萬代亀鏡録

断悪生善 中巻【中】(仏性院日奥)

第十九、不信法華尚益難
 一、彼の集にいわく、法華を信ぜざれども余の経法に依って生死を出離す。
 法華第七にいわく、未来世に於いてもし善男子善女人有って如来の智慧を信ぜん者にはまさに為に此の法華経を演説すべし。
 もし衆生有って信受せざらん者にはまさに如来の余の深法の中に於いて示教利喜すべし。
 汝等もし能くかくの如くせば則ち為すでに諸仏の恩を報ずなり。
 已上

 不信受とは法華の力を以て救うことあたわざる所なり。
 余深法とは法華に超勝せる甚深の法なり。
 示教利喜とはその得益を明かす。
 法華よりほかの余経利益なしと言わば此の文を削り除くべきなり。
 已上他難

 弾じていわく、「汝余深法中示教利喜」の文を引いて当宗を難ずるか。
 汝ただ経文の事面を見て未だ此の文の元由を知らず。
 今この段に於いて謬義を糺明するに七の過失有り。
 一には弘法の人の位の浅深を知らざる咎、二には本化迹化弘経の相を知らざる咎、三には付属の総別を知らざる咎、四には受者の已謗未謗を知らざる咎、五には弘経の法体種熟脱の異を知らざる咎、六には法華に勝れる深法有りと言う咎、七には余経に於いて実益ありという咎なり。
 一に弘経の人の位の浅深を知らざる咎とは、今汝が引く所の属累品の弘経は深位の菩薩鑑機三昧を得たる上の弘通なり。
 故に直ちに法華を聞かざる人をば能くその機を鑑み別教等の余の深法を説いて示教利喜するなり。
 しかるに今末法は浅位の行者なり。
 未だ鑑機三昧を得ず。
 故に余の深法を以て示教利喜せず。
 ただ直ちに法華を説くなり。
 例せば不軽菩薩上慢の四衆に対して専ら二十四字を弘めしが如し。
 今何ぞ像法深位の弘経を以て末法浅位の弘経を難ぜんや。

 問う、もししからば日蓮聖人は浅位の行者なるや。
 答えていわく、日蓮聖人は本化上行大薩捶極深位の菩薩なり。
 然りといえども末法の浅機に応じて迹に浅位の形を示したまう。
 本いよいよ高ければ迹いよいよ下れり。
 譬えば高山の水よく深谷に下るが如し。

 問うていわく、浅位の行者余法を説かず直ちに法華を説くべき証文いかん。
 答えていわく、妙楽大師初心後心弘経の相を釈していわく、もし始行の者はつぶさに今の文の如く小を以て答えず。
 もし深位の人は始末の弘法必ず生滅等の三を以てまさによく円頓を顕せと。
 この釈の如くんば深位の人は蔵通別の三教を以て次第に機を調え後に法華の円教を説く。
 初心の行者はただ初めより法華を説くに咎なし。
 故に文句の八にいわく、等しくこれ見ずんばただ大を説くに咎無しと。
 これらの方軌を知らず。
 初心の身を以て後身の化導に同ぜんこと赤子の甲冑を帯して軍陣に臨まんとするが如し。

 二に本化迹化の弘経の相を知らざる咎とは、迹化の弘経は権実双用なり。
 故に余の深法を以て示教利喜す。
 本化の弘経は但令用実なり。
 故に余の深法を以て示教利喜せず。
 ただ直ちに妙法を説くなり。

 三に付属の総別を知らざる咎とは、上の神力品は別付属、今の属累品は総付属なり。
 しかるに総付属は像法千年の機の為、別付属は末法当今の機の為なり。
 何ぞ像法弘経の相を以て末法弘経の相を難ぜんや。

 四に受者の已謗未謗を知らざる咎とは、像法は未謗の機なり。
 故に余の深法を以て示教利喜して頓に謗を生ぜしめず。
 末法の今は已謗の機なり。
 故に強いて法華を説いて毒鼓の縁を結ばしむ。
 故に余の深法を以て示教利喜せず。

 五に弘経の法体種熟脱の異を知らざる咎とは、およそ三益の中に種脱の二益は法華経に限り、熟益の一は広く余経に通ず。
 しかるに今此の余の深法とはこれ熟益の分なり。
 汝熟益の余経を以て法華に同じ、種脱の正体といえるは大いなる謬りなり。
 およそ熟益の機の為に余経を演説するは田に水を引くが如し。
 水は種をして生長せしむるに稲米の種子とならず。
 ただ種をして熟せしむるのみ。
 余の深法を説くもまたかくの如し。
 ただ法華の正慧を助けんが為なり。
 すべて成仏の正法体にあらず。
 故に玄義の六にいわく、余の深法を以て仏慧を助け申しのべば即ち善巧に仏恩を報ず。
 記の十にいわく、更に異の方便を以て第一義を助顕し、余の深法の中に於いて示教利喜す等は偏を以て円を助く、即ちこの意なりと。
 釈の意明かなり。
 汝この義を知らず、謬って経文を解す。
 はなはだ権実の正軌に迷える者なり。

 六に法華に勝れる深法有りと言える咎とは、それ法華は是れ三説超過の経王十喩称揚の妙典なり。
 いずれの経か相対を論ぜん。
 爾前の円教なお法華の円に対すれば粗法に摂せらる。
 いわんや今の余深法とは正しく別教を指すなり。
 故に玄義にいわく、別教の次第はこれ余にしてまたこれ深なりと。
 今別教を以て法華に等しと言える、なお謗罪免れ難し。
 いわんや法華に勝れりと言う大謗法の咎累劫にも尽くし難し。
 汝経文に迷う上天台、妙楽分明の判釈を知らず。
 ただ我意に任せて浮言を吐く、この智の分斉を以て処々の宏言甚だ恥ずべきに足れり。

 七に余経に於いて実益ありと言える咎とは、それ余経に於いてなお当分の得道を許さず。
 いわんや誇節の得道有らんや。
 爾前当分の益なおその本源を尋ぬれば過去久遠一乗下種の余薫なり。
 いかにいわんや実益に於いてをや。
 大涅槃経並びに摩訶止観等にこの旨分明なり。
 汝これを見ずして爾前経に於いて実益有りと言える、甚だ以て僻見なり。

第二十、自経所尊不知難
 一、彼の集にいわく、法華第七にいわく、もし女人有ってこの経典を聞いて説の如く修行せばここに於いて命終して即ち安楽世界に往いて阿弥陀仏の大菩薩衆の囲繞せる住処の蓮華の中の宝座の上に生ぜん。
 已上

 既に法華の行者の帰する所阿弥陀なり。
 何ぞその名号を嫌うべきや。
 乃至法華観経の弥陀一体と言う事三の証あり。
 一には安楽同、二には西方同、三には阿弥陀同なり。
 まさに知るべし、法華の弥陀浄土の弥陀一体なり。
 法華の弥陀を以てもし成仏せば浄土の弥陀また同じく成仏すべし。
 浄土の念仏もし無間の業ならば法華の念仏また無間の業なるべし。
 彼此異なる故いかん。
 已上他難

 弾じていわく、この難法華の弥陀、観経等の弥陀と一体別体の義を論ずるか。
 宗義に於いて一体別体の義強いて論ずる所にあらず。
 但し権教執着の輩偏に観経等の弥陀念仏に執す。
 故に法華経に於いて弥陀の名あるを見て経文の意を知らず。
 みだりに法華経にも念仏有りと言っていよいよ称名の邪執を深くし謗法の罪を増す。
 この惑執を除かんが為にしばらく別体と言う義有り。
 その上伝教大師四種の弥陀を分別し給えり。
 いわゆる爾前の弥陀、迹門の弥陀、本門の弥陀、観心の弥陀これなり。
 証文これを習うべし。
 秘事なる故顕露に書かず。
 いわんや三世の諸仏同号別体の仏これ多し。
 いわゆる序品の二万の灯明仏、不軽品の二万億の威音王仏、また二十億の日月灯明仏、また二千億の雲自在灯王仏、五百弟子品の五百の普明如来、人記品の二千の宝相如来、そのほか観仏三昧経の四天王は同じく火持如来と名付く。
 また●利天の八億の天人は同時に記を得て同じく因陀羅幢と名付く。
 夜摩天の四億の天人は同時に記を得て同じく浄智と名付く。
 また広釈には過去久遠に二万億の釈迦牟尼あり。
 云云。

 いわんや同名別体の弥陀を説く経あり。
 彼此の弥陀別体と言わんに何の咎あらんや。
 但し汝彼此の弥陀一体と言うに三の証拠を出す。
 いわゆる一に国同、二に方同、三に名同なり。
 然りといえどもこの三同を以て必ず一体とは定め難し。
 所以何となれば二万億の威音王仏みな大成国に出ず。
 これは国同なり。
 同じく威音王と名付くるは名同なり。
 方同は勿論なり。
 然りといえどもこれ皆別体の仏なり。
 汝三同を以て偏に一体と言えるは荒量の義なり。
 但し一体別体の義は宗義の詮にあらざれば置いてこれを論ぜず。
 今汝一体と言う義について汝が謗法の咎を責めん。
 そもそも観経の弥陀と法華の弥陀と一体ならば五仏同道の仏なるべし。
 五仏同道の仏は皆ことごとく未顕真実の念仏を捨てて已顕真実の法華経を以て本誓願と為し給えり。
 弥陀あに五仏道同の儀式を破りて独り念仏往生を以て本願と為さんや。
 ここに知んぬ、念仏往生は仏の仮の方便にして弥陀真実の本願に非ず。
 総じて釈迦多宝弥陀弥勒等の三世の諸仏は必ず法華経を以て本願と為し給うなり。

 問うていわく、釈迦世尊法華本願の証文いかん。
 答えていわく、法華経第一にいわく、我れ本誓願を立てて一切衆をして我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき。
 我が昔の所願の如き今すでに満足しぬと。
 この経文の如くんば釈尊の本願は法華経の時皆ことごとく満足し給えり。
 是れあに釈迦の本願法華経に限るに非ずや。

 問うていわく、多宝如来法華本願の証文いかん。
 答えていわく、宝塔品にいわく、この宝塔の中には如来の全身います。
 号して多宝となづけ奉る。
 その仏本菩薩の道を行ぜし時大誓願をなし給わく。
 もし我れ成仏して滅度の後に十方の国土に於いて法華経を説くことあらん処には我が塔廟この経を聴かんが為の故にその前に涌現して為に証明をなさんと。
 多宝の本願法華経に限れること明白なり。

 問うていわく、弥陀如来法華本願の証文いかん。
 答えていわく、経にいわく、現在十方の諸仏世尊はしかも衆生の為に諸法を演説し給えり。
 この法は皆一仏乗の為の故なりと。
 弥陀は三世の中には現在の仏なり。
 十方の中には西方なりと。
 これあに弥陀の本願法華経に限るに非ずや。

 問うていわく、当来の導師弥勒仏法華本願の証文いかん。
 答えていわく、経にいわく、未来の諸仏まさに世に出で給うべきにしかも衆生の為に諸法を演説し給う。
 この法は皆一仏乗の為の故なりと。
 秀句下にこの経文を釈していわく、未来の諸仏弥勒無著等帰一の真説なりと。
 玄の三にいわく弥勒当来にまた妙ここに極まれりと。
 この文釈明らかに弥勒の本願法華経に限れるなり。

 問うていわく、一切の諸仏法華本願の証文いかん。
 答えていわく、経にいわく、諸仏の本誓願は我が所行の仏道をあまねく衆生をしてまた同じくこの道を得せしめんと欲し給うと。
 この文に仏道とは即ち法華経なり。
 故に妙楽のいわく、仏道とは別して今の経を指すと。
 玄の三にいわく、二万の灯明迦葉等の古仏、教を設け給うこと妙ここに極む。
 弥勒当来にまた妙ここに極む。
 釈迦仰いで三世に同ず。
 また妙ここに極むと。
 諸仏の本願法華経に限ることその文明白なり。

 問うていわく、現在の諸仏の中に弥陀いますことは疑うべきにあらず。
 然りといえども別して阿弥陀仏法華経を指して本願となしたまう証文ありや。
 答えていわく、これあり。
 法華第三にいわく、常にねがってこの妙法蓮華経を説く、乃至一をば阿弥陀と名付くと。
 この文の如くんば弥陀仏は過去三千塵点劫の当初より法華経を以て本願と為し、常に願ってこの経を説きたまう。
 明らかに知んぬ、弥陀の本願は法華経に限るなり。
 しかるに法然並びに門弟の者かくの如く明かなる経文を知らず。
 空しく未顕真実の四十八願をたのんで称名の行を専らにすることはかなき事にあらずや。
 汝等弥陀の本願をたのまんと欲せば早く未顕真実の念仏を捨て常楽説是妙法蓮華経に帰すべし。
 しからずんば誹謗の咎に依って堕在無間もっとも脱れ難き者なり。

第二十一、自経所誡違背難
 一、彼の集にいわく、法華第五安楽行品にいわく、末法の中に於いて好悪長短。
 已上

 汝既に法華よりほか諸経無益と撥し、また他の行人を軽慢す。
 既に汝が経の誡しむる所なり。
 何ぞ違背するや。
 已上他難

 弾じていわく、安楽行品の説は摂受の化導なり。
 時すでに像法なり。
 導師また迹化なり。
 何ぞこれを以て末法折伏本化の弘経を難ぜんや。
 汝未だ経文の意を知らざる者なり。

第二十二、爾前偏属妄語難
 一、彼の集にいわく、法華宗四十余年未顕真実の文を以て爾前の諸経を皆妄語に属す。
 汝ほしいままに文を見て更に義を窺わず。
 爾前の教に於いても円満究竟の事これ多し。
 いわゆる華厳の如々法界浄名の如々不二、大集経の混同無二、大品の染浄虚融皆これ如来の深秘。
 何ぞ妄りに虚説に属せんや。
 このほかは難勢左に委しくこれを記す

 弾じていわく、これは爾前の諸経を以て虚妄と証する義を難ずるか。
 もししからば釈迦多宝十方の諸仏八万の菩薩、龍樹、天台、妙楽、伝教等は僻事の人か。
 他いわく、これらの仏菩薩大師等の爾前経を虚妄の法と称する証拠いかん。
 答えていわく、釈迦如来ののたまわく、「以方便力四十余年未顕真実」と。
 この文に方便と言い、未顕真実と言う。
 共に虚妄の異名なり。
 またのたまわく、「世尊法久後要当説真実」と。
 この文の如くんば仏四十余年の後に必ず真実を説きたまえり。
 然れば爾前に真実無きこと顕然なり。
 真実無ければ爾前虚妄なること疑い無し。
 またのたまわく、「唯此一事実余二則非真」と。
 この文に余二とは華厳、阿含、方等、般若等の頓漸の諸経なり。
 これを指して非真と言う。
 非真豈虚妄に非ずや。
 いわんや法華一部を指して唯此一事実と説きたまう。
 唯の字の顕す所法華のほか皆虚妄なることこの文明白なり。
 多宝如来ののたまわく、「妙法蓮華経皆是真実」と。
 多法如来法華経に限って真実と証明したまう。
 明らかに知んぬ、爾前皆虚妄の説なりと。
 八万の菩薩領解の文にいわく、「終不得成無上菩提」と。
 爾前の経真実の法ならばいかでか無上菩提を成ぜざらん。
 虚妄に決定するが故に終不得成と言う。
 龍樹菩薩のいわく、諸法実相を除く余は皆魔事なりと。
 この文に魔事と言う、魔事豈虚妄にあらずや。
 天台大師のいわく、故に知んぬ、昔の虚は実の為の故なりと。
 この釈明らかに爾前を虚妄と言う。
 法華を以て真実と称す。
 妙楽大師のいわく、法華已前はなお是れ外道の弟子なりと。
 法華已前外道の弟子ならば豈虚妄に非ずや。
 また妙楽のいわく、方便とは虚妄を体と為すと。
 この釈明らかに四十余年の方便の諸経を指してまさしく虚妄と為す。
 伝教大師のいわく、悉有皆成は内証の正義、三乗五性は理外の権説なりと。
 この釈の如くんば法華を指して正義と為し、爾前を以て権説となす。
 権説豈虚妄に非ずや。
 またいわく、能詮の教権なれば所詮の理もまた権なりと。
 爾前は教理共に権なり。
 権豈虚妄に非ずや。
 双林最後の涅槃経にいわく、「如来雖無虚妄之言若知衆生因虚妄説」云云。
 この文の如くんば衆生誘引の為に仏虚妄の説をなすこともっとも分明なり。
 およそこれらの経文釈義その証仏博なり。
 詮を取ってこれを示さん。
 他難じていわく、汝が引く所の証文疑うべきに非ずといえども爾前経また虚妄に非ざる旨十経の文を出す。
 未だこの会通を聞かず。
 もしその旨有らば一々に返答を設けよ。
 答えていわく、汝が引く所の経文一々にこれを挙げ道理文証を勘えてつぶさにその義を破るべし。

 第一に他難じていわく、爾前の教に於いて円教有り。
 いわゆる華厳の如如法界乃至大品の染浄虚融皆是れ如来の深秘何ぞ妄りに虚妄に属せんや。
 云云。
 已上他難

 弾じていわく、華厳等の円実に成仏の法ならば仏いかでかこれらの諸教を挙げて未顕真実と破りたまうべき。
 八万の菩薩またいかでか終不得成無上菩提と領解せんや。
 明かに知んぬ、
 爾前の円真実にあらずと言うことを。
 いわんや伝教大師この文を受けて終不の言大小供に有りと釈したまう。
 無道徳の法の内に敢えて爾前の円を除くの文無し。
 また他難じていわく、四十余年の文は二乗の聞に約して未顕真実と説く。
 大乗の菩薩の聞を述べるに非ず。
 云云

 弾じていわく、これは古の粗食者の義なり。
 汝未だ知らずや。
 伝教大師大いにこの義を破りたまえり。
 故に秀句の下にいわく、歴劫修行の頓悟の菩薩もついに無上菩提を成ずることを得ず。
 未だ菩提の大直道を知らざるが故なりと。
 云云。

 この釈分明に大乗の菩薩に対して未顕真実と説きたまうなり。
 経文明らかに大荘厳等の大乗の菩薩に対して説きたまえり。
 何ぞ経の現文にそむきただ二乗に約すと言うや。
 その上正宗の法華に至って「菩薩聞是法疑網皆已除」と言う。
 秀句上にいわく、菩薩聞是法とは、豈頓悟ならざらんや。
 与諸菩薩豈頓悟ならざらんや。
 頓悟の菩薩も法華の前には未だ疑網を除かず。
 未だ法乗に乗ぜず。
 云云。

 頓悟の菩薩法華の前には未だ疑網を除かず。
 菩薩に対して未顕真実の義なること疑い無し。
 汝これらの分明の経釈を見ずして何ぞ妄りに僻見を起こすや。
 次に汝化城喩品の「以方便力而於中道為止息故説二涅槃」の文を引いて証と為すか。
 勿論一代の正機は二乗なり。
 故にしばらくこの辺に約してかくの如く説くなり。
 然りといえども菩薩を除くに非ず。
 その証次上の如し。

 第二に他難じていわく薬草喩品にいわく、今汝等が為に最実事を説く。
 諸々の声聞衆は皆滅度せるに非ず。
 汝等が所行はこれ菩薩の道なり。
 漸漸に修学してことごとくまさに成仏すべし。
 已上

 二乗の上なお不定なり。
 彼には未顕真実と説き、これには実事と説くと。
 云云。
 已上他難

 弾じていわく、この難の趣更に聞こえず。
 彼に未顕真実と説くは未開の前を指し、是に実事と説くは開会の後を言う。
 汝爾前法華の差別を知らず。
 故に誤って不定と言う。
 所詮爾前には定めて二乗の開会を説かず。
 法華には必ず二乗の開会を明かす。
 爾前法華の説相元かくの如く相定まれり。
 何ぞ不定と言わん。
 但し汝が引証の心今二乗に約して開会を明かす。
 故に菩薩に預からずと言う義か。
 勿論法華経は二乗の開会を明かすを以て一代超過の規模となす。
 今は四大声聞の領解を述成するの文なるが故にしばらく二乗に約す。
 然りといえども未顕真実の言菩薩を除くに非ず。
 菩薩もし爾前に於いて実益を得ば仏いかでか「菩薩聞是法疑網皆已除」と説きたまわん。
 菩薩いかでか「終不得成無上菩提」と領解せん。
 汝が義はなはだ謬りなり。

 第三に他難じていわく、信解品に一切諸仏秘蔵の法はただ菩薩の為にその実事をのべて我が為にこの真要を説き給わずと。
 すでに菩薩の為に実事をのぶ。
 未顕はただ二乗の為なり。
 云云。
 已上他難

 弾じていわく、これは般若の転教を説く文なり。
 汝この文に実事と言えるを以て法華の実事に斉しとおもえるか。
 はなはだ以て僻見なり。
 これはこれ歴劫修行は当分の実事なり。
 敢えて速疾頓成誇節の実事に非ず。
 もし誇節の実事ならば仏いかでか無量義経に於いて般若の名を挙げて未顕真実歴劫修行と宣べたまわんや。
 明らかに知んぬ、今実事と言うは般若帯権の円なり。
 全く法華独妙の円に非ず。
 故に未顕真実の語独り二乗に限らず。
 諸々の菩薩の為の未顕真実なり。

 第四に他難じていわく、薬草喩品にいわく、如来はこれ諸法の王なり。
 もし所説有らんには皆虚しからざるなりと。
 已上。

 これ如来の速成なり。天台この文を釈していわく、それ人王は外に畏るる所無く内に二言ならず、法王もまたしかなり。
 衆悪既に尽き発言誠諦なり。
 云云。

 この意は人王の二言無きを以て法王の不虚を顕す。
 もし汝が義の如くんば爾前に法王無きなり。
 釈尊を除きていずくに法王有らんや。
 云云。
 已上他難

 弾じていわく、この経文汝が得意はなはだ僻めり。
 およそ四十余年の説法仏の内証に於いては虚妄の説無しといえども、化他の辺に於いては必ず虚妄の説有り。
 これ大悲の方便なり。
 悪邪の虚妄に非ず。
 例せば賢父心虚妄無しといえども愚子を誘引せんが為にしばらく家内の重宝をさしおいて仮に黄石等の偽宝を与うるが如く、仏もまたかくの如し、世間の父と為り諸子を誘引せんが為に四十余年虚妄の方便を設く。
 これ実の虚妄に非ず。
 しばらく養育の方便なり。
 故に法華の時に至って方便の諸経を捨つ。
 幼子生長して実宝を譲る時前に与うる所の偽宝は皆ことごとくこれを捨つるが如し。
 豈理に背かんや。
 人王豈王子養育の為にしばらく誘引の方便無からんや。
 大経にいわく、如来虚妄の言無しといえどももし衆生虚妄の説に因ると知らばと、等。
 この文明らかに衆生調熟の為に仏虚妄の説を用いたまうこと疑い無きものなり。
 汝が義の如くんばこの大経の文いかんせん。

 次に釈尊を除きては何に法王有らんや。
 云云。
 汝もし実にかくの如く存ぜば何ぞ法然を以て祖師と為すや。
 法然は釈迦法王に背きて礼拝雑行と立つ。
 謀叛七逆の者なり。
 謀叛人に与力する末弟の実慧等同罪免れ難し。
 経文の如くんば阿鼻大城の人なり。
 守護章にいわく、その師の堕る所弟子また堕つ。
 云云。
 この誡文恐るべし、恐るべし。

 第五に他難じていわく、涌出品にいわく、始め我が身を見、我が所説を聞きて即ち皆信受して如来の慧に入りにき。
 先より修習して小乗を学せる者をば除く。
 かくの如きの人も我今また是の経を聞いて仏慧に入ることを得せしむ。
 已上。

 天台釈していわく、初成道の時を始見と名付け、法華の座席を今見と名付く。
 已上。

 始見我身とは爾前に於いて如来の慧に入る、いかでか妄説なるべけんや。
 云云。
 已上他難

 弾じていわく、初成道とは華厳なり。
 もし華厳を指して妄説無得道と言わん人は誤りか。
 もししからば釈尊並びに八万の菩薩は誤りか、釈尊は華厳の名を指して未顕真実歴劫修行と説きたまい、八万の菩薩は終不得成無上菩提と領解せり。
 未顕真実、豈妄説に非ずや。
 終不得成、豈無得道に非ずや。
 他難じていわく、入如来慧の文は華厳得道の証拠に非ずや。
 答えていわく、華厳得道の人は三五下種の輩なり。
 敢えて華厳当分の得道に非ず。

 問うていわく、証文有りや。
 答えていわく、涌出品にいわく、世世よりこのかた、常に我化を受けたりと。天台疏の九にいわく、根利徳厚なるは世世よりこのかた常に大の化を受く。
 始め我が身を見、即ち華厳をうけて如来の慧に入る。
 菓熟しておち易く、この衆生は度し易し。
 妙楽のいわく、脱は現に在りといえどもつぶさに本種を騰ぐと。
 またいわく、故に知んぬ、今日の逗会は昔の成熟の機に趣くと。
 これらの経釈の如くんば華厳得道の人は皆これ過去久遠法華下種の輩なり。
 箋の一にいわく、華厳頓大なお本懐に非ずと。
 玄の六にいわく、故に知んぬ、華厳に治することあたわざる所はこれ方便の説なればなりと。
 箋の三にいわく、華厳またこれ法華の弄引なりと。
 箋の十にいわく、華厳の甚深はただ今の為の序なりと。
 授決集にいわく、未顕真実の唱え何を以てか寂場の始説を籠めざらんやと。
 已上。

 華厳無得道妄説の証文はなはだ多し。
 今要を取ってこれを示す。
 汝早く邪執を改めて謗法罪を免れよ。

 第六他難じていわく、譬喩品にいわく、我昔仏に従い奉りてかくの如き法を聞き、諸々の菩薩の授記作仏を見しかども、しかも我等はこの事に預からず。
 はなはだ自感傷すと。
 文句の五にいわく、方等教の中に大乗の実慧を聞く今と殊ならず。
 菩薩に於いては爾前に得道有りと言う事、経釈に分明なり。
 已上他難

 弾じていわく、これは身子開顕の実相を聞いて領解する文なり。
 そもそも今返って汝に問う、身子方等教の中に於いて開会の実慧を聞けりや。
 もし聞くと言わば妄語なり。
 法華已前の仏未だかつて開会の実慧を説かず。
 仏これを説きたまわず。
 身子いかでか聞くことを得ん。
 いわんや身子聞かずと領解せり。
 故に「而今従仏聞所未聞」と言うと。
 身子もし方等に於いて法華の実慧を聞かばいかでか今、聞所未聞と言わん。
 所詮方等の実慧は未開の円、法華の実慧は開会の円なり。
 開と未開と大いに異なり。
 いかんぞ聞くことを得ん。
 但し与今不殊の釈に至って身子尊者法華に来たって始めて開顕の実相を聞いて初住無生の悟りを開けり。
 その悟りの内証より立ち還って昔日の仏意を探って聞如是法と言うなり。
 これを今与今不殊と釈す。
 また妙楽は昔日授記仏意不壅と釈す。
 明らかに知んぬ、与今不殊とは仏意の内証に約す。
 方等実慧全く法華に同ずと言うにあらず。
 汝何ぞ経釈の生起を見ずして妄りに邪難を致すや。

 難じていわく、二乗は鈍根なるが故に法華に至って始めて成仏すといえども菩薩利根なる故に爾前に於いて授記作仏す。
 故に今の文に「見諸菩薩授記作仏」と言う。
 然れば則ち未顕真実とは二乗の一機に約するなり。
 菩薩は爾前に於いて処々に入ることを得。
 如何。
 答えていわく、爾前に於いて二乗無得道の段は承伏か。
 もししからば汝速やかに弥陀念仏を捨つべし。
 その故は見思を断じ、三界を離れたる聖人すらなお爾前経を以て成仏の望みを遂げず。
 いわんや汝等一毫未断の凡夫いかんぞ爾前の弥陀念仏を以て得道の本意を遂げんや。
 次に菩薩授記の事汝これを真実の授記と思えるか。
 はなはだ浅見なり。
 これは二乗の小道を弾呵せんが為に仮にしばらく菩薩に記を与う。
 もし実の授記ならば八万の菩薩いかでか「終不得成無上菩提」と領解せん。
 一切の菩薩も真実の得道は法華に限れるなり。故に経にいわく、「菩薩聞是法疑網皆已除」と。
 云云。
 また経にいわく、「一切菩薩阿耨菩提皆属此経」云云。
 伝教大師釈していわく、頓悟の菩薩も法華の前には未だ疑網を除かず。
 未だ宝乗に乗ぜず。
 已上

 経釈分明なり。
 何ぞ疑惑を懐くや。