萬代亀鏡録

破鳥鼠論:1(日講上人)

破鳥鼠論 並序

頃日新に供養の手形を書かれたる人一巻の書を作って世間に披露せらる。
開いてこれを見るに大むね荘厳己義の浮説曲会私情の僻見なり。
挙げて論ずるにたらずといえども彼の臭を逐える人の風情に万に一つもこの虚談を信じ、不覚に誹法毀人の重罪を招く方もあれば恐慮なきにしもあらず。
または万代の末までも迦羅鎮頭の薬毒混乱し牛驢二乳の真偽顕れがたきように法水の清濁その流れに迷い行く人を将護する等の志にも引かれてやむことを得ず、或いは流聖衆の御物語をひそかに記し置かんこと或いはまのあたり見聞したる分明なる証跡など筆に任せて書き集めぬ。

さて草稿事終わってこの書を何とか題せんと思案を回らしける折節友なる人仏蔵経の文を引き出して才覚とせられけるこそいみじけれ。
仏蔵経に譬えば蝙蝠鳥を捕らえんと欲する時は則ち穴に入って鼠となる。
鼠を捕らえんと欲する時は則ち空に飛んで鳥となる。
しかして実に大鳥の用有ること無きか如しと説きたまえり。
されば新受の人達も名をば悲田不受不施にかりて名聞のはかりごととし、姿はさながら敬田受不施の私欲にくみして利養の媒とせらるれば海のものにも非ず、山のものともみえず、天にもつかず、地にもつかぬ虚空なるすそろ事をのみ宣べらるればこれやこの鳥にもあらず蝙蝠の、と列ねたる古歌にもよそえて、彼の書をも鳥鼠とや名付け侍らん。

さらば此の書は鳥鼠を破る論ぞと云う心あてにて破鳥鼠論と題を置けるにこそ侍れ。
誠に狂人走れば不狂人もはしるの責めは吾がともがらものがれがたからんにや。
日講の門人無名子序す。

破鳥鼠論

一、他書にいわく、去年十一月不受不施の本寺三箇を公儀へ召し出し仰せ渡しの趣きは今度御朱印頂戴つかまつり候儀御供養と存じ奉り候。
不受不施の意得とは各別にて御座候。
かようの手形いたし御朱印頂戴いたすべきとの事なり。
右の旨八月勝劣方へ仰せ渡され勝劣の諸寺異義なく手形さし上ぐる事。

一、右の仰せ渡し以後宗門の破立この時にありとて三箇寺を始め一派の諸寺談合僉議まちまち或いは歴々女中方を頼み、或いは日光御門跡に托し上の重々手形御免の義を訴訟申し上げると雖も、勝劣の先例すでに目前たる上はかつて異義に及ぶべからざる旨にて更に御許容これなし。
これに依って平賀日述はもはや法命相続の籌策尽き果ておわんぬ。
いかにもあれ勝劣の如きは手形はなるべからずとて霜月十三日同十六日二度まで公儀へ出座有って、上意背きがたしといえどもまた宗法破りがたき間手形すまじきよし堅く申し切らる。

次に小湊日明、碑文谷日禅、谷中日純相談にいわく、経文に「我不愛身命但惜無上道」と見えたり。
章安いわく、身は軽く法は重し。
身を死して法を弘む。
儒門また身を殺して以て仁を成す有り云云。
もし一身を捨て法命相続するてだてだにあらましかば、誰か法の為に身を捨て砂に玉をかえるをいたまんや。
平生のぞむ所なり、一念もひるむべからず。

然るにこの度もし上意に違背せば四百年来の宗法一朝にほろびて日本国中不受断絶掌を反すべからず。
何とぞ法灯相続の巧略はあるべからずやと数日昼夜殆ど寝食をわすれたまえり。
しかればとて勝劣のごとく手形を書きぬれば祖師の立義忽ちに破る。
書かざれば上意違背の御とがめ目前たり。
進退ここにきわまれり。
兎やせん角やあらん、

しかじ万事をさしおいて仏意をこころみ、護惜建立の志に住して文言添削の訴訟を企てかなわざる時難にあい身をすてんにはと。
果たしてこの義に治定し、不受不施各別の文言をのけ、その上に慈悲の二字御入れ下さるる様にと明禅純の三聖訴訟数般に及ぶ。
ここに於いて御奉行仰せにいわく、不受不施各別の文言をば除くべし、慈悲の二字是非入れたきとの訴訟その意趣何事ぞや。

両寺答えていわく、慈悲の二字入れぬれば供養の二字ありても先規のごとく、悲田供養なる故に、祖師の立義に相叶い、天下安全の御祈祷を抽んでも、仏神の感応掲焉たるべしと心づよく国恩報謝の一分たり。
もし慈悲の二字入らざれば仏祖の内証に違背するが故に、国土豊饒の祈願も勝利を失い、国恩報謝の義全く欠如して国賊の罪科のがれがたき故に、悲哀のあまりやむ事をえずして慈悲の二字訴訟申す所なりと義を立て理を尽くして申し達せらる。御奉行御あいさつにいわく、訴訟の趣き由緒なきにしもあらずその理分明なり。
いよいよ御相談の上にて追って御渡さるべしと云云。

さて霜月二十二日両寺を爪甲斐守殿へ召し出し、この度文言の御訴訟叶いがたき事ながら、各々公儀にも違背なく、祖師の立義を筋目に申さるる所を神妙に思し召し相叶うの間、有りがたく存ぜらるべしとて、則ち斯様の下書きを賜る。
此度御朱印頂戴仕候儀難有御慈悲に御座候、地子寺領悉く御供養と奉存候。
即座に手形さし上げ、極月十日に御朱印頂戴の事。
今破斥に便ならんと欲し、一章の内また分かちて多節とす。

一、右の仰せ渡し以後乃至御許容なし已上。
評していわく、これ世人を迷わせる誑惑の申し分なり。
およそこの仰せ渡しの趣き、七月末方内証の沙汰ありしに付いて八月二日同十二日二十一日自証寺大乗寺感応寺にて諸山の衆会合あり。

初両度の会合の趣は別義無き故にこれを記すに及ばず。
感応寺の談合は、久世和州八月十九日に諸談所の能化を呼んで、池上日詔の例を引いて書き物をすすめられたり。
その評議なり。

日講ははや和州仰せ出しの時即席にて日詔書き物すでに一宗の瑕瑾なりと云いて諾せずと云云。
この日談合に日禅粗悪の言を出し既に衆を分かって両とせんと欲す。
日述の会釈に依って分かれず。
既にして日禅和州への返事の役に当たれるを辞す。

然るに次の日二十二日勝劣方のもの寺社奉行へ出でてすでに書物を捧ぐ。
日禅これを聞いて心を転じ和州への返事を諾し、二十三日に日浣と同道してゆく。
兎角書物なるまじき義一同の返事なり。

然るに日浣物語にいわく、日禅和州の耳辺へよりて何やらささやけり。
気味あしき体たらくなり云云。

その時分は八月中に書物の埒明く筈に和州の仰せなり。
さて八月中ついにことなし。
九月また僉議なし。
或る方よりの内証にいわく、芸州御簾中の御肝煎りに依ってこの義僉議なき筈なり、また酒井雅楽頭殿御母堂光寿院殿雅楽殿の内意を聞いて芸州御簾中へ書札を遣わさる。

その趣きにいわく、とかく一派内は異義なくんば別義あるまじ、異義あらばあやうしと云云。
既にして無事を祝し日講日浣十月二日帰談、その後日明はついに御朱印をとらざる事を本意なく思い、修行寺老僧和州と入魂なる間、密かにこれを遣わして、悲田供養の興行やむ事なし。
日純はまた芸州御廉中を誑かし、書物をばさせて不受不施をば立てさせ給えと侘び言す。
これに依って、また書物の義十月末に再発して、談林へ飛脚来るに依って日講二十七日出府、日浣に船橋にてあわる。
日浣は病気に依って、二十八日到府せり。
この御廉中を頼むは、日禅日純が興行。

さて日明は始終彼の悲田書の訴物訟なり。
然るに日禅十月末方養安寺談所より出でて已後いよいよこの義を興し、日述もこの義相談の人数なりと、芸州御廉中へ知らせんとの謀りごとに、いつわりて文の奥書に日述の名をつらぬ。
霜月始め芸州屋敷より日述日禅とある文すぐに三崎の日述へ来たる。
開いて見らるるに、彼の書物をばして不受不施をば立てさするのぞみ大形相調えり云云。
日述かつて合点せられず。
ここに至って日禅等が誑惑始めて顕る。

さて日述はこれよりさき十月二十六日に和州へ出でて、堅く書物成るまじきよしを理をつくしていえり。
日純等すでに無味に書物をばさせん不受不施をば立てさせたまえと、廉中を頼んで老中に申し入るなり。
故に日明がのぞむ悲の事も無沙汰に成って勝劣の如くの書物にて済ますの首尾になれり。
雅楽殿のうちはに異義あらば、あやうしの処へはやひしとあたれり。

さて日講日浣出府の後、諸寺へまわり、いよいよ八月の如く、異体同心にきっと覚悟御すえあるようにとたって異見せられけるに、禅純もおもてむきは既に流罪の覚悟なりと云いて、本尊等を書かする事、昼夜にやむ事なし。
さて諸檀那群衆なごり惜しみてなげきさけぶもの多し。
その後日浣日講等相談を遂げ、上野を頼んで施主を立て御朱印を申しうくる相談に谷中へゆけり。