萬代亀鏡録

研心鏡・後 (仏性院日奥)

決して知んぬ勤めて万行を修し勤めて一念を開かん事を。
然るに経に五百由旬と説くは五住の煩悩なり、敢えて心外の路にあらず。
五住の煩悩を達すれば即ちこれ菩提、一足を動ぜずして立ちどころに高所に至る。
経に直至道場と説き即得究竟と宣ぶるこれなり。
妙楽大師記の七にいわく、円人の初発心即ち宝所に至ると名付く。
云云。
名字即の人直ちに宝所に到る恐らくはこれ法華円経の沖微なり。
速疾頓成の極理ここに極まる。
余経の力敢えて及ぶところにあらず。
仰いで信伏すべし貴むべし。
しかるにこの宝所に至るに二種の行あり。
一には有相行。二には無相行。
この中の無相行は像法千年の機のためなり当時の修行にあらず。
末法は有相の行、機感相応なり。
無相は理観なり。
いわく三軌に住して十八空等を観ずるこれなり。
有相は事行なり観念に携わらず唯法華の文を信じ、受持読誦等の五種の行をなすこれなり。
但し五種の行を具足するは初心に叶い難きが故に受持の一行を以て末法の要行と定む。
故に経に「於我滅度後応受持斯経」と説いて余の四行を略し受持の一行によって必ず成仏する故に「是人於仏道決定無有疑」と説けり。
およそ法華経一部文文句句皆悉く誠諦の語にして金を展べ珠を連ぬ何の文か疎ならんや。
しかもその中に於いて殊に重きはこの一文なり。
その故は釈迦多宝の二仏まのあたり塔中に座し宝座を並べ十方分身の諸仏は宝樹の下の師子座の上に処して大光明を放ちたまう。
地涌千界の大菩薩は虚空に充満し仏会を荘厳し人天大会龍神八部等膝を屈し掌を合わす。
誠に巍々堂々たる儀式諸経になき所なり。
仏この中に於いて末代不信の衆生に信を取らしめんがため法華誠諦の現証を示し広長舌を出して大梵天に付け十方分身の諸仏もまた釈尊と同じく広長舌を出して大梵天に付けたまう。
かくの如き不思議の十神力を現じて上行菩薩等の本化の大衆に結要の五字を付属して末法極悪衆生の病の良薬と為さしむ。
然るに神力品の一品は上行付属の譲状なり。
この譲状の結文に受持の一行を結んで付属す。
これ豈に重きが中の重きにあらずや。
末代の吾等殊に身に当たり肝に銘ずるの真文はこの一偈なり。
深くこの意を得て常に結要の首題を唱えば自然己心の寂光を開き居ながら十方の宝刹に遊び大智慧大神通大相好大光明大自在を得。
自受法楽の楽しみ極まりなかるべし。
そもそも我等何心無く本尊に打ち向かい南無妙法蓮華経と唱え、或いは向かわずして唱え、或いは人の唱えるを聞き仏種自然に増盛して己心の寂光を開くこと凡智の測る所にあらず。
不信の人は疑いを生じ敢えてこれを信ぜず。
然りと雖も世間の諸法をなお因縁和合し不思議の用あり。
孔雀は雷声を聞いて即ちはらむことを得。
我等衆生妙法の声を聞く時心田に自ら仏種を生ず。
豈にこれを疑うべけんや。
また尸利沙菓は始めその形なしと雖も昴星を見る時菓即ち出生して長ずること五寸に足れり。
吾等衆生本尊に向かう時自ら仏因を結ぶこれに例して解すべし。
この微因より遂に大果を成ず。
彼の尼拘類樹の如く芥子ばかりの種より根茎枝葉を生じて五百両の車を遍覆す。
浅近の世法なお思議し難しいわんや出世甚深の因果をや。
ただ仰いで信ずべし疑念すべからず。
我等下賤の凡夫たりと雖も妙法を受持すれば即ち仏体に同じ。
この妙法即仏の種子となるが故なり。
譬えば貧窮の人如意珠を得てたちまちに長者となるが如し。
国主なおこの人を重んず況やその已下の人に於いてをや。
我等もまたかくの如し妙法蓮華の如意珠を持てば一切諸仏悉く共に護念したまう。
故に経に「現在諸仏之所護念」と説きたまう。
諸仏既にしかなり況や菩薩聖衆諸天善神等の守護に於いてをや。
誰かかくの如き功徳を聞いて慇重の心を生ぜざらんや。
然らば則ち三世諸仏同心に妙法蓮華経を修行して己心寂光の楽しみ常楽我浄の四徳を顕さんこと何の滞りあらんや。
悦ぶべし貴むべし。

この書は対馬流罪の間連々案じてこれを注す。
しかして草案不慮にこれを失い所在を知らず四五年空しく過ぎ常に心にこれを患う。
しかして慶長十七年壬子二月十三日御赦免の迎い船島に至って到来する間諸聖教を取りしたためある人の方より給わる書状共見分けの時忽然に物の中にこれを見出しおわんぬ。
歓悦誠に極まりなし貧女家中の金蔵を見る如く猶これ譬うるに足らず。
所以は何金蔵はただこれ一生の宝、わずかに臭穢の肉身を潤す。
この身は滅して徒に他の有となり冥途の資糧とならず。
況や現在に於いて盗賊水火王難等の障難にあえば我が物ならず。
これによって懊悩憂愁を懐き甚だ色心を砕くその苦忍び難したちまち病を起こして或いは死し或いは狂乱す。
これ誠に金蔵吾が身に益なき験しなり。
しかしてこの書は盗賊王難の畏れなし。
しかして現世に於いては善伴侶なり。
外に向かって友を求めず閑居寂寞の処に於いていささか徒然の愁いなし深く心神を慰む楽しみ誠に極まりなし。
況や後世真実の宝筆端の及ぶところにあらず。
予が身に於いてかくの如き重宝の書なる間これを失う時の愁い称計すべからず。
時たまたまこれを得てまたこの事を喜ぶ踊躍至極せり。
故に上洛の刻み対馬に於いて少しく添削を加え以て自心を照らす鏡となす。
上洛の後、またこの書に於いて大いに肝を消すことあり後藤の宿坊に在る時鼠大いに荒れて甚だ物を損ず。
閏十月十一日違い棚の上を見るに抜き書きの御書一通並びに対馬に於いて書く手日記一通鼠これを引き散々に喫み割いてこれを巣にす。
予これを見て大いに機を損ず。
この時屹とこの書を思い出す。
定めて鼠引いて巣をつくるかとこれを思う。
悔恨極まりなし。
憂悩限りなし。
すなわちこれを尋ねて見えずいよいよ仰天して彼方此方三返に及びこれを尋ねてついに見えず。
この時憂患胸を焦がすたちまちに自ら思念すらく、余りこの書を惜しむが故に人に見せしめず況や書写せしむること堅く絶え自ら惜しみ自ら失う慳悋の罪究尽すべからず。
兼ねて失うべきを知らば人を借って写さしむべきをと後悔先に立たず千悔胸を痛めることすべて言うばかりなし。
余り心置き処なき故に重ねてまたこれを尋ぬ書院の物の本の下に忽然としてこれあり。
これを得て余り嬉しさに踊躍身に余る。
ただあら嬉しあら嬉しと言うばかりなり。
正立坊この音を聞いて大いに怪しみてこれを問う。
予上件の事を語る。
彼これを笑う。
 于時慶長十七年壬子閏十月十五日

奥書加之
この書また失うて三年程して今度会合衆継目の本文取り出す穿鑿に付き一致勝劣和睦の時の連署尋ぬる時不慮に見出す。
この前幾度かこの箱を見しかども、なかりしに今度見るに一上に在しなり。
兎角この書生死苦患の根を糺す書なる故魔障にて細々失するなり。
 元和六年庚申

十月二十三日見出す歓喜極まりなし。
この書また失せぬ。
元和六年庚申極月二十日嵯峨小倉の塔未だ拝せざる間ふと思い立って参る路次中、乗り物の中にて見るべしと思うてこの書懐に入れて往く。
帰りて見るにこの書なし。
処々を尋ぬるについに無し。
嵯峨にて慶陽が坊に少し休みし間もしここに忘れて置きたるやと思い、明くる日林性を遣わして尋ぬるになしと言う。
何ともしかたなく憂患極まりなく折々仏前へ祈精いたし自然の感能にたのむばかりなり。
しかるに前々失いたる時は家内の事なれば尋ぬるにたのみあり。
この度は外に於いて失えば尋ね求むるに拠りどころなし。
口惜しく障礙にあえりと恒に憂念止むことなし。
しかるにこの極月二十七日不慮に嵯峨よりこの書返りたまえり。
歓悦千万しかしながら仏天三宝予が丹精を憐れみ験深く慶幸せしむる所なり。
 元和七辛酉 極月二十九日未刻これを記す

 万治第四辛丑
正月宝蔵一覧の砌これを模写し奉る誠にこれ一期の安心二世の悉地これに過ぐべからず宿習悦ぶべし。
作仏疑いなし。
また思う奥聖権化必定矣貴むべし貴むべし。

謹んで案ずるに奥聖宗旨中興の時運はまさにこれ後水尾院の御宇当将軍家治世の始めに合す矣。

研心鏡  終