萬代亀鏡録

断悪生善 下巻【後】(仏性院日奥)

第三十一、法華観音全同難
一、彼の集にいわく、天台普門品を釈していわく、一品の内に妙法と言わず。
 故に知んぬ、観音妙法体同なり。
 已上
 妙楽のいわく、妙法観音眼目異名と。
 已上
 そもそも観音は弥陀の弟子なり。
 弥陀は観音の師なり。
 もししからば法華は念仏の弟子に非ずや。
 然れば弥陀は法華の師なるの道理顕著なり。
 已上他難

 弾じていわく、汝は弥陀を以て法華の師と言う。
 釈尊は法華を以て弥陀の師と為したまう。
 汝が義甚だ金言に背けり。
 豈に無間の業に非ずや。
 問うていわく、弥陀は法華を以て師と為す証拠如何。
 答えていわく、三世の諸仏その体異なりといえども同じく師と為して敬いたまう所はことごとく以て妙法なり。
 故に天台のいわく、妙法を師として自行成就す。
 またいわく、法はこれ聖の師なり。
 能生、能養、能成、能栄、法に過ぎたるはなし。
 故に人は軽く、法は重きなりと。
 この釈に法とはまさしく法華経なり。
 聖とは仏なり。
 この仏釈迦、弥陀、薬師等の三世十方の諸仏なり。
 この諸仏皆妙法を以て師と為したまう。
 故に法これ聖師と言うなり。
 またこの釈に人軽しとは仏を指して人と為す。
 仏は弟子なるが故に軽く、法華経は師なるが故に重し。
 故に人軽法重と釈するなり。
 もし汝が義の如くんば師匠は軽くして、弟子は重かるべきか。
 しかれば弥陀は師を軽んずる仏なりや。
 汝何ぞ弥陀を讃めんと欲して還って弥陀を以て逆路の人と為すや。
 問うていわく、天台の釈の如くんば然るなり。
 但し経文に於いて仏法華経を以て師と為したまう証文有りや。
 答えていわく、汝天台の釈を引いて謬って弥陀を以て法華の師と為す。
 故にまた天台の釈を以て汝が義を破す。
 更に経文を引くに及ぶべからず。
 但し汝聞かんと欲すれば少々これを引くべし。
 法華経第五にいわく、法の為の故に精勤し給使すと。
 文の如くんば釈尊昔阿私仙人の為に千歳給使し難行苦行したまえること偏に法華経の為の故なり。
 かたじけなくも玉体を以て仙人の床と為したまうこと、豈に深く法を重んずる故にに非ずや。
 大論に経の意を宣べていわく、これ我が所尊なり。
 即ちこれ我が師なり。
 我まさに供養して法に尊奉すべしと。
 この文に我とは仏なり。
 法とは法華経なり。
 仏法華経を以て師と為して供養し、恭敬したまう事この文明白なり。
 涅槃経の第四にいわく、諸仏の師とする所はいわゆる法なり。
 この故に如来恭敬供養したまうと。
 この文に法とは法華を指すなり。
 妙楽大師大経を自ら指して法華を極と為すと釈したまうこれなり。
 この諸仏の内に弥陀独り漏れんや。
 明らかに知んぬ、弥陀の師は法華経なり。
 何にいわんや弥陀まさしく法華経を以て師と為したまう証文は化城喩品の「常楽説是妙法蓮華経」の文これなり。
 汝何ぞ金言に背き弥陀の本師たる法華経を以て還って弟子と為すや。
 次に観音妙法一体の釈の事、これはしばらくその証得の法門に就いて人法一体の旨を釈する時、かくの如きの釈を造れり。
 或いは観心の釈を造る時は独り観音に限らず、邪見の厳王、三逆の調達、殺父の闍王、愚痴の龍女皆これ一乗法華の妙体なり。
 然りといえども具縛の凡夫と為して三逆殺父等の悪業を作さば必ず無間に堕つべし。
 いわんや一念三千の眼の前には野草、山木、朝雲、暮風、飛禽、走獣、皆これ一実相の体ならざることなし。
 然りといえども禽獣を拝し草木を礼するは即ち外道の行儀なり。
 仏弟子の作法に非ず。
 世間の道も親子一体なれども父母同座を許さず。
 もしその礼儀乱れば悪逆不孝の咎免れ難し。
 仏法もまたかくの如く法華経はこれ諸仏の師なり。
 また主君なり。
 故に仏常に恭敬し供養したまう。
 極果の仏なおかくの如く尊重したまう。
 いわんや因位の観音、豈に妙法を崇めざらんや。
 何にいわんや観音三十三身を現じて衆生を利益したまうことこれ皆法華経の力なり。
 故に普門品にいわく、観音妙智の力よく世間の苦を救うと。
 弘決にいわく、法華三昧不思議の力、自在の劫を証得するに非ざるよりはいずくんぞよくこの三十三身を現ぜんと。
 釈の心明かなり。
 いわんや観音種々の身を現じて種々の法を説きたまうことは、偏に法華円教を弘めんが為の故の方便なり。
 故に観音玄にいわく、既に仏旨を奉って円に万機を逗す。
 種々不同なれどもただこれ円教を流通するなりと。
 またいわく、種々の法を説くといえども円道を開かんが為なり。
 またいわく、即ちこれ醍醐味を流通するなりと。これらの釈の如くんば観音の本願専ら法華経に在り。
 経文釈義すでに分明なり。
 敢えて胸臆の説に非ず。
 観音は師孝の道を知りたまえる故に頭に師の弥陀を頂戴せり。
 弥陀師と為したまえる妙法蓮華経何ぞ観音と同輩ならんや。
 汝観音を崇むるに似たりといえども法華と同意に思わば観音全く喜びたまうべからず。
 外典なおこの例有り。
 陳子禽、子貢を讃めていわく、仲尼豈に子より賢ならんや。
 子貢悦ばずしていわく、君子は一言以て知と為す。
 一言以て不知と為す。
 言慎まずんばあるべからざるなり。
 云云。
 はかなき外典の者なお師の位と同意に思うをばかくの如く悦ばず。
 いわんや無垢の位に叶える観音に於いてをや。
 何にいわんや三世諸仏の師君たる妙法蓮華経を以て弥陀の弟子と言うこと、前代未聞の大悪口はなはだ耳目を驚動す。
 汝弥陀の徳を讃めんと欲して還って弥陀を大不義に堕す、大悪人に非ずや。
 そもそも弥陀成仏の本縁を尋ぬれば過去三千塵点の当初に大通智勝仏第九の王子として仏に従ってこの妙法蓮華経を聞き、出家修道して等正覚を成したまえり。
 未だ聞かず、弥陀余法を行じて成仏すと言うことを。
 故に経に「常楽説是妙法蓮華経乃至今皆得阿耨菩提於十方国土現在説法乃至一名阿弥陀」と言う。
 弥陀の成仏法華経に限ること証文誠に明かなり。
 弥陀いかでか吾成仏を遂げたまえる。
 法華経の恩徳を忘れて我が下に置きたまうべきや。
 雪山童子は鬼を敬いて師と為し、天帝は畜を拝して師弟の礼を尽くせり。
 上聖の大人師を敬いたまうこと是の如し。
 弥陀豈にその礼無けんや。
 およそ成仏の道、法を師としてこれを敬うに過ぎず。
 故に大経にいわく、諸仏の師とする所はいわゆる法なり。
 この故に如来恭敬し、供養したまうと。
 弥陀いかでか三世の諸仏に違して独り法華経を師とせざらんや。
 汝よく経釈を鑑みて邪見の慢幢を倒すべし。

一、彼の集にいわく、観音の頂上に弥陀有り。
 弥陀の足下に観音有り。
 念仏は法華の頂上に在り。
 法華は念仏の足下に有りと言う事道理文証何ぞ論ぜん。
 已上他難

 弾じていわく、汝かくの如き無尽の謗言は所詮観音妙法一体の釈より起これり。
 その破文上の如し。
 今汝が義に翻倒して経文に依って法華、弥陀、観音高下の次第を定めば妙法蓮華経の下に釈迦有り。
 釈迦の足下に弥陀有り。
 弥陀の足下に観音有るなり。
 驚いていわく、その証拠如何。
 答えていわく、妙法蓮華経は仏の師、仏は妙法蓮華経の弟子なり。
 故に天台のいわく、妙法を師として自行成就すと。
 自行成就の人は即ち仏なり。
 ここに依って仏の頂きに師の妙法を戴き、妙法蓮華経如来寿量品と題す。
 それ久遠の釈迦は一切諸仏の本地なり。
 その本地の仏の頂上には妙法蓮華経有す。
 また涅槃経にはこの故に如来恭敬し、供養すと言えり。
 この文に恭敬とはこの頂戴の義に非ずや。
 然らば則ち仏の頂上に妙法を戴くこと顕然なり。
 問うていわく、釈迦の足下に弥陀有る証拠如何。
 答えていわく、観音既に法華経の座に列りて八万の菩薩共に釈尊の足を礼せり。
 各礼仏足退座一面の文これなり。
 しかるに観音は宝冠に弥陀を戴き、弥陀を戴く頭を以て即ち釈尊の足を礼す。
 これ豈に釈尊の足下に弥陀有るに非ずや。
 道理分明なり。
 誰か諍いを為さんや。

第三十二、止観弥陀同体難
一、彼の集にいわく、摩訶止観の二にいわく、ただ専ら弥陀を以て法門の主と為す。
 乃至意論止観とは西方の阿弥陀を念ず。
 已上
 妙法は止観の体なり。
 止観また弥陀の体なり。
 然れば弥陀、妙法全く同じきなり。
 何ぞ弥陀を背いて妙法を執せん。
 豈に糠糟を食らいて米酒を捨つるに非ずや。
 已上他難

 弾じていわく、汝先段には妙法を以て弥陀の弟子と言い、今また言う、弥陀、妙法全く一体なりと。
 何ぞ自語相違するや。
 正体無き浮言を吐く故に前後の語相違せるを覚らざるか。
 また止観の釈は先段にくわしくこれを会す。
 重ねて会するに及ばず。
 次に弥陀、妙法全く同じきなり。
 何ぞ弥陀を背いて妙法を執すと難ずるか。
 汝弥陀妙法全く同じきの義を存せば何ぞ法華を捨閉閣抛して偏に弥陀を執するや。
 いわんや弥陀は所生の子、妙法は能生の親なり。
 能生の妙法を捨てて所生の弥陀を執するは親を捨てて子に就くが如し。
 糠糟の毀語豈に汝が身の上に非ずや。
 当宗より爾前の弥陀念仏を捨つるは正直捨方便の金言に依る。
 敢えて私の新義に非ず。

第三十三、止住百歳勝他難
一、彼の集にいわく、法華経第七薬王品にいわく、我が滅度の後々の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於いて断絶せしむる事無けんと。
 大経にいわく、当来の世に経道滅尽せん。
 我れ慈悲を以てひとりこの経を留めて止住すること百歳ならんと。
 西方要決にいわく、末法万年に余経ことごとく滅す。
 弥陀の一経利物偏に増す。
 已上

 礼讃にいわく、万年に三宝滅す。
 この経住すること百年ならんと。
 思益経にいわく、劫焼の時江河先に滅し、大海後に竭く。
 法滅の時は小法先に滅し、大法後に滅尽す。
 已上
 功徳の多少、善根の勝劣、引く所分明なり。
 訓釈に及ばず。
 また阿弥陀仏十往生経にいわく、我が滅後に於いてこの経を受持し八万劫の中に広宣流布してすなわち賢劫の千仏に至り、諸々の衆生をして普く聞知することを得せしむ。
 已上
 この経文の如くんば念仏の行体世世番番中間絶ゆること無し。
 大海の乾く時有りといえども念仏の尽きる期有ること無し。
 功徳広大なり。
 何ぞ法華に如んや。
 已上他難

 弾じていわく、諸経にたとい念仏の久住を説くこと塵沙の如しといえども未顕真実の権教たる上は更に信用するあたわず。
 その上四味の諸経をば江河に譬え、法華経をば大海に譬う。
 これ已顕真実の実説なり。
 何ぞ江河所喩の弥陀経を以て大海所喩の法華に相対して住滅の長短を論ずるや。
 雲泥懸隔の相論なり。
 汝とかくして法華の功徳を塞がんと欲す。
 大悪人に非ずや。
 手を以て大海を防ぎ、指を以て日月の光を掩うが如し大愚人に非ずや。

第三十四、諸経所讃有無難
一、彼の集にいわく、そもそも人倫の芸能は他人の称美を以て本と為し、自讃の言に非ざるを珍と為す。
 仏法もまたしかなり。
 爾前の大乗経の中に法華の徳を讃むること無し。
 今の念仏の如きは究竟大乗の諸経の中に多く弥陀を讃む。
 法華は自讃を好むといえども他教には許さず。
 念仏は只自讃して言を開くのみに非ず。
 あまつさえ他経共に讃む。
 しばらく一証を引かん。
 よろしく数部の明文を略すべし。
 華厳経にいわく、もし散乱の心に日々に弥陀を念ずれば臨終正念に住して決定して極楽に生ぜん。
 已上
 悲華経にいわく不浄を論ぜず、心乱を論ぜず、弥陀を念ずれば即ち往生することを得ん。
 已上
 正法念経にいわく、弥陀仏を念ずれば即ち諸仏を念ずるが故に念仏の人は即身に成仏す。
 已上
 大仏頂首楞厳経にいわく、大勢至法王子仏に白して言さく、我往昔の恒沙劫を憶うに仏出世したまうこと有しき。
 無量光と名付く。
 乃至彼の仏我に念仏三昧を教えたまう。
 已上
 菩薩処胎経にいわく、楞伽経にいわく、妙勝塔にいわく、弥陀思惟経にいわく、平等覚経にいわく、秘密神呪経にいわく、首楞厳経にいわく、清浄覚経にいわく、陀羅尼集経にいわく、往生浄土本縁経にいわく、通摩訶方広経にいわく、般舟三昧経にいわく、それこれらの諸経は大乗極理の教、中道頓証の経なり。
 豈に諸経の所讃を捨てんや。
 已上他難

 弾じていわく、自讃他讃の義世間の芸に於いては汝が義しかるべし。
 但し一代聖教に於いては自讃他讃の義すべて言われず。
 所以何となれば八万法蔵十二部経その数多しといえども皆釈迦仏の所説なり。
 一経一巻も他仏の説無し。
 爾前の諸経に多く弥陀を讃むるも皆これ釈迦の所説なり。
 全く他讃に非ず。
 阿弥陀経の六方証誠も釈迦の自説なり。
 敢えて諸仏は来たりたまわず。
 故に彼の経に「各於其国出広長舌」と言う。
 一代の諸経、経々は替わるといえども教主は唯一仏なり。
 何ぞ他讃と言わんや。
 汝また法華経を以て偏に自讃と言う。
 この義また大なる誤りなり。
 多宝の証明豈に他讃に非ずや。
 いわんや多宝の一仏に一切諸仏を摂す証文すでに上に出しおわんぬ。
 何にいわんや十方の諸仏、神力品に至って広長舌を出して法華の誠諦を証す。
 然れば法華は他讃広大なり。
 何ぞ偏に自讃と言わん。
 但し他経に法華を讃めずと言う難に至っては他経に於いて法華を讃めざるを以て還って法華の規模と為す。
 所以何となれば世間の事なお大事の義をば名字すら深く隠して、先だって人に聞かしめず。
 いわんや出世甚深の妙法未だ時至らず。
 いかでか兼ねてその名を顕してこれを讃歎すること有らんや。
 それ法華経は終窮究竟の極説なる故に四十余年の間は仏深く一会の大衆に秘して名字を聞かしめたまわず。
 いわんやその義を演べたまわんをや。
 深く秘する所以は未熟の機をして謗を生ぜざらしめんが為なり。
 故に経にいわく、もしただ仏乗を讃めば衆生苦に没在してこの法を信ずることあたわず。
 法を破して信ぜざるが故に三悪道に堕つと。
 彼の五千の上慢久しく調熟を蒙りしに法華の座に至ってなお謗を生ずべき機有り。
 故に三止四請して速やかにこれを説きたまわず。
 五千退座して後に広く五仏の開顕を顕したまう。
 いわんや爾前に於いて何ぞ倉卒に法華の名を顕し、これを讃むること有らんや。
 彼の黄石公が一巻の書、なお張良に授くることたやすからざりき。
 いわんや法華甚深の秘密に於いてをや。
 故に知んぬ、他経に於いて法華を讃めざるを以て誠に一代超過の験と為す。
 この義を以てこれを見れば爾前の諸経に於いて汎々に弥陀を讃むること還ってこれ弥陀念仏は至極の秘法に非ざる故なり。
 汝この道理を知らず、空しく権門の弥陀に執して還って法華独妙の能を失わんとす。
 豈に大謗法に非ずや。
 次に汝弥陀所讃の経を引くことすべて十六部。
 これらの経々その数これ多しといえどもその所詮を尋ぬれば皆これ法華已前の権教なり。
 千万の讃歎も何かせん。
 未顕真実の一言に破れおわんぬ。
 譬えば日輪東天に出れば無量の諸星一時に光を滅するが如し。
 諸経に弥陀を讃むること多きは衆星の光の如く、未顕真実の一言は日天の光明の如し。
 然れば則ち無量の経々に弥陀を讃むるといえども実に何の憑みか有らんや。

第三十五、誹謗正法極成難
一、彼の集にいわく、我が宗は法華の得益をも許し、他の機に随うが為その行業を勧む。
 かつて誹謗すること無し。
 已上他難

 弾じていわく、汝大いに誹謗をなす。
 しかして誹謗すること無しと言うはまず大妄語なり。
 妄語の者は必ず地獄に堕つるなり。
 故に首楞厳経にいわく、もし大妄語すれば仏種を銷滅して三苦の海に沈む。
 已上
 正法念経にいわく妄語は第一の火なり。
 なおよく大海を焼くと。
 須陀摩王の偈にいわく、妄語は地獄に入ると。
 汝いかでか無間に堕ちざらんや。
 問うていわく、誹謗の証拠如何。
 答えていわく、汝先段に於いて或いは法華は小乗に対して経王と言い、或いは法華を以て、弥陀の弟子と言い、或いは法華を以て勝鬘経に劣ると言い、或いは双観経に劣れりと言う。
 釈迦多宝十方の諸仏、天台、伝教等は法華経を以て已今当の諸大乗経に対して大王と為し、法華経を以て弥陀の師と為し、法華経を以て真実と為したまう。
 汝大いに釈尊等の大聖の義に背く。
 これ豈に誹謗の至極に非ずや。
 また汝法華等の得益を許すと言うか。
 これ甚だ自立廃妄なり。
 善導和尚のいわく、千中無一と。
 道綽禅師のいわく、未有一人得者。
 云云。
 法然上人のいわく、捨閉閣抛。
 云云。
 祖師三人の義と汝が義と大いに相違せり。
 師敵対なり、逆路伽耶陀なり。
 いかでか阿鼻大城に堕ちざらんや。

一、彼の集にいわく、汝念仏の得益を許さず。
 なお還って無間の業と号す。
 よって誹謗正法は日蓮宗なり。
 已上他難

 弾じていわく、当宗の立義念仏の得益を許さざることは敢えて祖師の自義に非ず。
 既に釈尊の直説には未顕真実と宣べ、菩薩の領解には終不得成と定め、天台は廃権立実と釈し、妙楽は永不用権と判じ、伝教は都不用権と釈す。
 念仏の得益を許さざる人を誹謗正法と言わば、釈尊並びに八万の大菩薩、天台、妙楽、伝教等は皆誹謗正法の人なりや如何。
 日蓮聖人に立義は経文に符合し、釈尊の金言に違わず、天台、妙楽等の解釈に叶えり。
 何ぞ誹謗正法と言わんや。
 在世の外道、釈尊を大悪人と謗るが如く、汝が邪見外道よりも甚だし。
 末法唱導の大正師に於いて悪口を為し無実の失を付く。
 その罪幾ばくぞや。

一、彼の集にいわく、観仏三昧経にいわく、弥陀を繋念すれば必ず極楽に生ず。
 もし人信ぜずんばまさに無間に堕つべし。
 已上
 華厳経にいわく、末法の世に念仏を信ぜずんば当来の苦果無間獄ならん。
 已上
 またいわく、形は比丘なりといえども念仏を信ぜずんば心は畜生の如し。
 永く成仏せず。
 已上
 龍華経にいわく、もし人念仏の発心に向かって一たび悪心を発さば億劫を経るとも成仏せず。
 已上
 仏蔵経にいわく、三宝を毀謗せば阿鼻獄に堕ちて仰いで臥し、伏して臥し、左脇に臥し、右脇に臥して各々九百万億歳熱鉄の上に於いて焼燃●爛せん。
 已上
 十往生経にいわく、もし念仏を謗ぜん者は必ず阿鼻地獄に入り更に出る期無し。
 已上
 大経にいわく、唯五逆、誹謗正法を除く。
 已上
 大論にいわく、弥陀の本願を疑う者は五劫地獄に堕ちて苦を受けん。
 已上他難

 弾じていわく、汝この六経を引く意は法華宗、弥陀を誹謗する故に地獄に堕つべしと言う義か。
 当宗の立義何ぞ強いて弥陀を謗ぜん。
 ただ釈迦の如く尊敬せざること我等衆生の為に三徳を備えざるが故なり。
 世間の道も吾親を閣いて他人の親を敬うは不孝の者なり。
 孝経にいわく、その親を敬わずして他人を敬うはこれを悖礼と言うと。
 仏法もまたかくの如し。
 法然所立の如くんば有縁の釈尊を疎かにして無縁の弥陀を敬う。
 これ世間の道に違い、また出世の法に背く。
 いかでか無間に堕ちざらんや。
 当宗の立義は有縁の仏を本として、無縁の仏を次にす。
 これ世間の道にかないまた出世の理に順う。
 何を以てか誹謗と言わん。
 およそ誹謗とは仏説に乖背する義なり。
 しかるに弥陀念仏を捨つるは全く乖背の義に非ず。
 正直捨方便の金言に順う故に誹謗と為らず。
 何の咎有って地獄に堕ちんや。
 但し汝今六経の文を引いて念仏を捨つる者は地獄に堕つべしと難ずるか。
 これらの経文はたとい億々万々有りといえども皆ことごとく法華已前の権教なり。
 法華の行者に於いて全く用ゆべきの道理無し。
 諸経の諸文は民の万言、法華の一文は天子の一言なり。
 天子の一言を以て民の万言を破ること何の咎か有らんや。
 難じていわく、諸経の文を以て民の万言に喩えることその義いわれず。
 爾前の諸経も釈尊の所説なり。
 法華の教主とは別体の仏に非ず。
 何ぞ諸経の教主を民に譬え、法華の教主を天子に喩うや。
 答えていわく、別体の教主ならずといえども法の浅深に依って教主の位大いに優劣有り。
 例せば大舜匹夫たりし時は自ら井を掘り、自ら屋根を葺く。
 その養いなお未だ父母に及ばず。
 後堯の譲を受けて天子となりし時は宝衣、宝冠、恩沢あまねく万民に潤うが如し。
 これ豈に一人の身に於いても時に依るが故に大いに優劣有るに非ずや。
 教主もまたかくの如し。
 権教を説く時の仏はもっとも卑劣なり。
 舜の匹夫たりし時の如し。
 法華を説く時の仏は甚だ尊高なり。
 舜の天子と為る時の如し。
 故に記の一に「方知四仏体同用殊」と釈す。
 この釈明らかに四教の仏の高下を弁ず。
 明らかに知んぬ、諸経は民の万言、法華経は天子の一言なり。
 証文分明なり。
 誰か諍いを為さんや。

一、彼の集にいわく、大論にいわく、弥陀の本願を疑う者は五劫地獄に堕ちて苦を受く。
 已上
 この文の如くんば法華宗は本願を疑う故に地獄に堕つべき事疑い無き者か。

 弾じていわく、汝弥陀の本願に於いて権有り実有ることを知らず。
 いわゆる念仏の本願は権教の説未顕真実の故に弥陀の本意に非ず。
 正直捨方便の故に念仏の本願を捨つ。
 これ全く咎に非ず。
 更に地獄に堕つべき道理無し。
 法華の本願は実教の説なるが故に弥陀如来真実の本意なり。
 いわゆる「常楽説是妙法蓮華経」と説きたまえるこれなり。
 弥陀の本願は実に法華経に限ること金口の明説なり。
 もしこれを疑う者は必ず無数劫、無間に堕つべし。
 経に「如是展転至無数劫」と説くこれなり。
 しかるに法華宗実教法華の本願を信じて権教念仏の本願を捨つ。
 これまさしく金言に相かなう。
 浄土宗の如きは権教の念仏の本願を執して実教の法華の本願を捨つ。
 故に釈尊の金言に背き、弥陀の本意に違う。
 故に謗法と為り必ず無間に堕ちんこと掌を指さんのみ。

断悪生善 下巻 終