萬代亀鏡録

断悪生善 中巻【後】(仏性院日奥)

第七他難じていわく、無量義経にいわく、四諦六度十二縁衆生の心業に随順して転じたまう。
 もし聞くこと有るは意開け無量生死の衆結断ぜずと言うこと無し。
 あるいは須陀●乃至無生無滅菩薩地を得。
 あるいは無量の陀羅尼を得ん。
 已上
 もし爾前無得道ならば何ぞ八万の菩薩得道の徳を讃むるや。
 已上他難

 弾じていわく、そもそも爾前三乗の得道を汝は真実の益と思いて法華を謗ずるか。
 もししからば執権謗実の咎に依って入阿鼻獄の責め何ぞ免れん。
 また今汝に問う、無量義経に八万の菩薩三乗の得道を讃むるは四十余年未顕真実の説を聞ける已前なりや。
 已後なりや。
 もし已後といわば眼前の妄説なり。
 もし已前といわば汝よく知れり。
 八万の菩薩上の徳行品に於いて爾前三乗の得益を讃むといえども実に疾成菩提の義無し。
 故に次の説法品に至って八万の菩薩異口同音に仏に向かい奉って疾成菩提の道を問う。
 ここに釈尊自ら四十余年の諸経を挙げて未顕真実と説きたまいしかば、八万の菩薩この説を聴聞して終不得成無上菩提と領解せり。
 いわんや正宗に至って或いは余二則非真と説き、或いは正直捨方便と宣べて一字一句も爾前の得益を許さず。
 これ即ち未だ十界互具一念三千の大事を説かざる故なり。
 然らば爾前に於いて実の得益を求めんは砂を圧して油を求め、水中に向かって火を尋ぬるが如し。
 すべて以て叶わざるものなり。
 小乗当分の得益なおその根本を尋ぬれば一乗下種の力なり。
 敢えて爾前の力にあらず。
 故に止観の第三にいわく、もし初業に常を知ることを作さずんば、三蔵の帰戒羯磨ことごとく成就せずと。
 弘決の三にいわく、今日の声聞禁戒を具すること良に久遠の初業に常を聞きしによる。
 もし昔聞かずんば小すらなお具せず。
 いわんやまた大をやと。
 またいわく、羯磨不成とは所以に久遠に必ず大無き者は則ち小乗の乗法をして成せざらしむ。
 本無きを以ての故に諸行成せず。
 樹の根無ければ華果を成ぜざるが如しと。
 決権実論にいわく、権智の所作は唯名字のみ有りて実義有ること無しと。
 爾前無得道の証文甚だ多し。
 今要を取ってこれを示す。
 汝たとい法華を謗ぜざれども今余法修行の時節にあらざれば身を苦しめてこれを行ずとも何の得益か有らん。
 いわんや謗法の大罪有る、いかでか苦果を免れんや。

第八他難じていわく、無量義経にいわく、如来得道よりこのかた四十余年常に衆生の為に諸法を演説す。
 もし聞くこと有らん者は、或いは?法頂法世第一法辟支仏道を得。
 菩提心を発して第一地乃至第十地に登ると。
 已上 

 文の如くんば声聞菩薩爾前の得道分明なり。
 如何。
 已上他難

 弾じていわく、この文八万の菩薩四十余年未顕真実の説を聞かざる已前の語なり。
 返答前に同じ。

第九他難じていわく、無量義経にいわく、善男子法は譬えば水のよく垢穢を洗う、もしは井、もしは池、もしは江、もしは河渓渠、大海皆能諸有の垢穢を洗うが如く、その法水もまたまたかくの如くよく衆生諸々の煩悩の垢を洗い皆よく衆生の煩悩を洗除すと。
 爾前得道の文顕著なり。
 已上他難

 弾じていわく、七水の譬え爾前の得益一往道理有るに似たり。
 然りといえども委しく文の前後を見るに七水は四味の諸教に限れり。
 故に七水の中の大海は爾前帯権の円に喩う。
 然れば経に七水の喩を挙げおわって、合譬の文に「所説諸法亦復如是」と言えり。
 註釈にこの経文を判じていわく、所説諸法とは乳味の華厳、酪味の阿含、生蘇の方等、熟蘇の般若なりと。
 已上

 七水の喩え前四味に限ること解釈分明なり。
 而るに四味の諸経無得道の義は処々の経釈明白なり。
 今何ぞここに至って諸文に違して新たに四味の得道を許すや。
 故に注秀句にいわく、義経の大海は即ち体外の権水、法華の大海は即ち体内の実水なりと。
 またいわく、義経の大海は六水の名を立つ、法華の大海は諸水の名体を失うと。
 釈の心明かなり。
 但し無量義経は法華の序分なるが故に正宗の如く正直捨権の旨なお未だ顕然ならず。
 これ二乗の機を将護する故なり。
 無量義経の徳分は只四十余年の諸経を挙げて未顕真実と説き、歴劫の修行と定むるを以て一経の至極と為すなり。
 まず無量義経に於いて爾前不真実の義を定むるは後に法華に至ってこれを捨てんが為なり。
 譬えば庭草を掃くに初にまず根を抜き、後にこれを掃き捨つるが如し。
 無量義経の未顕真実の文は草の根を抜くが如く、法華経の正直捨方便の文は後に掃き捨てるが如し。
 また根を抜くといえども未だ掃き捨てざる間は草なお庭に有り。
 無量義経になお爾前の法体を存するが如し。
 すでに掃き捨てて後はまさしく庭中に於いて一微塵の草無し。
 法華経の四味の諸経を廃してまた遺余有ること無きが如し。
 然らば則ち無量義経に於いてまず権教の根を抜き後に法華に至って絶してこれを廃捨す。
 故にこの経は廃権立実を以て経の正意と為す。
 故に箋の一に簡権取実を以て経体と為すと釈す。
 何を以てか実に爾前の得道を許さんや。
 なんじよく意を留めて道理を案ぜよ。
 上にすでに四十余年未顕真実と説いて諸教の得道を破し、その次下に於いて頓に今の語を翻して諸教に得道有りと説きたまわば仏に自語相違の咎有らん。
 もししからば文理真正の経文頓に大妄語と為るべし。
 もし大妄語の経ならば八万の菩薩いかでかこの経を歎じて真実甚深と言わんや。
 もしまた自語相違の仏ならば説法品のおわりに大千震動していかでか大供養を作さん。
 経末の供養もまたしかなり。
 その上十功徳品に於いて八万の菩薩上の品の未顕真実の仏語を受けてまさしく「終不得成無上菩提」と領解せり。
 仏もし実に爾前の得益を許したまわば、八万の菩薩いかでか仏意に背きてかくの如く領解せん。
 而るにこの領解深く仏意に叶うが故に仏即ち述成してのたまわく。
 善哉、善哉。
 善男子かくの如し。
 かくの如し。
 汝が所言の如しと。
 云云。
 然らば則ち仏慇懇に説き菩薩丁寧に領解し仏慇重に述成したまう。
 この上に誰人有りて妄りに爾前の得益を許さんや。

第十他難じていわく、無量義経にいわく、初め四諦を説いて声聞を求むる人の為にす。
 八億の諸天来下して法を聴いて菩提心を発す。
 次に方等十二部経摩訶般若華厳海空を説いて菩薩の歴劫修行を宣説す。
 阿羅漢果辟支仏に住することを得と。
 已上

 爾前得道の経文顕然なり。
 いずくんぞ迷惑を懐かん。
 云云。
 已上他難

 弾じていわく、この難も先段と一轍なり。
 答えの意もまた同じ。
 但しなおくわしくこれを示さん。
 所詮無量義経は序分の経なる故仏真実内証をば未だ顕了にこれを説きたまわず。
 譬えば戦陣の法に小敵は小兵これを攻め、大事の大敵に至っては小兵たやすく向かわず。
 必ず本大将を待つが如し。
 仏法もまたかくの如し。
 正直捨権の大事をば正宗の法華に至ってこれを説くべし。
 故に序分の無量義経に於いてはしばらくこれを説かず。
 もし序分に於いて正宗の大事を説きたまわば三説超過の規模を失うべし。
 故にまず四十余年の諸経を挙げて未顕真実と打ち、またしばらく時の人の意を将護して、或いは小乗の得益を列ね、或いは七水の喩えを説いて重ねて爾前の説相を宣べたまう。
 これは偏に能生の法華に至って所生の諸法を改廃せんが為にしばらく爾前の次第を列ぬ。
 敢えて爾前の実益を許すにはあらず。
 故に山家大師は是開経故得果階級と会したまえり。
 しかのみならず正宗の中に於いても五千の上慢座に在りし間はなお謗を生ぜんことを恐れて正直捨権の深旨を説きたまわず。
 上慢座を起ちて後に広く五仏道同の顕一を説いて出世の本意を顕し、「正直捨方便但説無上道」と説きたまう。
 正宗の中に於いてもなおかくの如く機を鑑み時を待ちたまう。
 いわんや序分に於いてをや。
 倉卒に廃権立実の本懐を説き給わんや。
 故に無量義経はなお随他意に属して今説の中に入る。
 所詮汝三説超過の正説正文を信じて早く執権の邪想を捨つべし。
 何ぞあながちに権教に執著してかくの如く邪難を成すや。

 次に他難じていわく、大論にいわく、仏得道の夜より涅槃の夜に至るまで中間に説く所の経教一切実にして顛倒せずと。
 汝何ぞ龍樹に敵して爾前の諸経を虚説に属するや。

 弾じていわく、爾前の諸経を虚妄の説と称することは全く私の義に非ず。
 まさしく仏の金言なり。
 その証上に出しおわんぬ。
 たとい龍樹の論なりといえども仏説に相違せばこれを用ゆべからず。
 この義まさしく龍樹菩薩の約束なり。
 故に十住毘婆娑論にいわく、修多羅白論に依って、修多羅黒論に依らざれと。
 この論文の如くんば仏説に契う論をば白論と名付けてこれを用い、仏説に違う論をば黒論と名付けてこれを用いざれと。
 これ龍樹の本意なり。
 もし汝が義の如く一代経に於いて実に邪正無くんば仏いかでか権実の異を分ちたまわんや。
 しかるに汝今引く所の大論の意は爾前の諸経をば只これ仏の方便の説と知り、また法華はこれ成仏の実義なりと知るなり。
 かくの如く了知すれば一代権実の諸経共に顛倒せざる義なり。
 譬えば毒をば毒と知り、薬をば薬と知れば、毒と薬と供に違わず。
 もし人有り、謬って毒を以て薬と思い薬を捨てて毒を飲まば即ち必ず命を亡うが如し。
 仏法もまたかくの如し。
 権をば権と知り、実をば実と知れば権実供に顛倒せず。
 しかるを愚人謬って権教の念仏を以て真実の法と思い、実教の法華を以て還って時機不相応の思いを為してこれを捨てこれを抛つ。
 これ爾前法華供にその本意を失いて権実の謗法を為す。
 即ちこれ釈尊の本懐を破り龍樹の約束に背けり。
 罪科至って重し。
 何ぞ無間に堕ちざらんや。

 難じていわく、爾前の諸経方便の説なりといえどもなおこれ仏法なり。
 何ぞこれを以て毒に喩えんや。
 答えていわく、毒薬の喩え、所対に随って重々不同なり。
 およそ五戒十善等の如く十悪の病を治する薬なりといえども二乗の善に対すればこれなお毒に属す。
 所以何となれば五戒十善等の世善の力未だ見思の病を治せず。
 故に六道に輪廻して生死の苦を受くること毒を呑みて苦痛するが如し。
 故に経にいわく、諸々の子後に於いて他の毒薬を飲む、薬発して悶乱す。
 云云。
 疏の九にこの文を釈していわく、三界邪師の法に楽著せり。
 故に飲他毒薬と言うと。
 云云。

 この経釈の如くんば三界を出ざる法は当分善なりといえども、皆ことごとく毒に喩う。
 また二乗の善は見思の病を治する薬なりといえども未だ塵沙無明の病を除かざればこれまた毒に喩う。
 故に玄義にいわく、二乗の根敗これを名付けて毒と為すと。
 これを以て知るべし、妙法の大良薬に対し爾前の諸経を以て毒に喩えんに何の不可有らんや。
 それ爾前の諸経は浅深の不同有りといえども詮を以てこれを論ずれば全く敗種の輩を治せず。
 元品の重病を除かず。
 法華の妙薬は根敗の沈痾を治し、元品の重病を除く。
 故に経にこの経は則ち為閻浮提の人の病の良薬なりと言うと。
 東春にいわく、九界の権病を破す。
 故に経に「正直捨方便但説無上道」と言うと。

第二十三、六方諸仏証誠難
 一、彼の集にいわく、浄土の法門は六腑の諸仏釈迦の化導を助けて実言と証誠したまう化儀軽からず。
 舌相遍く覆えり。
 乃至彼の多宝一仏法華を証誠したまう。
 なお二乗成仏を信ず。
 いわんや他方の諸仏をや。
 法華浄土共に婆伽梵の金言なり。
 同じく多羅葉の露点なり。
 汝取捨すといえども全く許さざる所なり。
 その旨如何。
 已上他難

 弾じていわく、阿弥陀経の証誠と法華経の証誠とその説相を比ぶるに真金と黄石との相違なり。
 汝誤って弥陀経の証誠を讃し、還って法華の証誠を軽んずること金石相分かたず、返って金を捨て石を拾うものなり。
 疑っていわく、何を以てか知ることを得ん。
 法華の証誠弥陀経の証誠に勝ることを。
 答えていわく、弥陀経の証誠は只釈迦一仏舎利弗に向かって我一人のみこの経を説くに非ず。
 六方の諸仏舌を三千に覆いて阿弥陀経を説くと言うといえども敢えて諸仏は来たらず。
 総じて法華已前は仏も権仏なり。
 教主既に権なれば所説の法もまた随って権なり。
 玄義の第二にいわく、およそ能詮の教、権なれば所詮の理もまた権なりと。
 故に弥陀経の六方証誠は無量義経の未顕真実の語に破れおわんぬ。
 今の法華経は仏既に久遠実成の実仏なり。
 教主実仏なれば所説の法もまた随って正直捨権の実教なり。
 たとい他仏の証明無くとも権教の弥陀経と実教の法華経と、いかでか相対するに及ばん。
 いわんや多宝の証明有り。
 多宝の証明に普く諸仏の証明を摂す。
 何ぞ局って只一仏の証明と言わん。
 その上分身の諸仏は十方より来集して広長舌を出して大梵天に付け本迹二門の誠諦を証誠す。
 汝が依経の証明は来集の仏に非ず。
 この経の証明はまさしく来集の仏なり。
 是一 汝が依経の証明は権仏なり。
 この経の証明は実物なり。
 是二 汝が依経の証明は未顕真実、
 この経の証明は已顕真実なり。
 是三 およそかくの如き相違は天地雲泥なり。
 何を以て相対を論ぜん。
 汝正法に眼暗くして空しく仮名の証明を執して還って法華誠諦の証明を軽んず。
 三仏の怨敵汝にあらずんば誰をか言わん。
 疑っていわく、多宝一仏に一切の諸仏を摂する義前代未聞なり。
 但し証文有りや。
 答えていわく、証文有り。
 およそ三仏を以て三身を表す。
 中に多宝は法身なり。
 法身の仏は諸仏の惣体なり。
 故に多宝一仏の証明を以て一切諸仏の証明を表すなり。
 故に法華論にいわく、多宝仏身一体に諸仏の真法身を摂することを示すと。
 論文分明なり。
 何ぞ疑いを為さんや。
 後唐院釈していわく、今惣体を挙げて一切身を摂す。
 法身一体の故に多宝と名付くと。

 問うていわく、称讃浄土経には十方の諸仏、念仏を証明す。
 云云。
 もししからば何ぞ法華の証明に劣らんや。
 答えていわく、たとい十方といえども経の本体権教なる上は更に信用し難し。
 いわんや来集の仏に非ず。
 その上称讃浄土経は訳人正しからず。
 玄奘は舌焼け、羅什は舌焼けざるの験有り。

 一、彼の集にいわく、一念の疑心なお仏意を難ます。
 何にいわんや無間業に属すべけんや。
 これ則ち釈尊の舌端を鑚り、諸仏の舌相を壊るなるべし。
 已上他難

 弾じていわく、実教の舌相を以て権教の舌相を破るは三仏一同の掟なり。
 何の不可有らん。
 しかれば権教の舌相を以て実教の舌相を破るは誠にこれ三仏の舌を切る者なり。
 何ぞ無間に堕ちざらんや。

第二十四、普賢文殊帰依難
 一、彼の集にいわく、華厳経に普賢の願を説いていわく、願わくば我命終わらんと欲するに臨みてことごとく一切諸々の障碍を除きて、面彼の仏阿弥陀を見上って即ち安楽国に往生することを得んと。
 已上
 また文殊の発願を説いていわく、我命終の時ことごとく諸々の障碍を除いて、面阿弥陀仏を見奉らんと。
 もし敵者の如くんば文殊普賢今極楽に在りと為さんや。
 地獄に堕すと為さんや。
 末法の念仏の行者無間に在らば普賢文殊共に無間に堕つべきや。
 已上他難

 弾じていわく、華厳経に普賢、文殊、安養界を願うことを説きたまうことは随機随情の一辺なり。
 所以何となればこの二菩薩は等覚無垢の大士として中品の寂光に居したまえり。
 或いはその本地を尋ぬれば妙覚究竟の位を究め、上品の寂光に居せり。
 何ぞ同居最下の安養を願わんや。
 明らかに知んぬ、華厳の説は随宜一往の仮設なり。
 故に無量義経に華厳の名を挙げて未顕真実と破りおわんぬ。
 何の憑み有るべけんや。
 いわんや文殊師利菩薩無量義経の時、まさしく同聞衆と為って八万菩薩の上座に居し、未顕真実の説を聞いて終不得成無上菩提と領解せり。
 文殊、弥陀念仏を捨てたまうこと眼前なり。
 また普賢菩薩は東方宝威徳浄王仏の国に在りといえども法華経を願楽して遙かに娑婆世界に来たり、霊鷲山に詣でて世尊に向かい奉り新たに再演法華を請う。
 世尊普賢の請に赴き勧発の一品を説きたまえり。
 普賢これを聞いて歓喜し陀羅尼を説いて後五百歳法華の行者を守護せんと誓願したまう。
 普賢の誓願ここに極まり、ここに満ちぬ。
 全く念仏の行者を守護せんと誓願せず。
 しかるに汝還って普賢、文殊の命根たる法華経を謗じ、しかも弘通の路を塞がんと欲す。
 豈二菩薩の大怨敵に非ずや。

 一、彼の集にいわく、極楽世界二十五の菩薩未来の導師弥勒地蔵皆念仏、念法、念僧す。
 日蓮昔何の因縁有って弥陀に於いて怨敵を結する。
 弥陀また何なる宿因有ってか彼の日蓮が為に誹謗を被りたまう。
 日蓮は提婆が変作なりや。
 提婆は違敵を釈尊に結ぶといえども還って改悔して記●を得たり。
 今日蓮怨敵を弥陀に結ぶといえども末学改悔して阿鼻の大苦を脱るべき所なり。
 已上他難

 弾じていわく、愚人は賢人を嫉み、佞人は正直を悪む、謗法の者は正法の行者を毀る。
 不軽菩薩は悪口杖木を受けたまえるこれなり。
 汝誹謗の身として日蓮聖人を悪口するにいよいよ祖師の威徳を増す。
 風の火を熾にし、火の金色を増すが如し。
 いよいよ毀らばいよいよ徳顕わるべし。
 汝が罵詈誹謗もっともこの宗の喜ぶ所なり。
 但嘆く所は汝誹謗の咎に依り無間大城に沈み永く極苦を受けんこと不便不便。
 そもそも二十五の菩薩当来の導師弥勒菩薩等法華を誹謗して念仏を勧むるや。
 もししからば経文の証拠を出すべし。
 もししからずといわば汝何ぞ二十五の菩薩当来の導師弥勒菩薩等に背きて法華を誹謗するや。
 これらの菩薩は皆一同に浄土の三部経を捨てて、法華経を聞いて一生補処の位に至りたまえり。
 故に法華経の第六にいわく、仏希有の法を説きたまう。
 昔より未だかつて聞かざる所乃至余り一生在ること有ってまさに一切智を得べし。
 かくの如き等の衆生仏寿の長遠なることを聞き奉って無量無漏の清浄の果報を得。
 已上 

 この文の如くんば二十五の菩薩十方の薩捶の実の得道は決して法華本門の時に在り。
 いかでか権教の弥陀念仏を以て実の得道を遂げんや。
 それ二十五の菩薩念仏の行者を護持せんと説くは十往生経の文なり。
 この経すでに法華已前の権教なり。
 未顕真実の文に壊れおわんぬ。
 二十五の菩薩いかでか法華誹謗の者を護持せんとするや。
 この二十五の菩薩の中に観音、勢至、薬王、薬上等有り。
 これらの菩薩まさしく無量義経の同聞衆に列なり供に念仏等の諸経を指して未顕真実を説きたまうを聞く。
 念仏もし実に得道の法ならばこの説を聞く時にこの諸々の菩薩豈疑問を致さざらんや。
 結句は終不得成無上菩提と領解して永く念仏の法門を捨ておわんぬ。
 しかして後これらの菩薩、法華経に来たって一代の疑いを晴らし、得道の淵底を究む。
 故に「菩薩聞是法疑網皆已除」と言う。
 しかれば二十五の菩薩並びに当来の導師弥勒菩薩等は法華経を以て眼目と為し、一乗経を以て命根と為したまえり。
 しかるに汝等還って法華を誹謗す。
 豈二十五の菩薩の眼を抜き命根を断つ者に非ずや。
 いかでか阿鼻の焔を免れんや。
 経にいわく、もし人信ぜずしてこの経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ずと。
 この文の如くんば法然並びに門弟はただに諸々の菩薩の命を断ずるのみに非ず、またまた弥陀仏の命を断ぜんと欲するものなり。
 法然等豈弥陀の大怨敵に非ずや。
 次に日蓮聖人を以て弥陀の怨敵と言うか。
 これさかしまなる謗言なり。
 汝等すでに弥陀の命根なる法華を謗じ、頓に弥陀の命を断たんと欲す。
 豈これに過ぎたる弥陀の怨敵有らんや。
 日蓮聖人は大慈大悲を以てこれらの悪行を止め、一切世間の仏種を続かさんが為に三類の強敵を忍びて法華経を弘めたまう。
 これ豈弥陀等の命を継ぐ大忠節の聖人に非ずや。
 例せば紀信漢王の命に代わりしが如し。
 この道理を知らず還って日蓮大士を以て弥陀の怨敵と言って大誹謗を為す。
 あまつさえ提婆に類する大悪口の咎言っても比無く、責めても余り有り。
 但しかくの如きの悪口今始めて驚くべきに非ず。
 在世の外道は教主釈尊を大悪人と号し、滅後の徳一は天台大師を顛狂の人と謗じ、六宗の学匠は伝教大師を誑惑の人と罵る。
 誠なるかな、「而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後」の金言あり。
 仏もし外道に毀られたまわずんば如来現在の文虚言と成るべし。
 天台、伝教法華経の為に誹謗をこうむりたまわずんば誰かこれを聖人と言わん。
 祖師聖人法華経の為に刀杖瓦石等の大難にあいたまわずんば、誰か本化の再来と知らん。
 況滅度後の未来記宛符契の如し。
 今また汝が誹謗更に咎めざる所なり。
 それ達多が一類は教主釈尊を怨み、南北が一揆は智者大師を敵とし、守屋が一党は聖徳太子を悪み、法然が一門は法華の行者を妬む。
 華有れば風有り、月有れば雲有り、善人有れば悪人有り、法華の行者有れば必ず三類の強敵あり。
 三類の強敵は誰ぞ、法華の行者また誰をか指さんや。
 法然が一門三類の内に入らずんば八十万億那由佗の諸菩薩は大虚誑罪に堕つべし。
 また三類の強敵に責められて法華の真文を扶けたる行者は三国の間に祖師聖人を除いて未だその人を聞かず。
 恐らくは上行菩薩の再誕に非ずんば誰かかくの如き大難を忍ばん。
 末世の巨難忍び難きが故に仏深く付属の仁を撰びたまえり。
 汝道心有らば人を怨むことなかれ。
 まさしく経文を尋ねて法の邪正を知り、行の合否を糺して師の善悪を弁うべし。
 謬って正師に於いて粗言を為すことなかれ。
 そもそも法華の行者を罵る罪は仏を一劫謗ずるに過ぎたり。
 なんじ早く改悔の心を生ぜずんば苦果何の劫にか尽きんや。

断悪生善 中巻 終