萬代亀鏡録

断悪生善 下巻【前】(仏性院日奥)

他難條目
第二十五、捨閉閣抛無過難
第二十六、違父命失帰己難
第二十七、属小乗者盲目難
第二十八、九方仏土一乗難
第二十九、諸経中王対小難
第三十 、信解功徳多少難
第三十一、法華観音全同難
第三十二、止観弥陀同体難
第三十三、止住百歳勝他難
第三十四、諸経所讃有無難
第三十五、誹謗正法極成難

第二十五、捨閉閣抛無過難
 一、彼の集にいわく、およそ我宗の本意は唯除五逆誹謗正法と誡むる故に、余宗余行を毀謗することを停止するなり。
 但し随自の機に対しては諸行を廃すといえども随他の機に対すればことごとく万行を勧む。
 故に序分義にいわく、読誦大乗と言うはこれ経教を明かす。
 これを喩うるに鏡の如し。
 しばしば読み、しばしば尋ぬれば智慧を開発す。
 もし智慧の眼開くれば即ちよく苦を厭いて涅槃を欣楽す。
 已上

 選択集にいわく、西方を願う行者は各々その意業に随う。
 或いは法華を読誦して以て往生の業と為し、或いは華厳を読誦して以て往生の業となす。
 乃至これ則ち浄土宗の観無量寿経の意なり。
 已上

 目を開いてこれらを見よ。
 豈浄土宗の祖師万行を誹謗せんや。
 已上他難

 弾じていわく、この一段は汝が宗の謗法無間の難を免れんが為、構え出す所の陳答か。
 すなわち善導、法然二師の釈を出して諸行を謗ぜざる証となす。
 然りといえども二師の謗法脱れ難し。
 今二師の中に善導はしばらくこれを置く。
 法然謗法の趣選択集に就いてほぼこれを顕さん。
 およそ彼の集一部の始終を見るに今汝が引く所の文は一往余の諸行を許すに似たりといえども再往これを勘うるにすべて諸行を許さず。
 顕露にこれを嫌い、分明にこれを謗ず。
 それ良医にあわざれば身内の病を知らず。
 正師にあわざれば身の謗法を知らず。
 汝法華の正師にあわざるが故に祖師謗法の咎を知らず。
 まず法然上人法華経を以て専ら雑行に摂し、難行道と称す。
 これ第一の謬なり。

 法華は正行の中の正行なり。
 故に経の第五に輪王髻中の明珠に喩う。
 また法華は易行の中の易行なり。
 故に難成の機ことごとく皆成仏す。
 悪人の達多、愚痴の龍女、これその証なり。
 法然この義を知らず。
 妄りに雑行に属し難行道と号す。
 あまつさえ捨閉閣抛の四字を以て堅く制止を加う。

 そもそも釈迦多宝十方の諸仏霊山会上に集まって一同に誓願したまう所は偏に法華の令法久住なり。
 法然還って三仏深重の悲願を破ってしきりに法華の流布を留めて未顕真実の弥陀念仏を興さんと欲す。
 これ豈三仏一同の本誓を失い、衆生成仏の直道を閉づる者にあらずや。
 無間の業、豈これに過ぐること有らんや。
 およそ撰択集十六段に亘って無尽の謗法有り。
 然りといえども繁を厭うて一々にこれを出さず。
 今汝が引く所は十二段の下の文なり。
 この一段についてほぼ謗法の咎を顕してその罪科を知らしめん。

 撰択集にいわく、顕密の大乗経総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり。
 皆すべからく読誦大乗の一句に摂すべし。
 乃至読誦大乗の言あまねく前後の諸経に通ず。
 然れば則ちまさしく華厳、方等、般若、法華、涅槃等の諸大乗経に当たれるなり。
 云云。

 この文まず大謗法なり。
 そもそも観経の読誦大乗の一句に法華経を摂してこれを捨つること何なる経文の証拠有りや。
 已説の観経に未説の法華を摂してこれを捨つべき道理無し。
 確かなる証文を出してその義を成せずば謗法無間の業いかでかこれを脱れんや。
 是一
 また撰択にいわく、諸行は機に非ずと。
 云云。
 この義また大謗法なり。
 この諸行の内に法然私に法華を入るること紛れ無し。
 そもそも法華の文には後五百歳中と説いて次下にこの経は則ちこれ閻浮提の人の病の良薬なりと言う。
 もし法華経末代の機に叶わずんばいかでか病の良薬と言わん。
 法然上人の義と釈尊の金言と大いに相違せり。
 是二
 また撰択にいわく、時を失うと。
 云云。
 これまた謗法なり。
 法華経には「後五百歳中広宣流布」と言い、或いは「悪世末法時」と言う。
 この経文の如くんば末法は偏に法華の時なり。
 法然何ぞこの経文に背いて時を失うと言うや。
 但しもし法華を指さずと言わば撰択に法華を指す証文有り。
 如何。
 是三
 また撰択にいわく、念仏の往生は機に当たる。
 云云。
 これまた謗法なり。
 法華経には「正直捨方便」と言い、天台の釈には、「廃権立実」と言う。
 この経釈の如くんば、念仏機に当たらず。
 故に釈尊と天台と一同にこれを捨て、これを廃したまう。
 法然何ぞこの義に背くや。
 是四
 また撰択にいわく、念仏往生は時を得たりと。
 取意 これまた謗法なり。
 今末法は法華已前の大小の白法は隠没の時なり。
 大集経に指す所の白法の内に豈念仏を漏らさんや。
 その上法華経第五に「於後末世法欲滅時」と言う。
 この文に法欲滅時と言うは観経等の権法滅する時を指すなり。
 経文の如くんば念仏往生は時を失うこと分明なり。
 法然何ぞ金言を背いて時を得たりと言うや。
 是五
 また撰択にいわく、感応豈に唐捐ならんや。
 云云。
 これまた謗法なり。
 念仏の法門機に当たらず。
 時を失する義先段に分明なり。
 何ぞ感応有らんや。
 故に妙楽大師記の一にいわく、爾前の感応は妙道交わらずと。
 云云。
 この釈の如くんば、念仏の法門感応有るべからざること分明なり。
 それ諸経の中に真実の感応は法華経に限るなり。
 余経に全く無き所の不思議の感応なり。
 故に天台大師玄義第二に感応妙を釈していわく、一月一時にあまねく衆水に現ず。
 諸仏も来たらず。
 衆生も往かず。
 慈善根の力かくの如きの事を見る。
 故に感応妙と名付くと。
 箋の二にいわく、水をば感に譬え、月をば応に譬うこと昇らず、降らず、感応道交せりと。
 この釈の本拠は法華経の「唯以一大事因縁」の文に依るなり。
 因とは即ち感応の義なり。
 故に文句にいわく、因縁は感応に名付くと。
 然らば則ち釈迦諸仏一大事の感応は法華経に究まるなり。
 文証すでに分明なり。
 法然何ぞこれらの経釈に背いて法華の感応を失わんと欲するや。
 是六
 また撰択にいわく、随他の前にはしばらく定散の門を開くといえども、云云。
 これまた謗法なり。
 法華経を以て随他に属する事三世十方の諸仏の本懐を破れる者なり。
 それ一代聖教を以て随自、随他の二を分かつ。
 法華を以て随自と為し、爾前を以て随他と為す。
 仏説より事起こって天台、妙楽、伝教等の解釈分明なり。
 およそ随自とは真実の義にして仏の本意なり。
 随他とは方便の義にして仏の本意に非ず。
 只しばらく衆生の迷情に随うなり。
 疑っていわく、法然上人は弥陀念仏を以て随自の真実と為す。
 法華宗には弥陀念仏を以て随他の方便と為す。
 両義水火なり。
 何を以て本と為さんや。
 もし念仏随自ならば法華は随他なるべく、もし法華随自ならば念仏は随他なるべし。
 所詮分明の証文を出して両方の是非を決すべし。
 答えていわく、弥陀念仏を以て随他の方便と言い、法華経を以て随自の真実と言うこと全く当宗の新義に非ず。
 経釈の証文甚だ分明なり。
 無量義経にいわく、諸々の衆生の性欲不同なるを知る。
 性欲不同なれば種々に法を説く。
 種々に法を説くこと方便力を以てす。
 四十余年には未だ真実を顕さずと。
 この文に性欲不同種々説法と言う。
 種々説法の内に念仏の法門有り。
 これを指して以方便力と言う。
 以方便力は即ち随他なり。
 これ豈念仏を以て随他と為すに非ずや。
 法華経にいわく、「唯此一事実余二則非真」と。
 上の句に唯此一事実とは即ちこれ法華なり。
 この法華を指して一事実と言う。
 明かに知んぬ、法華は随自真実なり。
 下の句に余二とは漸頓の諸経なり。
 念仏はこれ漸部の経なり。
 これを指して非真と言う。
 非真の念仏豈に随他に非ずや。
 玄義の一にいわく、種々に建立して衆生に施設すといえども但随他意語にして仏の本意に非ずと。
 種々建立の内に念仏の法門有り。
 これを指して随他意語と言う。
 明らかに知んぬ、念仏は随他意にして仏の本意に非ずと。
 箋の一にいわく、法華已前をば皆随他というと。
 念仏の法門は法華已前なり。
 然れば念仏は随他なること誠に明かなり。
 またいわく、兼帯を以ての故に並びに随他に属すと。
 浄土の三部は兼帯の経なり。
 故に念仏を随他に属すること疑いなきものなり。
 玄の十にいわく、前の経はこれ已説の随他意なりと。
 前経とは浄土の三部等なり。
 まさしくこれを指して已説の随他意と言う。
 明らかに知んぬ、念仏は随他なり。
 秀句の下にいわく、兼但対帯の随他意の経は未だ最照あらず。
 天台法華宗は最照明の徳有りと。
 兼は華厳なり。
 但は阿含なり。
 対は方等なり。
 帯は般若なり。
 この四味の経を指してまさしく随他と言う。
 弥陀念仏は四教並帯の方等部なり。
 方等部すでに随他に属す。
 部内の念仏豈に随他に非ずや。
 秀句の上にいわく、それ妙法蓮華経は内証の本法なる故に教を留めて機の熟するを待つ。
 それ華厳等の諸経は随宜の説法なる故に機に随って時を待たずと。
 この釈に内証本法とは随自の真実なり。
 これまさしく法華を指すなり。
 次に随宜説法とは随他の方便なり。
 頓部の華厳なお随他に属す。
 いわんや漸部の観経等むしろ随他に非ずや。
 明らかに知んぬ、法華は随自の真実、念仏は随他の方便なり。
 またいわく、まさに知るべし、已説の四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は信じ易く解し易し。
 随他意の故に。
 この法華経は最も難信難解と為す。
 随自意の故に。
 随自意の説は随他に勝れたりと。
 この釈分明に法華を以て随自と為す。
 法華の外をば皆ことごとく随他となす。
 同醍醐味の涅槃経なお随他に属す。
 いわんや生蘇味の観経等むしろ随他に非ずや。
 明らかに知んぬ、法華は随自の真実、念仏は随他の方便なり。
 証文広博なりといえども詮を取ってこれを示す。
 法然何ぞこれらの経釈に背いて弥陀念仏を以て随自と為すや。
 是七
 また撰択にいわく、随自の後には還って定散の門を閉づと。
 これまた謗法なり。
 そもそも弥陀の名号に対して法華の門を閉づべしと言う事いずれの経文に有りや。
 まさしく証拠を出すべし。
 それ教主釈尊は身子三たび請ずるに依って法華を説いて九界の衆生の本有の仏性を開きたまう。
 故に経に「開仏知見使得清浄」と言う。
 これに依って生盲の闡提、盲目の凡夫、眇目の二乗始めて仏眼を開いて無上の利を得たり。
 法然還って九界の衆生の仏眼を閉じんと欲す。
 豈に一切衆生の大悪知識に非ずや。
 また文殊師利菩薩は龍宮城に入って法華を開宣して群生を利益したまう。
 智積菩薩これを讃歎して大智徳勇健と称し、開闡一乗法と歎ず。
 法然何ぞ文殊智積に違して還って一乗法を閉じんと欲するや。
 「龍女尚我闡大乗教度脱苦衆生」と誓う。
 法然何ぞ龍畜の意に劣って法華大乗の門を閉じんと欲するや。
 また十方の梵王法華の開宣を願って菩提樹下に来たり仏の為に華を供し宮殿を献って「広開甘露門転無上法輪」と請ず。
 梵王の請は五味に亘るといえどもその正意は法華なり。
 法然は十方の梵王に違して還って甘露の門を閉じんと欲す。
 誠に釈迦諸仏の本懐を破り、菩薩聖衆の願望を失い、梵王緒天の眼を閉ずる者なり。
 法然が罪過何れの劫にかその苦果を尽くさんや。
 是八
 また撰択にいわく、一たび開いて已後永く閉じざるは唯これ念仏の一門なり。
 云云。
 これまた謗法なり。
 すでに釈尊未顕真実と説き、或いは除仏方便説と説き、或いは正直捨方便と説いて堅く念仏の門を閉じたまう。
 法然何ぞ釈尊に違して永く閉じずと言うや。
 是九
 また撰択にいわく、弥陀本願の意ここに在りと。
 云云。
 これまた謗法なり。
 弥陀真実の本願は法華経なり。
 実経の実説は「常楽説是妙法蓮華経」これなり。
 念仏往生の本願は方便なり。
 未顕真実なり。
 法然何ぞ権経の本願を執して、実経の本願を謗ずるや。
 これ豈に明珠を捨てて瓦礫を拾う者に非ずや。
 是十
 また撰択にいわく、釈尊付属の意ここに在り。
 云云。
 これまた謗法なり。
 釈尊付属の本意は偏に実相の極説に在り。
 故に法華経の時迹化他方の大士をえらびて本化の菩薩を召し出し十神力を現じて要法を付属したまう。
 これ三説超過の付属なり。
 故に山家大師秀句の十勝に付属勝と立てたまえり。
 その文にいわく、「仏欲以此妙法華経付属有在」。
 已上経文
 まさに知るべし、過去の多宝、現在の釈迦同じく塔中に坐して妙法華経付属有在と。
 他宗所依の経にはすべてこの付属無し。
 未顕真実の故に。
 今の実大乗今の一乗経にはともにこの付属有り。
 已顕真実の故に。
 他宗の経の付属は法華宗に如かずと。
 釈の意明かなり。
 法然何ぞ権教一往の付属に執して実教再往の付属を背くや。
 是十一
 また撰択にいわく、念仏往生の道は正、像、末及び法滅の百歳の時に通ずと言うことを。
 云云。
 これまた謗法なり。
 およそ仏説の如くんば四味の諸経を以て川流江河に譬え、法華経を以て大海に喩う。
 末法濁世干魃の時諸経の江河は竭くといえども法華の大海は減少すべからず。
 故に経に「後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶」と言う。
 また「閻浮提内広令流布使不断絶」と言う。
 涅槃経にいわく、かくの如きの法宝は則ち久住することを得、無量千世増益熾盛にして衆生を利安せんと。
 涅槃経は法華の流通なり。
 随って釈にも大経自ら法華を指して極と為すと言う。
 然れば法華経は末法万年の後に至るまで断絶すべからざること金言分明なり。
 大集経の如くんば念仏等の法門は末法已前に滅すべき法なり。
 しかるを唐土の人師並びに日本の法然等権教相似の文を執して末法万年法滅百歳等の釈を造りて法華の令法久住を押さえ妙法の流通を塞がんと欲す。
 豈に三聖の大怨敵に非ずや。
 是十二
 およそ法然謗法の筆この一段に於いてなおかくの如し。
 いわんや十六段重々の謗法に於いてをや。
 悲しいかな一言の誹謗なお泥梨に沈む。
 いわんや書を造って末代に残し一切衆生をして誹謗の大罪を得せしむ。
 法然が重科いずれの劫にかその苦果を尽くさんや。
 他また捨閉閣抛の謗言を救わんが為に例を引いていわく、もし捨と言うが謗法ならば、悉達太子王宮を出でたまう時「棄恩入無為真実報恩者」と言う。
 父を誹謗するの言か。
 云云。
 弾じていわく、捨閉閣抛の誹謗無間の業と為ることを脱れんが為に捨は謗に非ずと言うか。
 汝邪慢を捨ててよく道理を案ぜよ。
 法華経を捨つるを謗法と言わずんば、何をか謗法と言わんや。
 謗法の相貌を天台釈していわく、謗とは背なり。
 云云。
 仏説に背くは皆謗法なり。
 仏すでに正直捨方便と説いて、念仏等の方便の法を捨てよと定め給う。
 しかるを法然この義に背いて偏に念仏を勧む。
 これ如来の金言を背くに非ずや。
 金言を背かば謗法の義一定なり。
 また仏は「但楽受持大乗経典乃至不受余経一偈」と定めたまう。
 しかるを法然大乗妙典を受けずしてこれを捨てて、しかも余経の念仏を受く。
 これ顕に仏説に背けり。
 豈に誹謗の者に非ずや。
 いわんや悉達太子の捨てたまえる所は生死流転の恩愛なり。
 法然が捨つる所は成仏得道の法華経なり。
 悉達と法然と捨つる所善悪大いに替われり。
 何を以てかこれに類せん。
 また悉達太子は恩愛を捨てて自身得脱を遂げ、また父母の恩所一切の衆生を救いたまえり。
 故にこれ真実の報恩なり。
 法然は法華経を捨てて自身無間の業を招きまた父母の恩所一切の衆生をして同じく無間の業を造らしむ。
 これ豈に父母の恩所一切衆生の大怨敵に非ずや。
 何を以て報恩の義有らん。
 悉達と法然と天地の相違なり。
 雲泥の懸隔なり。
 同類の例はなはだ以て不可なり。
 また他のいわく、伽葉の如きは涕泣して吼ゆること三千に振るい、善吉亡然として一鉢を抛つ。
 云云。
 伽葉、善吉むしろ衣鉢を誹謗すと言うを容れんや。
 云云。
 弾じていわく、これまた合せざる例なり。
 それ善吉尊者の抛つ所の鉢は只これ飲食を盛れる瓦器なり。
 これ至って軽き物に非ずや。
 これを抛つに謗法と為るべき道理無し。
 法然が抛つ所の法華経は法王髻中の明珠成仏得道の要法なり。
 重きが中の重きなり。
 これを抛つ豈に無間の業と為らざらんや。
 所詮捨と言うはその物に於いて無益の思いを為す故なり。
 法然法華経に於いて無益の思いをなして捨閉閣抛せり。
 豈に大謗法無間の業と為らざらんや。
 また善吉の鉢を抛つは浄名の弾呵を聞いて深く屈恥を生ずる故なり。
 鉢に於いて誹謗の心を起こさず。
 何の咎有らんや。
 法然は法華経に於いて難行雑行等の誹謗の心を起こしてこれを抛つ。
 何ぞ無間の業と成らざらんや。
 汝が引証すべて合わざるものなり。
 また他のいわく、世俗の諺に万事を抛つと言う。
 豈に諸事を謗ずる言ならんや。
 云云。
 弾じていわく、これまた聞こえざる例なり。
 俗に万事を抛つと言えるは一事の万事に勝りたること有ればその劣れる万事を抛ってその勝りたる一事を勤むるなり。
 例せば主君に仕える者は万事を抛って忠の一を尽くし、また親に仕える者は万事を抛って孝の一を勤むるが如し。
 忠孝の道万事に勝れるが故に一忠一孝深く天命に叶いてその福を蒙りその幸を受く。
 また余の善有りといえども不忠不孝なればこの一悪を以て万善を滅失す。
 仏法もまたかくの如し。
 一代の聖教皆分分に善を勧めたり。
 然りといえども法華経を以て万全の最頂と為し、一切の諸善皆ことごとくこれに帰す。
 譬えば諸河の大海に帰するが如し。
 ここを以て諸経の万全を勤むるといえどももし法華の一善に背けば諸経の万善皆ことごとく滅失して無間の業と為る。
 例せば世間の人余善有りといえども主に敵し、親を害すれば余の善皆ことごとく滅して頓に身命を喪うが如し。
 また諸経の万全を捨つるといえども、法華の一善を勤むれば諸経の万全勤めざるに自ずから来たる。
 譬えば国王の位を得れば諸臣招かざるにことごとく来るが如し。
 故に無量義経にいわく、一たび聞けばよく一切の法を持つが故にと。
 またいわく、未だ六波羅密を修行することを得ずといえども六波羅密自然に在前す。
 云云。
 序分の無量義経の功徳なおかくの如し。
 いわんや正宗の法華経の功徳に於いてをや。
 しかるに法然未顕真実の観経等に執して万善所帰の法華経を捨つ。
 たとえ余の善千万有りといえども誹謗正法の失に依って諸善一時に滅失して必ず無間に沈むこと文明かに理つまびらかなり。
 然れば今汝が引く所の三例皆以て道理にかなわず。
 ことごとく曲会私情の非義なり。
 哀れなるかな実慧法師の謗法を隠さんが為め種々に小智を廻らして邪会を構うといえども千に一も正理に当たらず。
 筆を染むるに従っていよいよ邪見を増長し、語を添うるに従ってますます無間の業を盛んにす。
 哀れむべし、哀れむべし。

第二十六、違父命失帰己難
 一、彼の集にいわく、法華経第二にいわく、今この三界は皆これ我有なり。
 その中の衆生はことごとくこれ吾子なり。
 已上
 釈迦は我等が父なり。
 我等は釈尊の子なり。
 西方を示し念仏を勧むること諸大乗経の中盛んに説く所の法門なり。
 これ豈に三界慈父の勧めに非ずや。
 汝いかんぞ父の遺言に背いて念仏を以て無間の業と名付くるや。
 已上他難
 弾じていわく、汝慈父の遺言を用うと言うか。
 その義治定ならばはなはだ殊勝なり。
 その約束違うべからず。
 もししからば無量義経の「未顕真実」の言は慈父の遺言に非ずや。
 汝何ぞこの遺言に背いて不真実の観経等を以て真実の法と執するや。
 是一
 また「正直捨方便」の文は慈父の遺言に非ずや。
 汝何ぞこの遺言に背いて方便の念仏を捨てざるや。
 是二
 また「無二亦無三除仏方便説」は慈父の遺言に非ずや。
 汝何ぞこの遺言に背いて方便の念仏を除かざるや。
 是三
 また「乃至不受余経一偈」の文は慈父の遺言に非ずや。
 汝何ぞこの遺言に背いて余経の念仏を受くるや。
 是四
 また「毀謗此経則断仏種」の文は慈父の遺言に非ずや。
 汝何ぞこの遺言に背いて法華を謗じ仏種を断ずるや。
 是五
 また「其人命終入阿鼻獄」の文は慈父の遺言に非ずや。
 汝何ぞこの遺言を恐れず法華を誹謗して阿鼻獄に入らんと欲するや。
 是六
 また「其中衆生悉是吾子」の文に依って釈尊を慈父と知らば汝何ぞ慈父を嫌いて礼拝雑行と立つるや。
 汝は三界の外の衆生か。
 不孝の咎はなはだ重し。
 是七
 また何ぞ唯我一人の遺言に背いて無縁他方の弥陀を用うるや。
 是八
 汝が宗かたがた慈父の遺言に背く條歴然なり。
 およそ世間の習父の先判を破って後判を用うること古今不易の法なり。
 仏法もまたかくの如く先判の念仏を捨てて後判の法華を用うること諸仏一同の掟なり。
 汝は先判を用いて還って後判を破る。
 世間の道に違し仏法の掟を破る。
 何ぞ無間に堕ちざらんや。
 一、彼の集にいわく、華厳の機の為には華厳を教え、乃至法華の機の為には法華を教え、念仏の機の為には念仏を教え、各々器量を鑑みて授くる所不同なり。
 何ぞ自分に執して他分を謗ずべきや。
 念仏するは釈迦の遺言なり。
 我亦為世父の父に順ずるに非ずや。
 已上他難
 弾じていわく、汝未だ化導の方便と真実とを知らず。
 妄りに邪難を致す。
 仏華厳を教え、或いは方等を教え或いは念仏を教えたまう。
 たとえの方便なり。
 敢えて仏の本意に非ず。
 譬えば塔を立つるに足代の如く、塔立ちおわって後豈に足代を払わざらんや。
 故に経にいわく、「正直捨方便但説無上道」と。
 云云。
 天台のいわく、今皆彼の偏曲を捨てて但正直の一道を説くなり。
 云云。
 またいわく、それ方便はこれ権仮なるべし。
 真実むしろこれ妄なるべけんや。
 法王の説法を聞いて疑いを生ずることなかれと。
 この釈の如くんば華厳、方等、念仏等は皆これ権化なり。
 真実は法華に限るなり。
 妙楽のいわく、意前の教これ権施なるべしと言うことを明かす。
 施しおわって復廃しついに真実に帰す。
 玄義にいわく、大教もし起これば方便の教絶すと。
 輔正記にいわく、法華の教起これば権教即ち廃す。
 守護章にいわく、一乗の家には、すべて権を用いずと。
 およそ法華の時に至って爾前の諸経を捨つべきこと釈尊、天台、妙楽、伝教等の経文釈義はなはだ以て分明なり。
 天に日月在るが如し。
 汝何ぞこれらの厳旨を背いて異義を存するや。
 豈に世尊慈父の遺言に背く者に非ずや。
 速やかに邪執を改めて無間の焔を免るべし。

第二十七、属小乗者盲目難
 一、彼の集にいわく、浄土の三部を小乗経と言い、念仏を小行と云う事これ只大小乗の名を聞いて未だ実体を弁うことあたわず。
 およそ龍樹の十二問論には六義を以て大乗と名付け、金剛般若論には七義を以て大乗と為す。
 まず六義とは一には二乗を出す。
 大経にいわく、如来の智海深広にして源底無し。
 二乗の測る所に非ず。
 云云。
 二には仏最大にしてこの乗よく至る。
 云云。
 大経にいわく、究竟の一乗彼岸に至る。
 云云。
 三には仏の所乗なり。
 観念法門にいわく、般舟三昧経の二に説く、過去の諸仏もこの念阿弥陀仏三昧を持って皆成仏を得。
 已上
 四にはよく大苦を滅して大楽を与う。
 大経にいわく、三垢の冥を消除して広く厄難を済う。
 已上
 またいわく、この光に遇う者は三垢消滅す。
 大経にいわく、国中の人天もし悪念を起こして身を貪計せば正覚を取らず。
 已上
 五には観音等の大士の所乗なり。
 六にはよく諸法の源底を尽くす。
 大経にいわく、一切の法を覚了するになお夢幻の響きの如く法は電影の如しと知って菩提道を究竟す。
 已上
 これらの義皆三部経にこれ有り。
 何ぞ小乗に属すべき。
 乃至また観経にいわく、方等経典を誹謗せずといえども、已上
 方等とは大乗の異名なり。
 如何ぞ小乗に属すべけんや。
 已上他難
 弾じていわく、汝爾前の諸経念仏等を以て小乗に属するを盲目と言うか。
 しかれば釈尊、天台等は盲目の人か。
 大謗言の至り、その罪いかでか無間に堕ちざらんや。
 そもそも大乗小乗の差別はその所対に随って一准ならず。
 汝一辺を見てくわしき旨を知らず。
 今汝が勘うる所の大乗の義は法華已前の双観経の文なり。
 かくの如きの称歎いずれの経にかこれ無けん。
 然りといえども未顕真実の域を出でざれば何のたのみか有らんや。
 今大小の分別ほぼ大綱を出して汝が邪難を破らん。
 もし外道の法に対すれば阿含経も大乗なり。
 所以何となれば外道の経には鬼畜天の三道を明かせども六道は分明ならず。
 阿含経には六道の因品つぶさにこれを明かすが故に外道に対すれば大乗なり。
 「通指仏教以為大法」と釈するこれなり。
 然りといえども諸大乗に於いて阿含経をば小乗と下す。
 また諸大乗の中に於いても重々の不同を立てて劣れる教を以て小乗と言う。
 華厳大乗に「其余楽小法」と言う文有り。
 この小法と言うは小乗経に非ず。
 十地の大法に対して、十住、十行、十廻向の大法を下して小乗と言うなり。
 また法華経の第一の巻にいわく、「若以小乗化乃至於一人」と。
 この文に小乗と言うは阿含経を指して小乗と言うに非ず。
 華厳の別教方等般若の通別の大乗を指して小乗と定めおわんぬ。
 また玄義第一にいわく、小を会して大に帰す。
 これ漸頓泯合すと。
 この釈の如くんば総じて法華已前の四味八教を以てことごとく小乗と為して法華の一大円教に会入するなり。
 また寿量品にいわく、楽於小法と。
 この文に小法と言うは小乗経にも非ず。
 また諸大乗経にも非ず。
 久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等、般若、法華経の迹門十四品の円頓大法に至るまで小乗の法と言うなり。
 故に疏の九にいわく、近成の小を聞かんことをねがって長遠大久の道を開かんことを欲楽せず。
 故に楽小と言う。
 已上
 釈の心明かなり。
 総じてこれを決せば久遠本果の大法の外は仏の已今当の諸経皆小乗なり。
 譬えば小国の王もその国に於いては大王と称すれども大国の王に対すれば即ち小王なり。
 大国の王も転輪王に対すればまた小王なり。
 転輪聖王も四天王に対すればまた小王なり。
 かくの如く次第に校量してついに大梵天王を以て真実の大王と為し、また過上有ること無きが如し。
 仏法もまたかくの如し。
 重々の大小有り。
 阿含小乗に対すれば観経等の三部も大乗なり。
 然りといえどもこれ方等部の摂なるが故に般若の大法に及ぶべからず。
 般若の大法も最初頓説の華厳に対すれば小乗なり。
 華厳の大法も醍醐初分の無量義経に対すれば即ち小乗なり。
 かくの如く校量するについに法華本門終窮究竟の大法を以て真実の大乗と為す。
 故に弥勒菩薩、釈尊五十年の説法の座に在って種々の法門を聴聞ありしかども本門已前には始覚の大疑未だ散ぜず。
 寿量品に至って久遠の大法を聞ける時始めて近成の疑いを散ず。
 故に弥勒菩薩分別功徳品に至って仏は希有の法を説き給う。
 昔より未だかつて聞かざる所なりと領解せり。
 これ最後究竟の領解なり。
 またこれに過ぎたる過上の領解有ること無し。
 ここに知んぬ、彼の経の究竟の言は仮説なり。
 この上なお分明の道理を言わば双観経の念仏を無上功徳と名付けて付属せられし仁は弥勒菩薩なり。
 然りといえどもこの念仏は未顕真実無得道の法なるが故に弥勒菩薩ついに念仏を捨ておわって法華経発起の大将と為りぬ。
 故に序品に於いては六瑞の疑いを文殊に結し、湧出品に於いては地涌の来相を仏に問い奉って衆会の疑念を散ず。
 本迹二門の大瑞誠に慈氏の発問に非ずんば誰かよく心中の疑網を晴らさん。
 もし弥陀念仏の法門実に究竟一乗の法ならば双観経付属の本人たる弥勒菩薩いかでか「終不得成無上菩提」と領解してこれを捨てたまわんや。
 明らかに知んぬ、双観経の究竟一乗は当分の究竟なり。
 跨節の究竟に非ず。
 小国の小王に対してしばらく大王と称するが如し。
 これ豈に至極の大乗ならんや。
 六義大乗の義皆以てしかなり。
 一々の破文これに准じて知んぬべし。
 何ぞ法華の大王に対して浄土の三部を小乗と言わざらんや。