萬代亀鏡録

断悪生善 上巻【後】(仏性院日奥)

 第十、文殊結集無利難
 一、彼の集にいわく、彼の文殊師利菩薩は一代教の中に大乗経に限り皆すでに結集す。
 阿難結集の諸大乗経と何ぞその義理相違すべけんや。
 もし念仏の行無間の業ならば文殊結集の時浄土経の念仏並びに余の大乗経に説く所の念仏の法皆ことごとく削除すべく結集して未来に留め衆生をして無間地獄に堕せしむべからず。
 大聖文殊は三世諸仏の智母釈尊九代の祖師なり。
 この一事に於いてあに迷惑すべけんや。
 今所立の如くんば彼の文殊に於いてすでに智徳を欠き大悲を備えず。
 如何ぞ三世の覚母と号すべき。
 已上他難

 弾じていわく、それ文殊大聖諸大乗経を結集することは、意妙法華経の一切経に勝れたることを知らしめんが為なり。
 必ずしも一切経を信ぜしめんが為にはあらず。
 ただ相対の為なり。
 世間の宝なお相比べてこれを見ざれば善悪見分け難し。
 赤銅と白銀と相比べて白銀の勝れたることを知り、また白銀と黄金と相比べて黄金の勝ることを知るが如し。
 いわんや仏法の深理相対の粗法無くんば全く妙法の一代に勝ることを知るべからず。
 故に釈尊の権経を説き、文殊の諸経を結集せる元意はただ偏に諸経と法華経を相比べて法華経の一切経に勝ることを顕さんが為なり。
 故に経に「更以異方便助顕第一義」と説き、あるいは「雖示種種道其実為仏乗」と宣べたり。
 これ明証にあらずや。
 ここを以て文殊大聖は諸菩薩の上首として諸経の会座に列してともに四味の諸経を聞けり。
 然りといえども究竟の極説未だ顕れず、故に爾前の間は疑網未だ開けず、故に無量義経に至って大荘厳等の八万の菩薩と共に大いに疑問を致す。
 ここに釈尊八万の菩薩等の疑いを晴らさんが為に性欲不同性欲不同種々説法種々説法以方便力四十余年未顕真実」と説きたまう。
 八万の菩薩この説を聴聞して四十余年無得道の疑いを散じ、ともに領解していわく、「過無量無辺不可思議阿僧祇劫終不得成無上菩提」と云云。
 この領解の如くんば文殊弥陀の念仏を捨つること分明なり。
 その上仏法華経に於いてまさしく「於諸菩薩中正直捨方便」と説きたまう。
 この経文の如くんば教主釈尊文殊等の前に置いて弥陀念仏を捨てたまうこと顕然なり。
 世尊の直説と言い諸菩薩の領解と言い念仏の法門に於いて何の憑み有らんや。
 譬えば玄冬の氷堅くして金石に似たりといえども春来たれば早く解けて水と為るが如く諸経所説の弥陀の文もまたかくの如し。
 その経当分に於いては実に堅きこと氷に似たり。
 然りといえども未顕真実の一言に破れんこと春の日に氷消ゆるが如し。
 然るに愚痴の輩爾前弥陀の文を見て堅く深く往生の憑みを為すこと氷の堅きを憑んでその上に家を造るが如し。
 あに危うき事にあらずや。
 あまつさえ諸仏の本懐を破ってほしいままに誹謗の咎を犯す、いかでか文殊の結集の本意に叶わんや。
 汝が所立の如くんばまさしく覚母の命を断つ者なり。
 則断仏種とはkれなり。入阿鼻獄何ぞ疑わん。

 第十一、阿難結集無益難
 一、彼の集にいわく、難は常随給使なり。
 持者多聞第一の尊者なり。
 彼の結集堂に於いて独り獅子座に登って広く一切経を結集す。
 もし念仏の行無間の業ならば多聞第一の阿難尊者何ぞこれを結集して未来の衆生をして阿鼻大城に堕せしめんや。
 これ阿難尊者の失とやせん、汝が所立の邪見とやせん。
 如何。
 已上他難

 弾じていわく、阿難尊者の一切経を結集することは浄土の三部経を捨てて偏に法華経を信ぜしめんが為なり。
 その故は観経双観経の対告はまさしく阿難尊者なり。
 もし弥陀念仏実に得道の法ならば阿難の成仏彼の経に有るべし。
 然るに彼の経の始終に全く阿難の得道無し。
 もし有りと言わば証文を出すべし。
 しかるに阿難尊者は無量義経の時未顕真実の説を聞いてとみに弥陀念仏を捨てて法華経に来たりて成仏得道の本意を遂げたり。
 山海慧自在通王仏これなり。
 これを以てこれを見れば多聞第一の阿難尊者なお念仏を以て得道せず、いわんや末代愚凡の輩いかでか念仏を以て往生成仏の望みを遂げんや。
 また阿弥陀経の対告衆舎利弗尊者すでに念仏を捨てて法華経に来たって成仏す。
 華光如来これなり。
 法然誠の智者ならば仏在世の祖師阿難舎利弗等の如く速やかに念仏を捨てて法華経に帰すべし。
 しかるを還って釈尊を背き在世の祖師に逆らい、捨てられたる念仏を用い、結句は身子阿難の成仏を遂げたる法華経を謗ず。
 法然あに正法に於いて眼抜けたる者にあらずや。
 汝祖師の謗法を知らずして事を阿難に寄せて妄りに宗義を難ずること師弟共に仏敵なり。
 ともに地獄に堕せんこと何ぞ疑わん。

 第十二、馬鳴菩薩勧化難
 一、彼の集にいわく、およそこの菩薩は如来滅後六百年に出で並べて外道小乗の迷謬を破す。
 仏滅後に大乗の興行この時を始めとす乃至外道小乗衰微し究竟の大乗興起することしかしながら馬鳴菩薩の弘通に依る。
 すでに本師釈迦尊未来記の菩薩なり。
 しかるに所造の起信論に言うが如くんばもし人専ら西方極楽世界の阿弥陀仏を念ずるに修する所の善根を廻向して彼の世界に生まれんと願求すれば即ち往生することを得ん。
 已上もし念仏無間の行ならばあにこの菩薩念仏の業を勧めたまうべけんや。
 大乗修学の輩誰か馬鳴解釈の趣を仰がざらん。
 已上他難

 弾じていわく、汝馬鳴菩薩の勧化を引いて念仏無間の義を難ずるか、それ馬鳴菩薩は仏滅後六百年に当たって出世して外道小乗を破ること仏の記文に違わず。
 またこの菩薩内心には法華の妙理を存すといえども時期を鑑みて権大乗を弘通することこれまた仏旨に違わず。
 本より正法千年後の五百年は権大乗流布の時なり。
 その時に当たって一往念仏の法門を勧めんこと何の失有らんや。
 念仏はこれ権大乗の法門なる故なり。
 馬鳴の弘通もっとも所以有り。
 およそ小乗、権大乗、実大乗の三を以て正、像、末の三時に配当するに、まず正法千年の始めの五百年は一向小乗、後の五百年は権大乗弘通の時なり。
 次に像法千年は法華迹門流布の時なり。
 南岳、天台等の弘通これに当たれり。
 次に末法一万年は法華本門の肝心たる妙法の首題広宣流布の時なり。
 この時に当たっては天台弘通の迹門すらなお時機に相応せず、いわんや権教の念仏に於いてをや。
 しかるに汝が祖師時機を知らず末代不相応の念仏を以てこれを弘通しあまつさえ時機相応の法華弘通の路を塞ぎ妙法の流布を留めんと欲す、これあに釈迦多宝十方諸仏の大怨敵にあらずや。
 三世の諸仏は法華経を以て本懐と為して世に出現し給う。
 馬鳴菩薩も当来出世の仏なり、あに諸仏に違して独り念仏を以て本懐と為さんや。
 それ仏法弘通は時機を勘うるを以て簡要と為す。
 しかるに法然時機を違える上法華を誹謗す、いかでか泥梨を免れんや。
 末弟の実慧等祖師の謗罪を救わんが為、事を馬鳴に寄せていよいよ謗法の色を増す、師弟ともに十方の大阿鼻地獄を経歴すべし。
 例せば苦岸比丘等の如し。

 第十三、龍樹菩薩弘通難
 一、彼の集にいわく、それこの菩薩は仏滅後八百年に出で真如に体会し、歓喜地に登り、釈教を弘通して未来記に預かり千部の論を造る。
 経として釈せざることなく八宗の高祖としては人として帰せざることなし。
 有無の両見を破してしかも中道に住し我法の二迷を除いて西方に生ず。
 十住毘婆沙にいわく、阿弥陀仏の本願かくの如し。
 もし人我を念じて称名自帰せば即ち必定に入って阿耨菩提を得んと。
 しかるに汝所立の如くんば念仏は無間の業と言う。
 言うが如くんば龍樹肝要としてこれを破すべきなり。
 よって破せざる上還って念仏を勧めて自身も往生す。
 日蓮がこれ悪見龍樹の智徳を失う、汝この難を会せずんばあるべからず如何。
 已上他難

 弾じていわく、汝龍樹菩薩の弘通を引いて念仏無間の義を難ずるか。
 そもそも龍樹菩薩は法然の立義の如く法華を誹謗して念仏を勧むるか。
 はた馬鳴の如く内心には法華を存すといえどもしばらく時機に随って一往これを勧むるか。
 もし法然の所立の如く法華を謗じて念仏を勧めといわば確かなる証文を出すべし。
 恐らくは龍樹一代の論中にその義有るべからず。
 わずかに見思を断じたる小乗の聖人すらなお聞大不謗の徳を備う。
 いわんや歓喜地を証する龍樹菩薩いかでか法華を謗じて念仏を勧めんや。
 もし馬鳴の如く時機に随って一往勧むといわば法然が謗法の所立に類すべからず。
 当宗の立義何の相違か有らん。
 それ龍樹菩薩は釈尊の付属を受けて付法蔵の第十三に列り、多くの論を造って一代の意を宣べたまう。
 故に十住毘婆沙論を造っては四十余年の権経の意を宣べ、大論を造っては般若法華の差別を分かてり。
 権経の意を宣ぶる論の中に、しばらくその経に随って念仏を勧むること有り。
 これ龍樹の本意にあらず。
 汝未だ論に於いて通申別申共不共の異なり有ることを弁えず、故に龍樹の本意を失うて空しく法然謗法の立義に同ず。
 莠は苗に似て還って苗を害す。
 法然所立の法門仏法に似て還って仏法を害す。
 智者なおこれに惑う、いわんや愚者に於いておや。
 摩訶止観第五にいわく、天親龍樹内鑑冷然外には時のよろしきに適いて各々櫂に拠る所なりと。
 内鑑冷然の内証は龍樹の意専ら法華経に在り。
 その義大論に分明なり。
 外適時宜の時仮に念仏を勧む、これ偏に法華に引入せんが為の方便なり。
 譬えば賢父幼稚を養育せんが為にしばらく子の心に随うが如し。
 この道理を弁えず専ら念仏を以て龍樹の本意とするは深く聖教に迷える者なり。
 悪見これよりはなはだしきは無し。
 なんじ祖師源空が邪見を知らず、故に還って日蓮聖人を悪見と謗ず。
 例せば六師外道が教主釈尊を大悪人と謗ぜしが如し。
 また蛍火が日光を嫉むに似たり。
 悲しいかな一盲衆盲を導く、法然一人が悪見に依って数万の道俗皆謗法無間の業を造る。
 悲しむべし悲しむべし。

 第十四、無著堅慧同罪難
 一、彼の集にいわく、無著の摂大乗論にいわく、この願に因ってことごとく弥陀を見ると。
 堅慧菩薩の宝性論にいわく、「願わくば命終の時に於いて弥陀仏無辺の功徳身を見ることを得ん」。
 およそ堅慧菩薩は二障の現種を断伏して三界の見思を除尽し二証の本源に達して二空の妙理を照らす。
 就中無著菩薩は夜は兜卒に上りて慈氏の化導を助け、昼は人間に下って閻浮の衆生を化す。
 天親菩薩の舎兄弥勒菩薩の面授なり。
 大乗の極談この代に至ってしかも繁昌し、中道の妙理この時に於いてしかも熾盛なり。
 もし念仏無間の業ならば最もその由を釈成してまさに念仏を停止すべし。
 何が故ぞ、堅慧菩薩は願わくば命終の時に於いて弥陀仏を見んことを得んと釈し、無著菩薩はこの願に因ってことごとく弥陀を見ると述ぶるや。
 もし汝が義に順ぜば二の論師今世後世同罪を招き、見道の聖者堕獄の心をなすか。
 已上他難

 弾じていわく、汝無著堅慧の弥陀を勧むる例を引いて念仏無間の義を難ずるか。
 そもそも無著堅慧の両論師は法華を謗じて念仏を勧むるか。
 また馬鳴龍樹の如くしばらく時機に順じて仮に念仏を勧むるか。
 もし法華を謗じて念仏を勧むといわば恐らくは法然に同じく無間の業なるべし。
 いかなる論師といえども釈尊の金言に背き諸仏の本懐に違わばいかでか極苦に堕ちざらんや。
 もし馬鳴龍樹の如くしばらく時機に順じて仮に念仏を勧むといわば同例の引証はなはだ以て不可なり。
 それ無著堅慧ともに正法の後の五百年の間に出世して仏記の如く権大乗を弘めて実大乗の先序と為す。
 いかでか釈尊の本懐に違して念仏を以て正意とせんや。
 汝が料簡ことごとく僻見なり。
 早く謗罪を改むべし。
 しからざれば阿鼻の焔恐るべし。

 第十五、天親菩薩造論難
 一、彼の集にいわく、天親菩薩の仏滅後九百年に出生し学内外に通じ博く古今に達す。
 一代の教を釈して千部の論を造る。
 大乗に五百の論、小乗に五百の論、大乗の内に往生の一巻を造って浄土の三部経を釈す。
 彼の論にいわく、「世尊我れ一心に尽十方無碍光如来に帰命し奉って安楽国に生まれんと願う」。
 そもそもこの論文念仏を破るとせんや。
 念仏を勧むるとせんや。
 もし所立の如くんばあにこれを破せざらんや。
 しかるに還って勧む。
 汝が立義に望むれば剣を口に含むが如く、箭の胸に入るに似たり。
 いかでか一句の陳答に及ばん。
 五天竺往生記にいわく、「極楽に往生する男女七千五十九人乃至現身往生百八十人なり」。
 もし念仏無間の業ならばあにかくの如く奇特を記録するを容さんや。
 已上他難

 弾じていわく、汝天親菩薩の往生論を引いて念仏無間の立義を難ずるか。
 そもそも天親菩薩の往生論には法華を誹謗して念仏を勧めたるか。
 また時機に順じて仮に念仏を勧むるか。
 もし法華を謗じて念仏を勧むといわば釈尊の金言を背き諸仏の本懐に違する間必ず無間の業と為るべし。
 依法不依人の誡文はまさしく双林最後の遺言なり。
 等学已下の諸聖誰かこれを背かんや。
 もし時機に順じて一往勧むといわば法然所立の義に斉しからず。
 同例の引証すべて以て合わざる者なり。
 それ天親菩薩は法王の勅使となり付法蔵の第二十に列なり仏の付属の如く一代を分別す。
 故に倶舎論を造っては阿含経の意を宣べ、唯識論を造っては方等部の意を宣べ、最後に仏性論を造っては法華涅槃の意を宣べて了義不了義を分かつこと仏の遺言に違わず、何ぞこれを以て法然謗法の立義に同ぜんや。
 次に往生記を引いて当宗を難ずるか。
 それ往生に於いて実不実あり。
 謗法なき已前は実の往生も有るべし。
 謗法の余流を汲める念仏者いかでか実の往生あらんや。
 たとい往生の相現ずること有りとも実にはこれ地獄なり。
 所以は何となれば観仏三昧経に言う如くんば誹謗邪見にして因果を識らず。
 この人の罪報命終の時に臨んで獄卒刹大なる鉄叉を以て阿鼻地獄及び諸々の刀山をささげ、宝樹及び清涼池を化作し、火焔をば化して金葉の蓮華と作し、諸々の鉄のくぼみある虫をば化して鳧雁と為し。
 地獄の痛む声は詠歌の音の如し。
 罪人聞きおわってかくの如く好き処吾れまさに中に遊ぶべしと。
 またいわく、一切火焔化して玉女と為る、罪人遙かに見て心に歓喜を生じ我れ中に往かんと欲す。
 この念をなしおわって即ち命終す。
 玉女を顧みれば皆鉄の斧を捉えてその身を折截すと。
 この文の如くんば誹謗の悪人命終の時にわかに金蓮宝樹等の往生の相を現ず。
 然りといえども実にはこれ地獄なり。
 これを以て知るべし、誹謗の人終焉の期に臨んで奇異の相を現ずるは実にこれ無間の相なりと言うことを。
 法華誹謗の人もし極楽に往生せば釈尊の金言、多宝の証明、諸仏の舌相一時に堕落して提婆が妄語に同ずべし。
 いかでかその義有らんや。
 問うていわく、法華誹謗なくんば弥陀念仏を以て往生すべきこと一定か。
 答えていわく、たとい誹謗の咎無くとも法華の下種無くんば実に往生を遂げ難し。
 所以は何となれば世間の万法皆種子あり。
 その種子に依ってその果実を成す。
 桜梅桃李各々その種よりその菓を生ずるが如く、仏法もまたかくの如し。
 必ず往生の種子有って浄土に生ず。
 しかるに十方の浄土は異なりといえども同じく皆法華一乗の境界なり。
 故に経に「十方仏土中唯有一乗法」と言う。
 故に浄土に往生する実の種子は必ずこれ一乗妙典なり。
 故に経にいわく、この経典を聞き説の如く修行せばここに於いて命終して即ち安楽世界に往かんと。
 記の十にいわく、如説修行は即ち浄土の因なりと。
 この経釈の如くんば法華修行を以てまさしく往生浄土の実因と為す。
 弥陀念仏は未顕真実の故に浄土の実因にあらず。
 故に念仏の行者の称名の行を以て往生を遂げんと欲せば伊蘭を種いて赤栴檀を求むるが如し。
 全く叶わざるものなり。
 難じていわく、往生伝の証拠虚説と為るべしや如何。
 答えていわく、往生伝に載する人称名念仏の力に似たりといえども実を以てこれを勘うれば過去世に於いて種を法華に植ゆるもの仏滅後に生じて観経等の九品の業を縁と為して浄土に往生す。
 例せば昔色定を修せし者父母孝養の縁を仮りて梵天に生ずるが如く、また独学の飛華落葉を縁と為して支仏の菩提を証するが如し。
 これ皆縁を仮りて昔の種子を発起するなり。
 浄土に往生するもまたかくの如し。
 根本の種子を尋ぬれば実にこれ法華経なり。
 称名念仏の往生は権経の仮説なり。
 いかでか実の往生有るべき。
 然らば即ち法然已後の念仏の先達善慧隆観聖光薩生南無真光等皆悪瘡等の重病を受けて臨終に狂乱す。
 伝記分明なり。
 然れば善導和尚の定むる所の十即十生打ち返して千中無一と為んぬ如何、云云。
 汝経論の権実を弁えずたやすく舌に任せて当宗の立義を難ず。
 あに諸仏衆聖の怨敵にあらずや。

 第十六、新古三蔵翻訳難
 一、彼の集にいわく、無量寿経は康僧鎧の訳、双観経はキョウラヤシャの訳、阿弥陀経は羅什の訳なり。
 およそこれらの三蔵は戒定慧の三学を満じ経律論の三蔵に達して内に智徳をそなえ外に化用を施す。
 もし念仏無間の業ならばあに浄土経を訳して無間の業を弘通せんや。
 就中法華経、阿弥陀経は羅什同時の翻訳なり。
 法華経に於いてもし誤り無くんば阿弥陀経に於いても何ぞ誤り有らんや。
 この條に於いては理在絶言なり、早く偏執を捨てよ。
 そのほかの諸大乗経に勧むる所の念仏あに新古三蔵の迷謬に属ぜんや。
 邪を以て正と為し愚に居して賢を毀る者なり。
 已上他難

 弾じていわく、これは翻訳の三蔵を引いて念仏無間の義を難ずるか。
 そもそも翻訳の三蔵の中に法然所立の如く法華を捨てて念仏を勧むる人ありや。
 もし有りと言わば証文を出すべし。
 何なる三蔵といえどももし仏説に背いて法華経を捨てば無間の業なるべし。
 但し翻訳の三蔵旧合して一百八十七人なり。
 この中に法華経を捨てて念仏を勧めたる人未だ聞かず。
 何ぞ謗法の法然を以て翻訳三蔵に同じて当宗の立義を難ぜん。
 もし実に法華を捨てたる三蔵有らばこれ訳人の謬りなり。
 羅什翻訳の経を以てこれを勘うるに仏説の本経に於いて法華経を捨てたることなし。
 一切の訳人の中に羅什三蔵を以て最も第一と為す。
 難じていわく、羅什三蔵誤り無くんば汝何ぞ念仏を捨つるや。
 阿弥陀経すでに羅什の翻訳なり。
 法華また羅什の訳なり。
 法華を信ぜば弥陀経をも信ずべし。
 羅什いかでか無間業の経を翻訳せんや。
 答えていわく、汝羅什の翻訳を信ぜば速やかに念仏を捨てて法華を信ずべし。
 所以は何となれば阿弥陀経は仏まさしく舎利弗に対告してこれを説き給う。
 然りといえども舎利弗の往生成仏阿弥陀経の中に一分もこれ無し。
 しこうして法華経に至って仏また舎利弗に対して弥陀経等を正直捨方便と捨て給えり。
 舎利弗これを聞いてたちまちに念仏を捨てて法華を信じて成仏の記べつに預かり華光如来の尊号をこうむる。
 ここに知んぬ、羅什の翻訳誤り無き故に彼の弥陀経に於いては舎利弗の授記作仏を載せず。法
 華経に於いてまさしく身子の授記劫国名号を載せたり。
 明らかに知んぬ、阿弥陀経を方便の説、法華経は真実の説なりと。
 何ぞ法華経、弥陀経両経の説相を弁えずして妄りにこの難を致すや。
 なんじもし道心有らば在世の舎利弗の如くとみに念仏を捨てて法華経を信じ成仏の本懐を遂ぐべき者なり。
 如何なる智慧深重の三蔵なりといえども法華を誹謗して念仏を讃めなば無間地獄疑い無きものなり。
 しかるに浄土の三部経に全く法華を捨てたる文無し。
 ただ法然等の邪師権実の起尽に迷うて観経等の権経を執し法華を誹謗して無間の業を致す、不便なり不便なり。

 第十七、天台等師造疏難
 一、彼の集にいわく。
 もし観経等に説く所の念仏無間の業ならば何が故ぞ漢家本朝の名徳高僧疏を制し釈を造りて浄土に帰して弥陀を念ずるや。
 惣じて八宗の祖師誰かこれをもてあぞばざるや。
 真言宗の一行阿闍利恵果和尚弘法大師、禅宗の百丈清規、華厳宗の元暁大師、三論宗の慧遠法師、法相宗の慈恩大師、律宗の大智律師、天台宗の智者大師、章安大師、妙楽大師、伝教大師、慈覚大師、智証大師、慈慧大僧正かくの如く諸宗の大師先徳等あるいは大乗の奥義を窮め、あるいは中道の深理に達す。
 然りといえども帰するに浄土を以てし、行ずるに念仏を以てす。
 もし念仏無間の業ならばあに上来の諸師筆を染めて語を尽くさんや。
 取詮
 已上他難

 弾じていわく、汝天台等疏を造るの義を引いて念仏無間の法門を難ずるか。
 そもそも疏を造るの師に於いて正師有り邪師有り。
 その正師は時機に随ってしばらく念仏を勧むる疏を造るといえどもその内証に於いては専ら法華を存す。
 今の世尊四十余年諸経を説き給うといえども仏意偏に妙法華経に在りしが如し。
 邪師の如くんば偏に念仏を専らにして還って法華を謗ず。
 天台等の如きはこれ正師なる故に止観の行に於いて四種三昧を修する時他経の説に依って一往念仏を用ゆといえども再往全くこれを以て本意と為さず。
 故に第七の正観に至って大師の本意を顕す時、「前六重依修多羅以取妙解今依妙解以立正行」と釈す。
 明らかに知んぬ、念仏三昧は大師の本意にあらずと言うことを。
 これに依って天台大師の法華三昧にいわく、「道場の中に於いて好き高座を敷き法華経一部を安置す。
 また未だ必ず形象舎利並びに余の経典を須いず唯法華経を置く」云云。
 また行法の記にいわく、「唱え奉る一切経の総要毎日一万遍」云云。玄旨伝にいわく、「一切経総要とは即ち妙法蓮華経の五字なり」云云。
 これらの文を見るに成仏得道の簡要はただ法華の題目に限る故に大師毎日の行法に一万遍これを唱え給う。
 然りといえども未だ時来たらざるが故に、付属無きが故に広く他伝に及ばず。
 ただ内証真実の行と為し給えり。
 南岳大師の立行もこれを以て知んぬべし。
 他難じていわく、法華の題目大師の本意ならば臨終の時ただ専ら法華の題目を唱うべし。
 何ぞ並べて観無量寿経の題号を唱え給うや。
 答えていわく、天台大師は像法の導師なり。
 像法はこれ権実双用の時なり。
 故に時のよろしきに随ってしばらく双用の行を示し給う。
 然りといえども行法の記を以てこれを見るに大師の内証は専ら法華の題目に在るなり。
 故に玄義第六にいわく、口には権を説くといえどもしかも内心は実法に違せずとこの釈迹化弘通の実義を顕すなり。
 天台一家の学者像法の時に在ってしばらく念仏を勧むる大師の意に違せず。
 これ正師なるべし。
 もし大師に違して末法の時念仏の行を本として法華を謗ずる人は邪師と知るべし。
 慧心僧都は像法の最末に出世して往生要集を造ってしばらく念仏を勧む。
 然りといえどもその内証は専ら法華を弘めんが為なり。
 世人は慧心の素意を知らずして往生要集を以て偏に念仏を勧めたる書と思えり。
 法然上人なおこの義に惑う。
 いわんやその已下の人に於いてをや。
 彼の集の下の巻諸行勝劣の下に於いて慧心の本意を顕す。
 人これを見ず、偏に念仏を執して失なき慧心に失を付く。
 いわんや後一乗要決を造り自心の内証を述べて純ら法華経に帰す。
 華厳法相三論律家等の諸宗の行者は元より大小権実に迷うて執権謗実の咎あり。
 これらの諸師は強いて是非を論ずるに足らず。
 問うていわく、所答の如きは龍樹、天親、南岳、天台等の大師先徳は専ら法華経を本として三部経を信ぜず。
 法然上人は念仏を以て本となして法華経を信ぜず。
 両義水火の相違なり。
 是非得失如何が心得べき。
 答えていわく、念仏を行ずる所詮は安養世界に生ぜんが為なり。
 安養世界はこれ同居の浄土四種仏土の中には最下の浄土なり。
 故に凡夫これを願う。
 龍樹、天親、南岳、天台等はその本地を尋ぬれば等学無垢の大士として中品の寂光に居す。
 いかでか同居最下の土を願わんや。
 その垂迹を訪えば五品六根の位に居して即ち娑婆に於いて四種仏土を見る、何ぞ煩わしく十方已往の他土を求めんや。
 下凡の輩を導かんが為仮に念仏を勧むること、幼童を誘わん為金銀珠玉をさしおいて竹馬草鶏を与えるが如し。
 これあに父母の本意ならんや。
 先聖しばらく念仏を勧むるの意また以てかくの如し。
 法華の寂光に引入せんが為仮の方便なり。
 あにこれを以て実義となさんや。
 法然この意を弁えず妄りに念仏の一行を執して法華経を捨つるは釈迦諸仏の命根を断ち、天台、伝教等の本意を破る者なり。
 いかでか無間に堕ちざらんや。

 断悪生善 上巻 終