萬代亀鏡録

破鳥鼠論:6(日講上人)

この文の中にこれ国王と雖も必ず能施ならずといえるは国主に別体の施行ある明証なり。
またこれ貧窮と雖も能施ならざるに非ず、何を以ての故に、貧窮の人また食分ありといえるは万民の財体別にある明証にあらずや。
かくの如きの明文を見ずして何ぞ総別を混雑するや。
ただ仏家のみに非ず、儒道またしかなり。

伯夷叔齊が如く一身をよくするは儒には聖の清なるものと評し、あるいは隘なりと論ず。
仏家に沙汰する二乗根性の如し。
孔子孟子は世間に交わって身命をつづき仁義の道を弘められし。
これ人を捨てざる聖人の儀則にして古今の許す所なり。
かくの如く共業所感のものをば仁恩に受けて法を弘め、別体あるものをば辞して受けざるなり。

孔孟すでに別して送る所の不義の俸禄を固辞して受けずといえどもその土地の水食をば用いて身を養えり。
然るにその総体の水食はすでに一法の二義なる故に共感にかぎるに非ず。
一半は国主に属する辺あり。
この時は仁恩にして領分万民に通用せる恩沢なり。
この一半の義に約して国王の恩と名付けてこれを報ずるに国家安全の祈念をなし、或いは諫暁を励まして身命を軽んじ、国恩を報謝し、国土の謗法をのがるることなり。

与咸註の心またしかなり。
共感の義を遮するに非ず。
およそ共感の義は経論常途の掟なり。
与咸何ぞこれを拒まん。
もし共業の義を捨てば国中の万人所修善悪六分一は国主に酬うと説ける新華厳の文如何消釈せん。
汝が義の如くんば領分は国主の進退のままなる故に国中所修の善悪六分七分は共に国主に帰すべし如何如何。
たまたま心地観経を引くといえども属于国主の属の字を解せざれば還って此方の例証となることをもしらず目くら引きに引きちらし日講の諫状守正護国章に義を尽くして総別の不同仁恩供養の異を弁ぜられしをかつて見ぬふりをするいたずら者なり。

帰依の僧の手前に在っては所有の施物皆別の義になる故に井水等も供養になる義辺あるべし。
されども、これも帰依の上に世出の二途はあるべし。
不帰依には必ず総別を用いて料簡すべし。

一、邪記次にいわく、
さて不帰依の国主もし寺領供養仰せ出しの時はまず法門を以て不帰依は古来仁恩たるの旨幾度も訴訟申すべし。
もし今般の如く法義には御構いなく不受不施をば立つべし。
ただ供養と思し召すとあるときは仁恩悲田の供養と料簡してこれを受けずんば何と逃すとも井水河水悉く皆供養の言は銷しがたし。
祖師以来の不受の立義烏有となるべし。
その上共業の果報と会すること本拠あり。

与咸の註に自問自答していわく、
問う、供養分無きはしかるべし。
王の水土衆生同感す。
何を以ての故にまた分無けん。

答えていわく、
白衣無戒王の水土に食む、皆輸税有り。
出家税せず。
良く戒行を為す。
今既に二種倶に無し。
豈にその分有らん。
分無くして用ゆ豈これ賊に非ずや。
何とてこの釈の本意に背くや。

仮に問うの時共感の義をのぶるといえども会通の時かたくこれをゆるさず。
共感ながら妄りには受けがたきぞとなり。
もし共感の会釈破れぬれば日述一味の立義悉く泡沫に同ず。
たがうこと毛端を以てすれば、誤ること千里を以てすといえり。
ゆめゆめ容易にすることなかれ。
よくよく思惟あるべきことなり。

成事をば説かずと見えたれば日述日浣日講等のことは論じても益なし。
ただ来者の追うべきに示すのみ。

弾じていわく、
この段別して偽妄をつくせり。
誠に手を拍って一笑すべき義なり。
汝最前より悲田供養と仁恩と内外典の異にして全く同一の義也といえり。
しかるにここに至って自立廃忘してまた両途にわけたり。

心にこの度の作り悲田と、仁恩と別也と云う気ある故に思わずしらず吐き出したるものなり。
汝が義の如くならば、何ぞ悲田供養の一義に究めずしてむずかしく時々にことをつくるや。
不受不施には御構いない手形をばすべしと云うようなる理不尽なる寝言をさえずることよくよく闇鈍なること也。
今度の如く手形せば不受不施は破れはてたるものなり。

然るに、かくの如く言をつくるは、譬えば頸をば切られて命をばたすかるべしと願うほどのことなり。
その上与咸の註の問答を僻解せること言語道断の誑惑なり。
問難すでに供養無分と王の水土と二段に分けたり。
返答の下一向共感の義を拒むにあらず。
無戒無徳にしては共感の上にても受けがたき道理を示せり。

これ則ち一法の二義にして共感の辺と王の水土と名付けて、王に属する辺と両向あるが故に共感に執して無戒無徳なるを誡めたる文なり。
これらの義日講の訴状に理を尽くして書かれたるを押し隠して邪難を加うるは何事ぞや。
今日講の訴状を引いて汝が妄説を顕さん。

訴状にいわく、
梵網の文に初の一段には檀越供養といい、次の行路飲水は通じて仁恩を挙ぐるなり。
与咸の註に供養無分可爾と云いて別に水土を料簡す、豈供養と仁恩と異なるに非ずや。
破戒無行にしては供養は申すに及ばず、国主の通恩をも報ずることあたわざれば、これ盗賊の義なり。

乃至地水は本一切衆生の同業の感ずる処またこれ面々の恩所あれども、王はこれ統領の主なるが故王の水土と名付けてこれをのみこれをゆく。
これ則ち国主の通恩にして最も報ずべき義なり。
乃至 在家は士農工商の役をつとめてその国用を弁じ、その厚恩を謝す。
もし在家の中にも端拱無為にして空しく国用を費やすは、豈賊の義に非ずや。

沙門に在っては専ら戒行をつとめ仏法を弘めて国中の諸人をして勧善懲悪せしめ国家安穏の懇祈をこらす。
これ国王の恩を報ずるなり。
もし破戒無慚にして徒に光陰をおくり、報ずべき恩をも報ぜず、行うべき道をもしらざるはこれ僧の中の盗賊なり。
何ぞ水を飲み路を行くや等云云。

豈??の水を分かち虎彪のツクリガワを弁ぜられたる消釈に非ずや。
およそこの土は一仏の化境にして教主に属する辺これあれどもまた業感に約して衆生に属する辺これあり。

されば玄義六 二八にいわく、
この神変を用いもしは多もしは少ともに妙を表すなり。
文にいわく、今仏三昧に入りこの不可思議希有の事を現し給う。
希有の事を現じ給うとはこれ妙神通なり。
もし依報に応同せば両意有り。
もしは国土の苦楽は衆生に依り、仏の所作に非ず。
仏はただ応同するのみ。

もし折伏摂受を作さば仏機縁を鑑み或いは苦国となり或いは楽国となる。
苦楽は仏に由って衆生に関わらず。
今しばらく初意を釈す。

大論にいわく、
ある国土には純声聞僧、或る国土には純菩薩僧、或いは菩薩声聞共して僧となる等。

釈籤六 三十三にいわく、
次に依報に応同する中に二あり。
まず重ねて所属両意の不同を判ず。
次に今しばらくの下の正釈初文はその正報を論ずるに尚すなわちまた生仏相摂すべし。
ただし衆生は唯理、諸仏は事成。
故に一切衆生悉く皆仏境界の中に摂在す。
況や所依の土本これ諸仏所化の境、世の王土の如し。
土は必ず王に属す。
しかして万姓の所居各自得という。
その実王は万姓の為以て国を治め、万姓は王に帰して家を立つこの故に忠を以て更互相摂し彼此相望す。

しかして王に従う義強し。
今機応義異なることを分かたんために前に機に従って説く。
故に且従と云う。
況や諸仏の寂理神方所無し。
所依の寂境を常寂光と号す。
この故に砂石七珍は生の感ずる所に随う。
もしこの意に依らばまた生造に由る。
この故に之に従って立土を以て機と為す。

維摩疏垂裕記唐決等類文ありといえども繁き故にこれを略す。
所引の文分明なれば細釈するに及ばず。

籤の六に、強弱の義を作るといえども両属の義必然なり。
生仏相対せば迷悟はるかに隔てたり。
妄想と実境と胡越万里なれども悉檀赴機の日自他両向の義を存せり。
況や国主と万民と共に実業の所感にして迷中隔歴の差相宛然なる時豈全く庶民業感の辺を泯して偏に国主の所有なりと云う義を作らんや。

もし汝が如きの遁辞にまかせば祖師以来の先達明哲水火の難を辞せざるは鈍なることなり。
悲田供養の料簡もなく徒に井水河水を受けたる人なりと云わんや。
汝がせつなきままにつくり出したることを定規にして先哲をそれにしたがえんとするは、?蜉が大樹を動かさんとするが如し。

またもし汝が如く時々に兵法をつかいうけながして国主にそむかざるようにと調義をせば、末法万年の間に況滅度後の難はあるべからず。
末法逆化の方法祖師以来諫暁国主の本意、遠くは勧持品二十行の偈、涅槃経の護持正法の文等たちまちに泡沫に同ずべし。
不惜身命は口にさえずる一辺なるべしや。

御書にいわく、国主等にたがえばはや法華経の行者にてはあるなり云云。
何ぞ不忍の言を出して祖師に違背し嘲りを博達の士にとるや。

景行録にいわく、大丈夫は善を見ること明らかなり。
故に名節を泰山よりも重んず。
心を用うること剛なり。
故に死生を鴻毛よりも軽んず。
断有れば則ち生じ、断無ければ則ち死す。
大丈夫は断を以て先と為すと。
まことに所以あるかな。

追加

供養字義通局並びに与咸註可否の弁
然るに養の字は下より上に奉るを養と云うと、養育の義と上声去声分明に分かれたれども供の字平去二声共に説なり供給なりの字訓あってその意通ずることあり。
彼は供給の言を定めて悲田愍施に約す。

しかるに今諸文を勘うるに敬田に約してまた供給の言を用いたること多し。
提婆品にいわく、供給走使。

またいわく、供給於所須、観仏三昧経にいわく、須達請仏及僧供給所須等。
云云。

荊渓敬田供養の釈を設くる下に還って供給の言を置けり下に引くが如し。
供の字すでに通ずれば養の字また一概には定めがたし。
本より字義のわかちなきには非ざれども、彼通局をもしらず、偏に泥みたる失を弁ずるなり。
また与咸の供の字声を失念せられたることあり。
奉なり進なりは平声の時なり。
故に敬田は平去二声、悲田は去上二声と云うべし。

敬田は共に去声に約し、悲田は平上二声と云えるは大なる訛転に非ずや。
かようのことをも勘えずしてめくら引きにひき与咸の註を天子の一言と守りけるこそ儚けれ。
また古迹の供養父母妻子の文を引いてこれは恩悲二田に通ずと云えり。

もししかれば初に引ける維摩経の文も敬悲二田に通ずべし。
何ぞ定んで悲田にかぎるように引来せるや。
またかの維摩経の文を引くに経の題を顕さずしてただ経にいわくと引いて戒疏の本文、梵網経の文のようにかすめたることは何事ぞや。
およそこの与咸の註所拠の経並びに疏文敬田に約して消釈するに少しも相違なし。
本文を敬田と見定むれば与咸の註は詮なきことに非ずや。

今本文を引いて汝が無稽の浮説を顕さん。
梵網経にいわく、
もし仏子一切疾病の人を見れば常にまさに供養すること仏の如く異なること無かるべし。
八福田の中看病福田これ第一福田。
もし父母師僧弟子病み諸根不具にして百種の病の苦悩あらば皆供養していやさしめよ。

しかるに菩薩瞋恨の心を以て看ず、乃至僧坊城邑曠野山林道路の中に病むものを見て救済せずんば軽垢罪を犯す。
疏にいわく、序事三重あり。
一に病人これ勝福田なることを挙ぐ、二に応。
三に不応。
供養病人如仏と言うは極敬語を為す。

これは心在り田あらざるを明かす。
阿難飯を分け餓狗に与うる如し。
この心の明好を以ての故に仏に与う一等なり。
菩薩一切の病人を見力の能う所に随って皆まさに看視すべし。
すでに疏に「挙病人是勝福田」と云う。

勝の字敬田を指すに非ずや。
これ則ち病人を敬重する心に約するなり。
故に次の応の段の経文に「常応供養如仏無異」と云えり。
これ仏の敬田を供養するが如く、病者を敬い敢えて軽しめざるように大切にせよと云う経文の意なり。
されば疏に「極敬為語此明在心不在田」と釈したまえり。

すでに餓狗に施すと仏に施すと平等の運心を挙げたまえり。
これまた維摩の「施主等心施一最下乞人猶如如来福田之相」の文に類せり。
まさしき例文を出さば止観四 六十五にいわく、即便戒を退いて家に還り欲境を求竟しもとめて足ることを知らず。
或いは偸み、或いは劫し、或いは逼め、或いは質う。

かくの如き等種々欲を求めてしかして罪過を生ず。
もしこの境を得ば大いにすべからく供養すべし。

弘四末五十八にいわく、
若得此境とはそれ下を以て上に薦むるを供と為し、卑を以て尊をたすけるを養という。
これ人三宝勝田を棄て唯五欲の穢境をとうとび所須を供給す。
故に供養と云う。

これ則ち欲境を敬重して父母主君の如くする故にかの多欲の人をこつく心にて別して供養の字を敬田に約して釈し給えり。
今またかくの如く行者の病人を敬重すること仏の如くせよと云う文なり。
彼は欲境を敬うことをのべ、これは病人を看ずることを挙ぐる。
その所縁異なりといえども敬重して供養する義はあたか符契の如し。

さて梵網のなお菩薩の下は病者貧人等を瞋恨し軽蔑すべからざる旨を説く文なる故に大師不応と分科したまえり。
かくの如く経疏を消釈してこれを見れば与咸の字義分別入らざることなり。
余文に有っては或いはしかるべし。
この文には一向あたらざるなり。

自証寺供養の手形を捧げられざるの難を会す

自証寺は本より菩提のための寺領なることは、かくれなきことなり。
これに依って遵師自証寺へ入院の時千代姫君へその理あって施主を申し受けられたり。
然るにこの度は総別の分かちもなく井水河水皆御供養とある義なれば御朱印の文体の同異を論ずるに及ばず。

この時に当たって公儀へ施主の義を披露し、或いは施主を申し受くるともあに承引あらんや。
然れば流聖衆と同じく手形の義を辞退し寺を捨てられたること道理至極せり。
小寺を捨つるすら道念なき者は大節のことに思えり。

況や、かようの大地の伽藍を抛擲して流浪の身とならるること、豈無分別にして怱卒の義なりといわんや。
もし施主の沙汰なしに供養の手形を差し上げされば汝等が手形と何のかわりあらんや。
かくの如きの義をも思惟せずしてみだりに評量すること浅懐のいたす所なり。

三箇寺芸州御簾中を誑し偽って改悔の事

その後寛文九年乙酉の夏三箇寺内談をとげ芸州御簾中へ三箇條の書物をして法義改悔の印とし、その上青山龍土の番神へ参詣し事相の改悔を勤めたり。
彼等が邪謀をば知られず実の改悔と思われたり。
然るにその三箇條の内には往々公儀へ訴訟して慈悲供養の一札取り返すべき趣き、或いは流人御赦免の訴訟を三箇寺より肝煎るべきなどとある條目なり。

然るに書物捧げし後二三日あってまた芸州の屋敷へ来たっていわく、
この中書物を捧げしこと我等諸檀那へ洩れ聞こえさては流人の衆正義なること疑いなし。
参詣をとどむべしなどと申す者数多これあり。
今更迷惑に及ぶの間御憐愍を以てこの中の書物取り返したのみ入るの旨訴訟しければ簾中より件の書物を返されたり。

されども既に和融の上はまたまた不通になりがたきに依って龍土の番神にて改悔したるをとりこにして彼徒と通用せられたり。
日講下の判頭本地院二老観也。
日浣下の判頭英然二老英碩等流人の内意をも受けずしてこの三箇寺改悔の内談を幸いにし京都日精の下知を受けて御簾中を誑かし和融を調へて我が身を安穏にせんと邪謀を廻らしたる次第なり。

殊に本地院英然等内証にて起請をかきこの和融の談合是非共に決定すべきよし連判せり。
この趣き或る方より一々書き付けにて日講へ注進ありし故日講この以後芸州御簾中は勿論本地院英然等京都日精とも不通せられたり。

然るに日講は芸州簾中より数年世間の重恩を蒙られ、殊に左遷のみぎりは兄弟の契約までいたされ、法中へも内証にて我等弟分の僧なるよし披露せられたるほどの懇志なれば、もし邪義をあらためらるることもあるべきかと一巻のまきものをしたためゲイ語問答と題してかの屋敷へ送られたり。
されども、はや簾中寺社奉行まで向後三箇寺と通用いたすの旨披露せられたる巨障等ある故についに改悔の義なきに依って永く不通せられたり。

殊にその歳の秋は老中へも日講御赦免の義なりがたきに於いては広島へ預かり替えの義御肝煎り頼み入るの旨内証を申されければ稲葉美濃守嫡子丹後守を広島屋敷へ使いとして御赦免の義は相調わずとも預かり替えの義は相違御座あるまじ。
余の老中へもきっとその旨御内証仰せられ然るべきよし懇ろの口上これあり。
内々口こわき美濃守かくの如く申し越されたる上は来春は預かり替えの義きっと埒明くべきのよし御簾中より日講への書中につぶさに申し越されたり。

されども日講預かり替えの義にもかつてとりあわれずその暮れに江戸より佐土原まではるばる送られたる呉服並びに資縁等をも松木十郎左衞門へたのみ江戸へ返進せられたり。
その後京都信俗中とも堅く不通にてありしなり。

日精彼これにつき誤りの義はゲイ語問答にもその外別処にもつぶさに示されたり。
今試みにこの三箇寺の改悔の虚実を糺明すべし。
もし実心より起こって改悔懺悔する理ならば何ぞ檀那の不参の義を恐慮せんや。
またそれほどの分別は書物以前にあるべき事なり。
何ぞ書物以後檀那不参の義に俄に驚く義あらんや。
是一

またもしこの三箇條の書物実義ならば何ぞ邪書を作って諸国へ廻し、専ら流人を誹謗して凶悪をつくすや。
但しこの邪書を作るも心よりは起こらずして檀那不参の義を防がんが為の計略を以て作れる書なりや。
是二

もしまた心中には始終邪義を改めずしてただ芸州御簾中と通用を望む志ならば眼前の売僧所論にたらず。
是三

況や一人の女性の帰依を求めんが為に大妄語を紙面にあらわし龍土の番神並びにご本尊の前にて至心に改悔の作法を勤めたるは三宝を忽緒してたとえのものにしなし、諸人を誑惑して虚偽の相を現ずる豈これ沙門の作業ならんや。
是四

況やその以後いよいよ邪義盛んにして、清法を守る者を悩まし種々の謀をめぐらして邪義を一天に広布せんとす。
是五

決して知んぬ、彼の徒は二途不摂の蝙蝠、敵にしても味方にしてもかつて取り所なき妖僧なり。
(此中に三箇寺内談といえるは古湊誕生寺碑文谷法華寺江戸谷中感応寺なり)

厳有院殿薨御諷経の時三箇寺御布施頂戴の事

一、その後延宝八年庚申五月八日厳有院殿御薨御のみぎり上野へ諷経をつとめ小湊、碑文谷、谷中一言の辞退に及ばず、御布施五十貫充拝領しぬ。
前の邪書に公儀へ捧げたる一札とひけらかして慈悲の二字入れたる上は重ねて別時の敬田供養を受けざる証拠となるべしといえる妄説たちまちに顕れたり。
その上法難のみぎり別時供養の時には身命を捨てても訴訟すべしと緒檀那に対し荒言しながら今無味に受用すること浅ましき自語相違に非ずや。

何の面目あって猶邪義をかざるや。
但しこの御葬礼の御布施も悲田供養と心得れば受けてもくるしからざるや。
誠に無慚無愧の悪僧受不施他宗のおもわくも恥ずかしきことにあらずや。
その時分は公方も未だ壮年にも及びたまわぬ折節なれば、当分目に見えざることなる故に事を後へ譲って別時供養の時は身命をも捨つべしと云いふらし檀那を誑かす謀ごととしける処に幾ほどなく十五六年の内不慮に厳有院殿御薨御ありし故日ごろのいつわりたちまちに顕れたること且つは彼等か誑惑の現罰ども云いつべきか。

殊に日明は小湊に於いて寺家末寺をあつめ評議しける処その落居の趣きは諷経には御出もちろん御布施を頂戴なされ御帰りの後早々施物を何方の堀へも御捨てさせ然るべきよし衆議一決しけるに、日明出府の後その首尾をたがえかつて捨つる沙汰もこれなく、まれにも今般は一往の御訴訟もあるべきかと云うものあれば還って呵責して小僧何を知って異見だてをするぞ。
ただ我にまかせよ、と放言して無味に御布施を頂戴せんとなり。

誠にかくの如きの悪僧誕生寺の住持と成って濫りに法灯の名を犯し、飽くまで邪義をたくましくせること時の不運是非に及ばざる義なり。

悲田の徒ついに身延に帰伏する事

その後元禄四年辛未の夏身延の訴訟に依って、小湊誕生寺碑文谷法華寺谷中感応寺年来悲田不受不施の謀偽露顕し公庭裁許の上一言の陳答に及ばず熊野牛王の裏に起請文を書いて身延に帰伏し、あまつさえ末寺等を掠めて意業にも不受不施を存すまじき趣き起請文を催促し、ついに天下一同の受不施となせり。
嗚呼悲田の徒先年正統を守れる不受の徒を訴人して根をたやせる現報踵を廻らさざるにあらずや。
誠に唇つきて歯さむきためしを知らざる痴人なり。
他宗の嘲弄当家の恥辱責めても余りあり、悲しみても足らず。

破鳥鼠論 終