萬代亀鏡録

身池対論記録・後

自余の條目はこれを略す。
右の條條永く領掌相違有るべからず。
この旨を以ていよいよ仏法興隆、怠慢無く修行肝要なり。
件の如し。
 天正十六年十一月十一日 在御判

寄進 下総国匝瑳郡三十石の事 飯高寺右先規の如く寄付せしめおわんぬ。
殊に寺中不入となすべし。
いよいよこの旨を守り仏法相続怠慢有るべからざるものなり。
よって件の如し。
 天正十九年辛卯十一月日 大納言源朝臣 在御判

相国様御黒印にいわく
甲斐国身延山久遠寺寺中門前殺生禁制 並びに 竹木免許の事
自余の條目これを略す
右の條條去る天正十六年十一月十一日先判の旨に任せ永く相違有るべからざるものなり。
 元和二年十二月二十日 御黒印

寺領下総国匝瑳郡の内三十石の事 飯高寺去る天正十九年十一月先判の旨に任せ、永く相違有るべからざるの状件の如し。
 元和三年三月五日 御朱印

先規既にかくの如くなるが故に先筆大仏殿の供養の時は代代の折紙有りと雖も、既に一宗一同に国主の供を受けおわんぬ。
況や大坂論対の時、所司代の書ありと雖も、日奥非義に落着するが故に流罪せらる矣。
何ぞ彼の書を以て今の支証となさんや。

一、他のいわく、伊州日奥に遣わされし返状にいわく、相国様仰せ置かれ候様子御尋ね成され候間つぶさに申し上げ候処に公方様奇特に思し召し相違なく御書付遣わされ候。
自のいわく、もししかれば何ぞ日奥御赦免の時、何ぞ京都一宗の諸寺罪過に行われざるや。
また何ぞ剥ぎ取らるる所の袈裟衣数珠を返し遣わすべき旨御下知これ無きや。
但し公方様奇特に思し召すの文言に於いて上意如何は下流の計る所に非ざるなり。

一、他のいわく、日蓮伊豆佐渡に謫せらると雖も御赦免を蒙る。
これ宗旨の規模なり。
日奥もまたかくの如し。
自のいわく、祖師の流罪は国主の供養を辞する故と汝これを思うや。
また問答に屈するの故に祖師謫せらるとその意を得るや。
汝の所存天地の相違なり。
また自難じていわく、上の経釈の如くんば一足の地を踏み、一滴の水を飲む。
沙門に於いては皆これ布施供養なり。
いわんや伽藍寺領等これ広大の供施なり。
何ぞ供施に非ずと云わんや。

一、他のいわく、亡者の追薦菩提を弔わんが為に酒茶飲食を施す。
これを以て布施供養と云う。
地子を免ぜられ寺領を賜う等これ世間仁義の恩なり。
敢えて布施に非ず。
これに依って四恩抄にいわく、天の三光に身を温め地の五穀に神を養う。
皆これ国王の恩なり。
釈氏要覧にいわく、大乗本生心地観経に仏ののたまわく、世間の恩に四種あり。
一には父母の恩、二には衆生の恩、三には国主の恩、四には三宝の恩。
かくの如く四恩一切衆生平等に荷負す等云云。

自のいわく、この所引の文はかつて沙門に給う寺領等は布施供養にあらずと云うの証文に非ず。
はなはだ笑うべし。
天台のいわく、その依報に施すを供養と名付く云云。
右経釈祖師の所判の旨国主の御恩は皆以て沙門に於いては布施供養なること分明なり。
汝還って地子寺領は供施に非ずと云うや。
もししかれば数々経釈祖師の文義を出すべしと詰難すと雖もかつて一文をも出さず。
汝負処に堕すること決然なり。
 寛永七年太歳庚午二月二十一日
 身延久遠寺日暹 判

第 五
 返答 第一重 池上本門寺住持日樹
征夷大将軍義昭公御代の御一札
当宗都鄙本末寺衆徒同じく檀那等の事、他宗の志を受施せず。
殊に諸勧進以下これを出されざるの義、祖師以来堅き制法の段御代代聞こし召し入れられ御許容の旨去年八月二日に御下知を成さるるの上は向後いよいよ宗体の法度を守らるべきの由仰せ下さる所なり。
よって執達件の如し。
 元亀三年十一月二十三日
 右 馬 助 在判
 左衛門尉 在判

法華宗中
信長太閤二代の御一札これを略す。
左大臣征夷大将軍秀忠公の御代御折紙
法華宗中の事祖師以来の制法たるに依って他宗の志を受施せず、殊には諸勧進以下これを出さざるの儀もっともその意を得候。
向後京中へ勧進の儀申し出す旨これありと雖も当宗の儀は先規の例に任せ相除くべきの状件の如し。
板倉伊賀守
 勝重 在判
元和九年癸亥十月十三日
 法華宗真俗中

貴札拝見つかまつり候。
今度御上洛に付いて継ぎ目の御一札頂戴成され大慶に思し召され候由御念を入らせられ示しに預かり忝なく存じ候。
貴寺の儀相国様仰せ置かれ候様子御尋ね成され候間拙者承り候通りつぶさに申し上げ候ところに公方様奇特に思し召され相違なく御書付遣わされ候いよいよ御宗旨繁昌たるべしと存じ候誠に御満足察し入り候万端面上を期し候間つまびらかにする能わず候恐々謹言
 板倉伊賀守
 勝重 在判
霜月二十一日
妙覚寺日奥上人 尊答

今般池上身延対論の條目は二箇條に過ぎず。
初めには不受不施と受不施とを相論ずるなり。
次には寺領と供養と同異の対論なり。
初めに受施不受施の事
一、他いわく、大坂の御殿に於いて御下知相済み日奥遠島に謫せらる云云。
自のいわく、大坂の御下知は日奥宗旨の法理を強いて申す故に遠島に仰せ付けられおわんぬ。
然りと雖も御慈悲を以て御赦免有られ則ち先規に任せ不受不施の御折紙を成し下さる所なり。
これ則ちその身をただただ許容し給うのみに非ず、所立の法理もまた御赦免を蒙らすれば則ち初めの流罪は先判の如く後の御折紙は後判の如し。
御折紙の趣偏に国主の御供養御赦免成せらるる旨歴然なり。
かつて万民施物の儀に非ず。
それ万民の施物は訴訟に及ばず何ぞ御折紙を頂戴せんや。
例せば祖師日蓮故最明寺殿初め流罪せらると雖も後に御赦免状の後判を成し下され、これに依って宗旨相続して殆ど四百年に及ぶ。
今の不受不施の法式もまたかくの如し敢えて一人も破壊する者無し。
然るに汝新義を企て祖師以来の制法を破り、殊に御下知の御折紙を背くや。
次に日奥渡されし袈裟衣の事既に御一札を頂戴するの上は請け還すに及ばず。
次に京都諸寺へ重ねて御糺明無き事は大仏殿の御供養相止んで不受不施の法理一宗通用の間重ねて仰せ出されず候。
御下知を以て御一札を成し下され候。

立義不受不施の事
天台宗と日蓮宗と倶に法華経を以て所依と為す。
故に不受不施の相論は台家の明匠に御尋ね有るべく候。
先日御寄り合いに於いて永喜法印身延に代わって難問致され候。
仏法無案内の間かつて得心無く候。
或いは相連の文を以て一宗の大義を破り、或いは相似の義を以て王法仏法の差異を失う。
依義不依語は如来の金言なり。
所立全く法華経の深義に任すべく候。
不受不施の制法は金口より出でたり。
妙に待絶有り、法に権実有り、門に摂折有り、化に順逆あり、時に三時有り、国に信謗有り。
一仏の所説たりと雖も権を捨てて実を取り、信を許して謗を除く。
故に権教不信の行人とは堅く共行共床を許さず。
況やその人に親近してその供養を受けんや。
日蓮堅く施を余宗に止む。
既に余宗に施さず何ぞ余宗の供養を受けんや。
法華経にいわく、「但楽受持大乗経典乃至不受余経一偈」。
またいわく、「捨悪知識親近善友」。
またいわく、「是人舌根浄終不受悪味」。
またいわく、「不親近国王王子大臣官長」。
またいわく、「又不親近求声聞比丘比丘尼優婆塞優婆夷無所稀望無所稀求若在講堂中不共住止」。
またいわく、「唯有一乗法無二亦無三除仏方便説」。
またいわく、「正直捨方便但説無上道」矣。
天台大師のいわく、法華折伏権門の理を破す。
もし廃教せずんば樹想還って生じ教に執して惑を生ずこの故に教を廃す。
妙楽大師のいわく、既に実を識りおわんぬれば永く権を用いず。
またいわく、仏乗とは即ちこれ今の典なり永く余経に異なり三五七九等の乗に同せず。
またいわく、軽賎の請を受くることなきを名付けて時のよろしきを知るという。
伝教大師のいわく、一乗の家にはすべて権を用いず。
またいわく、財物を交えず共に同じく住せず。
またいわく、穢食を以て宝器に置くことなかれ。
またいわく、貧人の食する所輪王の毒なり。
またいわく、この故に法華に菩薩道を開くと雖も堅く同堂を制す。
またいわく、今法華に順ずるに小の儀を許さず。
またいわく、白牛を賜うの朝には三車を用いず、
家業を得るの夕には何ぞ除糞を用いん。
またいわく、国主の制に非ずんば以て遵行することなかれ。
日蓮のいわく、但し真言禅宗念仏者等の謗法の供養を除去す。
譬えば修羅を崇重しながら帝釈に帰敬するが如きのみ。
またいわく、愚にして正法を信ぜず、邪見及び?慢過去の謗法の障を以て不了義に執着し供養恭敬に着す。
唯邪法を見る善知識を遠離し謗法者に親近し小乗の法に楽着す。
かくの如き等の衆生は大乗を信ぜず。
故に諸仏の法を誹謗す。
またいわく、たまたま謗法の語を学ばざる者を還って謗法者と称し怨敵となす。
乃至 ますます供養を讃歎す。
故にいよいよ貪欲の心盛んにして謗法の声天下に満つ。
豈災難起こらざらんや。
またいわく、一向大乗の僧は左右の道を歩むこと無く、井水河水同じく飲むこと無し。
何に況や一坊に住すべけんやと。
されば法華経に初心の一向大乗の寺を仏説いていわく、「但楽受持大乗経典乃至不受余経一偈」云云。
またいわく、「又不親近求声聞比丘比丘尼優婆塞優婆夷」云云。
またいわく、「亦不問訊」云云。
たとい親父たりとも一向小乗の寺に住する四衆を一向大乗の寺の子息はこれを礼拝すべからず。
何に況やその法を行ぜんや。
大小兼行の寺は後心の菩薩なり。
またいわく、諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請取り給うべからず。
況や人間としてこれを請くべきや。
春日大明神御託宣にいわく、飯には鉄焔をば食すとも心汚れたる人の物をば請けず、座には銅焔をば座すとも心穢れたる人の家には至らず、草の棲萱の軒には至るべし云云。
またいわく、たとい千日の注連をば引くとも不信の処には至らず、重服深厚の家なりとも有信の処には至るべしと云云。
かくの如き善神もこの謗法の国をなげすてて天に上らせ給いて候なり。
心穢れたると申すは法華経を持たざる人の事なり。
この経の五の巻に見えたり。
謗法の供養をば銅の焔とこそ仰せられたり。
神にだもかくの如し、況や我等焔を食すべきや。
人の子として我が親を殺したらん者の我に物を得させんにこれを取るべきや。
何なる智者聖人も無間地獄を遁るべからず。
またそれにも近付くべからず。
与同罪恐るべし恐るべし。
日興筆記御義の口伝にいわく、法華の行者南無妙法蓮華経と唱え奉る者謗法の供養を受けざれば貪欲の病を治するなり矣。
身延先師日朝いわく、謗法の言を聞かばまさしく耳を洗うべく、もし知らずして謗施を受けば歯を研くべきなり矣。

第二寺領と供養と不同の事
およそ寺領とは国主政道の仁恩なり。
供養とは仏事作善の信施なり。
吾が宗の所立に世間仏法の殊有り。
仏法に約すれば大小権実信不信有り。
故に権宗の供養を受くべからず。
世法に約すれば国主政道の仁恩を以て常恒に君恩を蒙り鎮えに寺領田園を受く。
もし君恩を蒙らずんば誰人の許しを得てか宗旨を建立せんや。
故に専ら君子の仁恩を受け仏法をして相続せしむ。
その恩天よりも高く地よりも厚し。
心地観経にいわく、仏ののたまわく、世間の恩にそれ四種あり、一には父母の恩、二には衆生の恩、三には国王の恩、四には三宝の恩。
乃至 国王の恩とは福徳最勝にして人間に生ずと雖も大自在を得。
故に三十三天の諸天子等恒にその力を与う。
常に護持するが故にその国界山河大地に於いて大海の際を尽くすまで国王に属す。
一人の福徳一切衆生の福に勝過するが故にこの大聖王正法を以て化して能く衆生をして悉く皆安楽ならしむ。
釈氏要覧にいわく、恩に四有り焉、一に父母の恩、二に師長の恩、三に国王の恩、四に施主の恩。
法華結経にいわく、正法を以て国を治め人民を邪枉せず。
日蓮のいわく、世間の恩にそれ四種あり、一には父母の恩、一切衆生互いに父母となす。
世々養育の恩甚深なるが故に。
二には衆生の恩、一切衆生に菩提の恩処あって衆生を利益し仏道を成ずるが故に。
三には国王の恩、正法を以て世を治め自他に善を修せしむ。
この恩に依って功徳を行ずるを以ての故に。
四には三宝の恩、常に法界に住して衆生を引導し苦を抜き楽を与え菩提を致すが故に。
またいわく、三に国王の恩とは、天の三光に身を温め地の五穀に神を養う皆これ国王の恩なり矣。
これらの経釈の如くんば寺領は第三の国王の恩、供養は第四の施主の恩なり。
汝が所立の如くんば第三第四倶に信施なり、何を以て四恩を分かたんや。
祖師既に地の五穀に神を養う皆これ国王の恩なりという。
明らかに知んぬ寺領は国主の仁恩なり。
供養仏事は第四施主の恩に在り。
祖師の所判明白なり、何ぞ末学と為し新義を企つるや。
もし第三第四合して信施といわば何を以て国王の恩と名付けん。
明らかに四恩を分かち会通を成すべし。
もし会釈無くんば所立僻解なり。
また汝が記録の中に釈氏要覧の文を挙ぐと雖もただ心地観経の文を引きて道誠の釈に施主の恩を列るの文を引かず。
曲会私情定めて疑い無き者か。
身延第一祖の筆記にいわく、国王大臣より所領を賜い官位を賜うともそれには染せられず謗法供養を受けざるを以て不染世間法と云うなり。
既に上に官位所領を挙げ、下に供養を挙ぐ、明らかに知んぬ寺領と供養とは天に隔たれり。
何ぞ寺領供養同一なりと云わんや。
仁王経にいわく、この故に諸々の国王に付属して比丘に付属せず。
何を以ての故に、王の威力無ければなり。
涅槃経にいわく、今無上の正法を以て諸王大臣宰相及び四部の衆に付属す正法を毀る者をば大臣四部の衆まさに苦治すべし。
最勝王経にいわく、王国中の人の悪を造るに遮止せざるを見て三十三天の衆ことごとく忿怒の心を生ず。
これに因って国の政を損ず。
薩遮経にいわく、王とは民の父母なり。
法を以て衆生を摂護して安楽ならしむるが故なり。
法苑珠林四十四巻に瑜伽論を引瑜していわく、大王まさに知るべし世間を恩養する事を。
妙楽大師のいわく、匹夫は恩自ら蔽わず。
王沢は沾い万民に及ぶ。
大集経にいわく、もし未来世の有信の諸王則ち四情等むしろ如法の比丘一人を護りて無量の諸々の悪比丘を護らず。
能く法を護持する者まさに知るべしこの人は乃至十方の諸仏世尊の大檀越なり。
釈氏要覧にいわく、三に国王の恩とは華厳経にいわく、国に君王有れば一切安き事を得この故に人王は一切衆生安楽の本と為り在家出家精心道検皆正国に依りて住持し演化し流布する事を得、もし王の力無ければ功行成らず法滅して余り無けん。
いわんや能く利済せんをや。
この故に所修の一切の功徳六分が一常に国王に属す。
願わくば王福山の如くに崇く固くして壊し難からん。
汝が所解の如くんば上の経釈の明文に違背す、甚だ以て哀れむべし。

一、他いわく、国主の御供養を受くべきや否やの義なり云云。
自いわく、国主の御供養を受くべしと云う祖師の証文有りや。
また祖師故最明寺殿の御供養を受けられし現証有りや。
祖師既に伝教大師の妙判を本と為して先帝の御供養を訴訟し奉る事を述べたもう。
日蓮のいわく、先帝国忌日比叡山に於いて清浄出家のために菩薩の大戒を授け菩薩大僧と為す。
弘仁を源となしこの大戒を伝うと云云。

一、他いわく、挙足下足及び一滴水等これ国主の供施なり。
況や地子寺領等に於いてをや云云。
自いわく、汝が所立の如くんば王法仏法甚だ以て混乱す。
もししかれば日月の光雨露の潤いこれ皆身に蒙る。
豈信施供養といわんや。
もし汝君子の仁恩を忘れて偏に供養と言わば政道日々に衰え人民泰らかならず。

一、他所引の宝梁経文の事
自いわく、これは帰依の信施を挙ぐ、吾が宗の所用に非ず。
また祖師一代の判釈の中にこの文を引くことなし。
師敵対恐るべし恐るべし。
天台妙楽の所判の中にこの文を引くと雖も堅く小乗に属して大乗円頓の証と為らず。
眼有らん者誰かこれに迷わんや。

一、他所引の梵網経文の事
自いわく、経文すでに明らかに供養と仁恩とを分かつ。
天台大師梵網疏もまたしかなり、委悉に見るべし。
与咸の註釈に分かって三段と為す。
次下に至り料簡の釈有り、何ぞこれを見ざるや。
汝が記録の中に経疏共に陰略せり、曲会私情の頑意はなはだ笑うべし。

一、他所引の安国論の文の事
自いわく、祖師の所判に帰依不帰依の別有り。
今は御帰依の僧に備うる所の田園を挙ぐ。
何ぞ吾が宗に賜う所の寺領の証となさん。
文にいわく、伝教義真慈覚智証等云云。
これは桓武天皇伝教大師御帰依の時比叡山を以て天子本命の道場と為し、それよりこのかた御代々の聖帝これを貴みこれを敬い給う。
然るに法然の選択に依って天台御帰依の寺に寄する田園を奪い取りて余宗に移し、一向大乗の寺の御帰依を抛って志を他宗に寄す。
日蓮これを歎き故最明寺殿へこの旨を諫めらる。
故にこの文に挙ぐる所の田園は御帰依の僧の寺領なり。
何ぞこれを以て不帰依の寺領と為さんや。
前後の文つぶさに見るべし。
汝が僻解の如くんば自他宗の異無し、祖師の明文に背けり。
日蓮のいわく、たちまち六宗の御帰依を捨てて一向に天台円宗に帰依す矣。

一、他所引の顕戒論の文並びに法苑珠林の文の事
自いわく、これまた帰依僧に備うる所の田園を挙ぐ。
その義上にあり。

一、他所引の金吾殿御書の事
自いわく、これは法華経所持の功徳普く一切に亘る事を挙ぐ。
豈下所修の善根国主の御祈りと成らざらんや。
文の中に既に信謗を分かつ、何ぞこの書に依り一宗の大義を失わんや。
哀れむべし、悲しむべし。

一、他いわく、伊州の折紙は京都諸勧進の事なる故に今度所論の限りに非ず。
云云
自いわく、この御一札の中に初めには祖師制法の不受不施の義を挙げ給い、次に勧進の義を遊ばさる事はその旨上に異なり。
何ぞこれを以て祖師の制法を失わん。
上代には立義に於いて異義無し。
故に御一札を申し請くるに及ばず。
立義雷同の時御折紙無きを以て何ぞ今の御一札を褊し奉らんや、国主違背その過遁れ難し。
つぶさに上の御一札の御文章を見るべし。
また汝経釈を以て御一札を軽んじ奉るは仏家を貴むに似て却って国主を軽んず。
王法付属の金言明白なり。
何ぞこれに背くや。
仏敵対免れ難き者なり。

一、他所出の妙顕寺御令旨の事
自いわく、これは日像法師の折伏弘通の功勳を賞して賜う所の田園なり。
総じて寺領に就いて或いは賞録或いは供養その事不同なり。
今日像上人に賜う所の田園は忠功の賞なり。
正しき供養に非ず。
像師既に堅く謗施を制す。
何ぞこれに違して供養の謗施を受けんや。
その旨御文章顕然なり、豈疑滞を残さんや。

一、他所出の権現様御朱印の事
自いわく、これらの御文章は王法付属の遺命を貴び給う。
故に諸宗の寺院に不入を成し下されし旨は仏法相続の義なり。
吾が宗に於いて仏法相続は貴命を以て堅く不受不施の法理を相守るなり。
仏法相続の御文章を以て信施供養と云うべからず。

一、他いわく、祖師の流罪は国主の供養を辞する故と汝これを思うか。
また問答に屈するの故に祖師謫せらるとその意を得るか。
云云
自いわく、流罪赦免に就いて先判後判治定の上祖師国主の供養を辞することを反詰せんや。
哀れなるかな四箇の名言と不受不施とその旨一なることを知らず。
一宗の大義に迷う故に口には四箇の名言を説くと雖も身には不受一偈等の文を行せず。
汝が如くんば経と持つというと雖も名有りて実なし。
謗罪の過を隠さんが為なり。
欲しいままに仏祖の厳命に違す、過てば則ち改むるに憚る事なかれ。
云云
汝仏子の名を得たまたま経論の文句を学ぶ。
何ぞ改悔を修せざる。
諸門徒の改悔帰伏の事その義目前たり。
いかでか先蹤に背かん。
汝改悔の功を修せば宗義本意に復し延山上古に等しからん。
慎むべし、慎むべし。

一、他いわく、四恩抄並びに釈氏要覧の文かつて沙門に給う寺領等は布施供養ならざるの証文に非ず。
はなはだ笑うべし
云云
自いわく、この語を見るに汝が所立僻解治定せり。
第四の施主恩の外に国王の恩を立つ。
寺領は主恩なり。
信施供養に非ざる事天晴れ地明らかなり。
汝が所解四恩の分判に迷い欲しいままに悪義を立つ。
四恩の相貌明らかに会釈を設けらるべし。
もし解釈分明ならずんば受不施の所立泡沫に同ず。
謗法堕獄を遁れ難し。

一、他いわく、もししかれば数々経釈祖師の文義を出すべしと詰難すと雖も一文をも出さず、汝負処に堕する事決然なり
云云
自いわく、この語を見るに汝が所立負所に堕する事明白なり。
国恩施主の恩は供養仁施の明証なり。
汝これを解釈する事能わず。
却って寺領仁施の例文を疑う。
これは愚者の論ずる所なり。
もし汝が疑いの如くんば経の中に一念三千の語なく例文なきを以て一念三千なしというや。
汝が胸中管見の至り甚だ以て笑うべし。
たとい数千の経巻を引くと雖も帰依の田園なり。
不帰依の寺領を供養なりという証文を出さるべし。
四恩の外に恩として出すべきなし。
四恩に約すれば寺領供養の相貌委細に会通を待つのみ。
この條に於いて真偽を決すべきなり。
日蓮一宗を建立してよりこのかた三百余年不受不施なり。
故に一宗の族等一人として謗法の施を受けたる者無し。
汝が所立に依れば宗義たちまちに滅亡せん。
三寸の舌を振るいてたやすく仏子の善苗を抜く。
法中の怨敵円頓の邪魔というべきのみ。
 于時寛永七年庚午二月二十三日 日樹 在判

身延誤りの條箇 池上日樹
一、上様御下知の御折紙に違背す。
これ国賊なり。

一、受不施の所立は諸宗に於いてその例これ無し。
他宗の如くんば有受有施なり。
汝は有受不施なり。
自宗の如くんば不受不施なり。
汝が所立は受不施なり。
自宗に非ず。
他宗に非ず。
信義治定せり。

一、受不施の所立は経釈に違背す。
諸宗僧徒の威儀は法体に依る。
法体に於いて権を捨てて実を取らば供養仏事も権を捨てて実を取るべし。
もし法には権実の起尽を分かち事相に権実の起尽を分かたずんば四個の名言もまた然るべし。
内証法体の日四個の名言を立て事相に於いては四個の名言を立つべからず。
祖師先達は二業倶に権実の起尽を分かつ。
汝が如くんば不受一偈の文云何がこれを行ぜん。
委悉に答釈を待つのみ。

一、国主は受不施万民は不受不施云云。
念仏権門等の法門国主に於いてこれを説かず。
万民に於いてこれを説くや。
祖師日蓮は国主に於いて四個の名言を諫む。
師敵対堕獄治定せり。
もし引入の日これを許すと云わば引入の日念仏を申すべし。
貴命に応ずるが故にこれを受くといわば貴命に応じて何ぞ念仏を貴まざるや。
委悉に解釈せらるべし。

一、国主は受不施万民は不受不施云云。
国主に於いて受不施と云わば万民もまた受不施なるべし。
万民の財体は国主の御恩なる故に万民に於いて不受不施と云わば国主もまた不受不施なるべし。
万民不受不施は与同罪を救うて現当二世の大果報を得せしむるに在り。
重恩の主君に大果報を得せしめず。
万民を本とし家を重んじて国を軽んぜしむるなり。
日蓮は謗家を免れんが為に父母兄弟に語り、謗国を免れんが為に主君を諫め奉り、祖師は国主並びに万民に告げ知らしめよと云うこの條目委細に答釈せらるべし。

一、国主の御供養を受け万民の供養を受けざる証文ありや。

一、祖師国主の追善供養を受けられたる現証ありや。
委細に出さるべし。
祖師国主の供養を辞したまう事現証あり。
知られずんば来たりて習うべし。
君子は下問を恥じず。
汝何ぞ?(心へんに喬)慢の幢を倒さざる。悲しむべし悲しむべし。

一、不帰依の寺領は供養なりと云う証文如何。

一、僧に於いて帰依不帰依の別あり。
汝が所立の如くんば一切皆帰依なり。
自他宗の異無し。
委悉に答釈せらるべし。

一、諸宗に於いて四恩の義あり。
吾宗の四恩と云うは何がこれを分かたんや。
汝が所立の如くんば三恩ありて四恩なし。
委細に答釈せらるべし。

一、初めには国主万民を受不施と云い、今転計して万民は不受不施と云う。
その過顕然なり。

一、先年川崎に於いて日遠書物を渡されて今は渡さずと云う。
大妄語笑うべし。
渡されたる書物の中数多の謬あり。
これを略す。

已上十二箇條大僻見治定せり。
委悉に会釈せらるべし。
もし遅々するに於いては僻解顕然にして法中の糟糠釈門の怨敵なり。
 池上本門寺 日樹 在判
寛永第七庚午二月二十三日

第 六
信長公御代の御折紙
法華宗中の事祖師以来の制法として他宗の志を受施せず。
殊に諸勧進以下これを出されざる儀もっともその意を得候。
向後上下京中へ申し出す旨これ有りと雖も当宗の事は相除くべきの状件の如し。
村井長門守 貞勝 在判
天正五年二月朔日
 法華宗
 真俗中

豊臣太閤秀吉公御代の御折紙
法華宗中の事祖師以来の制法として他宗の志を受施せず。
殊に諸勧進以下出されざるの儀その意を得候。
向後いよいよ上下京中へ申し出の旨これ有りと雖も当宗の事は相除くべきの状件の如し。
民部卿法印 玄以 在判
天正十七年卯月二十八日
 法華宗真俗中

私いわく、義昭秀忠の二代の折紙伊州守の書札は記録にこれを載す。
信長秀吉の二代の折紙は記録にこれを略す。
故にここに載せ置くのみ。
右亀鏡四通伊州の書状は後代の人かつて疑うべからざるなり。

第 七
京都諸寺法理一統の連署
この度板倉伊賀守殿継ぎ目の御折紙について衆会を遂げ重々談合つかまつり先規に任せ申し請けの上は諸寺一統たるべく候。
この儀に於いても毛頭私の異儀有るまじく候。
その為に連署する事かくの如くに候。
已上
元和九年癸亥十月二十日

諸寺会合次第
妙覚寺 実成院本立坊、妙顕寺 法音院増長坊、本法寺 常光坊、妙蓮寺 芳徳院、本骼宦@安住院、本国寺 龍華院一要坊、本能寺 吉祥院円光坊、妙満寺 成就院、要法寺 信行院、妙伝寺 最上院、寂光寺 信行坊、頂妙寺 学立坊、本禅寺 本寂坊、立本寺 東陽院玉蔵坊、本満寺 玉持坊
已上
私いわく、右この連署は京都諸寺の評定箱にこれ有り。
この外また本満寺住持日深より日奥に遣わされし直筆の書状これ有り。
いわく、世出通用す等云云。
記録にこれを略す。
故にここに出すのみ。

第 八
日樹訴訟状
謹んで言上。
去る二十一日に対決を遂げその上双方記録を以て三問三答致すべきの旨仰せつけられ候條これに依り一問一答互いに相渡し候。
中にこの方より数多の問難申し懸け候処に身延の衆重ねて返答致されず候。
いにしえより問答の作法に任せ記録の返答これ無く候えば負けにつかまつり候間その旨きっと仰せつけられ下さるべく候。

一、今度の儀は一宗の中に祖師の立義相破られ候間相論申す事に候。
かつて御公儀に対し奉り違背申すにけ候間異論に及ばず候。
但し平人の施者中古に於いて世の機嫌を息かせ我等専ら今更これを改めず候。
則ち両隠居と愚意と同心に候。
池上日樹並びに徒党の者誤って国主の御供養を受くべからずと申すについてこの度対決を遂げしめ文理共に閉口候故に曲事に仰せつけられ候。
この旨を以て能く能く弘通あるべく候。
日暹 在判
寛永第七庚午四月十五日
身延山末寺中

第 十一
日遠両山の院坊同宿小僧末寺の住持院坊同宿新発意等連判起請を致すべきの書き出し
今度法理の往復について日樹の所立邪義たるの段かつて以て存ぜず候て信仰の処にこの度仰せの趣きもっとも領掌つかまつり候。
然らば総じて国主より沙門に賜う地子寺領等は三宝御崇敬の故に候間ことごとく皆御布施供養たる事決然に候、この旨経釈祖師の妙判分明なり。
向後右の趣き随分弘通教化つかまつるべく候。
もしこの旨違犯に於いては三宝諸天祖師大菩薩の御罰を蒙り悪趣に堕在すべき者なり。
寛永八年辛未卯月二十二日 諸僧 在判
於日遠尊師法座下御近習中御披露

第 十二
歴代十七箇條
一、大仏供養の始めは豊臣太閤秀吉公の御代
 文禄乙未九月二十五日なり。
 明年改元。

一、豊臣太閤秀吉公の御他界は慶長三戊戌八月十八日なり。
豊臣の廟号を山城の国東山に贈り豊国大明神と為す。
去去年源朝臣家康内大臣に任ず。

一、謗供受不受大坂対決は慶長四己亥十一月二十日なり。
内府家康の御宰により日奥を対馬に流す。

一、内府家康公の御母儀御他界は慶長七壬寅九月二十九日なり。
伝通院殿光岳智香蓉誉大禅定尼覚位と号す。
池上日尊関東諸法華宗小石川無量山寿経寺に諷経して供施を受けざるなり。
明年癸卯家康公左大臣征夷大将軍に任ず。

一、相国家康御子息将軍秀忠の御舎弟尾州の国主松平薩摩守忠吉の御他界は慶長十二丁未三月五日なり。
性高院殿憲瑩玄白大禅定門覚位と号す。
池上日詔等三縁山増上寺に諷経して供施を受けざるなり。
去去年家康公は太政大臣源朝臣に任じ、秀忠公は左大臣征夷大将軍に任ず。

一、日奥相国様の御赦免を蒙り帰朝は秀忠公の御代慶長十七壬子六月四日京着なり。

一、相国家康公へ日奥出仕は慶長十八癸丑板倉伊州守駿州下向の時御披露に依り召し出さるなり。

一、大仏供養の止むことは秀忠公の御代慶長十九甲寅大坂御陣始むるの年なり。
明年元を元和と改む。

一、相国家康公の御他界は元和第二丙辰卯月十七日なり。
相国の廟号を下野国日光山に賜い、東照大権現と為す。
池上日詔身延日遠関東の諸法華宗武州仙波北院に諷経して供施を受けざるなり。

一、伊賀守勝重所司代の隠居分は将軍秀忠公の御代元和五己未なり。

一、板倉伊州守勝重相国家康公仰せ置きの旨に任せ重ねて将軍秀忠公の仰せ出しを蒙り、御下知の折紙を成し下されしは元和九癸亥十月十三日なり。

一、日奥帰朝已後京都諸寺法理一統の連署は秀忠公の御代元和九癸亥十月二十日なり。

一、伊賀守勝重の他界は将軍家光公の御代寛永元甲子四月二十九日なり。
四品拾遺補欠前伊州守傑山源英居士神儀と号す。
去年癸亥秀忠公は太政大臣源朝臣に任じ、家光公は左大臣征夷大将軍に任ず。

一、相国秀忠公の御台、将軍家光公の御母儀の御他界は寛永三丙寅九月十五日なり。
崇源院殿大夫人和興仁清昌誉大禅定尼尊儀と号す。
池上日樹身延日深関東の諸寺諸山京都諸寺代妙顕寺当住日饒増上寺に諷経して供施を受けざるなり。

一、相国秀忠公妃君将軍家光公御姉京極若狭守殿北方二十八春御他界は寛永七庚午三月四日なり。
興安院殿豊誉天清陽山大禅定尼尊儀と号す。
池上日樹身延日暹関東の諸山小石川伝通院に諷経して供施を受けざるなり。

一、日奥遷化は将軍家光公の御代寛永七庚午三月十日妙覚寺に於いて六十六歳にして卒す。

一、日樹遷化は将軍家光公の御代寛永八辛未五月十九日申の刻信濃国伊那郡飯田郷の田中八郎右衛門尉宿所に於いて五十八歳にして卒す。
池上本門寺在住十二年なり。
已上始め目録より終わり歴代に至る彩紙を五六に呈し兎毫を几上に置くのみ。

それ仁王教令を垂れ治して必ず成る。
法王宗を立つ。
制法に非ずんば豈耐えんや。
奥にこの頃受不受の諍いを発してついに対論記録に及ぶ。
予普く真本を尋ね集めて一巻を成す。
貴む所邪正を分かち是非を弁えるに在り。
唯自身の廃忘を扶けんと欲す。
誠に他人の披覧を望むに非ず。
乞い願わくば信謗共に六根を浄め霊山の嘉会を仰ぎ彼此同じく四徳を成じ寂光の本土を期さんと云爾。
于時寛永八年歳次辛未六月下旬日肱を枕に誌す。


第 十三
小西日領目安
寺領追善黒白不同の事
寺領は仁施供養は信施なり。
その故はおよそ寺領に二有り。
一には帰依の寺領、これ仁恩の施に非ず。
御帰依の僧に給う故に。

二には不帰依の寺領はこれ国主国王の御仁恩の施なり。
日蓮宗は御祈祷所にも非ず、また御位牌所にも非ず。
ただ国家守護の験万民饒益の御慈悲を以て下し置かる故なり。
これに依って釈尊の説経に両説不同なり。
宝梁経等に過去の大王この大地を以て持戒の比丘に施す乃至この故に破戒の比丘一切の信施この人に及ばず等の文は帰依の寺領の説なり。
故に日蓮宗の寺領の例証には引くべからざるなり。
また諫王経に、まさに善心の施民を恵むを以て民の命を残り無く王の法と為すべしと。
弥勒菩薩瑜伽論に、大王まさに知るべし、世間の恩養。
これ則ち国主国王の仁恩田園の施なり。
ただ日蓮宗の寺領田園これなり。
全くこの経論にかなうなり。
供養とは御先祖御忌日さて御年忌追善は沙門供養なるが故に寺領追善黒白不同と申し募るなり。
既に孟子にも民恒の産無くば因って恒の心無しと。
孟子王道を論ずる日はこれを諫暁せし語なり。
また心地観経にも、三に国主の恩とは王法を以て国を治め自他に善を修す。
この恩に依り功徳を行ずるを以ての故にと。
日蓮宗の沙門不受謗施の修行三時の勤行日夜の行業もただ偏に国主国王の御仁恩の施を蒙るべし。
故に祖師日蓮四恩抄と申す書の中に、三には国主の恩とは天の三光に身を温め地の五穀に神を養う。
皆これ国主の大恩なりと説けり。
これ則ち日蓮宗の身に引き懸けて国主御恩施の寺領を書き置かるなり。
もししかれば寺領と供養と黒白不同なりと申し定むるなり。
また例証これ有り。
既に法華宗の御大名衆の中御所領の内の他宗の寺社は寺領田園を寄付せらるなり。
これ本祖師已来の制法たる故他宗の寺社には施さざれども仁恩政道の験を以て御寄進なり。
かつて信仰の志には非ざるなり。
只今日蓮宗の所領田園これを以て例意を得べきものか。
二には寺領は喜、追善は憂なり。
その故は寺領とは天下御一統の上の御祝儀に下し置かるなり。
供養は御先帝の御弔いなるが故なり。
三には寺領は世間供養は仏法なり。
その故は法華経に不染世間法と説いて官位所領は世間の法と定めらる。
証拠は身延の第一祖日向法師祖師日蓮の法義を記す時国王大臣より官位を賜り所領を給うともそれに染せず謗法供養を受けざるを不染世間法と云うなり。
ここを以て日蓮宗の沙門は所領田園を世間の御恩と申し定むるなり。
追善の儀は本如来の説経より出でたる故に仏法とは申すなり。
四には寺領は四恩の中の第三王法の御恩なり。
追善は第四の三宝の恩なり。
三宝と申すは仏陀と法華経と出家の三なり。
これに依って追薦は四恩の中の三宝の恩と定むるなり。
上に引き申す処の日蓮四恩抄に寺領は第三国主御仁恩と申す所を分明に顕さるなり。
五には寺領は現世安穏の為、追善は後生善処の為なり。
その故は殿下天下御一統の上常恒に天下安全の御祈祷を遊ばす時万民に似合いに或いは屋敷を給わり、或いは田園を賜るなり。
故に現世なり。
これは国王御直に行い給う処の御祈祷なり。
御自分より遊ばす処の御政なり。
例せば出家明呪要品を読誦して天下安全を祈り奉るが如きなり。
これに依って与咸法師の記中にも一には供養二には大地と釈して信施供養の外に寺領を載せられ、また釈氏要覧下巻恩田篇の中に四恩を挙ぐる時にいわく、第三には国王恩第四には施主恩云云。
また天台大師梵網疏の中に檀方信施の外に寺領を載せ給う。
幸いに梵網経にいわく、一切檀越の供養を受くることを得ず。
また国王の地上を行くことを得ず。
既にまたの字を置き二段に説き給う。
もししかれば寺領田園と信施供養と黒白の不同なりと堅く申し定むる処右の経論釈疏にかなうものなり。
恐れ乍らこれらの旨を以てよろしく御披露に預かるべく候。
よって言上件の如し。
小西日領  在判
寛永第七庚午歳三月吉辰

三池対論記録 終