萬代亀鏡録

破鳥鼠論:2(日講上人)

谷中等も諾して、さて梅嶺寺本源寺は表向きの諸山の使い、内証の肝煎りは谷中日純の筈なり。
十一月五日加賀爪甲州より平賀碑文谷を呼ばれ無味に書物の義を言い付けらる。
日明は古湊へ会式に往いてようよう六日に着府せり。

さて日明和州へ出でて悲田の事をいえども、和州あいさつにいわく、とかく公儀の思し召し入れは三宝供養なり云云。
その後明純禅一味して、密々に内談ある体なり。
これ已後三人ともに悲田供養の訴訟の内談なること後に顕れたり。

さて十一月九日に日述谷中へゆかれたる時、坂部三十郎懐中より悲田訴訟の一札を出だして、この旨井上河州へ申し入るれども摂引なし。
上野よりも随分申さるれどもかなわずといえり。
時に日述驚いて、さては此方へかくして、悲田手形の訴訟をしたるとみえたり。
上野へも表には施主の義を頼むようにもてなして、内証は悲田手形の訴訟なりと始めて知れり。
これまでは随分日述も異義なきようにと思われ、講浣と明禅との間へへだてとなるようにして、相談もあるようにせられたれども、かの芸州御廉中の書状直ちに日述に来たれると、坂部三十郎日述をも明禅同心かと思うて、不図隠密の訴訟を顕せるとに思いあたられ、十一月十日日講日浣を梅嶺寺へ呼びにこされたり。

講浣はこの日日述十に八は流罪なるべしと思うて、暇乞いの心持ちに一樽を持たして三崎へゆかれたり。
しのばずの池のはたにて、迎いの者とひしと合いて、いそぎ馳せ付け日述に対面一礼おわって述のいわく、両処を明純禅へ使いに頼み候べし。
昨日これこれの首尾あり。
内談にてはかようの手くろうある間、向後かくれなきように表むきの相談にすべしと云云。
明純禅へ口上の趣きは甲州五日に既に書物の事いい渡さるるに、あまり延引なり。
一両日中にきっと返事いたすべし。
八月以来の約束書物なるまじき返事に致すべし。
各々定めて同心たるべき間、時日を定めて甲州へ出すべしと。

則ち講浣同道まず日明へ行き右の旨申し渡さる。
日明色めあしくて、あいしらいも大形にて法門の穿義あり。
返事には御慇懃の案内承り届け候。
諸事御意にはもるべからず。
くわしくは対談の時申すべし。

さて浣講を送って出でて、そなたしゅうはおれをば受不施にめさるるほどに、もはや対面もこれまでならんと云云。
ああ思い内にあれば色外に顕るるなり。
此八日の朝深川妙栄寺弟子貞園梅嶺寺へ来たり日講に語っていわく、昨夜日明処に滞留諸人群衆奥にて密談ありその談合の旨帰を日明弟子従真貞園に語りしなり。
その趣はまず慈悲の二字を入るる訴訟一往して見て叶わざる時は不受不施の心得各別とある言ばかりをぬいて、その他は勝劣の如くに書物する筈にきわまれり。
この内談料簡究まれる故講浣に対して暇乞いのあいさつなり。

さて日暮れに及んで谷中へゆき、禅純に対して口上の儀をのぶる返事にいわく、万事御意にまかすべきの処に、新たに御使い御隔心のようなり。
明日参って申すべしといえり。
講浣の処へ還って返事をいい、滞留して諸事密談あり。
明十一日の朝日純来たって日述の書院へ通り、講浣に対していわく、何としたるものであらんずるぞ、一日に八十度も機が変ずると云云。
日浣あいさつには、よく思案めされよと会釈せらる。
日講あいさつの趣は、道理一筋にきわまらば、別に思案も御座あるまじ。
我等は八月の筈が、今へ延びたると存ずれば八月以来の思案にていよいよ究まれり云云。
この日青山より飛札有って、日講を芸州屋敷へ呼び寄せられ、御廉中より芳野三左衞門を以て種々異見を加えられ、まず諸方へかけまわり肝をいらずとも、青山へ引っ込みて様子を見合わせられよと云云。
日講時に当たって、返事理をつくして申し達し、向後御懇意を蒙らずとも、この義に於いては同心申しがたし。
内々の学問はかようの時の為にてこれあり云云。

これよりしばし広島屋敷とは往復なし、さて十二日に日講また三崎日述の所へ往かれしに、日浣の物語にいわく、昨日、日明日禅日純三人同道にて、日述へ暇乞いに来たれり。
日述別して日明をさしつめて、後世はさておき今生の義理を思案いたされよ。
講席に上って不受不施を云い、不惜身命を云って檀那の帰依を受けたるものが、今急に臨んで節を変ずるは、まず世間儒道の理にも相違せり。
ひらに余と同心甲州へ往いて、書物すまじきの返事をいたされよ。

日明いわく、拙者に対してかの檀那あひしらいは御無用と云いて、やがて座を立ち去る云云。
これより分明に両派にわかれたり。
さて十二日の夜日述和州へ暇乞いに行かる。
この中諸旗本衆手わけをして老中よりの内証にて色々異見あり。
述師へも蒔田甫庵同名権之助等を以て異見せらるる間その返事の心持ちなり。

夜のふくるまで閑話あり。
先日委曲申す如く別にかわる分別もこれなし。
自身手形を致して末寺等をたすくる分別も一往は一道あるべく候得ども、それは末とぐべからず。
清濁二派にわかれなば、檀那は清方へつくべし。
また濁派をあしく云うべし。
左ある時は、私は堪忍致すとも、後住持或いは留守居寺家の者までも堪忍いたすべからず。
私分別からかいたものあしくいわれば、決定その清派をくむものを、かたきに致すべし。
然ればわれら手形をいたすより起こって、還って清法を立つる衆の頸をてづから切るとがにまかりなる間、とかく是非に及びまいらせず。
誘引の義も別に御座あるまじ。
明日は甲州へ罷り出づべしと云云。

和州も道理に服して誠に余儀なく笑止に思われたる体なりと、深更に帰りて日講へ物語りなり。
日浣は今朝より休息の為、下谷立善寺へ行かる。
この夜日述留守の内、谷中より使いをつかわす。
口上の趣きは昨日は御暇乞いを申したれども、今少し相談申すべく候間、明日甲州への御出をばしばらく御止まり候へと云云。
日講彼等が内意すでにきわまれ事を知り、その上彼等日述をたばかりだしぬいて、前へ出で書物いたすべき由をいえば、大いに日述の手前おくれになりて、法義のさわりになることをかえりみらるる故、使いに対していわく、日述ははや久世和州へ暇乞いに参られ、明日甲州へまかり出でらるる筈に候間別にかわることは御座有るまじ。
もし日述と御同心の分別ならば明日御同道もっともなり。
また義さえ一味なれば一日二日遅れ御出候てもくるしかるまじ。
去りながら今夜日述還られ次第、口上の通りは申し渡すべしとあいさつして、使いをかえされたり。

日述帰宅の後、日講の返事の通りを聞いて、称美せられたり。
十三日、日述加賀爪甲州へ罷り出でられ、書物あるまじき道理を言い切りかえられ、さて帰宅の後、平賀諸末寺三崎にあつまり、末寺の外も群衆書院狭きほどなり。
日講に命じて、八月以来の様子、別しては今度彼等が誑惑の義顕るるに依って、二派にわかれたる次第、夜前和州にてのあいさつまで一々末寺に対して披露せらるべしと云云。

これに依って、書院の上座に居して、次第をのべらるること、長談義一座ほどなり。
蒔田甫庵等、えんがわにてきかれ、言語次第梯橙ありて倉卒越次ならずと、述に対して称美せり。
この前後かの邪徒が奸謀あげて数うべからず。
或いは久世和州の回状なりと云うて、作り文をして古湊の末寺寂光寺を江戸中へまわして人の心をたぶらかし、或いは岩部安興寺 所化名存道日達弟子後号体量院 公儀より書き出しの御朱印地十一箇寺の内なり。
流さるれば安興寺も流さるる筈なりと、寺の名を書き付け、公儀書き出しの写しなりと云いて世上にまわしたり。

これ底心は、安興寺は広島御廉中のとり立て無比のねんごろなるを知って、御廉中をおどし誑かし落とさんとするの巧みなり。
当年は一本寺ばかりの御朱印僉議の筈なり。
何ぞ平賀末寺の安興寺をのせん。
はたしてついに安興寺の沙汰なし。
或いは日述もいまだながされざる内に日述のあとをばこの方へ申し請け、安興寺を平賀の住持にすべしなどいいて、芸州の屋敷を誑かしたること数うべからず。

十三日を不忍の池に高札を立て落書を書けり。
明純禅等を謗れる事目もあてられぬ体なり。
さて檀那はこの中まで流さるる筈に思いて泣き哀しみ暇乞いまでをしたるを、忽ちに変じて書物する筈になれるを聞いて、谷中の堂或いは坊内へも本尊をやぶり、判など切り抜き打ち散らしたる事かからざるていなり。
これらの有様に驚いて、少々悔やみの心きざしたる時分梅嶺寺恵眼院日b十四日暇乞いの為とて谷中へ往かる。
一夜逗留して種々密談せられたり。

明純禅或いは本寺は書物し、末寺をば助けん。
或いは書物するも大悲代受苦の義なりなど條目を立つ。
その上ひそかに語って云うよう、和州の内証にて今度以御慈悲被成下御朱印頂戴難有奉存候則御供養と奉存候と云う文言出でたり。
この文体にては日述方へも今一談合とげたきことなり。
貴辺幸今日御出でなればその手段をめぐらさるべしと云いければ、梅嶺もその趣きげにもと思われけるに依って、日尭日浣三崎に居られたるを夜中に呼び寄せて、谷中にて一談合あり。

夜明け方に日尭日浣谷中より帰られて、日述へその趣を披露せられければ、また諸寺へ人を廻し、三崎に於いて一会合あって、種々僉議の上日述申されけるは、この義本意に非ずと云えども、衆議の上なればしばらく相談に順う。
但しその文言について望みありと云いて(この義はとても調うべからずと思いて難題に右の案文を出せりと事おわって日述物語ありき。)慈悲供養と言をつづけ敬田供養と各別にて御座候の案文を出して、この旨調いたらば相談もあるべしと云われければその趣き谷中へ衆中より使僧を以て申し通じければ、明純禅も左様の義はなるまじと云いけるに依って、ついにこのあつかい調わず。
後に検ぶれば以御慈悲被成下とある文言、和州より出でたりと云う事大きなる作り事なり。

日講は始終この議には取り合われず、自身分別ばかりかため居られたり。
谷中よりも日講をば強者にきわめて、談合にもいれず。
この往復は十四日十五日両日の内の事なり。
十五日甲州より指し紙あるに依って、日述十六日の朝甲州へ出でられ、日講日瑶同道なり。
(日浣は十五日甲州よりの指し紙以前休息の為に青山へゆかれけるに依って今朝同道これなり。
 この度の指し紙は日述へ甲州より書物の義共許せられよと異見の為なり。)

諸寺残りなく供せられたり。
今日は一大事の義と思いけるにや、諸檀那身命をも惜しまざる体にて門より内へ入りこみ、後には甲州の広間へとりあがり、或いはうたれ、或いはひき出さる。
また法蓮寺せんもなき事を表へ出でてわめき、狼藉がましきことあり。
然るに諸檀那甲州の広間へ推参しける事、世間儀にては狼藉のようなれども、すでに一命を捨ててあがりしは、仏種の薫発したるものなれば、この時の一念にてもはや納種在識永劫不失なるべし。

さて甲州日講日瑤等日述に指し次いで出でられたるを見て、法門の筋目などを尋ねられたり。
日講外典の例をかんがえ、近道に道理をたててのこりなく返答せられたり。
さて二十二日古湊碑文谷等甲州へ出で、手形をしたり。
その晩に日講は所用あって、梅嶺寺へ往かる。日浣も立善寺へゆかれ、両人共に三崎に居られざるすきをみてや、日禅日述に対面せんとて、三崎へ来たりつれども近習の者とりつかず。
せんなくかえる云云。

さて二十三日飯後日尭甲州より梅嶺寺へすぐに来たり、日講日bへ語っていわく、すでに今朝甲州へ罷り出で、両派に分かれたり。
小松原を上座として、谷中等書物を頂戴し、有り難しと云いて判形を加う。
日尭手前へ廻りしとき、この文体にては宗旨の義に違背申し候間書物なり申すまじきよし申しきり候いぬ。
日了も同前なり。

然るに小松原谷中等一言も書物文言くるしからずといわず。また甲州もいつものごとく、井水河水皆御供養なるに、書物せまいと云うは盗人なりと、大なぐりのあいさつにて、ついに書物の文体直りたる間、書物せよといわれず。
則ちその書物の文言には、此度御朱印頂戴仕り候儀難有御慈悲にて御座候。
地子寺領悉く御供養と奉存候云云。

日尭いわく、先日谷中にては、以御慈悲被成下御朱印と和州の文章なりといえり。
それなれば能施の人からの御慈悲なるようにきこゆる間、談合もあるべきかと思いしに、唯今の文言は御慈悲にて御座候とあればまことの火を水と此方より思いなすほどのことなり。
その上不受不施の心得と各別と云える文言をのぞけること、少しも規模にあらずと云うことは、先日はや谷中にて日純等をつめたりその故は勝劣と一致の不受不施とは、本より両箇のものなるが故に、簡異の言を立てたり。
その上各別と云うは結文なり。

各別の儀は上に顕れて供養と存ずる義なり。
この度は彼勝劣と簡異せられたる一致の不受不施のものが、則ち義を転じて書物して供養と存ずる。
とかく上は、別に所別の相手なし。
さあらば何ぞ各別の言あらんや。

譬えば敵味方わかれたる時は、わきの物の敵へくみせざる怠状を書することあるべし。
その敵が降参せばすでに敵なし。
何ぞまた敵の心得と各別と云う義あらんやとつめたりといえり。

その時日講この書物の文章を見られ、更に難を加えられていわく、公儀の心得かしこし、これは少し色をつくるようにして、少しも支障にはならず。
かけかまわぬものこの手形を見ては云うべし。
内々公儀ふさがりのものにて候えば、当年の御朱印もかれこれと延引申し候処に、此度御朱印頂戴誠に難有忝なき御慈悲なりとまず一礼を述べて、さて降参仕候上は御供養と奉存候と書きなしたりと聞こゆべし。
その上地子の言を入れたるは、勝劣方よりはかさかけたるあしき言なり。

推するに地子の言を入れんと望むは、談林等をかり出すべき下地になるべしと云云。
(この推量果たして後に当たれり。)

また後日ある人の内証にいわく、慈悲の二字さえ入れ候わば日述も何れも異義有るまじきと、達って訴訟する故に、和州の肝煎りにて慈悲の二字入れたり。
則ち評定所にて和州申さるるは、公儀から三宝供養と仰せ渡しの上は、下にて何供養と名を付けて受くるともままになされよといわれたり。
これによってこの案文出たりと云云。
(この書物の案文とこの和州の挨拶とわりふを合わせたるが如くなり。)

この後身延日奠右の案文に両寺社奉行の加判を乞うて、取って認めおけりと云えり。
これ後日の禍を残せること必定なり云云。
然るに同日に谷中日純より梅嶺寺日bへ使僧を以て一札の趣を示すには、御慈悲にて御座候の次に則ちの字を入れたり。
今朝の文体の趣き、日尭に早くきかれし故に、則ちの字虚設なること、日講も日bもはやく知られたり。
彼が心を推するに、上の句の慈悲の二字と下の句の供養の言と何としても連貫せざる故、人はかたり落としたし。
余りせんかたなさのままに則ちの字を入れて、上より下へ是非ともおびきつづけんとしたるものなり。
浅ましき心得に非ずや。

日講その時座にあり合わされ、日bへ助言して返事をさせられたり。
その言にいわく、この手形御文言は内々の大悲代受苦の御志と存じて難有存候云云。
堕獄の手形に究めての挨拶にてありしなり。
この日書物の人数、小松原、谷中、村田、妙法寺代僧依智、妙純寺なり。

さて二十四日の晩に自証寺を甲州へ呼びて、出寺の義を申し付けらる。
自証寺千代姫君へ暇乞いを致して出寺申さんと云われたれば甲州のいい分にまた寺を惜しんでと云わるる時、自証寺居なおり、甲州へ対して破をだされたり。
数年重恩を蒙りし故に、今一度寺へかえり一礼のべて寺を出でんと云う事なるに、寺を惜しむとは何事ぞ。
すでに仏法の為に身を捨つる上は、只今手打ちにめされよ、少しもひるむべからず。
人体には似合わざる言なりと云うて座をたたる。

その時甲州これは上意にてはなきと陳放せられたり。
すでに余の衆へは上意と云いながら、自証寺ばかりへかく陳じたる子細を推するに、この已前自証寺の住持に受不施より、天意と云う者をなおさんとして、種々公事がましきことを構えたる時に、千代姫君登城なされ大猷院殿より直に寺を御もらい有って、小湊日遵に下されし先例ある故に、この度ももし上意と云わば、千代姫君よりもし御城へ直に穿義あらんやとの遠慮なるべし。
かようの手づくりなる首尾不合の仕置きは前代未聞なることなり。
ようようおとろえはてたることなり。

極月三日また日述日尭日了法蓮寺甲州へ召し出だされ、日講日浣日瑤梅嶺寺見舞いの為、この日同じく出でられたるに、甲州の内の侍一人色目あしき体にて、硯料紙を持ち出し、今日は日述等の四人へこそ指し紙を遣わしたるに、余の衆は何として出でられたるぞ。