萬代亀鏡録

語問答:1(日講上人)

客あり、従容として来たって余に問うていわく、
この頃聞く高家の信女一宗の真俗一時に滅亡に及ぶことを悲しみて、巧みに計略をめぐらし数輩の緒生と密談を遂げられ、その上決断を京都日精に請い、ついに彼古湊等の三箇寺龍土の番神に参詣し、改悔の為とて自ら妙典を頂戴し丁寧に本尊を礼拝し、殊に後代の支証に一札を送り和睦既に調い通用例の如しと云云
その謂われありや。

主人答えていわく、およそ仏法の興廃は時運の通塞にあり。
ただ業障を顧みて仏意にまかすべし。
いささかも人情分別の見計を起こすべからず。
いやしくもその理当然ならば一時に滅すというとも何ぞ制止すべけんや。

然るに真正の仏法永滅の義あるべからず。
弗舎大族の棄捨せる、程なく普天に光顕し、三武一韓か傾廃せし、ますます率土に流溢せり。
その暫滅の期に臨んでは偏に誠心を抽んで専ら身命を委ね信心勇猛にして獅子奮迅の志を懐かば、多劫の行願を一生に成就して速やかに仏道を証得せんこと掌中の庵羅菓をみるが如くならん。
法滅の発心まことにゆえあるかな。

況や今般公場の僉議に付いて日蓮法華宗逆化折伏の枢柄たる不受不施の立義東南西北の四民(士農工商)一人ものこらず耳にふれ縁を結ぶこと逆縁の広宣流布この時に極まれり。
豈堂舎仏閣の磨滅経巻衆僧の退廃にかかわりて少なくも正統の立義をけがすべけんや。
宗家の広布実に得益を論ずるにあり。
少なくも法水を汚しては順逆の二縁共に途轍を失う。
これに依って鼻祖出興の本意を失い、末法下種の要術を損す。
この一本に迷うとすんば万善万行いたずらに施し、この根源を全うするときんば十悪百非立ちどころに滅す。
造次顛沛にもわするまじきはこの一大事なり。

汝聞かずや、身子目連等が三五の塵点を経ること謗法による事を。
謗とは乖背の名なりといえり。
もしは行跡、もしは心業その節を変ずるは皆法謗の義なり。
必ずしも口に妙法をそしり仏祖を罵詈するのみを云うにはあらず。
道人必ず事を相続によせて正統の命脈をたつことなかれ。
遠くは吾が祖頭を龍の口に刎ねられんとする時後のつづかざることをかえりみず、近くは奥匠身を馬嶋に放たれてあとの絶えんことを慮りたまわず。

もし公庭より刎頭囚獄の責めなくんば自殺して法を守るも勇猛の烈士、流浪して飢えにのぞむも精進の加行なり。
あに無益の死去と云いてこれを制し、世上の嘲弄と云うてこれをとどめんや。

経にいわく、汝狂人ならくのみ、空しくこの行を作してついに獲る所無けんと云云。
法華如説の行者を狂人といわんこと尤も金言に符契せり。

如説修行抄にいわく、哀れなるかな今日本国の万人日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ、大苦にあうを見て悦んで笑うとも、昨日は人の上今日は身の上なれば日蓮並びに弟子檀那共に霜露の命の日影を待つばかりぞかし。
只今仏果にかない寂光の本土に居住して自受法楽せん時汝等が阿鼻大城の底に沈み大苦にあわん時我等いかばかり無慚と思わんずらん。
汝等いかばかりうらやましく思わんずらん。
一期を過ぐること程無し、何に強敵重なるともゆめゆめ退く心無かれ。

然るに宗祖はまのあたり霊応を蒙って難信難解の深妙の秘法をこころよく天下に弘めたまえり。
それ以後列代の祖師難を忍ぶ時もまた小霊験有り。
然るに末代の薄識その志微弱にしてその行疎浅なり。
故に目前の顕応なし。
これ行者の過失にして澆季の致すところなり。
その法水に至っては毛頭疑慮を懐くべからず。
然るに至誠の心を懐いて実に不惜身命の軌則を守らば何ぞ冥利なからんや。
庶女が振風、鄒衍が降霜思いて知んぬべし。
丹精天地に通徹し、白業仏神を感動して再興の嘉会時日をめぐらすべからず。
たといまた冥利も顕れず、正法一向に断滅すとも豈遠く遐代を感激せしめざらんや。

伯夷が首陽に飢えし、百世の貪士をうごかし、屈原が汨羅に沈みし、千歳の懦夫を起こす。
行者よく信得及ばして心のいたらざることを歎き、誠のあつからざることを恥じて不惜身命の素履を決定し護惜建立の胸懐に安住すべし。
余不肖の身たりといえども聊か師承のあることあり。

吾が本師日習は(始め恵雄と名付け後安国院と号す)備前岡山の産なり。
父は田中与三左衞門尉(後に友二と号す)宇喜多の直家の家臣母は秋山氏。
師二歳にして母に後る。
その遺言に依ってついに薙染す。
十五歳にして奥師丹州小泉に蟄居し給う処に往いて師弟の盟約を結ぶ。
両年座下に徘徊して経を転じ書を習う。
奥師その秀逸を奇としたまう。
十七にして東関下総飯高法輪の学校に趣き、切磋琢磨談林倫を絶す。
日の力既に窮りて継ぐに膏油を以てす。

然れば則ち嘉名もとめざるに普天にあふれ、令徳はからざるに率土にながる。
未だ一紀を逾ずして学功速やかに成って則ち関左を退く。
その間遙かに奥師の謫所西番対馬の嶋を尋訪すること両回なり。
再度は則ち師歳二十九歳にして松尾甚介と(予が姨聟たり宗二と号す)奥師の御赦免状を携えて至り快く帰洛の錦帆に陪侍す。
ついに時催し縁熟して奥師妙覚精舎に還住したまうなり。
満山の衆徒厳重の改悔をとげ、京都の諸寺一統に帰仰して則ち妙顕寺日紹聖人諸寺の総代として先年奥師を配流に処するの重罪を懺悔し、いさぎよく和睦すでに成って板倉伊州(内膳正の祖父)より不受不施御下知の折紙を申し請け万灯の会を施設し、万部の経を興行して門家の繁栄誠に古今の壮観たり。

当初天下を諫暁したまうこと三度に及びき。
功成り名とげて行年六十六歳終わりを全うして遷化したまえり。
それ実に寛永七年庚午三月十日なり。

吾が師日習始終影の形に随うが如くその寺内をはなれず、台家の奥義を究め当宗の深旨を伝う。
或いは講席に登り懸河の弁を吐いて時機相応の法水をあまねく真俗に流瀉し、或いは談室を構え学山の宝をかたむけて文義鉤?の妙味をひろく賢愚に含む。
奥師の威光朝野に覆蓋すること本より智行兼備の徳沢によるといえども率土の義龍碩徳奥師の淵底を窺いがたく思えることは実に日習日定(英然祖父、師始めは英賢という。後住善院と号す)その膝下をはなれざる故なり。

吾が師世辺うとき故に貫首職をつとめずといえども法門の正統は瀉瓶の嫡弟と云いつべし。
関左中村小西(法難以前)野呂(法難以後)等よりしばしば吾が師を能化の重職に請待すといえども決してゆかず。
これ奥師の行化を助け洛陽の仏法を思うが故なり。
庚午の法難に衆徒を引率して妙覚寺を退出し処々に流浪して寝食をやすくせずといえども専ら護法の志に住して弘通止むことなし。

公席に於いて法華一部題号入文細やかに玄義文句の釈相を逐うて、直談一遍その功成就し祖師の妙判録内録外不欠に講演せり。
筆記また多し。
化縁すでに尽きて七十二歳承応二年癸巳閏六月十日(余二十八歳の時)寂に帰したまえり。

貧賎孤独にしてその終わりをとれりといえどもその名は留まりていよいよさかんなり。
もしは受不施、もしは勝劣の徒およそ一宗たるもの吾が師の徳を覆うものなし。
何ぞそれ至れるや。

余十歳にして尊師に陪従し、初めて剃髪染衣の身となりしより以来宿縁のいたす処か志求法に在り。
法華を覆読する時すでにその部数を記録して三宝の霊前に捧げ、以て学道能成の祈願に擬せり。
外は柔順の質たりといえども内には至剛の心をいだきかつて普天の法灯たらんことを期す。
ようやく奥師の筆跡を見るに及んで中心深く天下諫暁の微望をふくみ、死身弘法の憤志を催す。

吾が師に随逐十年の星霜を経たり。
その間常に法沢に浴して勤励の膚をみがき、鎮に恩光を蒙って修練の窓を照らせり。
台学の綱格、当家の骨目識に納め心に薫ず。
二十歳に及んで師の膝下を辞し学海を広くせんが為に遙かに関左に趣く。

両談経歴して鑚仰数年その間或いは岩城相馬に行脚し、領充二師にまみえて教観の旨帰を決し、古今の異論を明らめ兼ねて安心を受け、また悉地を伝う。
或いは中山古湊に行いて、霊宝を比決し、諫論を並難して法門を論談し精義を決択す。

(中山日養親類たるに依って世間儀を以て見舞い、袈裟をとり衣ばかりにて霊宝を披覧す。
 録内金珠女抄御直筆一覧の時日養と受不施の問答を起こして往復数回、ついに彼をして閉口せしむるのみならず還って深く感じ京都立本寺日審へ書札を遺して、余が学問秀発の趣きを告げ、親族にも語り伝うべしといえり。
 これより余学道のほまれ受不施の談林にもひびく。
 これは二十三歳の冬なり。
 二十五歳の秋古湊日遵の座下に伺候し諫迷、述る処の義旨を決断せり)

緒師印可のせて簡牘にあり。
二十七歳日達と共に帰洛をとげ師の陋室に随逐すること半歳、談筵を白川にかいつくろい、講席を堺にうながす。
師聞いて感涙滴々たり。
その後更に未だ聞かざる所を諮詢し竟って同年の冬再び関東に趣く。

明年癸巳師ほどなく遷化するを聞いて駅舎に急を告げて速やかにはせ上る。
講筵を開いて師徳を称揚し、石碑を立てて高恵を報酬せり。
既にしてその書籍を吟味し三旬をへてまた関東に帰る。
伝法利他の志確乎としてぬけず。

これより後玄文を事とせず夏臈を積みて止観を探り、光陰を惜しんで内外をかんがう。
小部の講釈ものの数ならず。
三十五歳心ようやく洞然として自ら学業の入眼せることを覚う。
この冬再び華洛に上っていよいよ儒典の緒余をしらべますます諸宗の章疏を求む。
余暇幸いに衆中の許容を受け、快く鳥羽実相寺の宝蔵に入り当宗歴代の秘書を概見し、奥師一期の心地を領納せり。

およそ奥師の所述典師の所伝乃至片言隻字に至るまで悉く纂記して一巻を成し、奥心鑑と題して常に机右に置き、生涯の宝鑑後世の明鏡とせり。
余かつて著述に志有り。

其の一は祖書の細釈、其の二は禁義の答目なり。
目録の草案速やかに成れり。
大抵平日の所業台家を枝葉とし、当家を根底とし、余学を緯とし、祖判を経として覆読熟覧また幾ばく回と云う事をしらず。
諸寺諸山に求めて当家の書籍とさえいえば自らも写しもしは人をしても書せしむる事およそ百巻に及べり。
およそ近代の学者当家を忘れて名利の広学を表とする故に急に臨んで心地惑乱し、受不施等の妖怪甚だしきことをなげき、その弊をのぞかんが為なり。

源奥師の厳制を重んずる故なり。
翌年関左よりしきりに招きて伴頭職を勤めしむ。
則ち玄義全部講成って三十九歳結願の鐘を鳴らして談林を快く退く。
既にして閑暇を得、著述に便ならんことを欲して江城谷中の深窟に籠もって蔵経一覧を企つ。

未だ数日をこえざるにまた妙興の能化の重職に請待す。
辞謝再三やむことを得ずして入院す。
文句を繙いてここに歳をこえ未だ幾ばくならずして公庭の法難しきりに催し邪徒もまた訴う。
余始終少しもその節を変ぜず、死を譲ってさきにおき、或いは公場に出でて宗義の法威をふるい、或いは諫状を捧げて執権の厳勢をおかす。

ついに四十一歳夏五月二十九日加賀爪甲斐守の亭より日州佐土原の領主島津飛騨守の預かりとなる。
江府飛州の舘舎に滞留し六月二十六日発足して日州の配所に赴く。
その路次の行粧及び佐土原住居のありさま別に筆記あり云云。

於戯余若年の昔起こす所の大願二箇條共に快く成就せり。
進んでは奥師の遺光を耀かし、習師の徳風を顕し、退いては万世の規矩をのこし千載の指ヒに備う。
いやしくもその法灯の任を論ぜば天の暦数人の推挙、今の世に吾をすてては誰ぞ。
これ自高自負の心を懐いて莠言を吐くに非ず。
法滅に系嗣を絶し止むことを得ずして心情の一端を語するのみ。
三法照知したまわん。
ああ寂々たる清暁つくづくこれを思えば宿殖の行因涙を催し、深々たる静夜よくよくこれを案ずるに将来の得脱掌を指す。

何ぞ夕死の恨みをのこさん。
豈冥利なしといわんや。
今更に奥師の金言を引用して不惜身命の指南に備えん。

奥師御所持開目抄の頭書にいわく

一、予少年の時誓願していわく、
今生には不惜身命の名誉を一天に響かし、未来には当詣道場の面目を仏前に播さんと。
この願文を看経経の上裏の裏に書き付けぬ。
悦ばしきかなこの願虚しからず十九年已前出寺よりこのかた度々の大難丹州の山中に六年難堪を凌ぎ種々の大難に及ぶ事筆舌の尽す所に非ず。
況や国主の御勘気を蒙り対馬に流され十三年の艱難、付き従いし者皆退屈して逃走す、この外島に滞留の間言にも云われざる程の障難数を知らず。
しかりと雖も一身全く退屈を生ぜず、不惜身命の名は忝なくも高麗大唐までも響きぬ。
願文今生の分は早く契いぬ。
当詣道場の未来の願望いかでかこれを遂げざらんや。
冬の次に春来たらざらんや。
花咲き菓成らざらんや。
予誠に恐れ千万なりといえども当世日本国に第一に富める者に非ずや。
かくは書くと云えども慢心は全くなし。
もし慢心あらば天罰したまうべし。
ただ予善知識にあい数年善言を聞く故にこれまで本心を違えす。
殊にはこの御書を昔数返読み奉りし功力なり。
仰ぎ願わくば自今以後いよいよ大聖の御加被を蒙り不惜身命の心地強盛堅固にして畢命に及び入棺まで退転なく快く天下仏法の謬を直し諸人の謗法を止めて自他倶安同帰常寂の本懐を達せんのみ。
後学この御書を拝せらるる時予が丹精を顧みて死身弘法の志を励まし給え。

慶長十八年壬丑八月二十一日妙覚寺の内円蔵院寄宿の刻これを記す

またいわく、返す返すも不惜身命の名誉を一天下に響かし当詣道場の面目を仏前に播さん。
豈これに過ぎたる大富貴有らんや。
たとい家康将軍の富を得るともこの富に比せば芥子を須弥に対せんが如し。
予が富は須弥の如く家康の富は芥子の如し。
況やその以下の富豈物の数ならんや。
悲しいかな猶未だ身の富を知らず、ややもすれば卑賎の心を懐く。
悲しいかな財に富むは出家の貧賎なり。
内徳深重なる人は外財に着せず。
顔淵が一瓢の楽しみ、原憲が陋室の楽しみ皆外の財欲を忘るなり。
世間の賢人なお内徳富めるはかくの如し。
況や出世甚深の境界に住せばいかでか聊かも外財に心引かんや。

日奥聖人御法制の條目にいわく

一、門流の学者常に不惜身命の心地を練るべき事。
大事に臨んで身命を惜しまざることは外典の教えなお厳重なり。
況や仏無に於いてをや。
しかるに世間の事には捨て易く仏法には捨て難し。
これ無始の迷いに由る。
誠に仏神の加護を蒙らずんば時に当たって驚動して倒惑すべきか。
故に朝夕心地を練り尤も加被を祈るべきものなり。
録内にいわく、願わくば我が弟子等大願を発すべし云云。
謹んで旧記勘うるに不惜身命の心地を知らんが為に日々に三度精祈を仏天に凝らす学者有り、或いは十の生爪を抜く行者有り、或いは二の鍬を焼いて両の脇に挟める信者有り。
本化の末弟に列なる師弟檀那随分捨身の心地を凝らし策励せずんばあるべからず。

一、法難有らば堂塔は破却に及ぶと雖も法理に疵を着くべからざる事。
堂塔は滅すと雖も檀越の力を以て建立成り易し。
法理に着きたる疵は永代癒え難し。
故に堂塔の損亡を痛んで宗義の制法を破るべからず。
法理は命の如く堂塔は家の如し。
誰か家を惜しんで身を捨つるもの有らんや。

まことに死生利害の間に思量を入れずんば道人とはいい難し。
儒典すらなお死を守って道を善くすと教え、身を殺して仁をなすとのべたり。
ここに至っては二念をつくべからず。
我が祖の明判に始中終捨てずして大難をとおす人は如来の使いなりとも、または師子王の如くなる心をもてるもの、仏になるべしともいましめたまえり。
今の世にも正信如説の行者あらば流通の大益に預かって得脱の素懐をとげんこと必せり。
豈心地不定のなおざりの行者この大理を得ることあらんや。
ああ如来の正法無上の妙理一朝一夕の凡慮の計度を以てよく進退せんや。
当今すでに元祖以来未曾有の巨難なり。
この時に当たって身命を捨てずんばまた何れの時を期さんや。
およそ一国一方の小難ならば誘引を設くること有るべし。
余方なお随って仏種を相続する故なり。
ハク天一同の大難何れの処にか避け、またたれにかゆづらんや。
およそ相続を思いて方便を設くると云うは遠くは受不施邪党の遁辞、近くは新受謀略の口実なり。
今急に臨んで言を巧みにするは早く遁るるものに劣れり。
その故は古受新受の徒は軍に取り結ばんとする時、はや臆病を顕して敵に降するが如く、今般の巧略は軍場に臨んで刃を交えきっさきをいどむ時忽ちに変ずるが如し。
殿最共に大剛の勇者にあらずといえども早く降するは尚機をしるに似たり。
今変ずるは恥をしらざるに似たり。
心あるもの豈これを推知せざらんや。
然れば則ち今度の興行三箇寺と和融の義はその功唐狷なるのみならず、いよいよ後代の譏嫌を残し当世の嘲弄をますものか。

(これはまず宗家の剛格正路の式法を示す。
 もし三寺と堅く不通の上一門一派の内法義の瑕瑾なきように衆議判の後、法灯に下知を乞うて誘引を用うることは遮する処に非ず。
 我意に任せて区以て別なるは畢竟謗法罪をまぬがれず。
 然るに今度は無類の強敵と義を尽くさずして和融する故に誘引の義にあらず。)

次に諸生と密談の趣き畢竟真正の義に非ず。
およそ改悔の起こりは、仏性内に薫じ冥加外に助けて中心より事起こり、発露涕泣して滅罪の方法を求むることなり。
この時に当たりて普く僧中に点じて罪科の軽重をはかり開遮用与のしなあることなり。

然るにこなたより改悔をのぞむはこれまずさかさまなることなり。
況や彼徒このたびの謀略、日ごろの自過を悔ゆるに非ず。
近年思いのままに天下の寺院を滅却しおわって事を信女の改宗を将護するによせ自ら幸いを求めたるものなり。
それほどのことは了角の童子も諳に識量すべし。

天下に清潔の寺院などものこりたる時、寸心より抽でて改悔の義を思い立たば或いは少し許容の相談もあるべし。
普天の下に一宇もなき様にかり出し清浄の法水を立つるものをあとかたなくたやし果たして諸人寺請けに迷惑し途方を失う時俄に謀略をめぐらす。
豈心よりおこる改悔ならんや。

故に和睦すでに調おりても燎原の火のやまざるように一方には和爆の時を得がほに肩をいらかして四海波静かにしてを謡えば、また一方に在っては或いに衣をはがれ追却にあい、頭をたれて憂え哀しみ、或いは手形の難をまぬがれず。
広島戸山もまたそのなみなり。
譬えば大風の吹く時諸方に火をつけて一宇ものこらず焼く様にこしらえすまして、焼け跡について今よりは焼くまじき由をののしり、また焼かれたる者もうかうかと彼焼き亡せる人にくみし、焼け跡にて酒宴を設け今よりは焼かるまじきとて悦ぶものに似たり。

およそ宗旨開闢よりこのかたかくの如きの重罪を犯す者は未だこれあらじ。
他宗並びに古受の邪党にも倍加せる極悪人なること治定せり。
かくの如きのやからとたやすく和融を遂ぐること豈浅識の至りに非ずや。

日精並びに五輩の僧侶また信女の改宗の言を聞いて強いて諌言をいれず、自己の窮屈を免れんとし世間の安寧ならんことを好んで和融の興行を幸いの事と思えるものなり。
少しも実心を以て法義を護惜したるものには非ず。
十目の視る所十手の指すところ人いずくんぞ痩さんや。

然るにそのかみ日講より二三輩へ遣わせる状の中に六箇寺の中五人は手形書かずして衣をはがれ、薬王寺住持は手形したる由を聞ける故に薬王寺もし実心深重にして改悔を望まば談合もあるべしといえることあり。
これ則ち既に造業のものなるが故にもし中心より起こって改悔を求め罰文等を以て手形とり返すべきの旨をのべ敵と不通の上に相談を遂げば何ぞ誘引の義もなからんや。
それもたやすく許すべき義に非ず。

また此方より勧むる義にあらず。
況や日講状に相続もこれ有るべき事の様にといえり。