萬代亀鏡録

円珠真偽決 下巻【前】(仏性院日奥)

大文第二他自の難問を答うる下

 自のいわく、爾前の諸経に円有りといえども皆粗法にして別教の摂属なり。
 箋の一にいわく、始め華厳より終わり般若に至るまで不同多しといえどもただ次第三諦の所摂となし今の経に実を会す。
 まさに円融という。
 已上箋文
 他会していわく、これは部に約し奪ってこれを釈するなり。
 実に円体を指して次第の三諦と言うに非ざるなり。
 もし実に次第の三諦ならば何ぞ他経に於いて地住已上乃至等妙の益を得んや。
 これを以て知んぬ、部に約して次第の三諦と言わば実義に非ざるなり。
 云云。
 自のいわく、他経の中の得益を破することは先段に重々の証文を出しおわんぬ。
 次に約部の奪釈を以て実義に非ずと言う。
 これ大邪見の至りなり。
 何となれば釈尊の直説大師の解釈はともに約部を以て正意となすなり。
 汝何ぞ仏祖の本意に違って邪義を存するや。
 他のいわく、何を以てこれを知らん。
 自のいわく、まず釈尊の直説は無量義経に於いて歴劫と疾成との異を分かつ時まさしく前四味の部を挙げ、無量義経に対して「未顕真実歴劫修行」と説き給う。
 これ釈尊の直説約部に非ずや。
 また法華経信解品に四大声聞一代を領解するもこれ約部に非ずや。
 この約部の領解仏意に契当す。
 故に仏自ら「善哉善哉迦葉善説」と印可したまう。
 また涅槃経の五味の喩えも金言の所出なり。
 これ約部に非ずや。
 問うていわく、約教の釈は源金口の唱えに非ずや。
 答えていわく、金口の唱えなりといえども約部の如く彰灼ならず。
 長阿含の四大教に依って四教の名目を立つるはただ四教の語を借れり。
 意は全く蔵等の四教に非ず。
 故に箋の十にいわく、阿含の四教を引けることはただ同じく四有ればなり。
 即ち蔵等には非ず。
 また一往の語ならくのみ。
 已上箋文
 また月灯三昧経を引く。
 これらも一往の対当なり。
 また中論の因縁所生法の四句、或いは大経の諸行無常等の四句、或いは四不可説、或いは四乗観智、或いは法華経の於一仏乗分別説三、これらの説を以て四教に配する義有れども約部の金口の顕了なるには似ず。
 この約教の釈は約部の実義一代独顕の円を顕さんが為に大師天機秀発の巧智を以て一代を四教に分かち、しばらく三一相対の釈を設ける時一往今昔の円これを同ずることあり。
 然りといえどもついに本懐を述ぶる時はこの義を用いず。
 彼の円を以て判じて粗に属し、法華の円を以て究竟最大極円と定む。
 故に約部正意と言う。
 然れば則ち大師の解釈約教は一往、約部は再往なり。
 再往豈に実義に非ずや。
 釈箋にいわく、今の文の諸義およそ一一の科、皆まず四教に約して以て粗妙に判じ、次に五味に約して以て粗妙を判ず。
 已上箋文
 文句にいわく、一往は本懐に非ず。
 已上文句
 弘の三にいわく、五味に約せずんば以て法華の実部を顕すことなし。
 已上決文
 記の六にいわく、古人皆部類の兼但対帯をさとらず。
 云云。
 またいわく、部は即部の中の尊極なるを王と為す。
 但し兼部の中には円極主弱し。
 已上記文
 この釈の如くんば兼部の中の円は円の理未だ満ぜず。
 理満ぜざる故力用また弱し。
 山家は九日の月に喩う。
 その理実に験けし。
 学者深くこの意を得ば今昔の円の不同即ち掌の内に明白ならん。
 衆多の諍論頓に止みて万途早く正路に就かん。
 学者膚に受けて妄失することなかれ。
 妄失することなかれ。
 記の六にいわく、この故に法華を王中の王と名付く。
 今経の中には部に余教無きを以てなり。
 已上記文
 この釈の如くんば部に兼帯無きを王中の王と名付く。
 これ即ち法華の極円なり。
 実部の中の円は円の理満ずる故に力用随って強し。
 十五満月に喩うることまことに所以有り。
 今家の判釈は約部を以て正意となることその理ここに顕然たり。
 なお迷者の為に明証を引いて邪師の謬乱を糾すべし。
 授決集にいわく、相待妙に約してしばらく与の義を設けば実には正義に非ず。
 故に絶待に依り奪の義を正と為すと。
 已上結集
 これ約部正意顕露彰灼の明証に非ずや。
 この集は円珍智証大師勅を奉じて三千余里の波涛を渡り、智者大師第九代の明哲良●和尚におうて稟承せし所の法門台宗深義の精髄なり。
 その決分明に約教与の釈をば正義に非ずと定め、約部の奪釈を以て判じて実義と決せり。
 誰か眼有らん人この唐決を見て猶予の心を生ぜんや。
 釈箋の三にいわく、もし四教五味に約して両重に妙を判ぜずんばいづくんぞ法華の一代の最に居すことを知らん。
 この頃この教を読む者を見るになお華厳を指す。
 哀れなるかな。
 傷ましいかな。
 已上箋文
 この釈の如くんば約教の上に約部の釈無ければ法華経の一代聖教に勝れるの義かつて顕るべからず。
 これに迷える者は智眼永く盲いたる者なり。
 故に荊渓深く嗟歎して哀傷の語を残し給えり。
 玄の三にいわく、もしは破、もしは立皆これ法華の意。
 已上玄文
 箋にいわく、今法華の意を以て破立することをなす。
 故に遍く破し、遍く立することを得。
 施権の故には立し、廃権の故には破す。
 或いは権実供に立し、或いは権実供に破す。
 已上箋文
 この釈の如くんば法華已前の経をば偏円ともにこれを破し、偏円ともにこれを立するは独り法華経の進退なり。
 譬えば天下の諸侯万民大王の勅命に随って扶翼と成るときは則ちよくこれを立し背いて朝敵とならば則ち拉してこれを破するが如し。
 仏法もまたかくの如し。
 爾前諸経の諸侯万民法華の大王に随って扶助となるときは則ちしばらくこれを立す。
 これを施権の故立と言う。
 経に「更以異方便助顕第一義」と言うは即ちこの意なり。
 もし人謬って執権謗実の思いを成し、法華の大王に背いて還って誹謗を成すときは則ち必ずこれを破す。
 釈に「法華折伏破権門理」と言う。
 即ちこの義なり。
 今の釈に権実供破と言えるに深く意を留むべし。
 爾前の偏円ともに法華経の為に所破となること文理もっとも明白なり。
 なお約部正意の釈を出さば釈箋にいわく、もしただ四教の中の円を判じてこれを名付くるに妙となせば諸経に皆かくの如きの円の義あり。
 何ぞ妙と称せざらん。
 故にすべからくまた更に部に約し、味に約してまさに今経の教円部円を顕すべし。
 已上箋文
 この釈の如くんば約教は一往の釈なる故に法華経は已今当の諸経に勝れて独り妙と称するの道理未だ顕れず。
 故に再往約部の釈を作って一代独顕の妙理を顕すなり。
 爾前の円妙に非ざることその義いよいよ明かなり。
 授決集にいわく、五時の中の三箇の円なおこれ未だ了義ならず。
 未だ粗を開せざる故に。
 已上結集
 この釈に三箇の円とは華厳の円、方等の円般若の円、これなり。
 この円を指してまさしく不了義と称す。
 不了義に依る者は仏意違背なり。
 何ぞ無間に堕ちざらん。
 涅槃経にいわく、了義経に依って不了義経に依らざれ。
 云云。
 深くこれを思うべし。
 釈箋の一にいわく、総じて四味を結するに妙の名を立てざることは何の所以とか為す。
 兼等を以ての故に部を判じて粗に属す。
 已上箋文
 玄の七にいわく、粗を帯する妙は即ち別教なり。
 粗を帯せざる妙は即ち円教なり。
 已上玄文
 それ四味の諸経に妙の名を置かざることは諸部の中の円は究竟に非ざるが故に爾前の諸経を束ねて粗に属す。
 ただ三教を斥うのみに非ず。
 円体もまた妙に非ず。
 妙に非ざるが故に堅く二乗作仏を許さず。
 故に釈に「細人粗人二倶犯過」と言う。
 この釈に細人とは爾前の円なり。
 粗人とは三教の粗なり。
 この蔵通別円を束ねて供に過犯に属す。
 もし彼の円をえらばずと言わば二倶犯過の語如何。
 疏記にいわく、経を釈する者はまず部類を知り、然して法相の浅深を釈すべし。
 已上疏記
 誠に部類の粗妙を分かたずんば五味の濃淡いたずらに施設するならん。
 汝邪執を翻して早く正義に帰せよ。
 他問うていわく、約教の釈は一向用いざるか如何。
 答えていわく、およそ約教に於いて四重の配立あり。
 その中に爾前の円を以て法華の円に同ずるは三一相対一往の義なる故に畢竟してこれを用いず。
 これ敢えて自義に非ず。
 釈尊天台妙楽伝教等の大聖皆一同に爾前の円を以て未顕真実多留難故の内に入れ給えり。
 余の三重はこれ当家の所用なり。
 乞い願わくば一宗の学者昼は暇を止め、夜は眠りを断ちてこの義を按ずべし。
 当世の学者約教四重の配立を習い究めず、故に天台の釈疏に於いて多く僻見を生じて権実雑乱の咎を犯す。
 悲しむべし悲しむべし。
 二に他、四十余年未顕真実の文について邪会を構うること。
 他のいわく、無量義経に未顕真実と言うは所開の二法三道四果等の権法を指して未顕真実と言うなり。
 爾前の中に無相不相の理を説いて地住已上乃至妙益を得せしむる、これを未顕真実というに非ず。
 もしこの無相不相の大乗の理を未顕真実と言わば何ぞ法華に於いて彼の大乗を開会せざるや。
 また何ぞ彼の得益を法華に於いて破壊せざるや。
 云云。
 自のいわく、この義大なる非なり。
 無量義経に四十余年未顕真実と説いて爾前の諸経を破する中に所破の正意は彼の諸大乗経極理の円なり。
 しかる所以は蔵通別の三教は爾前当分にもこれを破す。
 故に独り無量義経の規模と為す所に非ず。
 しかるにこの無量義経は爾前の諸大乗経に色を替えて明らかに四十余年の年限を指示して仏自ら「文理真正尊無過上真実甚深甚深甚深」と讃歎して強くこの経の威徳を挙げ給うことは普通の大事には非ず。
 深くその元意を捜るに唯諸大乗経の円を破する故なり。
 問うていわく、分明の証文有りや。
 答えていわく、無量義経の註釈にいわく、釈迦一代四十余年の所説の教に略して四教及び八教有り。
 いわゆる樹王の華厳、鹿苑の阿含、坊中の方等、鷲峰等の般若は一乗を演説すれども大小の菩薩歴劫修行なり。
 已上註釈
 この釈明らかに四味の諸経を挙げて歴劫修行と下す。
 彼の円は別教の分齊なること疑い無き者なり。
 疑っていわく、この釈は四味の部を挙げて歴劫修行と下す。
 これは蔵通別の三教を破して円をば所破の中に入れざるか。
 但し部内の円をえらんで未顕真実と言える証文これ有りや。
 答えていわく、証文これ有り。
 註釈にいわく、小乗三蔵教、大乗通教、別教、大乗円教、頓漸、不定教、秘密教かくの如き等の前四味はただ随他の五種姓等門外の方便差別の権教、帯権の一乗を説いて、未だ随自の一仏乗等露地の真実平等の直道捨権の一乗を説かず。
 故に説いて「以方便力四十余年未顕真実」と言う。
 已上註釈
 この釈明らかに爾前の円を指して大乗円教と挙げてこれを随他と毀り、方便と呵し、権教と下し、帯権と斥ひて未顕真実虚妄の法と定めおわんぬ。
 また法華の円をばこれを随自と讃し、真実と褒じ、平等と尊み、捨権と歎ず。
 かくの如く今昔の円の不同高下莫大なり。
 誰か義慮を残さんや。
 次に爾前の無相不相の理と無量義経の無相不相の理と不同なしと言うはこれ大なる誤りなり。
 もし実に不同なくんば爾前の諸大乗経の極理を指して何ぞ未顕真実と言わんや。
 語同じといえども義大いに異なり。
 故に文辞一なりといえどもしかも義各々異なると説く。
 次に爾前経に於いて地住已上の益を得ることこれ皆随宜一往の仮説なり。
 挙げて論ずるに足らず。
 無量義経にいわく、ついに無上菩提を成ずることを得ず。
 已上経文
 秀句にいわく、ついにこれを言わず、大小供にあり。
 直道直至は已顕の日興す。
 已上秀句
 この経釈明らかに爾前大乗の円益を破す。
 学者この大小倶有の文に深く意を止むべし。
 爾前の大乗永く無上菩提を得ざるの義分明の証文に非ずや。
 他難じていわく、無量義経に破する所は鈍根の菩薩の得益なり。
 いかでか頓悟の菩薩の得道を破せんや。
 自のいわく、汝が解はこれいにしえの徳一大師の義なり。
 これ大僻見なり。
 他のいわく、もししかれば頓悟菩薩の得益を破したる証文如何。
 自のいわく、秀句にいわく、歴劫修行は頓悟の菩薩もついに無上菩提を成ずることを得ず。
 未だ菩提の大直道を知らざるが故に。
 已上秀句
 この釈分明に爾前の頓悟の菩薩の得益を破す。
 豈に疑網を残さんや。
 他のいわく、もししかれば頓悟の菩薩爾前の得益を改めて無量義経に於いて別して得益を蒙るや。
 自のいわく、無量義経にいわく、三万二千の菩薩摩訶薩無量義三昧を得、三万四千の菩薩摩訶薩無数無量の陀羅尼門を得よく一切三世の諸仏の不退の法輪を転ずと。
 已上経文
 この文の如くんば爾前の大菩薩無量義経に於いて新たに得益を蒙れるに非ずや。
 他疑っていわく、未だこの菩薩必ず頓悟の菩薩なりと言うことを知らず。
 答えていわく、註釈にいわく、この八万の菩薩内に無量の陀羅尼を得、外に一切不退輪を転ずることを挙ぐ。
 已上註釈
 この釈分明に頓悟の菩薩の得益なり。
 豈に八万の大菩薩を以て鈍根と言わんや。
 故に秀句にいわく、頓悟法華経を聞いて疑網皆すでに除く。
 已上秀句
 明らかに知んぬ、爾前の得益はなお序分無量義経の為に破せらる。
 いわんや正宗の法華経に於いて余経の得道を許さんや。
 次に他のいわく、無量義経に未顕真実と言うは所生の諸法なり。
 能性の円は未顕真実に非ず。
 所生の法の中に於いて能生を兼ねたり。
 この能生とは円の仏菩薩なり。
 ここに知んぬ、無量義経に未顕真実と言うは所生の三権をえらんで能生の円をえらぶに非ず。
 記の三にいわく、所生と言うといえども義能を兼ねたり。
 多に従えて所と名付く。
 頓謂等とは即ち頓部の中につぶさに漸頓の能生所生有り。
 また所生を指す。
 故に頓中一切法と言う。
 漸謂等とは次に三味を挙ぐ。
 この三味の中にまた能所あり。
 頓に例して知んぬべし。
 云云。
 三道等とはこの中の三、四、また能所を具す。
 円の菩薩及び仏を以て能生となす。
 文
 この釈明釈なり。
 已上他義
 自のいわく、未顕真実の文は所生の三権をえらんで能生の円をえらばずとは未だ開経の元意を知らざる者なり。
 何となれば無量義経の如くんば四十余年の年限を挙げてその内の大小権実顕密の諸経を以て無量義経の速疾頓成に対して皆ことごとく歴劫修行とえらぶ。
 故に爾前の諸経は能生所生供にこれ未顕真実なり。
 敢えて速疾頓成の大直道に非ず。
 他難じていわく、もし能生を以て未顕真実と為さば円の仏菩薩を用ゆべからざるか。
 如何。
 答えていわく、爾前の円は当分に於いては能生と名付くといえども法華の円の為に所生の法となるなり。
 問うていわく、爾前の円、法華の円の為に所生となる証文如何。
 答えていわく、箋難の一にいわく、法華独一の円は華厳の兼別の円、方等の兼三、般若の兼二の円を生ず。
 已上箋難
 記の三にいわく、故に独一に於いて兼一を生ず。
 輔註にいわく、生を兼一とは華厳兼帯の円を生ずるなり。
 已上輔註
 法華観心鈔にいわく、昔の円は所生なり。
 云云。
 授決集にいわく、彼の八が中の円はこれ所生の円なり。
 已上結集
 これらの文証多々なり。
 決して知んぬ、法華開顕の円は能生、爾前諸大乗の円は所生なることを。
 今また能生所生に於いて重々の分別あり。
 いささか譬喩を用いん。
 所詮能生とは父母の義、所生とは子の義なり。
 しかるに世間に於いて大臣公卿より一切の土民に至るまで面々皆能生の父母あり、所生の子あり。
 然りといえども詮を以てこれを言わば則ち天子を以て天下の父母と定む。
 故に尚書にいわく、天子は民の父母となりて以て天下の主たり。
 漢書にいわく、上皇天の子となして下黎民の父母たり。
 後漢書にいわく、王者は四海を以て家と為し、兆民を子となす。
 云云。
 これらの本文の如くんば下地の中に於いて一切の能生所生を束ねて総じて以て所生の子となし天子一人を以て能生の父母と定む。
 しかるに下地に於いて天子を以てしばらく父母と定むといえども天帝の為にはまた所生の子となす。
 故に帝王を号して天子と名付くることはこれ天帝の子となる故なり。
 天帝もまた梵王の為には所生の子と為す。
 梵王独り一切衆生の父となる。
 故に経にいわく、また大梵天王の一切衆生の父なるが如し。
 云云。
 また梵天王は世間の義を以てしばらく一切衆生の父となるといえども出世法王の為にはまた所生の子たり。
 所詮三界六道、声聞、縁覚、菩薩等の九界の一切衆生は皆所生の子にして世尊法王独り能生の父なり。
 故に経に衆聖の中の尊、世間の父、一切衆生は皆これ吾が子なりと説く。
 かくの如く能生所生に於いて重々の義あり。
 法門もまたかくの如し。
 彼の愚人はただ爾前の円、三教の能生たることを知りて彼の円また法華一大円教の所生たることを識らず。
 例せば天子の万民の父母たることを知って梵王の一切の父なるを知らざるが如し。
 これを以て明らかに知るべし、法華経は一切諸大乗経の能生の根源たることを。
 何れの教か法華の極円に帰入せざらん。
 故に文句にいわく、あまねく諸経を集め漸頓を融通してこの典に会入す。
 故に国王を会すと名付く。
 已上文句
 この釈に融通漸頓と言うは頓はこれ華厳、漸はこれ阿含方等般若なり。
 この四味を括して法華に会入するなり。
 会入とは開会の義なり。
 豈に爾前諸大乗を開するに非ずや。
 汝もし部内の円を開せずと言わばたしかに部内の円を除く金口の証文を出すべし。
 またこの釈に名会国王とは会は開会の義、国王はこれ爾前の円なり。
 これ爾前の円を開する明文に非ずや。
 ここに知んぬ、爾前の円は所生、法華の円は能生なること白日に掌菓を見るが如し。
 なおこの明文に迷う、誠に毒気深入の族なり。
 千仏出世すともいかでか迷闇を払わんや。
 問うていわく、爾前に於いて実に円の仏菩薩なき証文如何。
 答えていわく、記にいわく、仏の一字は唯この経にかぎれり。
 已上記文
 この釈の如くんば円教の実仏は法華に限って全く余経に無きなり。
 爾前の諸経不同多しといえども未だ果分を説かざる故なり。
 守護章にいわく、有為の報仏は夢裏の権果、無作の三身は覚の前の実仏。
 云云。
 またいわく、権教の三身は未だ無常を免れず。
 已上守文
 華厳頓大の教主なお別教の位にして全く円仏に非ず。
 いわんや中間三味の教主寧ろ円仏ならんや。
 四教の教主体異ならずといえども教の浅深に従ってその体相大いに異なり。
 体相異なるが故に用にまた優劣あり。
 記の一にいわく、まさに知んぬ、四仏体同じく用殊なり。
 已上記文
 知んぬ、四教の教主その体異ならずともしかも尊卑あることを。
 この釈最も秘文なり。
 また爾前に円の菩薩なきことを証せば疏の二にいわく、別通の位はよろしく余経の列衆を釈すべし。
 円教の位はまさしく今経に在り。
 已上疏文
 註釈にいわく、円教即是の菩薩等これ直道なりといえども大直道に非ず。
 已上註釈
 これらの釈の如くんば爾前の菩薩は通別の位に過ぎず。
 故に大直道に非ずと言う。
 爾前に円実の仏菩薩なきこと顕然なり。
 道理文証誰か疑心を懐かんや。
 他重ねて難じていわく、爾前の諸経を歴劫修行とえらぶはしばらく前三教を指すなり。
 諸部の円に於いては速疾頓成するなり。
 故に華厳経にいわく、初発心の時すなわち正覚を成ず。
 云云。
 大品経にいわく、初発心の時即ち道場に坐す。
 云云。
 これらの文の如くんば四十余年の諸大乗経に於いて速疾頓成の旨明白なり。
 何ぞ偏えに歴劫修行と言わんや。
 答えていわく、およそ歴劫と疾成の義、天台に於いて二意あり。
 一にはしばらく前三教を以て歴劫となし、爾前の円を以て速疾と為す。
 これ一往の義なり。
 二には総じて爾前の八教を以て歴劫となし、超八の法華を以て速疾となす。
 これ再往の実義なり。
 故に諸大乗経に於いて速疾の文有りといえども、法華経の如く薄地の凡夫に於いて即身成仏を許さず。
 凡夫地に於いて無量の行を修し、無量劫を経、最後の時に於いては凡地より速疾頓成す。
 委悉にこれを論ぜば歴劫修行の所摂なり。
 いわんや無量義経に「過無量無辺不可思議阿僧祇劫終不得成無常菩提」と説くが如し。
 爾前の諸大乗の円に於いては歴劫と疾成と供に成仏を許さず。
 故に授決集にいわく、収集の日すでに宣説菩薩歴劫修行と言う。
 彼の経所説の法門は即ちこれ無量四諦門恒沙の法まさしくこれ別教の菩薩所学の道なり。
 誰か眼あらん者見聞せざらんや。
 已上決集
 この釈の如くんば爾前の大乗に於いて疾成の理有りと見る者をばまさしく盲目に同ず。
 もししかれば汝眼抜けたる者に非ずや。
 いわんや普賢品の一文当世世無眼の後報何ぞ深く悲しまざらんや。
 問うていわく、爾前経に於いて凡夫の即身成仏を許さざる証文如何。
 答えていわく、爾前を総じて歴劫修行と定むる上は凡夫の即身成仏これ無き事自ずから顕なり。
 何ぞ煩わしく証文を尋ねんや。
 誠に狐疑の至りなり。
 然りといえども好みに随って証文を示すべし。
 伝教大師の秀句にいわく、まさに知るべし。
 他宗所依の経にはすべて即身入なし。
 一分即入有りといえども八地已上に推して凡夫の身に許さず。
 已上秀句
 これ明証に非ずや。
 また他のいわく、「於諸菩薩中正直捨方便但説無上道」の文は四教の菩薩の中に三教の菩薩の前に於いて方便を開して真実を示す。
 円教の菩薩の前に円教を開し円教を示すと言うに非ず。
 汝この文を以て円教の菩薩を開すと言わば大なる誤りなり。
 文句の五にいわく、五乗はこれ曲にして直に非ず。
 通別は偏傍にして正に非ず。
 今皆彼の偏曲を捨てて但正直一道を説くなり。
 已上文句
 この釈七方便を開して円教の菩薩を開せずと言う義明らかなり。
 云云。
 已上他義
 報じていわく、この義しからず。
 汝爾前の中に円の菩薩有りと思わば亀毛兎角の見なり。
 何となれば爾前経には未だ十界互具を顕さず。
 故に実に円の菩薩なし。
 ここを以て文殊等の八万の大菩薩法華経に始めて略開三顕一の法門を聞いて疑いを生じ具足道を聞かんと欲す。
 故に「求仏諸菩薩大数有八万」と言う。
 この文に具足道とは法華開顕の円なり。
 仏この疑請に赴いて広開三顕一、五仏道同の本懐を演説して法華已前の諸経は皆ことごとくこれを棄捨しおわんぬ。
 この八万の大士皆ことごとく爾前の円を聞けり。
 これ豈爾前の円の菩薩に対して正直捨方便と説くに非ずや。
 故に秀句にいわく、頓悟の菩薩法華経の前には未だ疑網を除かず。
 未だ宝乗に乗ぜず。
 已上秀句
 汝未だ経の元意を知らず誤って邪見を生ず。