萬代亀鏡録

禁断謗施論-1(仏性院日奥)

 古人言えること有り、堯舜に非ざれば過有らずと言うこと無し。
 よく改むるを善と為す。
 取意
 またいわく、過ってよく改むるは善の大なる者なりと。
 またいわく、過ってしかして改めざるこれを過ちと言うと。
 またいわく、小人の過ちたるや必ずかぎると。
 この語おおいなるかな。
 至れるかな、志学の侶最も以て壁に銘して箴鑑と為すべきか。
 時澆季におよんで人の根転た鈍に、三毒日々に倍し、五濁月々に盛んなり。
 人誰か過ち無けん。
 智者は早く改めて善に移る、故に嘉名一天に流れ、愚者は偽り飾って非を長ず、故に悪名四海に遍うす。
 誰か慎まざらんや。
 このごろある方より一巻の書を得たり。
 開いてこれを見れば彼の大仏供養の謗施を受けたる僧、身の過ちを隠さんが為に大いに邪義を巧みて飽くまで莠言を吐けり。
 誠に非学者曲会私情の料簡言語道断の悪義、これを目に見るも浅ましく、手に取るも忌々しく覚ゆるなり。
 増して返答に及ばざることなり。
 然りといえども愚者多き世なれば万に一もこの悪書を実と思い無間の業を造らんこと大事なればいささか禿毫を染めてこの邪義を破るものなり。
 およそこの状の趣くわしくこれを見るに身延山の先住日乾と言える僻人が文章なり。
 このひと元京の本満寺の住持たりし時大仏の謗供を受く。
 初めにはこの謗施を受くること中心に深く痛んで種々にこれを免れんと欲す。
 然りといえども悪師の異見について一度彼の席に赴きしよりこのかた悪義次第に盛んにして今天下の悪知識と成れり。
 謗供の毒酔人を狂わすこと甚だ深いかな。
 世人これを知らず真の学者と思いて多く誑惑せられて無間に堕在せんこと悲歎の至極に非ずや。
 乞い願わくば道心有らん人しばらく世務を止めてつまびらかに邪正をあきらめつぶさに理非を弁えて邪師の教えに従うことなかれ。
 誤って一たび火坑に堕ちなば胸を叩いて悲泣すともそれ何の益かあらんや。

一、彼の状にいわく、およそ法華宗の所立他宗の供養を受くるや否やの事。
 総じて仏法者の本懐は一切衆生を一人も残さず成仏得道せしめ、自他共に開悟得脱するを以て本意とせしむる事なり。
 然れば他宗の事は申すに及ばず外道の人なりとも勧めて一善をも作さしむる事莫大の功徳なり。
 然ればいかでか他宗の施を受けざらんや。
 云云。
 已上他状

 弾じていわく、そもそも日乾所存の如くんば謗法供養は勧めても受くべしと決定せり。
 この義前代未聞の悪義なり。
 然る上は日乾は高祖の門弟に非ず。
 当家の法門に於いてはかくの如きの邪義かつてこれ無き故なり。
 日乾もし高祖の門弟なりと言わば師敵対なり。
 逆路七逆の罪人なり。
 その故は宗旨建立このかた数百年の間若干の智者聖人天下に周遍して本化の法門を弘通せり。
 これ皆一同に堅く謗施を受くることを禁められ、水火の責めに及ぶといえども敢えてこの制法を破られず。
 これらの名匠碩学皆誤れりや。
 もし日乾分齊を以てこれらの名哲誤れりと言わば烏鵲が鸞鳳を嘲るが如く、また蛍火が日月を嫉むに同じ。
 天地懸隔の相違甚だ笑うべきに足れり。
 その上他宗謗人の為す所の善根を成仏得道の種因と思えるは大愚暗の至りなり。
 甚だ仏説に背けり。
 殊に宗旨立義の素懐を知らざる者なり。
 いささか経釈の明文を出して邪見の迷倒を救わん。
 それ謗法の人は経に即断一切世間仏種と説いて仏の種子を断ち失える者なり。
 三界を出離せる声聞縁覚すら法華経を持たざる間は焦種破石の喩えを以て大いに呵し給えり。
 いわんや末世一毫未断の凡夫法華を持たずしかも誹謗を為す。
 この人の供養豈に焦種の中の大焦種に非ずや。
 焦種を田に蒔きて豈に芽を生ずることを得んや。
 謗供の焦種これいかでか成仏の芽茎を生ぜんや。
 天台のいわく、この経はあまねく六道の仏種を開く。
 もしこの経を謗ずるは義断に当たるなりと。
 宗祖のたまわく、この経は十界の仏種に通ぜり。
 もしこの経を謗ずるはこれ十界の仏種を断ずるに当たれり。
 この人は無間に於いて決定堕在す。
 何ぞ出ずる期を得ん。
 云云。
 これらの心に因って教主釈尊は垂迹に大明神と現じて銅焔を食すとも心穢れたる人の物を受けずと誓い給えり。
 本地の仏垂迹の神その心一致して謗法供養を嫌い給うこと明白なり。
 弘決にいわく、もし正境に非ざればたとい妄偽無くともまた種と成らずと。
 この釈に正境とは法華実相の妙境なり。
 この妙境を離れて為す所の善根はたとい妄偽の心無けれども仏種と成らずと治定せり。
 他宗の心は全く法華の妙境を信ぜず、豈にこの人の供養いかでか成仏の種と為らんや。
 また弘決にいわく、発心僻越すれば万行いたずらに施すと。
 謗法の人はこれ発心僻越の人なり。
 この人の万行皆徒事に決定せり。
 万行の中の施行豈に徒事に非ずや。
 然れば謗人の供養何ぞ仏種と成らんや。
 疏記にいわく、たとい宿善恒河沙の如くなる有れどもついに自ずから菩提の理を成ずること無しと。
 この釈の如くんば供仏施僧造像起塔乃至無量の善根有れども法華開会の菩提心を発さざれば全く六道四聖を出づべからず。
 然れば謗法の人はたとい七宝の堂塔を建立し、千万の僧を供養すとも仏種と成るべからざること道理証文かくの如く明白なり。
 結句は謗法の罪業に因って善根還って罪と成って無間に堕在せんこと決定なり。
 良薬変じて毒害と成り、親類還って怨敵と為るが如し。
 悲しむべし。
 かくの如きの人に於いては堅くその施を受けず、強く呵責すべし。
 これ仏法の正義当宗の本懐なり。
 高祖以来代々の明哲皆この意なり。
 祖師代々の正義を破りてへつらって謗施を受けしかも邪義を構うる者は豈に無間に堕ちざらんや。
 但し他の意謗施たりといえども法華行者の福田に供養するは功徳と成るべしと思えり。
 この義甚だ僻見なり。
 その故は日乾未だ供養の道理を知らず。
 およそ供養とは法理を信ずる心より起こるなり。
 しかるに謗人は全く法理を信ぜず。
 何に依ってか供養の義有らんや。
 それ仏在世の時人天大会皆仏を供養すること経々の説を見るに仏の説法を聴聞し心に信受領納して大歓喜を生じ、その心内の悟りを事相に顕す時供養を以てこれを表するなり。
 故に文句にいわく、時衆の供養をいわば深遠の法を聞いて大饒益を得たり。
 仏恩を報ぜんと欲してしかも供養を設く。
 またこれ事に寄せて以て領解を表すと。
 記にいわく、供養と言うといえども意機成することを表すと。
 この釈に機成すと言うは仏の説を聞いて内心の信解純熟する時なり。
 この義を顕さんが為に仏を供養し奉るなり。
 しかるに謗人は信ずる心全く無し。
 何を以てか彼の施真実供養の道理にかなわんや。
 これ不義の供養なり。
 しかるに不義の施は世間の賢人なおこれを受けず。
 いわんや仏法者としていかでか不義の供養を受くること有らんや。
 まなじいに法華の行者と号しながら豈に外典外道に劣って妄りに不信の施を受けんや。
 問うていわく、不義の施を受くる出家は外典の者に劣る事道理文証これ有りや。
 答えていわく、仲尼のいわく、得るを見ては義を思うと。
 孟軻のいわく、その義に非ずや。
 その道に非ざればこれを禄するに天下を以てすれども顧みず、繋馬千駟すれども視ず。
 その義に非ずや。
 その道に非ざれば一介も以て人に与えず、一介も以て諸人に取らずと。
 それ儒は仏法の初門なり。
 我れ三聖を遣わし彼の震旦を化すとはこれなり。
 当宗に於いて不受不施の制法豈に内典外典その意一致符契するに非ずや。
 故に孔子は渇を盗泉の水に忍び、孟軻は齊王の千金を受けず、伯夷叔齊は周武の禄を辞して首陽山に飢えたり。
 世の賢聖なお不義の禄を却けることかくの如し、いわんや出世の人に於いてをや。
 儒道なお盗泉の悪名を忌みて渇乏に疲極すれども彼の水を飲まず。
 当宗豈に謗法供養の悪名を忌まざらんや。
 一切の悪名の中に謗法の悪名最も第一なる故なり。
 それ諸道の中に義理の極せるはこれ仏法なり。
 仏法の中に殊に深義を明かせるは豈に法華に非ずや。
 故にこの経をまた第一義と名付く。
 然れば法華の行者はまず義と不義とを弁うべし。
 世間に義理を立つも源仏法より出でたり。
 上古の賢人義を重んじ、欲を棄て、位をゆずり、国を譲り、穎水に耳を洗い、牛を還す。
 皆これ昔の生に仏法の勝処を習いし功力に非ずや。
 今なお世間浅近の義理を引いて宗旨深高の義理を諭すべし。
 昔齊の景公田す。
 虞人を招くに旌を以てす。
 至らず、まさにこれを殺さんとす。
 志士は溝壑に在らんことを忘れず、勇士はその元を喪わんことを忘れず、孔子なにをか取れる、その招きに非ざれば往かざるを取れるなり。
 もしその招きを待たずして往かんこと何ぞやと。
 已上本文
 虞人は苑を守るものなり。
 大夫を招くには旌を以てし、虞人を招くには皮冠を以てす。
 しかるに景公狩りの時虞人を招くに大夫の招を以てす。
 虞人自らいわく、吾れ大夫に非ず。
 その招に非ずして招くこと何ぞや。
 この故に往かず。
 景公瞋って頭を刎ねんと欲す、然れども往かず。
 孔子虞人その招に非ざれば首を喪えども往かざることを歎ず。
 予若年にしてこれを読んで深く吟味す。
 当宗法華の行者謗供の席に行かざることこの義理を知らばたとい立ちどころに頭を失うとも往くべき処に非ず。
 虞人の賎しき者すらなおこの義理有り。
 いわんや仏法者と号してこの義理に違わば豈に畜類に異ならんや。
 いわんや大仏出仕は大いに不義有り、法華最第一の行者を賤しめて第五第六に下す。
 たとい第一番に座せしむといえども謗供の座に請ぜんこと敢えてその招に非ず。
 いわんや大いに賎しまれて権小下劣の僧徒の座下に居せしむ。
 天子の太子を蔑如して土民の下に坐せしめんが如し。
 もし一宗内に彼の虞人ほど義理を知る人有らば誠に頭を喪うとも彼の席に出仕すべきに非ず。
 悲しいかな、悲しいかな、末代の分野。
 請う道心有らん人早く偏執をさしおいて専ら義理を案ぜよ。
 日乾の不義豈に人間に面を向かうべき者ならんや。
 問うていわく、謗施を受くる僧外道に劣れる義証文有りや。
 答えていわく、証文分明なり。
 自鏡録にいわく、外道は人の施与を受くる事己が法の如くす。
 今の出家の人は諸々の白衣をたぶらかして衆生の悪門を開き衆生の苦の本を集む。
 これ外道に及ばずと。
 文長き故要を取るなり。
 この録の如くんば外道もその道に非ざれば堅く他の施を受けず。
 しかるに当世法華の行者と号して妄りに謗施を受くる人は外道に劣れるに非ずや。
 また法華経を読むといえども謗施を受くる謗法有らば全く福田と名付くべからず。
 経文の如くんば制法を破る人は天下の大賊なり。
 大賊いかでか福田と成らんや。
 正法の昔は堅く十重禁等の戒品を持って名付けて福田と為す。
 末法の今はしからず。
 破戒なお無し。
 何にいわんや持戒をや。
 当今は諸戒を持たずといえども堅く謗法を禁ずるを以てこれを持戒と名付け、また名付けて福田と為す。
 経にいわく、禁戒をやぶるといえども正法をやぶらざるこれを福田と名付くと。
 所詮末法の今真実の福田とは身命を顧みず、人をへつらわず、権威を恐れず、謗法を呵責し、堅く制法を守る人を仏は福田と名付け給えり。
 涅槃経にいわく、五戒を受けずとも正法を護ることを為せるをすなわち大乗を護る正法の者と名付くと。
 およそ経文の如くんば破戒の正見は衆生の福田と為り、持戒の邪見は一切衆生の悪知識なり。
 よく人を牽いて三悪道に向かわしむ。
 つらつら経文の鏡を以て当世の諸人を浮かべたるに仏法の大怨敵一切衆生の悪知識その張本一人これ有り。
 いわゆる乾法師これなり。
 御書にいわく、受け難き人身を得て、たまたま出家せる者も仏法を学しながら謗法者を責めずして徒に遊戯雑談のみして明かし暮らさん者は法師の皮を着たる畜生なり。
 法師の名を借りて世を渡り身を扶くるといえども法師と成る義は一も無し。
 法師と言える名字を盗める盗人なり。
 恥ずべし、恐るべし。
 云云 已上御書
 金章の如くんば日乾豈に法師の名を盗む盗人に非ずや。
 未だかつて謗法者を責めずして還ってその身謗人に同じて謗施を受け、あまつさえ邪義を増長してすべて慚愧無し。
 結句延山貫首の名を借りてしかも大いに延山の法義を破る。
 もし日乾を以て福田と為せば天下の盗賊皆以て福田と為るべし。
 ああ、かくの如き僻人を以て延山の貫首と為すことこれ誰が誤りぞや。

 一、彼の状にいわく、日蓮聖人の御弘通は而強毒之と申して毀謗し罵詈し或いは打擲せらるとも、法華経の法門を説き聞かせ未来成仏の縁を結ばしめ給う。
 然れば他宗謗法の人の供養は此方より勧めてもこれを受け、その功徳を以て彼の者の罪業を消滅せしむべし。
 云云。
 已上他状
 弾じていわく、この義殊に僻見なり。
 顛倒なり。
 そもそもこの條箇の如くんば身延山高祖已来代々の明哲は而強毒之の釈の意を知らず、誤って謗施を禁ぜらるるか。
 もし先聖誤れりと言わば汝は師敵対なり。
 逆路七逆の罪人なり。
 何ぞ無間に堕ちざらんや。
 その上もし謗法の人、法華の行者に謗施を与えば施す者に二重の罪業あるべし。
 一には自身誹謗の罪、二には法華の行者に堅き制法を破らしむる罪あり。
 かくの如き両重の大罪を犯さば如何ぞ彼の者この大罪業を消滅せんや。
 いよいよ無間の業を倍増すべし。
 しかるに当家の法門は而強毒之の故に謗施を受けざる道理分明に立つなり。
 なんじが得意大いに誤れり。
 所以何となればもし謗施を受けばまず折伏の義に違す。
 深く末法逆化の理に背けり。
 これ甚だ本化迹化弘経の大綱に惑えり。
 一毛大山の相違まことに愚者の迷う所なり。
 然るに而強毒之の釈の心は不軽菩薩本未有善の謗者に対して強いて法華経を説き聞かせ逆縁を結ばしむる義なり。
 然りといえども不軽菩薩上慢の四衆の供養を受け給うことは全く無し。
 ただ悪口罵詈杖木瓦石の難のみなり。
 高祖聖人もまたまたかくの如し。
 謗法闡提の輩に強いて妙法華経を説き聞かせしめ給えども謗施をば全く受け給わず。
 もし謗施を受けて謗者に随順し給わばいかでか流罪死罪の大難有らんや。
 堅く謗施を禁じ、強く謗人を呵し給う。
 故に種々の大難にあい給えり。
 古来の智者聖人の筆記にも高祖謗施を受け給えりと言うことはかつて無し。
 まさしく高祖謗施を受け給わざる証拠を言わば、佐州より御環住の刻、鎌倉殿より平の金吾頼綱を御使と為して西の御門に御坊を造り、愛染堂の別当と為し奉り一千町の寺領を寄進せらるべき間天下の御祈祷有るべき旨しきりに懇望有りしかども、高祖御返答にいわく、別の御祈祷有るべからず。
 ただ念仏真言禅律等の御帰依を止めらるべし。
 しからずんば何に御祈祷有りとも只今この国に悪鬼神乱れ入って国土滅亡すべし。
 その時日蓮立つる所の法華経の法門の正義は顕わるべし。
 と、厳重に諫暁あっていささかも彼の供養を受け給わず。
 もし疑い有らばくわしく旧記を見るべし。
 かくの如き大供養をすら受け給わず。
 いわんや小事の義にいかでか誤り給うべきや。
 いにしえも日乾の如きの僻人有って高祖聖人謗施を受け給えりと言いて、或いは佐渡に於いて阿仏房が懇志を受け給えることを引き、或いは未だ見参に入らざる人の衣を賜うと言う御書を引いて難を致せしかども、謗施に成らざる道理分明なればその難皆邪義に為りぬ。
 無惨なるかな、日乾一旦の身の恥を隠さんが為に延山代々の法度を破って前代未聞の邪義を巧み出して世間を誑惑す。
 憐れむべし、悲しむべし。
 苦果何の劫にか究め尽くさんや。

 一、彼の状にいわく、その上菩薩は地獄餓鬼に堕ちても縁を結び給う。
 然るに供養を受けて救い扶くるを謗法と言わば一向愚痴の至りなり。
 云云。
 已上他状
 弾じていわく、謗施を受くる人を謗法と言うは愚痴の至りならば高祖已来延山代々の智者聖人は皆愚痴の人か、殊に延山の二祖日向、七祖日叡、十一祖日朝これらは智徳最も高く行徳甚だすぐれたり。
 後学誰かこれらの明哲を欺かんや。
 しかるにこの師皆大いに謗施を受くることを呵せり。
 日乾末学短才の身を以て歴代の名匠碩徳を愚人に致す事、師敵対の咎、言語道断の過言言うてもたぐい無く責めても余り有り。
 経論の文の如くんば阿鼻に堕在して舌を抜かれんこと疑い無き者なり。
 その上菩薩の大悲代受苦の利益に重々の意有り。
 或いは慈悲の姿を現じて機に順じ利益し給う時も有り、或いは折伏の相を示して悪鬼羅刹の形を現じて機に逆らって利益し給う時も有り、その義一准ならず。
 然るに仏在世は本已有善の衆生順機の化導なり。
 末法は本未有善の機逆化の利益なり。
 順逆異なりといえども利益の心全く斉し。
 当宗もまたかくの如し。
 当時末法は不軽菩薩の所化の機の如し。
 この謗人に対してはその心に順ぜず彼の施を受けず、機に逆らって呵責するこれ真実の利益、大慈悲の化導なり。
 謗人の施を受けては彼に順ずる道理なる故に折伏すべき勢いを失う。
 譬えば悪子の強く悪行を為して教訓を聞かざるには、父深く彼を誡めて或いは義絶を致し或いは彼が贈る所の肴膳等をも受けずしてこれを返す。
 ここに因って彼の悪子親の強き勘当を痛みて早く心を改めて悪行を止む。
 ここに於いて親悦んで鐘愛を為し、或いは財宝を与え家督を譲るが如し。
 初め親の心を知らざる者は強く義絶するを見て無顧の思いを為すべし。
 然れども真実はこれ親の深き慈悲に非ずや。
 当宗の謗施を受けざる意もまた以てかくの如し。
 知らざるものは無慈の思いを為すべし。
 然れども彼の謗人早く寸心を改めて正法に帰依し速やかに成仏せしめんが為なれば、彼の施を受けず強盛に呵責する、これ真の大慈大悲なり。
 経にいわく、折伏すべき者をばしかもこれを折伏せよ。
 何を以ての故に、法をして久住せしめんとなり。
 云云。
 経文の如くんば折伏の時に当たって折伏を行ぜざればこれ即ち法滅なり。
 殆ど令法久住の大悲願を破る者なり。
 然れば当世法華の行者と号して謗供を受くる人は豈に無慈詐親の大賊に非ずや。
 もし誠に慈悲心有らば古の明哲の如く寧ろ身命を亡ぼすとも謗施をば受くべからず。
 たといまたその身不惜身命に堪えずして空しく謗施を受くるとも人の受けざるをば感ずべき事に非ずや。
 しかるに口には偽って菩薩の大悲代受苦の事を言いてしかも心には飽くまで嫉妬を懐き、その身の咎を隠さんが為に田舎遠国の僧に至るまで彼の謗供の席に責め出し、供に謗法に堕ちんとする企て昼夜に止まず。
 しかもこの謗供を受けざらんと欲する者をば守護所に訴えて甚だ痛くこれを責む。
 強いてこれを脱れんと欲する者は或いは毒を飲んで病を起こす僧も有り、或いは自害に及ぶ出家も有り、或いは出家の形を替えて還俗する者その数を知らず。
 或いは檀方の中にも日乾等の悪行に依って宗旨悉く滅亡するを見て悲感に堪えずたちまち自害する人も有り、或いはその師の謗供の座に責め出さるるを見て思い死に死する人も有り。
 誠に前代未聞の悪行上古にも未だその様を聞かず。
 世俗の諺に臆病武者はよく味方を打つと言うことあり。
 この語誠なるかな、当宗の味方打ちは日乾法師天下第一なり。
 これ臆病至極の故に非ずや。
 御書にいわく、日蓮が弟子は臆病にては叶うべからず。
 云云。
 金章の如くんば日乾は全く高祖の門弟に叶うべからず。
 臆病第一の故なり。
 結句は大いに高祖の法義を破れり、しかも高祖の末弟に列して法華の行者に似たり。
 当宗にも非ず、他宗にも非ず誠にこれ蝙蝠の僧人非人にあらずや。
 つらつら高祖御在世の時を案ずるに御弟子の中にも日乾の如きの不覚のひと有りき。
 御書にいわく、各々師子王の心を取り出して何に人怖すとも落つることなかれ。
 月々日々に強り給え。
 少しも緩む心有れば魔便を得べし。
 然年々日々に申して候えども名越の尼少輔房能登房三位房なんどの様に臆病の物覚えず、欲深く拙き者は塗れる漆に水を懸け、空を切る様に候なり。
 云云。
 已上御書
 この御文体を見て世人疑いを晴らすべし。
 これらの衆直ちに高祖の御法門を聴聞せし人々なり。
 殊に三位房は智者なり学匠なり。
 然りといえども法理に不覚の子細有りてかくの如く深き弾呵を蒙れり。
 今の世間の人日乾は学匠なり日重は智者なり誤り有るべからずと思えるは哀れ儚き想いに非ずや。
 いわんや仏在世の提婆達多、善星瞿伽離等は重乾如きの学者百千人集めても及び難き智人なり。
 然りといえども仏法に迷いて邪見を生じ、生きながら無間地獄に堕せり。
 法然、弘法、慈覚、智証の智慧また以てかくの如し。
 然れば正見邪見は全く智慧には依らざるなり。
 鈍根の正見は衆生の福田と為り必ず疾く成仏することを得。
 吾が名を覚えざりし須利槃特普明如来と成りしこれなり。
 利根の邪見は衆生の悪知識、必ず地獄に堕つ。
 提婆達多六万蔵を誦せし、四禅比丘が十二部経を諳んぜし皆生身に奈落に沈みしこれなり。
 日乾誠に浅ましき事多けれども人これを知らず。
 他宗の謗法よりなお深重なり。
 何を以てか慈悲心と言わんや。
 甚だ誑惑の至りなり。