萬代亀鏡録

円珠真偽決【前】(仏性院日奥)

円珠真偽決 序
 それ珠に真偽の差あり。
 円に権実の異あり。
 いわゆる彼の夜光等の如きはこれ真の宝珠なり。
 黄石等の如きはこれ偽宝なり。
 珠の名同じきを以て豈に夜光と黄石とそれ光を斉しうせんや。
 円体もまた然なり。
 爾前今経同じく円と名付くるといえども体に広狭有り、理に粗妙有り、用に優劣有り。
 何ぞ彼の兼帯の円、この法華独妙の円に斉しからんや。
 およそ諸部の円教と法華の円と同異を論ずること山門寺門古来の諍いなり。
 互いに文釈あり。
 供に料簡あり。
 しかりといえども両方の義未だ決せざるか。
 但し当家に入りてまさにこの義を明らむるにその差異炳焉なること白日に天地を見るに高下宛然なるが如し。
 今洛陽に一類の僧徒ありて邪義の法門を弘めて一切衆生を惑わす。
 その名を練意と号す。
 希に俗塵を出でて遁世の門に入り、たまたま教門を学ぶといえども未だかつて仏陀の本意を知らず。
 即ち爾前法華の起尽に迷って深く僻見を生じ権実の謗法を為す。
 あまつさえ悪書を造って世間に流布し、大いに邪道を興す。
 愚痴の道俗これに順うこと譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し。
 頑愚の男女これに帰することなお衆流の大海におもむくが如し。
 ここに因り慧灯日々に滅し、法水月々に濁れり。
 嘆かずんばあるべからず。
 悲しまずんばあるべからず。
 随って彼の偽書を開くに第一に今昔の円を混ぜんが為に十重の道理を立てこれを証するに文釈を以てす。

 第二に難問を挙げて邪会を構う。
 第三に重ねて譬喩を以てこれを暁す。
 諸義皆ことごとく邪謂にして百に一も理にかなうこと無し。
 広く証文を引くといえども曲会私情の引証全く本義に非ず。
 己が管見に随ってほしいままに聖意を塞ぐ。
 緇田の蝗虫宝山の曲林なり。
 剪らずんばあるべからず。
 除かずんばあるべからず。
 今一々に條を取り正義を以てこれを難じ、彼の邪見を摧破するに大水の小火を消し、大火の乾草を焼くが如し。
 自宗他宗の重々の不審経論を以て邪正を糺し、一切仏説に任せて、敢えて自義を存することなし。
 我慢を捨ててこれを習わば誰か悟らざらんや。

円珠真偽決 上巻
 大文の第一に他今昔の円を混ぜんが為に十重の道理を立てしかして証文を出す。


一、三諦相即し万法融通するを以て法華と言うこと。
二、玄文に地論中論を引いて法華の体を証すること。
三、直顕実の仏慧と開権顕実の仏慧と同じきこと。
四、諸大乗経の円と法華経の円と同体異名なること。
五、諸大乗経の円と法華経の円と彼此相入すること。
六、諸大乗経の円観と法華経の円観と同じきこと。
七、諸大乗経の法相と法華の法相と同じきこと。
八、法華経に於いて爾前の円教を開せざること。
九、法華経に於いて他教の中の円益を破せざること。
十、上根は華厳に於いて醍醐を得乃至下根は法華に於いて醍醐を得。
 この故に今昔の円体同じきこと。
已上
 他の立つる所の十重の道理なり。
 今一々條を挙げて難破を加うべし。

第一に他のいわく、三体融即し、万法融通するを法華と言う。
 この旨専ら華厳、方等、般若に明かす。
 この故に今昔の円体これに同じ。
 もし不同と言わば何ぞ他経に三諦相即し万法融通する旨を明かすや。
 金剛●論にいわく、諸大乗経すでに多く頓を顕す。
 華厳の中の普賢普眼三無差別、大集の染浄一切融通、浄名の不思義毛孔含納、思益の網明無非法界、般若の諸法混同無二、法華の本末実相皆如の如し。
 云云
 已上他義

 報じていわく、この義最も大なる難なり。
 いにしえの碩学なおこの法門に迷えり。
 いわんや末代浅学の輩に於いてをや。
 但し宗義の奥●に入って深くこの義を糺明するに甚だ以て管見なり。
 大いに以て僻見なり。
 今金●論に引く所の諸大乗経その数これ多しといえども詮を以てこれを言わば皆これ法華已前の権経なり。
 方便なり。
 もしこれらの諸経に成仏の実義を説かばいかでか未顕真実と破り、正直捨方便と棄てんや。
 所詮仏法の邪正を糾さんこと専ら経文の金言に依るべし。
 依法不依人の故に余の才学を用ゆべからず。
 一宗の学者まず須くこの義を案ずべし。
 諸衆の碩学来たって何なる甚深の経を引いて法華経に同ぜんと欲するも、法華已前の経ならば未顕真実の文を以てこれを打つべし。
 已後の経ならば当説の文を以てこれを責むべし。
 序分の無量義経なお今経と簡んで随他意に属す。
 但しこの随他意は未合の一辺を指す。
 余部の随他意には同じからず。
 この三説に秀でたる法華経は須弥山王の諸々の小山の中に在るが如く、大日輪の衆明の中に在すが如く、一天の大王万民の中に在すが如し。
 何れの経か法華経に肩を並べ何なる法かこの経に同等の義を諍わんや。
 学者深くこの義を得てよく意地に置かば難勢鋒の如くに来たるとも驚動すべからず。
 いささかもこの轍を失わば難に当たって必ず当惑せん。
 しかるに彼の諸大乗経は三諦相即の名有りといえども未開会の故に実にその義有ること無し。
 所以何となれば彼の華厳等の大乗は実相の義を説くといえども未だ二乗闡提の成仏を明かさず。
 もし実に万法融通せば何ぞ二乗を隔つるや。
 故に弘決にいわく、諸大乗経に諸法を融通すれども二乗をして発心せしむることあたわず。
 等しくこれ融通ならば何ぞ融して二乗をして作仏せしめざる。
 已上弘決
 釈の心分明なり。
 明かに知んぬ、爾前の円は究竟の円に非ず。
 何ぞ法華に対して同体と言うや。
 魚目と明珠と未だその異を分かたざる者なり。
 次に金●論の文の事、この論に多く諸大乗経融通の文を引くことは実に法華の円理を顕さんが為なり。
 何となれば諸余の大乗は一分融通の理有りといえども未だ円融の義有らず。
 円融と融通とその語似たりといえども義に於いて異り有ることを明らかに知んぬ。
 彼の文はこの論の正意に非ず。
 只これ助顕の為なり。
 問うていわく、諸大乗の文この論の正意に非ざる証文如何。
 答えていわく、金●論にいわく、一家所立の不思議境は一念の中に於いて理に三千を具す。
 則ち通じて一切の大部に依るといえども妙境を指的すること法華より出ず。
 已上論文
 狐山の顕性録にいわく、今の論の華厳の依正不二大集の染浄融通等その文旨をかんがうるにまさしく二経に在り。
 一には法華の顕実を宗とす。
 二には涅槃の談常を宗とす。
 然れどもその要はまさしく唯法華を宗とす。
 故に文に「指的妙境出自法華」と言うなり。
 この故に華厳の三無差別涅槃の虚空仏性を用ゆといえども皆法華の諸法実相を成ぜんが為のみ。
 已上録文
 この釈顕然なり。
 明らかに知んぬ、諸部の円文は論の正意に非ず。
 只これ一実の魚兎を取るが為の筌●なり。
 問うていわく、法華已前に円融三諦を説かざる証文有りや。
 答えていわく、これ有り。
 無量義経にいわく、未曽不説。
 云云。
 註釈にいわく、不説と言うは即ちこれかりに隔歴の三諦を説いて未だ真実円融の三諦を説かず。
 法華の前四十余年四時所説の四教八教、結成すでにおわんぬ。
 已上註釈秘文也
 金●論にいわく、現未を捜し求め円融を建立す。
 已上論文
 この文に現未とは現は法華経、未は涅槃なり。
 然れば則ち法華涅槃の二経を以て円融の法門を建立するなり。
 法華已前の諸大乗経にはかつて円融の義無し。
 故に醍醐の両経をよりどころとす。
 問うていわく、円融と融通とその差別如何。
 答えていわく、円融とは欠減無きの義なり。
 しかるに爾前の円は欠減の義有り。
 故に全く円融に非ず。
 欠減の義有りとは爾前の円には二乗作仏を明かさず。
 いわんや久遠実成の大事跡を削りぬ。
 二乗作仏無ければ十界互具の法門顕れず。
 十界互具の義顕れざれば衆生成仏の実義無し。
 故に爾前の円は成仏得道と言うも有名無実なり。
 故に円融の義欠けて別教に摂す。
 次に融通とは爾前の大乗に三教を開会す。
 これを融通と言う。
 これは法開会にして人開会にあらず。
 人開会を明かさざれば円融と名付けず。
 釈箋にいわく、始め華厳より終わり般若に至るまで不同多しといえどもただ次第三諦の所摂と為す。
 今経に実を会するをまさに円融と言う。
 已上箋文
 この釈明らかに円融の義法華にかぎれり。
 従義のいわく、融通とは般若の中に至って一切法ことごとく摩訶衍なりと会す。
 まさに知るべし、この融円融と謂うには非ず。
 すなわちこれ三教融通の融なり。
 已上
 この義明らかに法開会を指して融通と言うなり。
 般若には未だ人開会を明かさず。
 故に円融と言わず。
 宝記にいわく、今会法会人を以てまさに円融と名付く。
 已上
 これらの釈義を以て円融と融通とその不同これを弁うべきなり。
 問うていわく、法華已前に相即を明かすや。
 答えていわく、明かさず。
 疑っていわく、爾前の円は即に非ずや。
 答えていわく、爾前の円は即に似たりといえども理即ならざることあり。
 既に二乗を会せず。
 故に真の即に非ず。
 しかるに相即とは十界互具の義なり。
 爾前には十界互具を明かさず。
 故に相即の義無し。
 然れば則ち相即の実義はただ法華にかぎるなり。
 問うていわく、証文ありや。
 答えていわく、記の十にいわく、権実の語は独り今経のみに非ず。
 相即の言はこれより出でたり。
 已上記文
 相即の義法華にかぎることこの釈もっとも明かなり。
 また記にいわく、相即と言うは即は只これ開なり。
 已上記文
 この釈に開とは開権の義なり。
 開権の妙法を以て即と名付くるなり。
 開権は法華にかぎる。
 故に爾前に即の義無しと言うなり。
 また記の三にいわく、円を以て即と為すと。
 云云。
 この円は開権の円なり。
 箋の一にいわく、円はこれ妙の別名なり。
 云云。
 所詮円と妙と即とは同じく開権の義なり。
 心要にいわく、即の故に初後不二なりと。
 已上心要
 この釈に初と言うは理即の位、後と言うは究竟即なり。
 理即妙覚と不二なりとは十界互具の法門なり。
 この義爾前にこれ有りや。
 法華已前には未だ十界互具の名をも聞かず。
 故に弘決にいわく、一家の円の義は初後不二なり。
 まさに諸教に異なる。
 已上弘決
 心要には即故初後不二と言い、弘決には円義初後不二と言えり。
 即と円と同じ義にしてすべて諸教に無き証文分明なるに非ずや。
 放光抄にいわく、即と円とは法華経の別名なり。
 即とは凡夫即極なり。
 已上放光抄
 これ最も秘文なり。
 記の十にいわく、余教の中に必ず衆生即仏のことば無きを以てなり。
 已上記文
 これらの文証を以て法華已前に相即の法門を説かざることを知る。

第二に他のいわく、玄文に法華経の体を証する中に地論中論の文を引いてこれを証す。
 故に今昔の円体これに同じ。
 もし不同と言わば何ぞ他の論文を引いてこの経の体を証せんや。
 玄の文にいわく、金剛蔵仏の甚微の智を説くと。
 辞異なれども意同じ。
 その辞にいわく、「空有不二不異不尽」と。
 中論にいわく、「因縁所生法即空即仮即中」と。
 これすなわち二経の双美を総べ両論の同致をのべ、一家の懸会を顕し、今経の正体を明かすなり。
 已上他義

 報じていわく、この理極成せず。
 およそ今家の判釈に他経他論を引くこと最もその所以有り。
 汝大師の内証に暗くして大いに邪見を生ず。
 所以何となれば大師自解仏乗の内証法華開会の上より立ち還って爾前の意を判じて以て今経の妙理を助釈す。
 故に一往文を借れども義分は全く法華の意なり。
 すべて彼の経論の意に非ざるなり。
 問うていわく、今家の釈義他教他論の文を借れども義分は爾前の意に非ずと言うこと何をもってこれを知らん。
 答えていわく、妙楽大師のいわく、一家の釈義名通じ義別なり。
 云云。
 無量義経にいわく、文辞一なりといえどもしかも義各々異なり。
 云云。
 上の妙楽の釈に名通とは文辞雖一の義なり。
 義別とは而義各異の意なり。
 経釈を開くにこの意を得ずんば甚だ大いに迷倒しなん。
 汝今二論の文を引く。
 論は総じて経意を申ぶるなり。
 もし論の本文経の意に相違せばこれを用うべからず。
 これ依法不依人の金言を本とするが故なり。
 故に天台のいわく、修多羅と合せば録してこれを用いよ、文無く義無くんば信受すべからず。
 已上
 しかるに今汝が引く所の地論は華厳の意を申ぶるなり。
 本経すでに未顕真実の権経なり。
 権経の意を申ぶる論に豈に仏の本懐を顕さんや。
 体曲がれば影直からず。経は体の如く論は影の如し。
 本経の体曲がれば論の影豈に直からんや。
 故に玄の三にいわく、方便の諸経は智を明かすこと既に兼なり。
 経を通ずるの論豈に妙と為すことを得んや。
 已上玄文
 明らかに知んぬ、地論は全く仏意を宣べず。
 いかでか実に法華の正体を顕さんや。
 只この文を借ってこの経の妙理を助顕するなり。
 問うていわく、諸大乗の文実に成仏の正義ならずんば何ぞ煩わしくこれを引いて法華の義を顕さんと欲するや。
 答えていわく、最も所以有り。
 楞厳の先徳深くその意を得られたり。
 一乗要決にいわく、問う、もし彼の余経の一乗不了義ならばいかんぞ彼を引いて法華を助成するや。
 答う、その旨同じき者これを引いて助成す。
 つちくれをとって山を崇うする何の過有らんや。
 已上要決
 これ最も明釈なり。
 天台、妙楽の釈疏皆この義なり。
 法華の大綱成仏の正義はなお大山の如く、余経微細の法門はつちくれの如し。
 つちくれを以て大山に添う何の不可有らん。
 然れば則ち成仏の正体は法華に限り、その余の網目は諸典に散在せり。
 これを取って法華を助成する最もその謂われあり。
 経にいわく、種々の道を示すといえどもそれ実には仏乗の為なり。
 云云。
 所詮仏の元意に還って諸経所説の法門を捜れば四味八教の弄引は皆法華の唯一仏乗の為なり。
 これを引いて助釈するに何の相違有らん。
 故に経にいわく、更に異の方便を以て第一義を助顕す。
 云云。
 助成の為の故には外典外道の説なおこれを引く。
 いわんや仏経に於いてをや。
 然りといえども成仏の正義にはこれを用いざるなり。
 次に中論の文の事この論は融通なりといえども前四味の通論にして一代の通論に非ず。
 所詮この中論四巻は龍樹菩薩大品般若に依って大智度論百巻を造る。
 その中より出でたる論なり。
 依経すでに未顕真実の権経なり。
 権経の意を申ぶる論に豈に仏の本懐を明かさんや。
 故に四教を明かすといえども未開の四教なり。
 三諦を宣ぶるといえども法華開会の三諦に非ず。
 只これ爾前当分の四教三諦の法門なり。
 何を以てか全く法華の妙理に同ぜん。
 しかるに大師釈義を設けたまう時この経の妙理幽奥にして直爾に顕し難ければしばらく諸経緒論の相似の文を引いて漸々に練磨し、次第に簡択して法華の深理を顕すなり。
 故に助顕の為にはしばらく爾前の経論を引くといえども法華の理すでに顕れぬればことごとく権の理を破してすべてこれを用いず。
 故に釈箋にいわく、既に実を識りおわんぬれば永く権を用いず。
 云云。
 またいわく、もしは破もしは立皆これ法華の意と。
 已上釈箋
 所詮釈義の元意を明かして論文に執することなかれ。
 問うていわく、しかれば大師の内証実に中論を用いざる意これありや。
 答えていわく、これ有り。
 玄義の第三にいわく、かくの如きの破会深広なり中論を以て相比することなかれ。
 已上玄文
 問うていわく、この釈意如何。
 答えていわく、これ他師破なり。
 天台已前の学者法華深広破会の意を知らず。
 中論未開の義を以て法華開会の深意を釈すること大なる誤りなり。
 故に「莫以中論相比」と釈す。
 問うていわく、この釈に破会とは何なる義なるや。
 答えていわく、破は相待妙の義、会は絶待妙の義なり法華経は待絶二妙の意に過ぎず。
 玄義にいわく、この経は唯二妙を論ず。
 云云。
 しかるに相待妙とは未開の爾前の経をことごとく粗法と名付け、開会の法華経これを妙法と為す。
 この妙法を以て彼の粗法を破す。
 これ即ち相待妙今の破の字の意なり。
 次に絶待妙とは粗即妙と開会して二法の異を見ず独一法界なり。
 これ即ち絶待妙今の会の字の意なり。
 故に法華経の心は破する時は一切粗智及び別教の後心乃至兼帯の円に至るまで悉くこれを破す。
 会する時は三蔵の小智乃至人天四悪趣の粗智粗人に至るまで皆これを会す。
 故に破会深広と釈す。
 豈に中論にかくの如き深広の義有らんや。
 これに因って釈箋にいわく、もし破会を論ぜば未だ法華にしかず。
 已上箋文
 明らかに中論の法華経に劣れるなお天の階を立てても及ばざるが如し。
 汝眼有らばよくこの本末の釈を見よ。
 天台、妙楽の二聖共に中論を用いざる意顕然なり。
 嗚呼邪人論釈を引くといえども未だその淵底を究めず。
 憐れむべし、憐れむべし。
 第三に他のいわく、諸大乗経の直顕実の仏慧と法華経の開権顕実の仏慧と義同じ。
 故に今昔の円体これに同じ。
 もし不同と言わば何ぞ初後仏慧円頓義齊と言わんや。
 文句の五にいわく、方等教の中に大乗の実慧を聞く。
 今と殊ならず。
 故に聞如是法と言う。
 文句の九にいわく、大直道を行ずるを直顕実と名付け、声聞の法を決了するを開権顕実と名付く。
 根利に縁熟するは始めに仏慧に入り、根鈍にして後に熟するは今仏慧に入る。
 云云。
 已上他義
 報じていわく、仏慧の辺に於いて爾前法華しばらく同の義を許すといえども実を以てこれを勘うるに大いに差別有り。
 所以何となれば爾前の円に於いては一代正機の二乗に未だ記●を与えず。
 あまつさえ焦種破石等の譬えを以て永不成仏の者と定む。
 故に身子領解の文に諸々の菩薩の受記作仏を見る。
 しかして吾等斯事に預からず。
 甚だ自ら感傷すと言う。
 智慧第一の舎利弗なお爾前の仏慧を聞いて永不成仏の思いを成し、嗟歎の悔いを発す。
 いわんや末代愚鈍の凡夫これを聞いて得道すること有らんや。
 その上二乗界成仏せずんば菩薩の衆生無辺誓願度の願も満ずべからず。
 もし度衆生の願満ぜずんば無上菩提誓願証の願も満ずべからず。
 故に二乗成仏せずんば菩薩の成仏も叶わざるものなり。
 菩薩の成仏叶わずんば豈に余の八界の成仏を許さんや。
 爾前経に於いてたとい何なる甚深の理有りと称すとも衆生成仏せずんば何の詮か有らんや。
 譬えば貧窮の人隣の富貴を聞くといえども全く自身に一分の所得無きが如し。
 自他仏道を信ずること本仏道を成ぜんが為なり。
 もし普く益を蒙らずんば誰か法の勝利を仰がん。
 汝よく思量せよ。
 次に爾前大乗の直顕実と法華の開権顕実と義同じと言うは一往なり。
 再往実義を言うときは則ち大いに差別あり。
 所以何となれば爾前の直顕実は大機の者を益して小機の者を益せず。
 故に天台のいわく、所被の人唯大士の為にして二乗の為にせず。
 已上 
 文授決集にいわく、只大機の利鈍を収めて小機の利鈍を収めず。
 已上決集
 法の至って高上なるはよく底下の機に逗ぶ。
 譬えば高山の水の深谷に下るが如し。
 然るに彼の直顕実は只大機を益して小機を益せざることはその法理実に浅劣なる故なり。
 詮を取ってこれを言わば直顕実は只これ別教旦中の分齊なり。
 敢えて諸仏の本懐に非ず。
 法華経の開権顕実は愚痴の極を済う。
 いわんや上根の者をや。
 故に経に「利根鈍根等雨法雨」と言う。
 これ出世の本懐なる故なり。
 釈箋にいわく、諸仏の出世は本開権にあり。
 已上箋文
 記にいわく、顕実の語通ぜり。
 開権はこれにかぎる。
 已上記文
 一乗要決にいわく、実相の智慧その名同じといえども開顕の仏慧究竟最大なり。
 已上要決
 経釈の意誠に分明なり。
 何を以てか同と言わんや。
 一往の釈を以て再往の実義を廃すべからず。
 次に文句の五にいわく、方等教中等。
 云云。
 問うていわく、汝が料簡の如くんば方等の時より身子尊者法華の仏慧を聞けりと言うか。
 他のいわく、しかなり。
 自のいわく、しかれば何ぞ身子が領解の語にしかも今仏に従って未だ聞かざる所の未曾有の法を聞いて、諸々の疑悔を断ずと言うや。
 この経文明らかに身子法華経に於いて始めて開顕の実相を聞いて疑いを断ずと領解す。
 もし方等の時よりこの妙理を聞かばいかでか聞所未聞と言わん。
 その上身子が領解は上の品の広開三顕一五仏道同を領しすでに五仏道同して爾前方便の諸経を捨てて法華に至り初めて真実を顕す。
 故に経に正直に方便を捨てて但無上道を説く、乃至三世諸仏の説法の儀式の如く、我今亦是の如く無分別の法を説くと言う。
 およそ前に四味三教の方便を設け、第五時に至って始めて本懐を暢ぶることは三世の諸仏不易の化導なり。
 もしこの次第を乱らん者は天魔なり。
 外道なり。
 方等、般若等の権大乗経は法華の妙理に入らんが為のしばらくの弄引なり。
 いかでか彼の経々に於いて実義を宣ること有らんや。
 故に経に四味の諸経を説きたまう。
 元意を宣べて第一の寂滅を知らしめして方便力を以ての故に種々の道を示すといえどもそれ実には仏乗の為なりと言う。
 已上経文
 問うていわく、この経文の種々道の内に爾前の円を籠めて方便に属するや。
 答えていわく、種々道の内に爾前の円を籠めたり。
 問うていわく、その証拠如何。
 答えていわく、弘決の三にいわく、八教四味を方に種々と名付くと。
 已上決仏
 この釈に明かに爾前の円を以て種々道の内に入れ方便に属してこれを捨てたり。
 下文に正直捨方便と言える豈にその事に非ずや。
 他のいわく、しかれば今の釈に大乗の実慧を聞き今と殊ならずと言える、如何が心得べきや。
 自のいわく、方等教の中に大乗の実慧を説くといえどもこれ未開の実慧なり。
 全く法華開会の実慧に非ず。
 但し与今不殊の難に至っては身子尊者法華に於いて初めて開顕の実相を聞いて仏知見を開き、その悟りの内証より立ち還って昔日の仏意を探って聞如是法と言うなり。
 これを今余今不殊と釈す。
 箋の十に昔日の授記仏意不壅と言えるこれなり。
 全く爾前の実慧即法華に同ずと言う義に非ず。
 いわんや方等実慧は五味に約すれば生蘇味なり。
 法華はこれ醍醐味なり。
 生蘇と醍醐と豈にその味同じからんや。
 なお般若の熟蘇味に及ばず。
 何にいわんや法華醍醐味に及ばんや。
 かくの如きの異を弁えず、爾前法華全く同等と言わんは豈に拙き眼に非ずや。
 いわんや無量義経に正しく方等の名を挙げて未顕真実と打ち、「終不得成無上菩提」と破す。
 これすでに金言の所破またこれ八万の菩薩の領解なり。
 誰か疑滞を生ぜんや。
 問うていわく、爾前に於いて菩薩の得道治定なりや。
 答えていわく、菩薩の得道も有名無実なり。
 敢えて信ずべからず。
 他難じていわく、「菩薩処々得入」の文如何。
 答えていわく、これ二乗を斤う時菩薩に一往得入の名を与えるなり。
 爾前の菩薩も実に円益を蒙ることは法華の時なり。
 問うていわく、何を以てこれを知らんや。
 答えていわく、それ成仏の実義は十界互具を以てこれを定む。
 しかるに爾前に於いては十界互具を未だ顕さず。
 故に二乗作仏なし。
 もし二乗界の作仏を許さずんば菩薩の得道も実に叶うべからず。
 所以何となれば菩薩界に本有の二乗界を具す。
 菩薩の一身に具する所の二乗界成仏せずんば豈にその菩薩界の成仏を許さんや。
 明らかに知んぬ、法華開権の妙法を聞かずんば菩薩の得道も実に叶わざる者なり。
 故に法華に至って菩薩この法を聞いて疑網皆すでに除くと言う。
 この文明らかに爾前に菩薩の実益を許さず。
 次に初後仏慧円頓義齊の事いにしえよりこの釈に迷うて学者多く悪見を生ず。
 これ大師の内証を知らざる故なり。
 およそ今家の釈に於いて与奪傍正、当分跨節約教約部、仏意機情、教証二道等の重々の得意これあり。
 この趣を弁えず只一辺の釈を見て妄りに是非を判ず。
 その害誠に深し。
 なかんづく華厳の仏慧を以て一往法華の仏慧に同ずといえども再往これを勘うるに大いに差別あり。
 所以何となれば彼は未開因分の仏慧これは開顕果分の仏慧なり。
 何を以てか同と言わん。
 問うていわく、華厳の仏慧因分に勝れる証文如何。
 答えていわく、秀句にいわく、因分の円教を聞いて因分の仏慧に入れり。
 この故に経に始め我身を見、我所説を聞いて仏慧に入らしむと言う。
 已上秀句
 問うていわく、果分の智慧因分に勝れる証文如何。
 答えていわく、秀句にいわく、果分の一切の諸有の法、果分の一切の甚深の事、皆この経に於いて宣示し顕説するなり。
 まさに知るべし、果分は因分に勝れたり。
 云云。
 またいわく、果分の教は独り諸経に秀でて無対無比なり。
 已上秀句
 汝何ぞこの釈に乖き、因分の仏慧を以て果分の仏慧に同ずるや。
 因果混雑の失、責めても余り有り。
 その上華厳の仏慧をば大薬王樹に譬う。
 しかるに経に大薬王樹、二処不生と説いてこの木は火坑と水輪の中に生長することを得ず。
 然るに火坑と水輪とは二乗と闡提の心中に喩えたり。
 この二類に於いては華厳の仏慧全く及ぶことあたわず。
 故に永不成仏の者と定む。
 その上女人成仏は堅固にこれを制す。
 しかるに法華の仏慧は火坑水輪の中にもよく生長することを得、故に二乗闡提に悉く記●を授く。
 故に法華を名付けて平等大慧と言う。
 悪人、女人、二乗、闡提、十界平等に成仏する故なり。
 故に文句第三に法華の仏慧を釈していわく。
 大小の機利鈍ともに得るはけだし法華の意なり。
 如来の智慧所として達せざることなし。
 已上疏文
 既に華厳仏慧は彼の経に二処不生と説いて通ぜざる所有り。
 法華の仏慧は今靡所不達と釈して普く一切処に通ず。
 二経の仏慧雲泥なり。
 懸隔なり。
 誰か相対を論ぜん。
 ここに知んぬ、円頓義齊は只これ一往の釈なり。
 再往の実義に非ず。
 これを以て始終齊等の義を存せば諸仏の本意に背いて阿鼻に堕在すべし。
 いわんや無量義経に正しく華厳海空と説く。
 海空とは彼の経所説の極理なり。
 この極理即ち円なり。
 この円を指して正しく未顕真実と破す。
 法華の序分に於いてなおすでにかくの如し。
 いわんや正宗の経王に対していかでか齊等を論ぜんや。
 問うていわく、華厳経は最初頓説の大法爾前の中に於いてこの経最も勝れたり。
 この大法もし未顕真実ならばこれに劣れる方等、般若等の大乗無得道なること勿論なり。
 この事よくこれを聴いて信心を決定せんと欲す。
 答えていわく、この疑い最も吉し。
 経釈の正義ほぼこれを示すべし。
 まず経文の意は前に演説するが如く、無量義経に正しく華厳の名を挙げて未顕真実と破したまえり。
 八万の大士この説を聴聞して終不得成無上菩提と領解せり。
 華厳無得道の義経文の意豈に明白に非ずや。
 次に釈義を出さば玄義にいわく、今問う、華厳の師頓極の教といわば、二乗何ぞ経を聞いて授記作仏せざる。
 なんぞたちまちに如聾如唖ならしむる。
 故に知んぬ、華厳に治することあたわざる所はこれ方便の説なればなり。
 法華によく治すはこれ如実の説なればなり。
 よく治し難きを治す。
 この処則ち妙なり。
 已上玄文
 この釈明らかに華厳を指して方便無得道と決定せり。
 授決集にいわく、未顕真実の唱え何を以てか寂場の始説を籠めざらんや。
 已上決集
 寂場始説とは即ち華厳経なり。
 玄義にいわく、この故に但頓大の名を立てて一乗独妙の称を立てず。
 仏の本懐に非ざることまことにここによる。
 華厳頓大なお本懐に非ず。
 已上玄文
 この釈明らかに華厳を指して仏の本懐に非ずと言う。
 本懐に非ざれば不成仏の義顕然なり。
 問うていわく、法華経に乃至余経の一偈をも受けずと言う。
 この不受の内に華厳経を入るべきや。
 答えていわく、不受の内に何ぞ華厳経を漏らさんや。
 問うていわく、その証文如何。
 答えていわく、五百問論にいわく、いわんや彼の華厳は但福を以て比するにこの経に同じからず。
 法華の前なるを以てなり。
 故に乃至不受余経一偈と言う。
 已上論文
 この釈明らかに不受の内に華厳を入れたり。
 まさに知るべし、経釈の金言を以て本とせば速やかに華厳を捨つべきなり。
 問うていわく、末師専ら三蔵を指して以て余経となすと釈す。
 もしこの釈に依れば余経の語只三蔵に限るべし。
 何ぞ華厳等の権大乗に亘らんや。
 答えていわく、末師の釈は蔵円相対一往の義なり。
 再往の実義にあらず。
 上に出す天台、妙楽等の釈義は経文の金言に符合する尽理の釈なり。
 既に華厳等法華以前の大乗方便に決定する上は永くこれを棄捨せんこと理運の義に非ずや。
 既に実を識りおわんぬれば永く権を用いざるの釈義深くこれを思うべし。
 要決法華論にいわく、「但楽受持大乗経典」とは即ち今経にかぎってまさに成仏を期すべし。
 乃至不受余経一偈とは一往は蔵通別円の釈を廃除し再往は仏の已今当の経を廃除す。
 所以何となれば唯但の両字は未だ余縁を借らず。
 故に但楽というは唯法華にかぎれり。
 已上論文
 先徳この文を評していわく、この釈の起尽は経文並びに大師の判釈に甚だ相応す。
 云云。
 疏記にいわく、余経とはいわく前四時なり。
 已上記文
 この釈以上の論文に深く符契せり。
 所詮仏法に於いて強く取捨を立つることは唯よく出世の本懐を究めて疾く仏道を成ぜんが為なり。
 何ぞ理不尽に余経を破敗せんや。
 ねがわくば上に出す所の経釈の正義を見て執権の想いを留むることなかれ。

 第四に他のいわく、諸大乗経の円と法華経の円と同体異名の故に今昔の円体これ同じ。
 もし不同と言わば何ぞ同体異名と言わんや。
 文句の八にいわく、法華の開権は般若の顕実に異ならず。
 般若の外に別に法華有るにあらず。
 法華は般若の異名ならくのみ。
 已上他義
 報じていわく、この義しからず。
 何となれば彼の般若の円はもし五味に約せばこれ熟蘇味、法華の円はこれ醍醐味なり。
 熟蘇と醍醐とその味わい豈に同じからんや。
 莫大の違目なり。
 もしまた時に約せば般若はこれ禺中なり。
 法華はこれ当午なり。
 眼前の相違に非ずや。
 何を以てか同と言わん。
 もしまた漸頓に約せば般若はこれ漸なり。
 なお華厳の頓に及ばず。
 いわんや非頓非漸の法華経に相対せんや。
 但し法華開権不異般若顕実の釈に至ってはこれ全く今家の正義に非ず。
 他師の異解を引き載せたり。
 故に釈の次下に疏八既にこれ諸師の異釈なり。
 云云。
 汝何ぞ釈の始末を見ずかくの如き邪解を生ずるや。
 従義のいわく、般若の中の円はまた別理の摂なりと。
 已上
 この義の如くんば般若経の円は別教の摂属なり。