萬代亀鏡録

断悪生善 中巻【前】(仏性院日奥)

他難條目
第十八、法華開会眼盲難
第十九、不信法華尚益難
第二十、自経所尊不知難
第二十一、自経所誡違背難
第二十二、爾前偏属妄語難
第二十三、六方諸仏証誠難
第二十四、普賢文殊帰依難

 第十八、法華開会眼盲難
 一、彼の集にいわく、およそこの経の大意をいわば諸乗を会して一仏乗と為す。
 万行を開して三菩提と成ず。
 故に「汝等所行是菩薩道」と説いて小乗の修行なお大乗の菩薩の道と明かし、あるいは「於一仏乗分別説三」と説いて二乗即ち一仏乗の種智なりと判ず。
 これに依って法即本妙粗由物情」と釈し、あるいは但除其病不除其法」と明かし、或いは「此妙彼妙妙義無殊」と判じ、或いは「声聞修行仏道遠因」と釈す。
 唯一仏乗の法華と号しながらしかも諸法その差別を成す。
 あに法華開会の眼盲いたるにあらずや。
 已上他難

 弾じていわく、汝開会の文を引いて念仏無間の立義を難ずるか。
 そもそも開会の上に権小の教々を捨つるを盲目と言わば釈迦多宝十方の諸仏は盲眼の仏か、天台、妙楽、伝教等は盲目の人か。
 問うていわく、開会の上に仏余経を捨て給える証文いかん。
 答えていわく、法華経の題号には森羅万法を以て妙法と開会し、入文の略開三の段には十界十如の諸法を指して実相と開会す。
 かくの如く開会して後に「余二則非真」と斥い、正直捨方便と棄て給えり。
 これあに開会の上にも仏爾前の粗法を捨て給うにあらずや。
 問うていわく、経文分明なり。
 天台、妙楽、伝教等の釈如何。
 答えていわく、経文分明なる上は釈を引くに及ぶべからず。
 然りといえども汝が好みに随ってこれを引かん。
 天台のいわく、「今皆彼の偏曲を捨てて但正直の一道を説くなり」と。
 妙楽のいわく、「すでに実を識りおわんぬれば永く権を用いず」と。
 伝教のいわく、「一乗の家にはすべて権を用いず」と。
 捨権の釈義繁多なる故にこれを略す。
 これらの釈の如くんば天台、妙楽、伝教等開会の上に権小の粗法を捨つるにあらずや。
 疑っていわく、開会の上に権小の粗法を捨つるとは開会の所詮聞こえず。
 還って隔歴の法に似たり。
 或いはこれ相待妙の分にして絶待開会の心にあらずや。
 如何。
 答えていわく、開会の得意大事なり。
 諸人この義に迷うて多く僻見を起こして自らを損じ他を損ず。
 所詮絶待開会とは爾前の名体を絶して独り唯一の妙法を立つるなり。
 譬えば諸河海に入れば唯海水と呼んで本の河名を失うが如し。

 もし開会の上になお爾前の名体を存せば大海の中に於いて本の河水を求むるが如し。
 あにこの理有らんや。
 故に玄義にいわく、諸水梅に入れば同一のかん味なり。
 諸智実智に入れば本の名字を失うと。
 絶待開会の所詮は失本名字の処なり。
 大事なり、大切なり。
 文は明かなれども人知ること甚だまれなり。
 秘事は睫の如しとはこれこの謂われか。
 記にいわく、四河海に入ればまた河の名なしと。
 守護章にいわく、渓水海に入り本名を失うと。
 当世の諸人開会の上に粗妙一体なりと言いて還って阿弥陀経を読み弥陀の名号を唱うるは未だ開会の道理を知らず。
 失本名字の釈に迷う者なり。
 墓無し墓無し。
 弘決の一にいわく、「開権顕実唯一法性」と。
 同じくいわく、相待絶待共にすべからく悪を離るべし。
 円著なお悪なり。
 いわんやまた余をや」と。
 記の三にいわく、開しおわんぬれば唯円なりと。
 守護章にいわく、妙法のほか更に一句の余経なしと。
 なんじ迷執深きが故に重ねて証文を出す。
 絶待開会の上には余経の名体永くこれを絶断して妙法独り存するなり。
 これらの釈を見てよろしく邪見を改むべし。
 もし法華開会の内証に住し速やかに仏道を成ぜんと欲せばとみに弥陀念仏の名体を絶して専ら唯一法性の妙法を唱うべし。
 これ即ち絶待開会の至極なり。
 汝開会の旨に暗きこと闇の如く漆に似たり。
 これ盲目の至極にあらずや。
 次に「汝等所行是菩薩道」の文を引いて当宗を難ずるか、これまた未だ経文の意を知らず。
 これはこれ小乗の行開会の文なり。
 故に玄の九にいわく、一切声聞の行即ちこれ妙行と開す。
 故に汝等所行是菩薩道と言うと。
 しかるに声聞の行即ち菩薩の道なりとはこれ久遠の下種を開発してかくの如く開会するなり。
 小乗の当分は即ち菩薩の行と言うにはあらず。
 故に法華論にいわく、汝等所行是菩薩道とは、いわく菩提心を発し退しおわって還って前の所修の行を発して善根滅せず、同じく後に果を得と。
 明らかに知んぬ、法華已前には未だかつてこの開会を明かさず。
 永く小乗の行にして?芽敗種なり。
 法華に来たりて始めてこの開会に預かって菩薩の行と為すなり。
 故に玄の十にいわく、汝等所行是菩薩道とは即ちこれ法を合す。
 汝実に我が子とは即ちこれ人を合す。
 人法ともに合す。
 鹿苑の開権より諸々の経教を歴て法華に来至して始めて実に合することを得。
 故に無量義経にいわく、四十余年未顕真実と。
 この釈の如くんば法華已前未だ小乗を開せず。
 故に未顕真実と言うなり。
 浄土家の人未だ法華を信ぜず。
 全くこの開会の心を悟るべからず。
 四大声聞この開会に預かるも未開の諸経を捨てて法華経を持つ故なり。
 汝口には開会を言えども心は全く本の偏情なり。
 もし開会を信ぜば四大声聞の如く未開の念仏を捨てて法華経に帰すべし。
 いわんや開会の上にも小乗の法を捨つることはまさしく仏説なり。
 もし開会の上に小乗の法実に得道あらば仏いかでか「終不以小乗済度於衆生」と説き給わんや。
 あまつさえ「我則堕慳貪」と誓い「正直捨方便」と棄て給えり。
 何に依ってか開会の上に更に小乗の法を用いん。
 次に法すでに本妙の事これは妙楽箋の一の釈なり。
 それ法既に本妙とは理内の諸法これに於いて何の咎むる所か有らん。
 今当宗の立義は汝等粗由物情の弥陀念仏を執して理外の権法をもてあそび本妙の法華を謗ずるを責むるなり。

 疑っていわく、弥陀念仏を以て粗由物情に属する証拠如何。
 答う、証拠分明なり。
 それ弥陀念仏は浄土の三部経に出で、浄土の三部経は四十余年の内方等部より出でたり。
 この方等部の経は皆ことごとく未顕真実の粗法なり。
 釈に前四味粗と為すという。
 これらの粗法は衆生の情に随ってこれを説く、故に随情の経と言う。
 ここを以て無量義経にいわく、諸々の衆生の性欲不同なるを知れり。
 性欲不同なれば種々に法を説きき。
 種々に法を説くこと方便力を以てす。
 四十余年には未だ真実を顕さずと。
 記の三にいわく、随情とは法華已前なりと。
 経釈はなはだ分明なり。
 これあに弥陀念仏を以て粗由物情の教と為すにあらずや。
 次に「但除其病不除其法」の釈を引いて難ずるか。
 これは玄義の第九十重の顕一の第八の覆三顕一の下の釈なり。
 この釈は汝如何が意得てこれを引くや。
 未だ釈の元意を知らざるものなり。
 およそ覆三顕一の意は此就権巧多端と釈してこれ偏に能化の如来巧智無窮なるに約す。
 敢えて末代凡僧の為にあらず。
 それ如来は諸法の王となり権実の法に於いて大自在を得たまえり。
 龍王の水火に自在なるが如し。
 故に権の機やめば即ち権の化を廃し、また権の機興ればまた権の化を用ゆ。
 しかるに権の化を用いてただ偏を以て円を助けんが為なり。
 全く権法を以て成仏の種子と為すにあらず。
 これ覆三顕一の大綱なり。
 然らば不除其法と言うは只滅後権機の為にしばらくその権法を残すなり。
 敢えてこれを以て成仏の法体となすにあらず。
 譬えば塔を立てんが為に足代の木を集め、塔立ちおわって後は必ず足代を払うが如し。
 足代を払うといえどもその材木を失わず。
 その材木を失わざることは塔を修理せん時重ねてこれを用うる為なり。
 然りといえども足代の木の塔を立つるの良材とは成らず。
 始終ただ足代となるなり。
 爾前の権法もまたかくの如し。
 始終ただ法華の妙理を顕すが為の故のしばしの方便なり。
 永く成仏の種子とならず。
 ここを以て経にいわく、種々の道を示すといえどもそれ実には仏乗の為なり云云。
 秀句の上にいわく、雖示種種道とはこれ則ち法華の前を指す。
 其実為仏乗とは即ち法華経を指すなり。
 記の三にいわく、五仏の章の中の種種の言四味を出でずと。
 この経釈の如くんば弥陀念仏はあに法華経の為の足代にあらずや。
 彼の三部経すでに種種道の内に摂するが故なり。
 しかるに浄土家の人は成仏の実乗を捨てて無得道の念仏をもてあそぶ。
 これあに塔を捨てて足代を拝する者にあらずや。
 その上「但除其病」の病とはまさしく法然等の執権の病なり。
 所以何となれば妙楽大師今の病体を釈していわく、病は権を執して実と為すと謂うと。
 法然既に弥陀念仏の権法を執して往生成仏の実義と思えり。
 これあに執権の病にあらずや。
 末弟の実慧等祖師の病を受け継いで重病いよいよ甚だし。
 未だ一毫もその病を除かず。
 いかでか権実自在の化導となさんや。
 汝具縛の病身を以て解脱自在の仏身に同ぜんこと大増上慢にあらずや。
 蚯蚓あに飛龍に斉しからんや。
 烏鵲あに鳳凰に同ぜんや。
 汝執権の病何の時か癒ゆることを得ん。
 悲しむべし、哀れむべし。
 釈の本意を知らずして妄りにこれを引くこと浅智の至りにあらずや。
 次に「此妙彼妙妙義無殊」の釈を引いて難ずるか。
 これは玄義第二の文なり。
 これまた汝一往の釈を見て再往の実義を知らず。
 およそ天台釈を造り給うに於いて当分誇節、約教約部、仏意機情、相待絶待、与奪傍正等の重重の意あり。
 何ぞ一辺を見てその源底を知らんや。
 しかるにこの釈は約教一往の釈なり。
 これのみならず初後仏慧円頓義齊あるいは円体無殊等の釈これ多し。
 これらの釈は全く大師の本意にあらず。
 再往これを勘うれば爾前の妙と法華の妙と大いに異る者なり。
 所詮爾前の妙は八教の中の円に於いてしばらく妙の名を与うるなり。
 故にこれ当分の妙にして記小久成の大事を明かさず。
 法華の妙は八教を開会して一大円教に帰す。
 これ跨節の妙にして独一無対なり。
 故に法華跨節の時は爾前に於いて全く妙の名を許さず。
 故に箋の一にいわく、総じて四味を結するに妙の名を立てずと。
 最初頓説の華厳経なお妙にあらず。
 いわんや中間漸説の弥陀経等いかでかこれ妙ならんや。
 箋の一にいわく、この故に但頓大の名を立てて一乗独妙の称を立てず。
 仏の本懐にあらざることまことにこれに由る。
 華厳の頓大なお本懐にあらずと。
 これなお乳教なり。
 同じく醍醐味の涅槃経なお真如の妙にあらず。
 いわんや未顕真実の弥陀の三部いかでか円融の極妙を明かさんや。
 止の六にいわく、闡提は心あり、なお作仏すべし。
 二乗は智を滅す、心を生ずべからず。
 法華能く治す。
 また称して妙と為す。
 弘の六にいわく、また闡提より下は更にまさに涅槃すべし。
 法華の教に対して彼また能く断善の闡提を治す。
 しかも但大と名づけ妙と名づけず。
 一には有心は治し易く、無心は治し難し。
 治し難きを能く治す、所以に妙と称すと。
 これ涅槃経を妙と名づけざる証文なり。
 これらの明鏡の文を以て委細にこれを勘うれば一代聖教の中に実に妙の名を立つることは独り法華に限るなり。
 これ敢えて胸臆の説にあらず。
 天台、妙楽等の解釈もっとも分明なり。
 次に浄土の三部を以て究竟一乗と言えるか。
 この語双観経に在り。
 汝これを以て真実の究竟一乗といわんか。
 およそ諸経に於いて一往その法を讃むる時はあるいは無上道と説き、あるいは経王と説き、あるいは最勝と説き、あるいは究竟一乗と称す。
 何ぞ独り浄土の依経に限らんや。
 然りといえどもこれ皆当分の讃歎にして跨説の実義にあらず。
 故に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と説き給うなり。
 双観経の究竟一乗の文あに未顕真実の内にあらずや。
 しかるに法華経の如きは已今当の諸経を排除して独り経王と称す。
 故に大梵天王に喩う。
 これ真実の究竟一乗なり。
 故に経に「唯仏与仏乃能究尽諸法実相乃至本末究竟等」と説き給えり。
 それ人王の中に於いて輪王を以て究竟と為し、三十三天の中に於いて帝釈を以て究竟となす。
 然りといえども三界に於いて自在ならざるが故に至極の究竟にあらず。
 故に梵王を以て至極究竟の大王と為す。
 法華の究竟もまたまたかくの如し。
 一代説教に於いて独り究竟の一乗にしてまた過上有ることなし。
 汝当分の究竟を以て跨節の究竟に同ずること一代説教の教相を知らざるものなり。
 かくの如く正法に眼暗うして還って法華の行者を盲眼の者と罵る。
 大倒惑にあらずや。
 経に法華の行者を罵る罪を説いていわく、「当世世無眼」云云。
 また経にいわく、「得白癩病」と云云。
 金言あに虚しからんや。
 然らば則ち祖師聖人を毀りし者明心と円智とは現に白癩を得、道阿弥陀は無眼の者と為る。
 これなお華報なり。
 実果成ぜん時は入阿鼻獄疑いなき者なり。
 先証既に明かなり。
 後生いかでかこの苦報を免れんや。
 慎むべし、恐るべし。

 一、彼の集にいわく、汝等は遙かに法華を待って妙を解する。
 我等は法華を待たずして妙を解する。
 何ぞ己が遅鈍を以て他の先悟を妨げんや。云云

 弾じていわく、この自讃はなはだ以て誑惑なり。
 およそ不待時の機は仏の在世に於いて最上利根の機、宿殖深厚の人なり。
 智慧第一の舎利弗、多聞第一の阿難等なお不待時の機にあらず。
 法華の時を待って開覚悟道す。
 汝が智あに身子阿難等に勝れんや。
 汝教行証の三重に於いてなお未だ初重の教相を弁えず。
 いわんや二重の行相を得んや。
 何にいわんや三重の証智有らんや。
 はなはだ以て誑惑の自讃彼の摩訶提婆が凡夫の身を以て阿羅漢と名乗りしもこの過言に及ばず。
 無垢論師が弥勒菩薩を礼せざる大慢もこれに対すればもののかずならず。
 恥ずべし恥ずべし。
 恐るべし恐るべし。
 次に法華の行人を以て遅鈍と称すること大謗言なり。
 およそ仏説の如くんば法華の行者を以て利根最上と為す。
 然れば法華玄義智妙を釈する下に二十智を立てて一切の智慧を収む。
 その中に円教の妙学の智、最上第一なり。
 法華の行者は初心よりこの智を学べるが故に止観の第一に初縁実相と言う。
 円教初心の智慧は爾前後心の菩薩に勝る。
 あるいは別教の妙覚を以て円教の理即に同ず。
 未だ円融三諦の名字を聞かざる故なり。
 法華円教の初心の智慧を天台疏の十に釈していわく、凡夫の心を以て仏の所知に等しうし、所生の眼を用いて如来の見に同じうす。
 かくの如く智見法界を究竟し広くして崖底なく、無等無等にして更に過上なしと。
 この釈の如くんば初心の智慧明らかに妙覚の智慧を知る。
 これあに法華を持つ不思議の妙利にあらずや。
 譬えば太子の襁褓に纏われてしかも天下をしろしめす勢い有るが如し。
 また玄義の第五にいわく、円教の発心は未だ位に入らずといえども能く如来秘密の蔵を知る。
 初心なお然なり。
 何にいわんや後位をや云云。
 これ明釈にあらずや。
 また記の七にいわく、円人は初発心より即ち宝所に至ると名づくと。
 この釈の如くんば法華の持者は寂光に至るの気分あり。
 かくの如きの妙益他経に全く無き所なり。
 問うていわく、この釈に発心とは六即の位の中には何の位に当たれるや。
 答えていわく、名字の位なるべし。
 問うていわく、証文ありや。
 答えていわく、これ有り。
 弘決の一にいわく、今発心を明かすこと名字の位に在りと。
 秘文なり。
 かくの如く法華の行者は名字即の初心より智慧深広なりと定む。
 汝何ぞこれを以て遅鈍と言うや。
 甚だ聖教に乖く者なり。
 次に法華を信ぜざる法然並びに門弟は遅鈍第一の人、小智無双の者なり。
 問うていわく、その故如何。
 答えていわく、法華経第一にいわく、鈍根小智の人著相驕慢の者はこの法を信ずることあたわずと。
 止観の第五にいわく、それ遅鈍なる者は毒気深く入って本心を失う故に聴いてしかも解することあたわず。
 またいわく、智慧の眼乏しうして真偽を別たずと。
 この経釈の如くんば源空並びに弟子檀那等は智慧の眼盲いたるが故に法華の三部と浄土の三部との真偽を別たず。
 返って浄土の三部の虚偽を執して法華三部の真実を謗ず。
 あにこれに過ぎたる遅鈍あらんや。
 かくの如く遅鈍にして返って先悟と称す。
 大慢なり、増上慢なり。
 邪見の咎劣謂勝見の外道よりも甚だしき者なり。