いては妙楽大師問答の釈を設けたまえり。
 記の五にいわく、問う、経を謗じて罪を生ぜばあに経は罪の縁と為るにあらずや、答う。
 罪福は心による。
 仏の元意に従えば唯福を生ぜんが為なり。
 これ迷者の咎にして路の咎にあらざるなりと。
 釈の意明らかなり。
 なんじ祖師の過を隠さんが為に事を如来に寄せて深く邪難を構うこれあに諂曲にあらずや。
 一、彼の集にいわく、汝が義既に無間の業を勧むと許す。
 所立既に天魔波旬に同じうして大邪見に堕す。
 已上他難

 弾じていわく、この難先段に同じといえどもなお重ねてこれを破せん。
 この宗の立義に全く仏無間の業を勧めたまうと許すこと無し。
 何ぞかくの如き妄語を吐くや。
 吾が祖建長五年一宗建立ありしよりこの方歴代の智者聖人未だかつてこの義を宣べず。
 当宗の宣ぶる所は只なんじが祖師謗法の咎を責むるばかりなり。
 敢えて如来無間の業を勧めたまうと言わず。
 然る間この無実の咎必ずなんじが身に帰せん。
 天に向かって唾を吐くが如し、天これを受けざれば唾還って吾が面を穢す。
 無実の罪その身に帰すことかくの如し。堕在無間の業この大妄語に過ぎず。

 第二、六仏勧悪引例難
 一、彼の集にいわく、過去の七仏の中に於いて汝が義の如くんば第七の釈迦は諸々の衆生をして阿鼻の業を作らしむ。
 そもそも釈迦已前の六仏に於いていずれの仏か無間の業を勧むる仏有る。
 六仏の中にまず一仏を出して以てその例と為して汝が義を成ずべし。
 もしこの例無くんば汝が義あに波旬の説にあらずや。
 已上他難

 弾じていわく、釈迦已前の六仏は法華経を以て出世の本懐と為したまう。
 第七の釈迦また六仏に同じうして法華を以て本意と為したまう。
 また過去の六仏は法華誹謗を以て無間の業と定めたまう。
 釈迦また六仏に同じうして法華誹謗を以て無間の業と定めたまう。
 弥陀もまたしかなり。
 唯除五逆誹謗正法と誓い給えり。
 弥陀の正法は実にこれ法華経なり。
 常楽説是妙法蓮華あにその証にあらずや。
 しからば法然聖人法華を謗ずる咎を無間の業と言うは七仏一同の御義はたまた弥陀の誓願なり。
 敢えて当宗の新義にあらず。
 なんじ祖師の謗法を隠して横しまに余事に懸かることはなはだ誑惑なり。
 残形の者身の疵を隠すに似たり。
 もっとも笑うべきに足れり。

 第三、五逆勧作引証難
 一、彼の集にいわく、阿鼻の業は五逆等の罪なり。
 然るに浄土の三部経及び余の大乗経に勧むる所の念仏無間の業と立つるは汝が義なり。
 無間の業にあらずと言うは我が宗なり。
 いわく、余経の中に殺父等の無間の業因一所もこれを勧むること無し。
 然るに念仏の法に於いては慇懃に勧めあり。
 故に知んぬ、これ無間の業にあらず。
 もし汝が義の如くんばいずれの経教の中に殺父等の無間の業因これを勧めたる例ありや、もしその例無くんば汝何の例を以て念仏の行体無間業の義とこれを成立すべきや。
 已上他難

 弾じていわく、経論の掟の如くんば無間の業におよそ二種あり。
 一には五逆罪、二には謗法罪なり。五逆を造る者は無間獄に堕ちて一中劫を経、謗法罪の者は阿鼻獄に堕ちて展転無数劫を経歴するなり。
 然るに法然並びに弟子檀那等は五逆に過ぎたる大謗法罪あり。
 釈尊の金言虚しからず、多宝の証明偽はりなくんば無数劫を経て阿鼻に堕在せしこと何ぞこれを疑わんや。

 第四、釈尊慈劣外道難
 一、彼の集にいわく、汝が所立の如くんば釈尊既に無間の業を勧めたまうになりぬ。
 これもし然らば釈尊の慈悲外道の見よりも劣れり。
 所以は何となれば或いは外道あり。
 三界の衆生生死の深夜に迷うを悲しんで彼の闇を照らすが為に頭と両肩とに各々灯燭を燃して昼夜絶えること無し。
 乃至かくの如き諸々の外道皆善根を讃めてことごとく悪業を破る。
 然るに所立の如くんば釈尊は悪業を勧めて衆生をして地獄に堕せしむ。
 凶悪愚者に勝り慈悲外道に劣れり。
 已上他難

 弾じていわく、難勢の趣皆上と一轍なり。
 これ未だ当宗に立つる所の念仏無間の道理を知らざる故に邪難重畳す。
 所詮なんじ祖師謗法の咎を知らばこれらの諸難一時に散ぜんこと日登って露落つるが如くならん。
 何ぞ煩わしく語を費やし筆墨を繁くせんや。

 第五、自過譲仏重罪難
 一、彼の集にいわく、汝他法を毀らんと欲して返って自失を顧みず。
 ただ自ら外道天魔の難を招くのみにあらず、あまつさえまた仏に無間の業因を勧むるの失を譲る。
 これ則ち重禍を自身に遁れんが為にみだらわしく無実を如来に譲る。
 悪子は恥を親に招き悪弟は失を師に譲る、汝邪義を興すに依って禍失を仏に与う。
 速やかに如来慈父の失を廃せんと欲せば早く念仏無間業の義を改むべし。
 已上他難

 弾じていわく、法華を謗ずる者無間に堕つと言うことは当宗の新義にあらず、釈迦諸仏一同の定判なり。
 あまつさえ龍樹、天親、天台、妙楽等の解釈分明なり。
 何ぞ重禍を仏に譲る義有らんや。
 正直捨方便の金言に任せて諸経諸宗を捨つ。
 何ぞ邪義を興すことあらん。
 念仏無間の義なんじ耳痛く思わば速やかに法華誹謗の悪心を翻して早く実乗の一善に帰すべきなり。
 もししからずんば無間業の責免がれ難き者なり。

 第六、菩薩声聞不疑難
 一、彼の集にいわく、およそ如来の説に於いていささか不審ある時は菩薩声聞各々に問いを致して面々に疑いを散ず。
 ここに仏もし無間の業を説きたまわば、もしは声聞もしは菩薩定めてその怪しみを作して最も問難を致し疑惑を散ずべし。
 然るに只難問を致さざるのみにあらず、ことに信伏し各々歓喜を致す。
 阿難舎利弗補処の弥勒皆仏の付属を受けてことごとく名号を執持す。
 乃至釈迦もし無間の業を説き給わば塵数の大衆なんぞ怪しまざらんや。
 已上他難

 弾じていわく、菩薩声聞四十余年の権教の座に於いて当分の説法皆これを信受し皆付属をこうむる。
 何ぞ念仏の一門に限らんや。
 しかれども無量義経に於いて四十余年の諸経を挙げ未顕真実と打ち給う時一会の大衆始めて権実の起尽を聞き、諸経無得道の謂われを解れり。
 念仏の法門あに未顕真実の法にあらずや、いわんや八万の菩薩領解して「終不得成無上菩提」と言う。
 釈尊の金言の上に菩薩の領解分明なり。
 念仏の法門に於いて何の憑みあらんや。
 いわんや弥陀の本願深重なるに似たりといえども既に誹謗正法の者を捨つ、汝が宗大いに誹謗正法の罪あり。
 弥陀の本願堅固に汝を除く。
 釈尊をば吾と嫌って礼拝雑行を立つる間主師親を捨つる罪に依って無間に堕せんこと疑いなし。
 また弥陀を憑むといえども弥陀の本願に背いて正法を誹謗する故に彼の仏の本願汝に於いて永く欠けたり。
 しかれば法然所立の念仏は二尊の悲願を漏れて永く阿鼻に沈まんこと経文明々たり。
 また汝が難に、仏もし無間の業を説きたまわば声聞菩薩怪しみを為して問難を致すべし云云。
 これ甚だ愚かなる難なり。
 仏法華を説きたまう時法然如きの邪智の者有って弥陀念仏を執して法華を誹謗せば仏即ち念仏者無間の義を説きたまうべし。
 然るに仏在世の時はかくの如きの誹謗の者無し。
 何によってか念仏無間の義を説き給わんや。
 譬えば世に朝敵起こる時は万事を抛って弓箭兵杖を、用い朝敵無き時は弓箭を蔵めて筆硯をもてあそぶが如く仏法もかくの如し。
 謗者の敵あるときは折伏の行を用ゆ。
 いわゆる念仏無間等の法門なり。
 謗者の敵無き時は折伏をさしおいてただ摂受の行を用ゆ、いわゆる安楽行品に「不説他人好悪長短」と説くはこれなり。
 ここを以て仏在世の時も仏法に敵を為せし外道をばこれを悪鬼に喩え、小乗に執着せし声聞をばこれを蚊虻に比す。
 また日本の伝教大師は六宗の学匠を以てこれを六虫に類し、また徳一大師を指してこれを粗食者と名づけ、或いは滅後の小蚊虻と責めたまえり。
 在世と像法とは摂受の時なり。
 この時すらなお法敵に向かってはかくの如き強語を用い給う。
 いわんや末法は専ら折伏の時なり、いかでか謗法を責めざらんや。
 然らば則ち当宗に於いて念仏無間立つは自ら好んで弥陀を毀るにあらず、ただ偏に祖師法然等法華誹謗の咎有るに依って立つる所の法門なり。
 これあに道理極成するにあらずや。

 第七、三宝随一無差難
 一、彼の集にいわく、まず仏法の中に既に菩提を得んと欲して南無阿弥陀仏と唱う、もし無間の業と言わばまた菩提を得んと欲して南無釈迦牟尼仏と唱え、南無薬師瑠璃光仏と唱うもまたこれ無間の業なるべしや。
 もししからずんば彼またしからじ、乃至三宝惣合して難を致さば三宝の中に於いて既に菩提を得んが為に三宝随一の阿弥陀仏を唱う。
 もし無間の業と言わばまた菩提を得んが為に三宝随一の妙法蓮華経を唱うるもまたこれ無間の業なるべしや。
 これもししからずんば彼またしからじ。
 共に三宝随一なり。
 難の異目有ってか一は菩提の因と成り、一は無間の業と成るや。
 已上他難

 弾じていわく、この難の所詮は三宝随一の弥陀仏を謗ずと言って当宗を難ずるか、もししからば法然謗法無間の業は一定なり。
 その故は三宝の中の仏宝をば三徳重恩の釈迦如来を始めとして十方の諸仏をことごとく礼拝雑行と嫌い、三宝の中の法宝をば法華経等の諸大乗経を押さえて捨閉閣抛と謗じ、三宝の中の僧宝をば三国の仏弟子等を以てことごとく群賊悪見邪雑等と称す。
 かくの如く三宝誹謗は前代にも未だ聞かず、しかるに実経を以て権経を捨つるは当宗の私にあらず、まさしくこれ釈尊の告勅諸仏の本意なり。
 故に経に「除仏方便説」と言い或いは「正直捨方便」と説く。
 また権経を以て実経を謗ずるは諸仏の命を断つ者なり。
 故に経に「則断一切世間仏種」と言う。
 仏種を断つは即ち無間の業なり。
 故に経に「其人命終入阿鼻獄」と言う。
 法然上人まさしく権経の念仏を以て実教の法華を謗ず。
 故に法然所立の念仏は無間に堕すと言う、あに道理に違わんや。
 釈迦薬師等の諸仏の命根はまさしく法華経なり。
 故に記にいわく、「顕本遠寿を以てその命と為す」と。
 ここを以て法華を謗ずるはこれ一切の仏の命を断つ者なり。
 たとい釈迦薬師の宝号を唱うとも彼の仏の命を断たんと欲する者をばいかでかこれを救い給うべき。
 弥陀もまたかくの如し、弥陀の命根たる法華を謗じて弥陀の命を断たんと欲する者をば如何に彼の仏の名号を唱うともいかでか来迎したまうべき。
 いわんや弥陀は唯除五逆誹謗正法と誓いたまえり。
 法然並びに所化の弟子等弥陀の本願を破れる事はなはだ深重なり。
 しかる間往生極楽は永く叶うべからず。
 経文の如くんば阿鼻大城に往生せんこと疑い無き者なり。
 悲しむべし悲しむべし。
 一、彼の集にいわく、念仏無間の業ならば三世十方の名号、また法華伝持の上行無辺行薬王薬上を始めとして普賢、文殊、観音、勢至等の諸大菩薩の名号に至るまで皆ことごとく無間の業なるべきや。
 已上他難

 弾じていわく、たとい諸仏菩薩の名号を唱うといえども法華を誹謗せば何ぞ無間に堕ちざらんや、法華経は主君なり、親なり、師匠なり。
 諸仏菩薩は所従なり、子なり、弟子なり。
 普賢経涅槃経等にその文明白なり。
 主君を捨てて所従に随い、親を捨てて子に就くは世間の道に於いてなお悪逆なり。
 いわんや仏法に於いてこの左道を許さんや。

 第八、三性各別校合難
 一、彼の集にいわく、安養浄土に生まれんと欣楽して修する所の念仏の行、彼の三性門の中にはこれ善性の摂とやせん、不善性の摂とやせん、無記に摂すとやせん。
 もし無記に摂すといわばこれ即ちしからず、信等の十一無慚等の十倶に相応せざるを無記性と名づく。
 今尋ぬる所は忍可楽欲信心を具足して行ずる所の念仏なり。
 何ぞ無記に摂せん。もし不善に摂すといわばしからず、無慚等の十法と相応するを名づけて不善と為す。
 今尋ぬる所は信等より起こる所の行なり、何ぞ不善に摂せん。
 もし善性に摂すといわばこれはこれ共許なり。
 信等と相応するこれ善性なるが故に、乃至もしこれしからば誰の衆生有って何ぞ善性を以て悪趣の報いを感ぜんや、翻ずるに悪性を以て善趣の生を感ずべし。
 所立の如きは善悪既に相乱れ因果鉾楯す、乃至汝すでに因果撥無に堕す、あに外道の類にあらずや。
 已上他難

 弾じていわく、これは三性の義を以て念仏無間の義を難ずるか。
 反詰していわく、そもそも汝がこれ祖師の法華を誹謗するは善悪無記の中には何の性に摂せんや。
 もし無記に摂すといわばこれ不可なり。
 既に念を起こして謗ず、何ぞ無記に摂せん。
 もし善に摂すといわばこれまた不可なり。
 極悪の最頂は誹謗正法なり。
 五逆の重罪も謗法罪には及ばず、何ぞこれを以て善に摂せんや。
 もししからば法然の所立は悪に摂せずんば何の性に摂せんや。
 もし法華を謗ぜずといわば撰択集の実大の語並びに捨閉閣抛は如何ん。
 いわんや弥陀の本願にも誹謗正法の者を捨つ。
 釈尊の本懐を破り弥陀の本願に漏れたる者何ぞ無間に堕ちざらんや。
 経にいわく、「若人不信毀謗此経乃至其人命終入阿鼻獄」と、金口明々たり。
 無間の業何を以てかこれを免がれんや。

 第九、涅槃会座無決難
 一、彼の集にいわく、およそ一代諸教にもし未決の事有れば涅槃座に至って皆ことごとくこれを決判す。
 もし涅槃の座に事を決せざるに於いては爾前に説くが如く異義有ること無し、乃至然るに弥陀の名号もし無間の業ならば一切経の不審これに越すことなく、仏弟子の疑いこれに勝ることなし。
 よろしく彼の事を決判すべし。
 然るにこの條に至っては重ねて決する旨なし。
 ここに知んぬ、念仏の行に於いては三部経の如く往生浄土の行にして成仏得道の法なり。
 もし偏に執せば涅槃経に於いて念仏無間の決判を出して汝が所立に備えよ。
 もしこの義無くんば早く邪を捨てて正に帰せんものをや。
 已上他難

 弾じていわく、この難はなはだ謂われ無し。
 釈尊の在世には念仏を執して法華を謗ずる者無し。
 何によって念仏無間の法門有らん。
 しかれば涅槃の会座に於いてこれを決すべき道理なし。
 汝無間の業を免れんと欲せば早く謗法の祖師を捨てて法華の知識に親近し正法正義を信ぜよ。
 次に念仏の行に於いては三部経の如く往生浄土の行にして成仏得道の法なりと云云。
 弾じていわく、この義またはなはだ誤りなり。
 念仏の行は無量義経に於いてすでに未顕真実と定めおわんぬ。
 何ぞ成仏の法と言わんや。
 八万の菩薩は終不得成と決す、何ぞ得道の法と言わんや。
 釈尊の金言を破り菩薩の領解を背きて何ぞ私曲の異義を存するや。
 なんじ執権の邪執金石より堅く謗実の罪業大山より重し哀れむべし悲しむべし。

 第十、文殊結集無利難