萬代亀鏡録

禁断謗施論-2(仏性院日奥)

 一、彼の状にいわく、但し日蓮聖人の御筆跡か、天台妙楽の御所判か、そのほか一代教法の中に謗法の人の供養を受くる者共に謗法罪を得て罪過と成ると言う文有らば最も身命を亡ぼすとも受くべからざる事なり。
 然れども謗法の施を受くべからずと言う事は一字一句もこれ無し。
 云云。
 已上他状
 弾じて曰く謗法供養を禁ずることは法華摂折二門の中には本化折伏の立行に限る。
 然れば天台妙楽等の迹化摂受の釈義にこの義いかでか分明ならんや、甚だ不覚の難なり。
 また一代教法の中にも法華已前の経に有るべき事に非ず。
 当宗より謗法と指すは偏に法華誹謗の人なり。
 爾前の経の間は法華の名字すら人これを知らず故に法華を誹謗する者無し。
 誹謗の人無くんばいかでか謗法供養の沙汰有らんや。
 これ亀毛長短の論に非ずや。
 然れば汝広く一代教法と言えること荒量の義無分別の至りに非ずや。
 而るに法華経はこれ羅什三蔵存略の経なる故に謗法供養を受けざれと言う文無しといえどもその義理は分明にこれ有り。
 高祖謗施を禁じ給うこと専ら経文を本拠としてこれを立て給う。
 先徳の勘文また経文の義に依れり。
 総じて当家の立義は経説の名言にかかわるべからず。
 ただ義を以て本と為して立て給う。
 例せば天台の一念三千、当家の三大秘法皆これ義立なるが如し。
 日乾等学者の由を称すれども真実は浅智なり。
 殊に宗旨無相伝の故に宗義制法の淵源を知らず。
 知らずんば我慢を倒してこれを習うべき処に一字一句もこれ無しと言う事大邪慢愚暗の至りに非ずや。
 譬えば生盲の人は天に日月無しと思い、聾病の人は虚空に雷の声無しと諍うが如し。
 日乾過去の宿習拙くして未だ当家の深義を知らず。
 いわんや高祖聖人御筆記に謗施禁断の義無しと言う事当家の聖教に眼抜けたる者に非ずや。
 但し業人は眼前に在る物を見ず。
 漫々たる恒河の水も餓鬼の目には見えず。
 宝山の中に入れども盲目の人は宝を見ず。
 高祖御筆記顕了なれども過去謗法の業人は全く見るべからず。
 いにしえの明匠碩学高祖御筆記を分明に見定められ、或いは聖教に書き付け或いは法式に書き載せ三百余年身延山を始として日本国一同に異義無き制法なり。
 而るを日乾末代浅智の身として先聖代々の厳旨を欺き、空しくこれを破らんと欲すること豈にこれ一闡提の類に非ずや。
 三宝欺誑の大罪阿鼻の焔何の劫にかこれを尽くさんや。

 一、彼の状にいわく、謗法の人を供養することかつて致すべからずと言う事は経論釈義御書の文在々処々にこれ有る事なり。
 乃至他宗の施を受くるは功徳なる故に経釈に少しも禁制の文無し。
 云云。
 已上他状
 難じていわく、謗法の人を供養すること経釈等のいましめ在々処々にこれ有る義すでに承伏か。
 もししからば日乾に大罪有り。
 この度国主大仏に於いて供養せらるる諸宗は皆謗法の僧徒なり。
 これを供養せらるること国主仏禁を破らるる條眼前なり。
 日乾これを見ながら一言の諫暁無きは無慈詐親に非ずや。
 国恩を思わざる大賊なり。
 高祖御禁の如くんば日乾豈に無間に堕ちざらんや。
 録内にいわく、仏いましめてのたまわく、持戒智慧高くして一切経並びに法華経を進退せる人なりとも、法華経の敵を見ながら責め罵り国主にも申さず、人を恐れて黙止するならば必ず阿鼻大城に堕つべし。
 云云。
 金章の如くんば日乾何に智者の由を耀かすとも国主の謗法を諫暁せざるのみにあらず、その身還って彼の謗人に同じて妄りに謗施を受く、いかでか阿鼻の焔を免れんや。
 その上汝は謗施を受くるは功徳と成ると言う。
 高祖以来代々の碩徳は謗施を受くる者は無間の業と定む。
 日乾の義と高祖代々の義と天地の相違、水火の不同なり。
 何なる愚人か先聖深智の正義を捨てて末学浅智の日乾が邪義に就かんや。
 いわんや謗施を受けて功徳に成る義経釈御書に跡を削って証文無し。
 しかしながら汝胸臆の邪説なり。
 仏祖欺誑の大罪阿鼻の極底に沈まずんば何に依ってかこれを償わんや。

 一、彼の状にいわく、その上謗法者の供養を受け取る例を勘うるに釈尊は婆羅門城に入って供養を受け、日蓮聖人は船守弥三郎夫婦の種々の供養を受け給う。
 その外東條の地頭の建立せる阿弥陀堂供養の導師に赴いて説法し、小室の日伝山伏たりし時御飯の中に毒の入りたる供養を受け給うは謗法と申すべきや。
 已上他状
 難じていわく、日乾身の瑕を隠さんが為に偽って例を引くといえどもその義皆顛倒せり。
 まず釈尊婆羅門城に入って外道の供養を受け給うと言う例証に三つの誤り有り。
 それ釈尊婆羅門城に入り給うことは法華已前阿含経の時なり。
 この時は法華の名字をも聞く者無し。
 何に因ってか法華誹謗の義有らんや。
 法華誹謗の者無くんば釈尊誰人に依って謗法供養を受け給わんや。
 是一
 次に釈尊在世の化導は順化なり、末法高祖の化導は逆化なり。
 この相違を分かたず何ぞ妄りに例証に引くや。
 是二
 次に釈尊婆羅門城に入り給うといえども全く婆羅門の供養をば受け給わず。
 釈尊御鉢を空しゅうし給う故にひとりの老婢仏をいたわり奉って米の洗い汁を以て御鉢の中に入る。
 これを婆羅門城の漿と言う。
 釈尊この老婢未来勝妙の果報を説き給うに婆羅門すべてこれを信ぜず還って誹謗を為す。
 ここに於いて釈尊尼倶類樹の喩えを以て小因大果の現証を示す。
 しかして広長舌を出して髪際に至らしめ妄語に非ざることを顕し給う。
 ここに於いて婆羅門皆慢幢を倒して仏弟子と為る。
 そもそも釈尊鑑機三昧を得給いて婆羅門得道すべき時を知り往いて化し給うに鑑機少しも違わず速疾に信伏して邪を捨て正に帰す。
 日乾太閤の供養を受けて太閤信伏して謗法を捨て受法有りや。
 これ眼前例証の誤りに非ずや。
 是三
 次に船守弥三郎夫妻奉持の事、これを実の謗者と思えるは僻案の至りなり。
 実を以てこれを勘うればこの夫婦は権者の化現として大聖人を奉持し奉るなり。
 問うていわく、その証拠如何。
 答えていわく、それ経文の如くんば滅後に法華の行者有らば変化の人を遣わして守護し供養すべき由金言明白なり。
 然らばこの人豈に権者の化現に非ずや。
 問うていわく、経文は分明なり。
 但しこの二人まさしく権化たる由御書に証拠これ有りや。
 答えていわく、経文明白なる上は疑いを成すべからず。
 猶予なり、狐疑なり。
 然りといえどもなお疑い有らばこれを示すべし。
 即ち船守鈔にいわく、日蓮去る五月十二日流罪の時その津に付いて候いしに未だ名をも聞き及ばず船より上がり苦しみ候いし処に懇ろに当たらせ給える事は何なる宿習なるらん。
 過去に法華経の行者にて渡らせ給えるか。
 今末法に船守弥三郎と生まれ替わりて日蓮を憐れみ給うか。
 殊に三十余日有って内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う。
 法華経第四にいわく、「及清信士女供養於法師」。
 云云。
 法華経を行ぜんものをば諸天善神等或いは男と成り、或いは女と成りて形を替え様々に供養すべしと言える経文なり。
 弥三郎士女と生まれて日蓮を供養すること疑い無し。
 雪山童子の前に来たりし鬼神は帝釈の変作なり。
 尸毘王の所へ逃げ入りし鳩は毘首羯磨天なり。
 班足王の城へ入りし普明王は教主釈尊にておわす。
 肉眼は知らず、仏眼はこれを見る。
 然れば夫婦二人は教主大覚世尊の生まれ替わりて日蓮を扶け給うか。
 人に語らずして心得させ給え。
 あなかしこ、あなかしこ。
 已上御書
 金章の如くんばこの二人は権者の化現なること証文かたがた分明なり。
 経文と言い御書と言い誰人か疑網を残さんや。
 次に東條の地頭堂供養の導師に赴いて説法し給うことを以て高祖謗施を受け給う証拠にこれを引くか。
 難じていわく、余り事欠けたる例証なり。
 そもそもこの地頭は強盛の謗者なる故に外には堂供養の導師に請じ奉る体を致し、内には殺害し奉らんが為なり。
 高祖もこの義をしろしめすといえども身軽法重の掟に任せて彼の堂に赴きて散々に折伏し給えり。
 地頭大いに瞋って即ち害を加えんと為す。
 然りといえども大聖人警固の兵士数多有りしかばその義叶わずして止みにき。
 彼が供養を受け給うことは全く無し。
 日乾謗施の同類にこれを引くこと邪心?曲誠に外道よりも甚だし。
 次に小室の日伝山伏の時毒飯を進する事を引いて高祖謗施を受け給う例とするか。
 難じていわく、これまた相似ざる例なり。
 この山伏毒飯を進する意は高祖の権者実者を試さんが為なり。
 全く供養の義に非ず。
 真の供養ならばいかでか毒飯を進せんや。
 高祖これを毒飯としろしめしてかつて少しも食し給わず。
 山伏ここに於いてたちまち改悔の心を発して御弟子と為る。
 日乾大仏の謗供に赴いてかくの如きの奇特有りや。
 高祖に毒飯を献ずる人は即時に邪を改めて正に帰す。
 あまつさえ御弟子多き中に中老十八人の中に列なって御化導の化儀を扶く。
 日乾に謗供を施す太閤はついに一念の改悔無し。
 後にいよいよ謗法増長せし故に亡家亡国の根源と為ってその禍を子孫に伝う。
 眼前の事に非ずや。
 日奥随分国恩を報ぜんが為に度々諫状を捧ぐといえども讒人路に塞いて敢えて素意を達せず。
 還って忠を以て不忠に処せられ御勘気を蒙って西海の遠島に流され空しく多くの星霜を送る。
 然りといえども仏天咎なき事を憐れみて国にしばしば凶瑞を起こす。
 国主これに驚いて去る慶長壬子正月五日板倉伊賀守勝重に仰せて俄に赦免せられついに本国に帰りおわんぬ。
 予に於いては既に仏法中怨の責めを免れぬ。
 日重日乾等猥らわしく学者の由を称して慢心は山の如し。
 然りといえども宗旨の大事に至っては未だ一通の諫状を奉らず、護惜正法の志敢えて無く、宗義興隆の念いすべて断ず。
 数歳学問の所詮何事ぞ。
 百日湯を沸かして大海に投げ入れたるが如し。
 無道心にして名聞を好める学者皆最要を失って莫大の労を空しゅうす。
 嗚呼惜しいかな。
 結句はかくの如きの邪義を巧んでいよいよ宗義を廃せんと欲す。
 当代蝗虫の悪比丘日乾に非ずんば誰をか指さんや。

 一、彼の状にいわく、高祖佐渡の島に於いて阿仏房夫婦種々の供を受け給う。
 しかれば高祖この咎に依って堕獄し給うべきや。
 已上他状
 答えていわく、阿仏房を汝実の謗法人と思えるや、ああ愚眼の甚だしきかな。
 それ阿仏房は権者の化現として大聖人を奉持し奉るなり。
 問うていわく、阿仏房権者の化現と言えること証拠有りや。
 答えていわく、佐渡の島は大謗法の人多く集まりたる処なり。
 大聖人をにくみ奉ること鎌倉よりもなお甚だし。
 しかるにその中に於いて阿仏房夫婦抽んでて帰依の思いを生じ奉る。
 豈に権者の化現に非ずんばいかでかその義有らんや。
 問うていわく、道理はしかなり。
 然りといえども分明の証文を見ざれば深く信を取り難し。
 答えていわく、汝が好みに随って証文を示すべし。
 聞いて後は深く信を致すべし。
 御書にいわく、佐渡の国に在りし時日蓮に向かって慈悲同念有りしものはただ阿仏房にかぎる。
 またいわく、あらゆる人は日蓮を失わんとこれを謀る。
 何なる阿仏房なれば地頭名主を恐れ謗法者に隠れて日蓮を崇敬するや。
 これ凡人に非ず。
 偏に諸天仏菩薩の化現に非ずや。
 已上御書
 証文明白なり。
 この上なお委しく阿仏房の本地を糺さば本化四菩薩の中の一菩薩なり。
 問うていわく、その証文如何。
 答えていわく、たしかなる証文有り。
 御書録外八巻にいわく、阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし。
 浄行菩薩生まれ替わり給いて日蓮を訪い給うか、不思議なり。
 已上御書
 これ明証に非ずや。
 不審していわく、阿仏房内証は権者なりといえども表向きはまず他宗なり。
 しかれば受法已前は豈に謗施に非ずや。
 答えていわく、高祖三世了達の鑑機を以てこの人必ず受法有るべき機をしろしめしてその懇切を受け給う。
 何ぞ謗施と為らんや。
 その上世間の仁義愛礼は先規より宗義の指相と為らず。
 宗旨建立已来天下の一宗通同の例法なり。
 何ぞ大仏の謗供に類せんや。
 伝え聞く阿仏房は平家一門の侍なり。
 平家没落の刻佐渡の島に配流せらる。
 この故に流人の艱難を知って深く大聖人の左遷をいたわり奉る。
 これ偏に始は世間の仁義愛礼なり。
 何ぞ実の謗施に同ぜんや。
 日乾何に同類に為さんと欲すれども叶うべからず、天地懸隔の相違に非ずや。
 不仁なるかな、日乾たとい人かくの如き邪義を言うとも一日も延山貫主を持てる役にはその邪義を破りて正義を言うは身延の貫主代々の作法なり。
 例せばいにしえ藻原四代日海小善成仏の釈を見誤って謗施を受けられし時、身延六代日叡聖人強くその誤りを弾呵し給いしかば日海たちまち邪義を改めて即ち身延山に至りて日叡に改悔ありしが如し。
 この叡師の如き最も身延山相応の貫主なり。
 今の日乾の如きは自ら謗施を受けたる恥を隠さんが為に有りと在ゆる邪義を巧んで高祖已来代々堅固の立義を破り邪義を倍増して普天道俗の信力をさます。
 日乾豈に大天魔の付きたる者に非ずや。
 この邪義を糺すべき仁は日遠たるべしと思いしに案に相違し日乾よりなお巧みなる悪見の僻人なり。
 例せば提婆と善星とふたりの悪人仏家に生まれあいて釈尊に敵対するが如し。
 また智証大師慈覚の謗法に与力してことごとく叡山の正法を亡ぼせしが如し。
 身延山代々の正義日乾日遠にことごとく滅却せられぬ。
 延山の先師代々何に口惜しく無念に思し召すらん。
 悲しむべし、悲しむべし。

 一、彼の状にいわく、新池鈔に他宗の供養受くべからず。
 熱鉄をば飲むとも謗法人の供養を受けざれ。
 云云。
 これは高祖の御書に非ず。
 一向初心なる人造って偽って御書と名付けたる事なり。
 ゆめゆめ障りと成るべからず。
 云云。
 已上他状
 難じていわく、日乾謗施の罪科免れ難き故に新池鈔を偽書と号するか。
 言語道断の邪義筆舌も及ばざるところなり。
 所詮新池鈔の真偽は千言万句の諍いも由無し。
 ただ経文の合否を勘えて明らかに真偽を決すべし。
 これ依法不依人の宗義なる故なり。
 開目鈔にいわく、宗々互いに権を諍う、
 予はこれを諍わず。
 但し経文に任すべし。
 云云。
 高祖既に自らかくの如く定め給う上は何の御書なりといえども経文に相違せばかつて用ゆべからず。
 然るに諸宗の学者いにしえより宗旨の立義を怨んで種々の難勢を加えしかども高祖の御書に於いて経文に違うこと未だ勘えず。
 殊にこの新池鈔は事々皆経文を本拠とし、また神明の託宣を引き給えり。
 神はこれ仏の垂迹なれば経文と神託とその意実に違わず。
 何を以てかこの鈔を偽書と言わんや。
 況やいにしえの明哲皆この書を以て証文の亀鏡と為せり。
 委しくは余所に勘えしが如く、悲しいかな、末世法滅の時刻、今世間の体を視るに学侶は誠に牛毛より多しといえども正真の道念有ること殆ど麟角よりも希なり。
 故に無上の法宝を費やして徒に名聞の瓦礫に貸え髻中の明珠を握って空しく利養の泥土に抛つ。
 しかのみならず邪見の慢幢は須弥より高くして先聖莫大の勲功を喪す。
 狂猿の錦綉を挽き裂くが如し。
 酔象の蓮池を踏み損ずるに似たり。
 たまたま道心有る人も邪師に従えば自ら法の僻めることを知らず、学ぶに従っていよいよ仏道に遠し。
 盲者を先達として嶮路に迷うが如し。
 冥きより冥きに入りて所出の期を知らず。
 邪智の学者一旦これを掠むといえども冥の照覧掩い難し。
 いわんや閻王裁断の庭に望んでは血涙を流して悔ゆとも何の益か有らんや。
 然れば即ち人の理を覆うべからず。
 我が非を匿すべからず。
 理非の裁許誰かまたこれを定めん。
 ただ聖教の指南に任すべし。
 聖教の義理また人の執見に随って水火の異有り。
 誠に先覚正師の伝に非ずんばたとい文を引いて示すといえどもまた信じ難しと為す。
 今自他の偏党を捨て経文と神託とこれを合わせて是非を糺明せん。
 吾れ聖智に非ず、然りといえども宿習有って的伝の嫡流を汲む。
 これ理りならば取るべし、これ非ならば捨つべし。
 取捨は人の意に任す。
 所詮新池鈔に謗者を以て心穢れたる者と言える義経文に合わせてよくよくこれを習わば宗旨の制法に於いてこの惑い有るべからず。
 今直ちにその理を顕さんこと楮面はなはだ憚り有り。
 然りといえども堅く秘して伝えずんば宗義永く零落して後生いよいよ直道に迷いまさに火途に墜堕せん。
 章安大師兼ねて末代を嘆いていわく、この言もし墜ちなば将来も悲しむべし。
 云云。
 よって海水の一滴を示し、九牛が一毛をのべて仏恩を報ずる一分に擬せん。
 所詮法華中道の法体を蓮華に喩うることその義多き中に淤泥不染清浄の体なるを以て妙法に喩えたり。
 故に一切諸法の中に法華経は清浄第一の法なり。
 ここを以て経には「是妙清浄第一」と説き、また演暢清浄法とのべたり。
 法華中道の体清浄なる故に仏好んでここに住し給う。
 故に経には仏自住大乗と説き、釈には仏好中道とのべたり。
 空仮の二偏は体清浄ならず。
 故に仏の住所に非ず。
 神もまたかくの如し。
 偏に穢濁を厭うてもっぱら清浄を好み給う。
 故に神書にいわく、神を敬うわざは清浄を以て先と為す。
 いわく正式に従って清浄と為すと。
 已上神書
 明らかに知んぬ、仏神同じく不浄を嫌い共に清浄を要とすと言うことを。
 この書に正式に従うとは正式はこれ法度なり。
 いわく、堅く法度を守るを以て正式に従うと言うなり。
 これ清浄の業にして神慮にかなう態なり。
 ここに知んぬ、法度を破る者は不浄の至極にして深く神慮に背くことを。
 垂迹の神すでにしかなり。
 いわんや本地の仏に於いてをや。
 神書と経文と偽りに非ずんば日乾豈に仏神の本懐を破る者に非ずや。
 もし仏神の本懐を破る者を以て身延山代々に列せば高祖いかでかその山に棲み給うべき。
 殊にこの御書に謗法供養を受けざれと堅く禁じ給うことは本拠この経の第五の巻と大明神の託宣とを勘え合わせて判釈し給えり。
 神託は直ちにその文を出し、経文は巻を指してその文をば出し給わず。
 今その経文を勘へ出して仏陀と神明とその内証全く一味なることを顕さん。
 しかるに法華誹謗の者を以て第五の巻には瞋濁●曲と説き、第七の巻には謗法の四衆を以て心不浄者とのべたり。
 第五の巻の瞋濁の二字豈に心穢れたる者に非ずや。
 ●曲の二字また心穢れたる者なり。
 正直の心を以て清浄と為す故?曲の心は豈にこれ不浄に非ずや。
 神託の心穢者の三字、第五の巻の瞋濁?曲の四字、語は異にして義は全くこれ同じ。
 現世の謗法は因の無間なり。
 後世の果の無間を経に説き給う時「其人命終入阿鼻獄」。
 云云。
 誹謗の者は無間地獄に堕ちて展転無数劫の間無量の極苦を受く。
 この無間はただ猛火に焼かるる苦患のみに非ず、その不浄なる姿喩えを以てものべ難し。
 随って一経の文を開きたるに地獄の罪人身極めて不浄にして甚だ臭し。
 四天下の人欲界の六天地獄の気を聞かば即ち皆消え尽きん。
 何を以ての故に、地獄の人極めて大いに臭きを以ての故なり。
 しかるに出山没山と言う二つの山有って地獄の臭気を障えて人間に来たらしめず。
 もし人無間の苦を説くを気かばたちまち血を吐いて死すべし。
 故に仏阿鼻の苦の相をば千分にしてその一分をも説きたまわず。
 これ正法念経の意なり。
 私にいわく、人間の火を以て常の死人を焼くすら臭気なお堪え難し、人皆鼻を掩う。
 いわんや無間の猛火を以て罪人の極めて臭き身を焼く。
 これをかぐ者誰か血を吐きて死せざらんや。
 この無間の業尽きてたまたま人間に来る時もまた身不浄にして甚だ臭き故に譬喩品に誹謗の人の罪の報いを説いていわく、もし人と為ることを得ては身常に臭きに処して垢穢不浄なり。
 この経を謗するが故に罪を得ることかくの如し。
 云云。
 已上経文
 金言すでに明白なり。
 誰か怖れを懐かざらんや。
 呂氏春秋にいわく、人大いに臭き者有り。
 その親戚兄弟妻妾よくともに居するもの無し。
 自ら苦しんで海上に居すと。
 外典には過去の業因を知らず。
 内典を以てこれを勘うればかくの如く身の臭きは過去謗法の余殃なり。
 証文前に出しおわんぬ。
 然れば因も果も共に不浄の至極は豈に謗法に非ずや。
 これらの道理証文を以て明らかにこれを演説せば日乾党類いかでかこの不浄の悪報を免れんや。
 こいねがわくば天下の道俗深く仏説に依憑して偏執を生ずることなかれ。
 問うていわく、謗法の人の因果共に不浄なるに対して信心の人因果共に清浄なる証文これ有りや。
 答えていわく、証文甚だこれ多し。
 第五の巻に信心の人を説いていわく、「浄心信敬不生疑惑」。
 云云。
 第四の巻に信心の人を説いていわく、「心浄踊躍得未曾有」。
 云云。
 これらの文の如くんば法華を信ずる人は心甚だ清浄なりと定む。
 この二の文は因清浄の明文なり。
 次に果清浄の証文を出さば第六の巻にもし善男子善女人この経を受持せば清浄の身浄瑠璃の如くにして、衆生の見んとねがうを得んと。
 またいわく、もし法華経を持たばその身甚だ清浄ならんと。
 これらの文の如くんば末代法華経信心の人は男子も女人も大清浄の果を得てかたじけなくも如我等無異の仏身に同ずべきなり。
 また第五の巻にいわく、「若在仏前蓮華化生」と。
 第七の巻にいわく、必ずまさに仏の金色の身を得べしと。
 これらの文の如くんば法華経を持つ信心の人は不浄の胎生を受けず。
 清潔の蓮華より生じ、或いは金色の身を得んと。
 嗚呼誰か清浄金色の身を捨てて三悪道臭穢不浄の身をねがわんや。
 もし人臭穢不浄の身を捨て清浄金色の身を得んと願わば正直正路に日乾等の謗法の邪師を捨て、正法正師の知識に親近して恒に法門を耳に触れ信力を策励すべし。
 今なお宗義残すに堪えず。
 宗祖御得名に就いていささか深義を示さん。
 それ高祖大士自ら日蓮と称し給うこと迹化の諸聖全く叶わざる所なり。
 偏に本化の菩薩本地清浄の徳を表したまえる尊号なり。
 所以何んとなれば天に在って清浄なるは日輪なり。
 地に在って清浄なるは蓮華なり。
 故に日天諸明の中の最にして諸々の闇冥に染せられず。
 故に地涌の菩薩の智徳を経に説いていわく、「如日月光明能除諸幽冥斯人行世間能滅衆生闇」。
 云云。
 文の意は本化の弘経諸宗の邪見を砕破すること日天の光明よく一切の闇を除くが如し。
 また地涌の菩薩清浄無染の徳を経に説いていわく、「不染世間法如蓮華在水」。
 云云。
 本化の菩薩心地清浄なること蓮華の淤泥にけがされざるが如し。
 然らば則ち高祖大士本地清浄の徳涌出神力の両品に明かなり。
 いわゆる如日月光明の文、如蓮華在水の説これなり。
 それ南岳大師は観音の化身、天台大師は薬王の再誕なり。
 然りといえども迹化の衆なる故に吾が宗の高祖の如く本門の現文に符合せる名字をば未だその名を顕し給わず。
 奇なるかな、吾が祖本地に在っては日と蓮と清浄無染の二物を以てその行徳の潔きに喩え、垂迹に在っては即ち本地の清浄を表してまさしく日蓮と称し給う。
 名詮自性なれば尊号全く如来の金言にかなえり。
 故に末法の導師として生を日域に示し、本地甚深の慧日は即ち権実雑乱の闇を払い、無染清浄の心蓮は即ち謗法供養の汚れを受けず。
 これを以て宗義建立の眼目と為し給えり。
 故に御講記にいわく、謗法供養を受けざるを以て不染世間法と言う。
 云云。
 金章の如くんば謗法供養を受くる者は本地の菩薩清浄無染の行に違すること炳然なり。
 まさに知るべし、謗施を受けざる制法は高祖私の御義に非ず、これ明らかに経文に依るに非ずや。
 然らば則ち日乾は釈尊の金言を破り高祖の掟に背く者に非ずや。
 かくの如く仏祖に違背する人いかでか無間の火坑を招かざらんや。
 殊に神は非礼を稟けず深く不浄を忌み給う。
 故に託宣していわく、銅の焔を食すとも心穢れたる人の物を受けずと。
 云云。
 意は謗法の人の物を受くべからずと誓い給えり。
 請う学者これを視よ、本地の教主釈尊は謗者を指して心不浄者ときらい、垂跡の大明神は謗人を嫌いて心穢れたる者と呵し給えり。
 豈に神託と経文とその意一致符契するに非ずや。
 故に御書に諸仏も諸神も謗法供養をば全く請け取り給わず。
 況や人間としてこれを受くべきや。
 乃至何なる智者聖人も無間地獄を遁るべからず。
 云云。
 已上御書
 かくの如く明らかに経文と神託とに符合せる御書を偽書と言わんと欲す。
 豈に他宗の謗法に過ぎたる大謗法に非ずや。
 金言偽りに非ずんば師子身中の虫日乾に非ずんば誰をか言わんや。

 一、彼の状にいわく、有る人録内録外の御書並びに六老僧御相伝の記に他宗の供養を受くべからずと堅く制し給える文これあり。
 云云。
 ここに因って駿府辺より切々その文御尋ね有れば大事の相伝たる間直談に非ずんば示し難き由申し来たる。
 六老僧の御相伝の記はしばらく置く所、録内録外の御書は天下事旧り道俗共に披見する事なり。
 その中の現文を相伝と言う。
 恐らくは愚暗の至り。
 云云。
 已上他状
 難じていわく、この一段の中に六老僧御相伝の記の事は一句の会通無し。
 閉口の條諍い無し。
 なかんづく録内録外の御書を軽賎し、道俗共に披見と言う。
 まず祖師を蔑如することその罪科甚だ軽からず。
 そもそも御書はこれ本化の御判釈なり。
 迹化天台の釈に比すべからず。
 まことにこれ法性の淵底を究め玄宗の極地を照らす深遠高尚の法門なり。
 本地の智品に於いて既に高下有り、垂迹の法門に於いて豈に浅深無からんや。
 但し今浅智の輩御書の中に多く仮名を用い給うを浅近に思えり。
 これ和国に相応する教釈いよいよ広大深智の化導大慈大悲の善巧なり。
 総じて教門はその国に相応するを以て貴しと為す。
 故に天竺には梵語を用い、震旦国には漢字を翫び、日本国には和字を本とす。
 もし文章の堅きを以て本と為せば西天の梵本を翻ずべからず。
 故に権化の化導は理は一なれども語はその国の風俗に従う。
 ここを以て翻訳の三蔵梵語を漢語に翻じ、漢語をまた和語に訓じて衆生の機に逗し給えり。
 もし高祖和国の化導に漢語を専らにし給わば国に相応せざる教誡最も利益少なかるべし。
 殊に末法当今は最下根極愚鈍の機なり。
 究めて語を和らげて近く示さずんば利益有るべからず。
 ここに知んぬ、高祖和字を用い給うこといよいよ深智の所作なることを。
 これを浅く見て軽想を生ぜる愚眼の程まことに拙きかな。
 況や漢語を好む機の前には漢字を用い給う玉章これ多し。
 文体の精霊に至っては薄識の観るべき所に非ず。
 誠に淳厚の宿習的伝の相承に非ずんば誰かその奥さくを窺わんや。
 いにしえの碩学大才なお御書に於いては未だ淵底を究められず。
 乾公の如き短才不信の人は実に生々を経るともいかでか本化甚深の義を弁ぜんや。
 本文にいわく、泰山に登らずんば天の高きことを知らず、深谷に下らずんば地の厚きことを識らず。
 云云。
 請う学者夜は眠りを断ち昼は暇を止めて深く思い、偏に鑑みよ。
 これを仰げばいよいよ高く、これを切ればいよいよ堅きことを。
 専ら寝食を忘れて多歳練せずんばいかでか本化深奥の域に入らんや。
 しかのみならず録内録外の現文に相伝無しと言う事一向未だ当家の深旨を伺わざる暗愚の人なり。
 迹化台教の釈なお相伝多し、況や本化高祖の妙判に於いてをや。
 総じて相伝と言うは録内録外並びに本末六十巻等に於いて深く意を付けて肝文を見出し、弁え難き法門をよく弁うるを相伝の秘曲と為す。
 ここに因って宗祖ののたまわく、文は睫の如し。
 云云。
 誠に文は目前に在れどもよく見る人稀なり。
 況や御書の現文に於いて高祖自ら口伝を残し給えり。
 的指授に非ずんばいかでかこれを知ることを得ん。
 乾公過去の業障深き故に相伝無しと思えること只これ愚眼の致す所なり。
 何に況や高祖已来代々の明哲妙判の現文に於いて多く相伝を残せり。
 殊に謗法供養を受けざる証文新池鈔の道理文証明白なる上、そのほかになお大事の勘文有り誠に相伝に非ずんば知り難し。
 況や六老僧伝授の秘文は当代邪智の学者の知るべき事に非ず。
 早く慢幢を倒し信伏随従の頭を伸べてこれをならわば累歳悪行の罪障消滅すべきか。
 但し不軽軽毀の衆千劫阿鼻に堕ちしは先謗強きに依るなり。
 知らず日乾たとい改悔有りともなお罪障消え難からんか。
 およそ罪の軽重を比量するに彼の上慢の四衆はその罪なお軽し、日乾の重科に至っては古今更に等輩無し。
 千劫千劫また千劫劫劫窮まり無く久しく極苦に沈まん。
 恐るべし。
 云云。

 一、彼の状にいわく、但しいにしえより堅く一宗の法度として他宗の供養を受けずんば謗法と為る間無用と言う義には非ず。
 他宗を供養することをば禁じながら謗人の布施を受くること諸人の毀り我が身勝手の所立と言われん処を知って、互いに受けず施さざる制法出来せり。
 最も道理かと存ずと。
 云云。
 已上他状
 難じていわく、たとい我が身勝手の所立と毀しるとも謗施を受け実に功徳とならば何ぞこれを受けざるや。
 総じて当宗の立義は諸宗無得道と言い、法華独り成仏と立つる故に諸宗皆心狭き宗旨と毀しり、我が身勝手の所立ときらえども道理証文分明なれば人の毀しりを痛みとせず強いてこれを弘むるなり。
 もし汝前に言えるが如く謗施を受けて実に功徳に為る道理有らば何ぞ人の毀しりを痛まんや。
 会通の趣き甚だ以て笑うべきかな。
 その上謗施を受けざることいにしえより堅き制法の事汝すでに承伏す。
 もし堅き制法を破らば謗法の段は治定なり。
 謗法治定せば堕在無間何ぞそれ疑わんや。
 およそ謗法とはただ法度を背く義なり。
 もし不審有らば天台梵網の疏を見よ、況や宗祖の御判釈も分明なり。
 当世日乾等の邪智学者ただ他宗の法華を謗るのみを謗法と言いて謗施を受けたる謗法をば種々に邪会を構えて諍わんとす。
 五千上慢の咎を経に説いていわく、その瑕疵を護り惜しむと。
 日乾謗罪の疵を隠さんと欲すること彼の上慢に異ならず。
 在世は今に在り。
 今は在世に在り。
 然らば則ち乾公は衆中の糟糠なり。
 法中の塵芥なり。
 恥ずべし、恥ずべし。
 但し彼の上慢は仏御涅槃の時に至ってはたちまち邪心を改め深く信伏して得道せり。
 日乾は翻る心無し。
 経文の如くんば阿鼻の焔何の劫にかこれを免れんや。