萬代亀鏡録

円珠真偽決【後】(仏性院日奥)

 第五に他のいわく、諸大乗経の円と法華の円と互いに相入する故に今昔の円体これ同じ。
 もし不同と言わば何ぞ相入あらんや。
 箋十にいわく、不共般若には一切の法を摂す。
 何ぞ法華またその中に入るを妨げんや。
 云云。
 已上他義
 報じていわく、不共般若は独り菩薩の法にして永く二乗界を隔てたり。
 もし一切法を摂すと言わば何ぞ二乗を摂せざるや。
 知んぬ、この一切は小分の一切にして全分の一切に非ず。
 豈法華開権の円に同じからんや。
 もし開会の法華を以て未開の般若に入ると言わば国王の身を以て土民の家に入るが如し。
 豈に左道に非ずや。
 但し何妨法華亦入其中の難に至ってはこれ法開会の義分に於いて一往相入を許すなり。
 然りといえども彼の般若経には人開会なし。
 いかでか始終相入を許さんや。
 故に箋の十にいわく、それ実に般若は未だその人を会せず。
 今しばらく法を会するを以て難を為すことは彼また法を会して人を会せざることをさとらざる故なり。
 已上箋文
 この釈の意明かなり。
 汝一辺を見て妄りに相入を言わば牛跡に大海を入るる者なり。
 いわんや無量義経の如きは摩訶般若の名を挙げて、未顕真実と破す。
 何のたのみか有らんや。
 もし部内の円を除くと言わばまさしく金言の証文を出すべし。
 しからずんば汝権実雑乱の咎必ず阿鼻の炎を招くべし。

 第六に他のいわく、諸大乗経の円の観法と法華の円の観法と同じ。
 しかも彼は広、これは略なり。
 故に今昔の円体これ同じ。
 もし不同と言わば何ぞ広略と言わんや。
 この故に観法を作す者諸部の円文を用いずんば観法を成ぜず。
 箋の十にいわく、観門の綱格はまさしく珱珞を用ゆ。
 諸法を融通するに則ち大品及び諸部の円文に依ると。
 義例にいわく、法華を以て宗骨と為し、智論を以て指南と為し、大経を以て扶疏と為し、大品を以て観法と為すと。
 已上他義
 報じていわく、爾前の円観と法華の円観と同と言う事、一向未だ爾前法華の起尽を弁えざる者なり。
 所以何となれば爾前の観法は隔歴不融の理なり。
 一分円の名を立つといえどもその実体を尋ぬれば次第三諦の所摂なり。
 故に記の九にいわく、余教の修観は観理に違せり。
 たとい気分有れども中の理に順ぜずと。
 已上記文
 爾前に実の円観なきこと明白なり。
 法華の観法は円融三諦一念三千の観法なり。
 何ぞこれを同と言わんや。
 故に弘決にいわく、一家の観門は永く所説に異なり。
 已上決文
 もし実に不同無くんば何ぞ永異所説と言わん。
 また弘決にいわく、一家の円の義初後不二なり。
 まさに諸教に異なるなり。
 已上決文
 かくの如く明証多々なり。
 つぶさに載することあたわず。
 但し観門の綱格はまさしく珱珞を用ゆの釈に至ってはこれ全く今家の観道に非ず。
 法相宗の観法なり。
 その故は釈の次上にいわく、もし法相宗は多に従えば大論に依れり。
 観門の綱格はまさしく珱珞を用ゆと。
 云云。
 これ紛れ無く法相宗の観法なり。
 それ大論珱珞等は法華已前の八教の経論なり。
 故にくわしく次位の網目を立ててくわしく伏断の高下を論ず。
 故に法華円実の観道と天地相違せり。
 何を以てか観法同と言わんや。
 汝何ぞ釈の生起を見ずして前を省き、後を取り、ほしいままに邪義を荘厳するや。
 甚だ諂曲の者なり。
 涅槃経に記する所の悪魔の比丘汝に非ずんば誰をか言わんや。
 次に義例の文に至っては天台の観法は法華を以て宗骨となしてその上に智論大経大品等を用ゆることもっともその義有るべし。
 所以何となればおよそ仏説より起こって行法を立つるに双用有り。
 純一あり。
 これ像末の二時に就いてその行相を分かつ。
 いわゆる像法の一千年は権実双用の修行、末法一万年は但令用実、法華純一の修行なり。
 随って天台大師は像法の導師なり。
 権実双用したまうこと豈に時刻相応の修行に非ずや。
 もし末法に於いて双用の行を本とせば三時弘経の方規を破り、教主法王の勅命を背く者なり。
 いかでか謗法と為らざらんや。
 師檀共に阿鼻の焔を招かんこと掌を指すのみ。

 第七に他のいわく、諸大乗の法相と法華の法相と同じき故に今昔の円体これ同じ。
 もし不同と言わば何ぞ法相同と言わんや。
 文句の六にいわく、法身円頓華厳と等し。
 所説の法相彼に明かす所の如くまたまた別無し。
 云云。
 已上他義
 報じていわく、諸大乗の法相と法華の法相と同と言う事僻見の至りなり。
 所以何となれば今昔の法相大いに相違あり。
 まず法相とはその経の法体なり。
 しかるに法華経の迹門は開権顕実を以て法相と為す。
 故に文句の八にいわく、法相の如く説く故に真実なり。
 已上疏文
 所詮法華経の法相は開権の妙法なり。
 故に記にいわく、開権は即ちこれ法華の相と。
 已上記文
 爾前には全く開権の法相なし。
 何ぞ法相同と言わん。
 また本門は開迹顕本以て法相と為す。
 これ終窮究竟の極説一代超過の法相なり。
 この二の法相は諸教の綱骨、教法の心髄なり。
 他経にすべてかくの如きの法相なし。
 何を以てか同と言わん。
 但し法身、円頓、与華厳等の釈に至ってはこれ他師破一往の義なり。
 しかるにこの釈の起こりは他師の解にこの経の中に法身を明かせるは常住の法身に非ず。
 他方の応身まさにこの土に応ぜんとす。
 即ちこの間の法身となる。
 云云。
 已上疏文
 大師この解を破し給う時、疏の六にいわく、法身、円頓は華厳と等し。
 已上疏文
 これ華厳に於いて法身常住を明かす。
 故に法華法身を一往彼の経に同じて他師の解を破するなり。
 但し他師破の本意をいわば未顕真実の華厳になお常住の法身を明かす。
 いわんや已顕真実の法華に何ぞこれを明かさざらんや。
 しかるに法身の常住を明かすことは華厳に限らず、諸大乗経にもこれ多し。
 未だ奇と為すに足らず。
 ただ三身の常住を明かすを以て奇が中の奇と為し、妙が中の妙と為す。
 これは法華に限って全く他経に無し。
 いわんや華厳等の教主は実を以てこれを論ずれば真実の円仏に非ず。
 故に大師四教の仏の成道の相を釈し給うに、廬舎那仏成道の相は即ち別教の教主なり。
 法華の教主に劣れること明白なり。
 いわんや文句の第六に華厳の教主を勝応に属する文にいわく、勝応は菩薩に応ず。
 即ち廬舎那尊特の身なり。
 已上疏文
 記にいわく、故に知んぬ、勝応は華厳に在るなり。
 已上記文
 それ法華の教主は三身即一の法身なり。
 華厳に明かす所の法身に同じからず。
 明らかに知んぬ、与華厳等の釈はこれ一往の義類なり。
 故に実義に非ず。
 次に「所説法相如彼所明」の釈に至ってはこれ彼の経の三無差別とこの経の諸法実相と円理の義辺一往これを類同せり。
 記の六に「設論法相如彼円説」と言えるこれなり。
 然りといえども彼は帯権未開の法相、これは純円開会の法相なり。
 何を以てか法相同と言わん。
 もし実に法相不同無と言わば何ぞ二乗を隔てて如聾如唖ならしむるや。
 明らかに知んぬ、この釈もただ一往の類同なり。
 もしこれを以て始終一相と言わば聖教に迷える者なり。
 大邪見に非ずや。
 汝また諸経の広説を以て法華の略説を非毀す。
 これ大邪見大謗法なり。
 譬えば瓦礫の多きを取りて明珠の少なきを捨つるが如し。
 記の六にいわく、今経は意始終を結会するに在り。
 文相略を存せり。
 しばらく十方の言の如き何の摂せざる所あらん。
 実相の理、事として収めざると言うことなく、豈に広略に迷いて大体を失せんや。
 已上記文
 箋の十にいわく、いにしえより経論を弘むるの師仏意をさとらず唯華厳の事広く、文長く、菩薩の請を致すを見てしかも華厳法華に勝れりと言えり。
 誤りなるかな、誤りなるかな。
 已上箋文
 文句にいわく、もし多に随って少を棄てば則ちこれ魔説なり。
 仏説に非ざるなり。
 已上疏文
 天台妙楽の釈の如くんば汝はこれ迷者にしてしかも魔説を行ずる者なり。
 魔説を行ずる者豈に無間に堕ちざらんや。

 第八に他のいわく、今経に於いて他経中の三教を開して円教をば開会せず。
 この故に今昔の円体これ同じ。
 もし不同と言わば彼の円を開すべき。
 何ぞ帯権を開して、円教を開せずと言うや。
 記の一にいわく、仏慧のことば、すべからく三教果頭の権実を開して四味兼帯の大小を廃すべし。
 則ち人理教行の帰するあり。
 開示悟入の異なるなし。
 まさにこれ今経の仏慧ならくのみ。
 已上他義
 報じていわく、法華に於いて爾前の円を開せずと言うは、これ一往の釈なり。
 再往実義を勘うるにまた爾前の円を開す。
 所以何となれば法華已前に於いて円の名有りといえども円の義有ることなし。
 故に二乗を隔てて闡提を簡ぶ。
 いわんや久遠を明かさんや。
 故に彼の円体に於いては実に欠減の失あり。
 故に弘決の一にいわく、法華より前には未だかつて権を開せず。
 具足と名付けず。
 已上決文
 この釈に不名具足とはこれまさしく欠減の義なり。
 明かに知んぬ、爾前の円に欠減の失有りと言うことを。
 故に彼の兼帯の円はこれ別教の摂なり。
 故に無量義経の註釈に爾前の八教を以て所開の法と為して未顕真実の内に籠めたり。
 この八教の中にすでに円教有り。
 ここを以て爾前の円は法華の円の為に所開の法と為すなり。
 故に文句の第六にいわく、普く諸経を集め漸頓を融通してこの典に会入す。
 故に国王を会すと名付くなり。
 已上疏文
 この釈に国王とは爾前の円なり。
 彼の円は法華の為に開せらるる故に名会国王と釈す。
 爾前の円を開すること文理誠に明白なり。
 また輔正記の三にいわく、華厳の中の円は既に方等般若に同じく、これ既に開せらる。
 華厳豈にしからざらんや。
 已上輔文
 授決集にいわく、彼の八教の中の円はこれ所生の円、能帰の円、所融の円、帯粗の円、かくの如く及ばざること更に計うべからず。
 已上決集
 これらの釈豈に爾前の円を開する明証に非ずや。
 次に記の一の釈に至ってはこれ約教、約部、に歴て供に開会を明かすをこの経の仏慧と為す。
 いわく三教を開すとは約教の開会なり。
 約教の開会にただ三教を開して円を除くは一往なり。
 再往実を勘うるときはまた彼の円を開す。
 道理証文前の如し。
 次に四味を廃すとは約部の開会なり。
 部を開会する時いかでか部内の円を除かんや。
 いわんや大師の釈は約部を以て正意となす。
 いかでか爾前の円を開せざらんや。
 但し輔正記の通別為大、三蔵為小の釈を以て爾前の円を開せずの証文となすか。
 これ一往の義にして全く実義に非ず。
 しかれば輔正記に於いても実義を釈する時は華厳、方等、般若等の円皆法華の為に開せらるる旨これを釈す。
 その証文上に出しおわんぬ。
 いわんや文句第六の本末等に爾前の円を開することその理甚だ分明なり。
 汝諸文の正義を見ずして誤って末師一往の釈を執してこれを定判となし、専ら爾前の円を開せずと言う。
 豈に唯一隅を守って諸方を識らざる大愚人に非ずや。
 弘の五にいわく、五時八教一期の始終今皆開顕して束ねて一乗に入る。
 已上弘決
 授決集にいわく、五時八教総じて醍醐に入る。
 已上決集
 これらの明釈に驚いていささか邪執を改むべし。

 第九に他のいわく、今経に於いて他経の中の円教の益を破せず。
 ここに知んぬ、今昔の二円これ同じ。
 もし不同と言わば何ぞ他経の円益を破し別して円益を蒙らざるや。
 記の一にいわく、問う諸経の中の円とこれと何の別あれば、しかも必ずすべからく開してまさにこれ仏慧なりと言うべし。
 答う、円は実に異ならずただ未だ開顕せざれば初心の人円偏を隔つと言う。
 すべからく開顕の諸法実相を聞くべし。
 もしすでに実に入ればただ増進を論ず。
 権人ここに至って一向すべからく開すべし。
 已上他義
 報じていわく、今経に於いて他経の中の円益を破すること汝未だ知らずや。
 他のいわく、何を以てこれを知らん。
 自のいわく、無量義経にいわく、もし衆生有ってこの経を聞くことを得るを則ち大利となす。
 所以何となればもしよく修行すれば、必ず疾く無上菩提を成ずることを得ん。
 それ衆生有って聞くことを得ざる者はまさに知るべし、これらは大利を失うとなす。
 已上経文
 八万の大士この説を聞いて領解していわく、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれどもついに無上菩提を成ずることを得ず。
 云云。
 これらの文の如くんば上にまさしく爾前の諸大乗経を挙げて無量義経に対してことごとくその益を破りおわんぬ。
 もし実に他経の益を破せずんばいかでか無量義経已前を指して為失大利と言わん。
 もしまた他経の益真実にして無上菩提を成ぜば今経の「終不得成無上菩提」の明文頓に虚妄となるべし。
 もししかれば能化の釈尊所化の八万供に虚誑罪に依って悪道に堕し給うべし。
 いかでかその義有らんや。
 註釈にいわく、無上道の利これを大利と名付く。
 已上註釈
 この文釈の如くんば無量義経已前は実に無上道の大利を得たる者なし。
 故に伝教大師のいわく、歴劫修行は頓悟の菩薩もついに無上菩提を成ずることを得ず。
 云云。
 これ豈に爾前の円益を破するに非ずや。
 なお正しき証文を出さば秀句にいわく、他宗所依の経にはすべて円の益を得ることなし。
 已上秀句
 経文釈義明々たり、赫々たり。
 序分の経に於いてなおすでに爾前の円益を破す。
 いわんや正宗の法華経に於いてをや。
 故に方便品にいわく、唯この一事のみ実なり。
 余の二は則ち真に非ず。
 已上経文
 余の二とは法華已前の漸頓の諸経なり。
 非真とは虚妄の異名なり。
 豈に虚妄の法に於いて円実の益を得んや。
 もしまた実に円益有らばこれはこれ三五下種の輩なり。
 爾前の経の得益に非ず。
 次の記の一の釈に至ってはこれ還って自の道理を証す。
 所以何となればこの釈の意未開の円は今経の仏慧に非ず。
 開顕の実相を以て真実の仏慧と為す。
 真実の仏慧を聞かずしていかでか円実の益を得ん。
 もし虚妄の説を聞いて円実の益を得と言わば因果相違の失有らん。
 故に知んぬ、他経の中の得益は皆ことごとく有名無実なり。
 故に経に二も無くまた三も無く仏の方便の説をば除く、ただ仮の名字を以て衆生を引導すと言う。
 已上経文
 記にいわく、これは乳及び二蘇を指す。
 三味の文尽きぬと。
 已上記文
 この釈に乳とは華厳なり。
 二蘇とは方等般若なり。
 私記にいわく、もし三蔵を取らばつぶさに四味を成ず。
 云云。
 この文釈の如くんば明らかに法華已前の諸経皆虚妄なりと定む。
 虚妄の経にいかでか実の得益有らんや。
 文に仮名と言うは虚妄の異名なり。
 学者深くこの文に意を留むべし。
 悲しいかな、古来邪智の輩経文の根源に疎くして枝葉に攀付す。
 故に多く僻見を生じて自ら惑い他を損す。
 山家のいわく、無二亦無三とは権教を払うの神剣なり。
 云云。
 是守護章文
 この釈の意は漢の高祖に三尺の剣あり。
 これ神龍の与うる所なり。
 この一の剣を以て天下の大敵を亡し頓に宝位に登りぬ。
 今の釈にこの剣を以て無二亦無三の一句に喩う。
 この一句を以て法華より外の一代聖教千経万論ことごとく剪り払うべきなり。
 故に権教を払うの神剣と釈す。
 一の剣の勢い軽からず、よく普天の大敵を対治せり。
 漢書に漢高三尺の剣はいながら諸侯を制すと言えるこれなり。
 これを以て准知するにこの経文は一句といえども何ぞ前後の諸大乗経を払わざらんや。
 決権実論にいわく、権智の所作は唯名字のみ有って実義有ることなし。
 已上論文
 この釈と前の「但以仮名字」の経文とよく符合せり。
 四味八教は皆これ権智の所作なり。
 然れば則ち法華已前の権経に於いて或いは成仏と説き、或いは得道と説くとも只これ語のみにしてかつて実義なし。
 故に彼の兼帯の円は円の名字ばかりにして成仏の実義無し。
 故に「唯有名字無有実義」と釈す。
 これ豈に四味の中の円益を破するに非ずや。
 他難じていわく、円実不異は如何。
 答えていわく、これ一往与の釈なり。
 奪義為正の時は何ぞこれを正義と為さん。
 所詮爾前の円は二種の失あり。
 故に判じて別教に摂す。
 玄の七にいわく、粗に帯するの妙は即ち別教なり。
 已上玄文
 爾前の円、別教に属する義、文理明かなり。
 深くこの意を得ば種々の諸論語を費やすべからず。
 重ねて難じていわく、今記の一に権人ここに至り一向すべからく開すべし。
 云云。
 この釈の如くんば前三教の権人のみ開会に関わるべし。
 円人は全く開すべからず。
 答えていわく、およそ権実の名一途に非ず。
 汝一辺に執してこの難を致す。
 しかるに昔の円人当分には実人の名を得といえども法華開顕の実人に対すれば皆ことごとく権人となる。
 彼の未開の円はついに権教に属する故なり。
 その証文玄義第六に在り。
 もししからばいかでか爾前の円人を開せざらんや。
 末に至ってつぶさに顕すべし。
 また重ねて難じていわく、開と未開とは機の利鈍に依る。
 故に法華開会の上の得道は鈍根の機なり。
 これ即ち二乗なり。
 菩薩は根利なる故に法華の開会を待たず処々に得道す。
 故に菩薩の前には今昔の円体全く異なることなきなり。
 反詰していわく、菩薩の前には今昔の円体全く異なること無しといわば何が故に経に「菩薩聞是法疑網皆已除」と言える。
 この文明らかに爾前の円を聞いては菩薩も得道せざるなり。
 他救っていわく、鈍根の菩薩は二乗と共に法華経に於いて得益を蒙るといえども頓悟菩薩は処々に得入して更に法華の開会を待たず。
 責めていわく、法華得益の菩薩を鈍根と言わば文殊、薬王等の八万の大士鈍根の菩薩と言うべきか。
 これらは皆これ法華得道の菩薩なり。
 豈に余経に於いてこれに過ぎたる頓悟の菩薩これ有りや。
 その上法華已前の諸大乗経に同聞衆を列ねたるに多く文殊を以て菩薩の上首となし、また無量義経に於いて同聞衆を列ぬるにも文殊を以て上首となし、もし頓悟の菩薩爾前に実に得益を蒙らば文殊等の八万の大菩薩いかでか無量義経に於いて「有所諮問不審世尊」と請ぜんや。
 世尊もまたいかでか「欲何所問便可説之」と許し給わんや。
 明らかに知んぬ、頓悟の菩薩も真実の得道は法華の時に在りと言うことを。
 故に秀句にいわく、菩薩聞是法、豈に頓悟に非ずや。
 与諸菩薩、豈に頓悟に非ずや。
 頓悟とは法華経を聞いて疑網皆すでに除こる。
 頓悟の菩薩法華の前には未だ疑網を除かず。
 未だ宝乗に乗ぜず。
 已上秀句
 汝自眼は暗しといえどもかくの如き明釈に拠ってすべからく盲瞽の迷いを開くべし。
 他また難じていわく、文殊等の大聖はこれ古仏の化身なり。
 権化の所行を以て実行の菩薩に例すべからず。
 答えていわく、権者の所行はこれ実者の手本なり。
 いよいよ仰いで信ずべし。
 何ぞ誤りの甚だしきや。
 もし異途有りと疑わば、これはこれいにしえの粗食者が義なり。
 これすでに伝教大師大いに破し給える所なり。
 所詮開顕の実相を聞かざれば九界の成仏全くこれを許すべからず。
 法華の行を除いては万行を修すといえども実に菩薩の道に非ざるが故なり。
 不審していわく、菩薩の行はこれ六度なり。
 法華を行ぜずといえども六度を行ぜば豈に菩薩の行に非ずや。
 答えていわく、六度万行を行ずといえども法華開会の菩提心を発さざれば実に菩薩の行に非ず。
 所以何となれば四教に各々六度あり六度の中に必ず般若あり。
 般若はこれ智慧なり。
 三蔵の生滅四諦の智解の上の六度は最も浅し。
 乃至法華の無作の四諦の智解の上の六度は深きが中の深きなり。
 故に法華開顕の智度に非ざれば六度の行全く仏の種子と成らず。
 「不以余教為種」と定むるこれなり。
 記の三にいわく、諸教の六度別なることは皆般若による。
 已上記文
 これ明釈に非ずや。
 故に何なる万行を修するとも法華の妙智を離れたる行は永く真の菩薩と名付けざるなり。
 問うていわく、ほぼ道理を聞くといえども惑耳驚心す。
 なお分明の証文を示すべし。
 答えていわく、直に金言を引いてさとすべし。
 法華経第四法師品にいわく、在家出家菩薩の道を行ぜんにもしこの法華経を見聞し、読誦し、書持し、供養することを得ることあたわざる者はまさに知るべし、この人は未だ善く菩薩の道を行ぜざるなり。
 已上経文
 これ明証に非ずや。
 然れば余経の善根は無量無辺なりといえどもまさしく菩薩の行と成らず。
 菩薩の行に非ざれば、成仏の望み永く絶えたり。
 故に諸経の大菩薩は法華経の名字即の凡夫より劣れり。
 天台のいわく、大薩捶の福は法華経を聞ける初随喜の福に及ばず。
 何を以ての故に、彼は仏法に非ざるが故に。
 実に非ざるが故に。
 円に非ざるが故に。
 後果に住すといえども我が初心に及ばざることその義かくの如し。
 已上疏文
 妙楽のいわく、方便極意の菩薩なお第五十の人に及ばず。
 已上記文
 経釈の心明々たり。
 誰か疑網を懐かんや。
 明らかに知んぬ、六度万行一切の大善も法華にあわざれば成仏の種子と為らざることを。
 誠に成仏を願わん人は万端をなげうって安心をここに尽くすべし。
 しからざれば万行を修すといえども流転の苦永くとどむべからず。
 豈に大事に非ずや。
 問うていわく、法華を行ぜん者は六度万行を修せずといえども自ら六度万行の功徳を備えて即ち成仏すべきや如何。
 答えていわく、しかるべきなり。
 問うていわく、証文如何。
 答えていわく、無量義経にいわく、ひとたび聞けばよく一切の法を持つが故に未だ六波羅密を修行することを得ずといえども六波羅密自然に在前せん。
 云云。
 法華経にいわく、もしこの経典を聞くことを得ること有らん者はすなわちよく菩薩の道を行ずるなり。
 云云。
 またいわくこれを戒を持ち頭陀を行ずる者と名付く。
 則ちこれ疾く無上の仏道を得たり。
 云云。
 普賢経にいわく、この経を持つ者は即ち仏身を持ち、即ち仏事を行ずるなり。
 云云。
 涅槃経にいわく、解脱を求めずといえども解脱自ずから至る。
 彼の貧女の梵天を求めずといえども梵天自ずから至るが如し。
 已上経文
 右に出す所の法華の三部並びに同醍醐味の涅槃経の如くんば万行を修せずといえどもよく法華を持つ者は六度万行の功徳自然に満足して究竟の仏果を成ぜんこと無虚妄の金言何の疑いか有らんや。
 誠に道心有らん人はこれらの明文深く肝胆に銘ずべし。
 これはこれ法王髻中の明珠求めずして掌に得たり。
 宿習悦ぶべし。
 至心によく案ずれば身の毛たって心神感動す。
 ああ邪人この義を弁えず沙石を以て即ち名月の珠に同ず。
 至愚何の時にかやまんや。
 憐れむべし、憐れむべし。

 第十に他のいわく、衆生の根に遅速あり。
 上根は華厳に於いて醍醐を得、中根は阿含方等般若の中に於いて醍醐を得、下根は法華に於いて醍醐を得。
 遅速不同なりといえども醍醐異なること無し。
 この故に今昔の円体これに同じ。
 もし不同と言わば何ぞ四時の中の醍醐を許さんや。
 已上他義
 報じていわく、四味の教の中に醍醐を得るを以て当教の得益と思えるはこれ未だ種熟脱の深義を知らざる者なり。
 爾前の得道は皆これ毒発の分なり。
 全く彼々の経々の得道に非ず。
 玄十にいわく、過去の仏の所にしてかつて大乗実相の教を聞けり。
 これを譬うるに毒を以てす。
 今釈迦の声教におうてその毒即ち発して結惑の人死す。
 已上玄文
 それ毒の喩えを取るに事に依って義大いに相替われり。
 寿量品の飲毒は見思の煩悩なり。
 この煩悩は必ず法身の寿を喪す。
 故に煩悩を以て毒に喩う。
 今玄文の毒は実相妙理に喩う。
 煩悩の為の毒は妙法実相なり。
 この実相の行を以て結惑の怨を殺す。
 故に妙理を以て毒に喩うるなり。
 過去久遠に釈迦菩薩に従いて法華円実の理を聞きしかども退大取小して五道に輪廻すれども昔の縁朽ちずして今日またあいたてまつって余経の会座を縁として昔聞く所の実相の毒頓に発して結惑の怨をころし実相法身の益を得るなり。
 故にその得益は爾前の座に在りといえども得道の本種を尋ぬれば昔聴きし妙法実相の理の発するなり。
 これを毒発の益と言う。
 敢えて余経当分の益には非ざるものなり。
 故に「雖脱在現具謄本種」と釈するなり。
 次に他の自問自答の中にいわく、四時の中の醍醐在世に於いて二乗の為には秘密なりといえども今滅後に於いては既に顕露となる。
 いかんぞ自他皆得道と知りながら彼の円を破して無得道と言うや。
 云云。
 已上他義
 自のいわく、この義悪見なり。
 何となれば四味の中の醍醐とはこれ爾前の円なり。
 彼の円は実の醍醐に非ず。
 故に随他意に属して虚妄方便となる。
 故に未顕真実と破し、正直捨方便と棄つ。
 それ真実の醍醐は第五時にかぎれり。
 故に、経に今まさしくこれその時なり。
 決定して大乗を説くと言う。
 この大乗即ち法華醍醐なり。
 もししからずんば五時の生起ことごとく皆乖背して邪正大いに乱れん。
 これ破仏法の大根源なり。
 もし四時の中に実の醍醐を得る者あるはこれ必ず毒発なり。
 敢えて爾前当分の益に非ず。
 在世証果の聖人なお彼の円を聞いては根敗の士に同ず。
 いわんや末世一毫未断の凡夫いかでかこれを聞いて真実の益を得んや。
 次に他玄の十を引いて四味の中に醍醐を得る者を証す。
 玄の十にいわく、問う、一人五味をうくとや為ん。
 五人とや為んや。
 答う自ずから一人一味をうくる有り。
 華厳の中の純一の根性は即ち醍醐を得るが如し。
 五味を歴ざるなり。
 大経にいわく、雪山に草あり。
 牛もし食すれば即ち醍醐を得と。
 自ずから一人の五味を歴る有り。
 小乗の根性頓に於いて乳の如く、三蔵に酪の如く、乃至醍醐にまさに乃ち究竟するが如し。
 大経に牛より乳を出し、乃至蘇より醍醐を出すと言うが如し。
 自ずから利根の菩薩未入位の声聞、或いは三蔵の中に於いて性を見るあり。
 これ二味を歴、自ずから方等の中に性を見るあり。
 これ三味を歴、般若の中に性を見ばこれ四味を歴る。
 三百の比丘の如しと。
 この釈の如くんば遅速ありといえども四味の得道疑いなきなり。
 已上他義
 報じていわく、四味の中に於いて醍醐の益を得るは前に会するが如く、皆これ三五下種の輩なり。
 例せば縁覚の無仏の世に出でて飛花落葉を観じて独覚の菩提を証するが如し。
 豈に只世智のみを以てかくの如き悟り有らんや。
 これ飛花落葉の縁を仮りて宿習を開発するなり。
 四味の中に於いて醍醐の益を得るもまた以てかくの如し。
 記の一にいわく、脱は現に有りといえどもつぶさに本種を騰ぐ。
 已上記文
 輔正記の九にいわく、これより以前もしは顕、もしは密、法華の力に非ざるなし。
 已上輔文
 これらの釈の如くんば法華已前の顕益密益皆これ過去に法華経を聞きし力に非ざるはなし。
 しかれば則ち円教の実益ならば何の座に於いて得道すとも法華の得益と知るべし。
 なお実を以てこれを言わば小乗当分の得益も昔法華の円常を聞きし力に非ざればかつてかなわざる者なり。
 いわんや円実の益に於いてをや。
 問うていわく、その証文如何。
 答えていわく、止観の三にいわく、もし初業に常を知ることを作さざれば三蔵の帰戒羯磨ことごとく成就せず。
 已上止文
 弘決にいわく、いわゆる久遠必ず大無き者は則ち小乗の乗法をして成ぜざらしむ。
 本無きを以ての故に諸行成ぜず。
 樹の根無きは花菓を成ぜざるが如し。
 已上弘決
 この本未だに常と言い、大と言うはこれ法華一乗の円を指すなり。
 諸大乗経の円には非ず。
 またいわく、故に知んぬ、心宝渚に趣くことなければ化城の路一歩も成ぜず。
 已上弘決
 これらの文の如くんば過去に法華の円実を聞かざるは根無き樹木の如し。
 大小の益すべて無し。
 故に三乗の小益なお得難し。
 いわんや円実の大益に於いてをや。
 故に真実の成仏は必ず下種の処に帰するなり。
 ここに知んぬ、或いは華厳の会に在って得益し乃至般若の座に在って得道すともその根本を尋ぬれば過去に法華開顕の実相を聞きし功に依るなり。
 故に円実の益と言わば必ず法華の得益なるべく、種脱一双の法門とはこれなり。
 故に疏の記にいわく、実道の所証をば一切皆法華三昧と名付くと。
 已上記文
 この釈先徳深く魂を入れたまえり。
 後学常によく暗誦して神に染むべきか。
 問うていわく、上来の法門の如くんば仏法は下種を以て肝心と為す。
 然ればその下種の義如何が心得べきや。
 答えていわく、下種とは初めて法華の法門を聞いて以て下種となす。
 この下種次第に増長して妙覚果満の仏と成る。
 これを脱益と名付くるなり。
 然れば法を聞く処が得道の根源なり。
 故に釈箋にいわく、聞法を種と為し発心を芽と為す。
 賢に在る熟の如く、聖に入るは脱の如し。
 已上釈箋
 この種熟脱の次第またこれ六即位の始終なり。
 法を聞いて未だ発心せざるを理即と名付け、発心するを名字即と名付け、五品に修行するを観行即と名付け、六根を浄むるを相似即と名付け、分に証するを分真即と名付け、極果を満ずるを究竟即と名付く。
 究竟即の脱は理即の時の種なり。
 世間の草木を見るに種即ち菓なり。
 菓を種となし大地に栽るに必ず菓を得。
 仏法もまたかくの如し。
 この理即の種の外別に妙覚の果無し。
 但し修行せざればただ種にして果を成ぜず。
 草木の種の栽えず潅がざればついに菓を成ぜざるが如し。
 故に聞法の上修行を励まずんばあるべからず。
 涅槃経に四種の善法を明かせり。
 これ修行得道の梯橙なり。
 その文にいわく、一には善知識に近付き、二にはよく法を聞き、三には義を思惟し、四に説の如く修行す。
 善男善女四法を具足するを則ち丈夫と名付く。
 善男子この四法無きは行い畜生に同じ。
 已上経文
 これらの諸文の如くんば聞法下種を以て妙覚果満の本源と為すなり。
 故に四味の中にもし醍醐を得る者有るは昔法華の円常を聞きし種因蔵識に蘊在して四味の縁をかりて開発する者なり。
 敢えて四味当分の得益に非ず。
 問うていわく、しかれば滅後に於いても過去下種の人有るべく、今末法たりといえども下種純熟する人はいかでか四味の中に於いて得益せざらんや。
 汝権教の諸経に一向に制止を加う。
 その義いわれなし。
 答えていわく、汝滅後に於いて正像末の異なり有ることを知らず。
 妄りに防難を加う。
 いわゆる正像二千年の間は在世下種の者少々これ有り。
 故に四依の大士権小の経を弘むるに或いは小乗経を縁として小果を証する者あり。
 或いは権大乗を縁として十方の浄土に生ずる者あり。
 これらは在世四十余年の機の如し。
 今既に末法に入りぬれば権実二教に於いて証する者一人もこれ無し。
 教のみ有りて行証無きを末法と言うなり。
 この時に当たっては一切の諸経をなげうって只一向に法華経を説くべし。
 法華経の中にも広略をえらんで専ら題目を取りて弘通すべき時刻なり。
 これまさに金言の所出なり。
 いかでか凡情を以て仏法を破らんや。
 しかるに今時の学者時機に迷惑して或いは小乗を弘通し、或いは権大乗を授与し、或いは一乗を演説すれども結要付属を弘めず。
 故に時刻相応の弘通に違背して師弟檀那ともに謗法罪を犯す。
 これ豈に瓦礫を取りて明珠を捨つる者に非ずや。
 哀れむべし、哀れむべし。

円珠真偽決 上巻 終