萬代亀鏡録

発心即到記:2(日講上人)

さればこの御書はつねづねの不惜身命の心持ちを教え玉えどもおのずから病死の臨終の心地にもなる有り難き御書なれば、つねに手をはなすべからずのしめしにて随身不離鈔とも申すなり。
無二の信者は断末魔の苦しみのなきこともありと見えたれば、いよいよ朝夕の看経にも少病少悩臨終正念と祈るべきなり。
この上に今一重立ちこえて不慮の病患などきそい来たって苦痛逼迫し、是非をわきまえぬようなることありとも、つねづねの心持ちによりて少しもさわりとならず成仏する心得あり。
これをば重ねて申すべし。
上に記する処の大旨、法華経の行者不惜身命の心地に住して種々の大難を凌ぎ、成仏の本望をとぐるおもむきを判じ玉いたる御書の肝文少々かきあつめ侍り。

開目鈔上二十九丁にいわく、ここに日蓮案じていわく世すでに末代に入って二百余年、辺土に生をうく。
その上下賎、その上貧道の身なり。
輪廻六趣の間人天の大王と生まれて万民をなびかす事大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず、大小乗経の外凡、内凡の大菩薩と修しあがり、一劫二劫無量劫を経て菩薩の行を立てすでに不退に入りぬべかりし時も、強盛の悪縁におとされて仏にもならず。
しらず大通結縁の第三類の在世をもれたるか。
久遠五百の退転して今に来たるか。
法華経を行ぜし程に世間の悪縁、王難、外道の難、小乗経の難なんどは忍びし程に権大乗、実大乗経極めたるようなる道綽、善導、法然等が如くなる悪魔の身に入りたる者法華経をつよくほめあげ、機をあながちに下し、理深解微と立て、未有一人得者千中無一等と云いすかしし者に無量生が間、恒河沙の度すかされて権教に堕ちぬ。
結句は悪道に堕ちけりと深くこれを知れり。

日本国にこれを知れる者ただ日蓮一人なり。
これを一言も申し出すならば、父母、兄弟、師匠、国主の王難必ず来るべし。
いわずば慈悲なきに似たりと思惟するに法華経涅槃経等にこの二辺を合わせ見るに、いわずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕つべし。
いうならば三障、四魔必ず競い起こるべしと知んぬ。
二辺の中にはいうべし。
王難等出来の時退転すべくば一度に思い止むべし。
しばらくやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり。

我等程の小力の者須弥山はなぐとも、我等程の無通の者乾草を負うて劫火にはやけずとも、我等程の無智の者恒沙の諸余の経々をばよみおおうとも、法華経は一句一偈も末代に持ち難しととかるるはこれなるべし。
今度強盛の菩提心をおこして退転せじと願じぬ。

また下巻三十八にいわく、そもそも誰やの人か衆俗に悪口罵詈せらるる、誰の僧か刀杖を加えらるる、誰の僧をか法華経の故に公家武家に奏する、誰の僧か数々見擯出と度々ながさるる、日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし。
但し日蓮は法華経の行者にあらず、天これをすて給う故に誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん。
仏と提婆とは身と影とのごとし、生々にはなれず。

聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし。
法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし。
三類はすでにあり、法華経の行者は誰なるらん、求めて師とすべし。
一眼の亀の浮木にあうなるべし。

また四十一丁にいわく、詮ずるところ上品の一闡提人になりぬれば、順次生に必ず無間地獄に堕つべきゆえに現罰なし。
例せば夏の桀、殷の紂、世には天変なし。
重科あって必ず世ほろぶべきゆえか、また守護神この国をすつるゆえに現罰なきか。
謗法の世をば守護神すて去り、諸天まもるべからず。
故に正法を行ずる者にしるしなし。
還って大難にあうべし。

金光明経にいわく、善業を修する者は日日に衰減す等云云。
悪国悪時これなり。
つぶさには立正安国論に勘えたるがごとし。
詮ずるところ天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん。
身子が六十劫の菩薩の行を退せしは乞眼の婆羅門の責めを堪えざる故、久遠大通の者の三五の塵をふる悪智識にあうゆえなり。
善につけ、悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。
大願を立てん、日本国の位をゆずらん、法華経をすてて観経等について後生を期せよ。
父母の頸を刎ねん、念仏申さずんば。
なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり、その外の大難風の前の塵なるべし。

我日本の柱とならん。
我日本の眼目とならん。
我日本の大船とならん、等と誓いし願やぶるべからず。

撰時鈔下巻三十八にいわく、予が初心の時の存念は、伝教、弘法、慈覚、智証等の勅宣を給わって漢土にわたりし事の我不愛身命にあたれるか。
玄奘三蔵の漢土より月氏に入りしに六生が間身命をほろぼししこれらか。
雪山童子の半偈のために身をなげ、薬王菩薩の七万二千歳が間臂をやきし事かなんどおもいしほどに、経文のごときんばこれらにはあらず。

経文に「我不愛身命」と申すは上に三類の敵人をあげて、彼等がのりせめ刀杖に及んで身命をうばうともみえたり。
さればこの経文のごときんば法華経を一切経の頂きにありと申すが法華経の行者にてはあるべきか。

しかるをまた国に尊重せらるる人々あまたありて法華経にまさりておわする経々ましますと申す人々にせめあい候わん時、彼の人々は王臣に御帰依あり、法華経の行者は貧道なる故に国こぞってこれをいやしみ候わん時、不軽菩薩のごとく、賢愛論師がごとく申しつよらば身命に及ぶべし。
これが第一の大事なるべしとみえて候。

この事は今の日蓮が身にあたれり。
予が分際として弘法大師、慈覚大師、善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵なんどを法華経の強敵なり。
経文まことならば、無間地獄は疑いなしなんど申すは、裸形にして大火に入るはやすし、須弥を手にとってなげんはやすし、大石を負うて大海をわたらんはやすし、有頂に立って諸経を説かんは易かるべし。
日本国にしてこの法華経の法門を正直に立てんは大事なるべし云云。

霊山浄土の教主釈尊、宝浄世界の多宝仏、十方分身の諸仏、地涌千界の菩薩等、梵釈、日月、四天等冥に加し、顕に助け給わずば一時一日も安穏なるべしや。

報恩鈔下巻四丁にいわく、この経文は、予が肝に染みぬ。
当世日本国には我も法華経を信じたり信じたりと諸人の言のごときんば一人も謗法の者なし。
この経文には、末法には謗法の者十方の地土、正法の者爪上の土等云云。
経文と世間とは水火なり。

世間の人いわく、日本国には日蓮一人ばかり謗法の者等云云。
謗法の者また経文には大地よりも多しと云云。
法滅尽経には善者一二人。
涅槃経には信者爪上土等云云。
経文の如くならば日本国はただ日蓮一人ばかりこそ爪上の土、一二人にては候え。
されば経文をや用い給うべき、世間をや用い給うべき。

佐渡御勘気御書十四巻にいわく、あらうれしや、檀王は阿私仙人に責められて法華経の功徳を得給いき。
不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて一乗の行とし給い、今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてかかるせめにあえり。
仏滅度後二千二百余年が間恐らくば天台智者大師も一切世間多怨難信の経文をば行じ給わず、数々見擯出の明文はただ日蓮一人なり。
一句一偈我皆与授記は我なり。
阿耨多羅三貌三菩提は疑いなし。

相模守殿こそ善智識よ、平左衞門こそ提婆達多よ、念仏者は瞿伽利尊者、持齊等は善星比丘、在世は今にあり、今は則ち在世なり。
法華経の肝心は諸法実相ととかれて、本末究竟等とのべられて候はこれなり。

摩訶止観第五にいわく、行解既に勤めぬれば三障四魔紛然と競い起こる。
またいわく、猪の金山を摺り、衆流の海に入り、薪の火を熾にし、風の求羅を益すが如きのみ云云。
釈の意は法華経を教の如く機に叶い時に叶って解行すれば七の大事出来す。
その中に天子魔とて第六天の魔王、或いは国王、或いは父母、或いは妻子、或いは檀那、或いは悪人等について、或いは随って法華経の行者をさえ、或いは違してそうべき時なり。
何れの経をも行ぜよ、仏法を行ずるには分々に随って留難あるべし。

その中に法華経を行ずるには強盛にそうべし。
法華もおしえの如く時機に当たって行ずるには殊に難あるべし。

故に弘決八にいわく、もし衆生生死を出でず、仏乗を慕わずと知らば、魔是の人に於いてなお親の想いを生ず等云云。
釈の意は人善根を修すれども念仏、禅、律等の行をなして法華経を行ぜざれば魔王親のおもいをなして人間の人につきてその人をもてなし供養す。
世間の人に実の僧と思わせん為なり。
例せば国主のたのむ僧を諸人供養するが如し。
されば国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり。

釈迦如来の御為には提婆達多こそ第一の善知識よ。
今世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵か、人をばよくなしける也。
眼前に見えたり。
この鎌倉の御一門の御繁昌は義盛と隠岐法皇ましまさずばいかでか日本の主とはなり給うべき。
さればこの人々はこの御一門の御為には第一の方人なり。
日蓮が仏にならん第一の方人は景信なり。
法師には良観、道驕A道阿弥陀仏、平左衞門守殿おわしまさずばいかでか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。

乙御前御書十四巻二十一丁にいわく、今日本国の人々は法華経の敵となりて身を亡ぼしぬるなり。
こう申せば日蓮が自讃なりと心えぬ人は申すなり。
さには非ずこれを云わずば法華経の行者には非ず。

またいわく、事後にあえばこそ人も信ずれ、こうただ書き置きなばこそ未来の人は智ありとはしり候わんずれ。
また身軽法重死身弘法と申し宣べて候えば身は軽ければ人打ちわりにくむとも、法は重ければ必ず弘まるべし。
法華経弘まるならば死かばね返って重かるべし。
しかばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし。

法蓮鈔十五巻二十四丁にいわく、そもそも法華経を持つと申すは、経は一なれども持つ事は時に随って色々なるべし。
或いは身肉を裂いて師に供養して仏になる時もあり、また身を床として師に供養し、また身を薪と為し、また此の経の為に杖木を被り、また精進し、また持戒し、上の如くすれども仏に成らざる時もあり。
故に時に依って不定なるべし。
されば天台大師は適時而已と書かれ、章安大師は取捨得宜不可一向等云云。

問うていわく、いかなる時か身肉を供養し、いかなる時か戒を持つべき。答えていわく、智者と申すはかくの如く時を知って法華経を弘通するが第一の秘事なり。
譬えば渇したる者は水をこそ用ゆる事なれ。
弓箭兵杖を用ゆる事由無し。
裸なる者は衣を求む、水は用ゆる事無し。
一を以て万を察せよ。
大鬼有って、法華経を弘通せば身を布施すべし。
余の衣食は詮無し。
悪王有って法華経を失わば身命を喪すと雖も随うべからず。
持戒精進の大僧等法華経を弘通する様にてしかも失うならばこれを知って責むべし。

法華経にいわく、我不愛身命但惜無上道。
兄弟鈔十六巻九丁にいわく、我身は過去に謗法の者なりける事疑い給う事なかれ。

これを疑いて現世の軽苦忍び難くして慈父の責めに随って存じの外に法華経を捨つるならば、我身地獄に堕ちて共に悲しまん事疑いなかるべし。
大道心と申すはこれなり。
各々随分に法華経を信ぜられつる故に過去の重罪を責め出し給いて候。

譬えば鉄を能く能く焼けば疵の顕るるが如し。
石は焼けば灰と成る。
金は焼けば真金と成るが如し。
この度こそ実の御信心顕れて法華経十羅刹も守護せさせ給うべきにて候め。
雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり。
尸毘王の鳩は毘沙門天王ぞかし。
十羅刹試み給わんが為に父母の身に入らせ給う事もや有らん。

それにつけても心浅からん事は後悔あるべし。
また前車のくつがえるは後車の誡めぞかし。
今の世には何となくも道心起こりぬべし。
この法門を申すには必ず魔出来すべし。
魔競わずば正法と知るべからず。

第五の巻にいわく、行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起こる。
乃至 随うべからず。
畏るるべからず。
これに随えば人をひいて悪道に向かわしむ。
これを畏れて正法を修することを妨ぐ等云云。

この釈は日蓮が身に当たるのみならず門家の明鏡なり。
謹んで習い伝えて未来の?糧とせよ。
この釈に三障と申すは煩悩障、業障、報障なり。

煩悩障と申すは貪、瞋、痴等によりて障碍出来すべし。
業障と申すは妻子等によりて障碍出来すべし。
報障と申すは国主父母等によりて障碍出来すべし。

また四魔の中に天子魔と申すもかくの如し。
心の師とは成るとも心を師とせざれとは六波羅蜜の文なり。
たといいかなる煩わしき事ありとも、夢になしてただ法華経の事のみをさわぐり給うべし。
中にも日蓮が法門はいにしえこそ信じがたかりしが今は前々云い置きじ事既にあいぬれば由無く謗ぜし人々も悔ゆる心あるべし。

たといこれより後に信ずる男女ありとも各々にはかえ思うべからず。
初め信じて有りしかども世間のおそろしさに捨つる人々数しらず。
その中に返って元より謗ずる人々よりも強盛にそしる人々またあまたあり。
在世にも善星比丘は始めは信じて有りしかども、後に捨つるのみならず、返って仏を謗じ奉りし故に仏もかない給わず無間地獄に堕ちたりしぞかし。

日蓮弟子檀那等御中御書十七巻十六丁にいわく、世間に人の恐るる者は火炎の中の刀剣の影と、この身の死するとなるべし。
牛馬なお身を惜しむ、況や人身をや。
癩人なお命を惜しむ、何に況や壮なる人をや。

仏説いてのたまわく、七宝を以て三千大千世界を布き満つるとも手の小指を以て仏経に供養せんには如かず。

(取意) 雪山童子の身をなげし、楽法梵志が身の皮をはぎし、身命に過ぎたる惜き者のなければ、これを布施として仏法を習えば必ず仏となる。
身命を捨つる人他の宝を仏法に惜しむべしや。
また財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨つべきや。
世間の法にも重恩をば命を捨てて報ずるなるべし。

また主君の為に命を捨つる人すくなきようなれどもその数多し。
男子ははじに命をすて、女人は男の為に命をすつ。
魚は命を惜しむ故に池にすむに池の浅き事を歎いて池の底に穴をほりてすむ。
然れども餌にばかされて鈎をのむ。
鳥は木にすむ、木のひくき事をおじて木の上枝にすむ。
しかれども餌にばかされて網にかかる。

人もまたかくの如し、世間の浅き事には身命を失えども大事の仏法なんどには捨つる事難し。
故に仏になる人もなかるべし。
仏法は摂受、折伏時によるべし。

譬えば世間の文武二道の如し。
されば昔の大聖は時により法を行ず。
雪山童子、薩?王子は身を布施とせば法を教えん、菩薩の行となるべしと責めしかば身をすつ。
肉をほしがらざる時身を捨つべきや。
紙なからん世には身の皮を紙とし、筆なからん時は骨を筆とすべし。
破戒無戒を毀り、持戒正法を用いん世には諸戒を堅く持つべし。
儒教、道教を以て釈教を制止せん日は道安法師、慧遠法師、法道三蔵等の如く王と論じて命を軽くすべし。
釈教の中に小乗、大乗、権経、実経雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳、これを弁えざる時は天台大師伝教大師の如く、大小、権実、顕密を強盛に分別すべし。
畜生の心は弱きをおどし、強きにおそる。
当世の学者等は畜生の如し。
智者の弱きをあなづり、王法の邪をおそる。
諛臣と申すはこれなり。

強敵を伏して始めて力士としる。
悪王の正法を破るに邪僧等が方人をなして智者を失わん時は師子王の如く心をもてる者必ず仏になるべし、例せば日蓮が如し。
これおごれるにはあらず。
正法を惜しむ心の強盛なるべし。
これはさておきぬ。
日蓮を信ずるようなりし者どもが、日蓮がかくなれば疑いを起こして法華経を捨つるのみならず、かえりて日蓮を教訓して我賢しと思わん僻人等が念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事不便とも申すばかりなし。

修羅が仏は十八界、我は十九界と云い、外道がいわく、仏は一究竟道、我等は九十五究竟道と云うが如く、日蓮御房は師匠にてはおわせども余りにこわし。
我等はやわらかに法華経を弘むべしと云わんは蛍火が日月をわらい、蟻塚が華山を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲が鸞鳳を笑うなるべし。

四條金吾殿怨嫉大陣既破鈔十七巻四十三丁にいわく、末代の法華経の聖人をば何をもってか知るべき。
経にいわく、能説此経能持此経の人則ち如来の使いなり。
八巻、一巻、一品、一偈の人乃至 題目を唱うる人如来の使いなり。
始中終すてずして大難をとおす人如来の使いなり。
日蓮が心は全く如来の使いには非ず、凡夫なる故なり。
但し三類の大怨敵に怨まれて二度の流難にあえば如来の御使いに似たり。
心は三毒深く一身凡夫にては候えども口に南無妙法蓮華経と申すは如来の使いに似たり。
過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり。
現在を訪うに加刀杖瓦石に違う事なし。
未来は当詣道場疑い無からんか。
これを養わせ給う人々は豈同居浄土の人にあらずや。

三澤鈔十九巻二十丁にいわく、大事な御文の心を意得て仏に成るべきに成り候いぬれば第六天の魔王この事を見て驚いていわく、あら浅ましやこの者この国に跡を留めけるならば彼が身の生死を出づる事はさて置きぬ。
また人を導くべし。
またこの国土を押さえ取って穢土を浄土となすべし。
いかせぜんとて欲、色、無色三界の一切の眷属を催し仰せ下していわく、各々の能々に随いて彼の行者を悩まして見よ、それに叶わずば彼が弟子、檀那並びに国土の人の心の内に入り代わりて、或いは諫め、或いはおどして見よ、それに叶わずば我みずからうちくだりて国主の身心に入り替わりておどして見んにいかでか留めざるべきと僉議し候なり。
日蓮まずかかるべしと見候に末代の凡夫今生に仏に成らん事は大事にて候なり。

そもそも過去遠々劫より定めて法華経にもあい奉り、菩提心をも発しけん、なれどもたとい一難二難をば忍びけん、なれども大難次第につづき来たりければ退しけるにや。
今度如何なる大難にも退せざる心ならば申し出すべしと申し出して候いしかば経文にたがわずこの度々の大難にはあい候いしぞかし。
今は一定なり、何なる大難にもあうべく候と我身に当たって試みて候えば不審なき故にこの山林には住み候なり。
各々はまたたとい捨てさせ給うとも、一日片時も我命をたすけし人々なれば、いかでか他人には似させ給うべき、本より我一人いかにもなるべし。
我いかになるとも心に退転なくして仏になるならば、殿原をば導き奉らんと約束申して候いき。

崇峻天皇御書十九巻四十一丁にいわく、人身は受け難し、爪の上の土。
人身は持ち難し、草の上の露。
百二十迄持ちて名をくだして死せんよりは、生きて一日なりとも名を挙げん事こそ大切なれ。
中務の三郎左衛門尉は主の御為にも、仏法の御為にも、世間の心根もよかりけりよかりけりと鎌倉の人々の口にうたわれ給え。
あなかしこあなかしこ。
蔵の財より身の宝勝りたり。
身の宝より心の財第一なり。

日妙御書十九巻五十九丁にいわく、この経こそ実語の中の実語にて候え、実語の御経を正直の者心得候なり。
今実語の女人にておわするか。
まさに知るべし須弥山を懐いて大海を渡る人をば見るとも、この女人をばみるべからず。
砂をむして飯となす人をば見るとも、この女人をば見るべからず。
まさに知るべし釈迦、多宝仏、十方分身の諸仏、上行、無辺行等の大菩薩、大梵天王、帝釈、四天王等この女人をば影の身にそうが如く守り給い候らん。
日本第一の法華経の行者の女人なり。
故に名を一つつけ奉って不軽菩薩のぎになぞらえて日妙聖人等云云。

千日尼御書二十巻二丁にいわく、法華経の行者をば父母、兄弟、師匠同じく上一人より下万民に至るまで一人も漏れず、父母の敵の如く謀叛強盛にも勝れて人毎に怨をなすなり。
されば或時には数百人にのられ、或時には数千人に取りこめられ、刀杖の難にあい処々を追われ、結句は国主より御勘気二度なり。
一度は伊豆国、今度は佐渡国の島なり。
されば身命を続くべきようもなし。
身を隠すべき藤の衣ももたず。
北海の島に放たれしかば彼の国の道俗は相州の男女よりも怨をなして、野中に捨てられて雪にはだえをまじえ、草をつみて命をささえたりき。
後の蘇武が胡国にして十九年、雪を食として世を渡りし、李陵が北海に六年、がんくつにせめられしも我身にして知れたり。
これ偏に我身には失なし、日本国を助けん為なりと思いし故なり。

しかるに尼御前並びに入道殿は彼の国に有りし時は人目をおそれて夜中に食を送り、或時には国の責めをもはばからず、身にもかわらんとせし人なり。
さればつらかりし国なれども常に思い出され候なり。
何なる過去の契りにや有りけん、おぼつかなく候いつるに、指たる大事もなきにこれまで使いをつかわされて候事、夢かまぼろしか、尼御前のすがたをば見まいらせ候わねども心をばこれにて留めおき候。
日蓮をこいしく御座し候わば日月を拝ませ給うべし。
いつとなく日月に影を浮かぶる身なればなり。
また後生には必ず霊山会上の衆となり給うべし。

南條鈔二十巻十八丁にいわく、させる語を以て法華経を謗る人は少なけれども、人毎に法華経を用いず、また用いたる様なれども念仏等の様には信心深からず。
たといまた信心深き者も法華経の敵をば責めず、何なる大善根を修し、法華経を千万部読み書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵を責めざれば得道有り難し。
譬えば朝に仕える人の十年二十年奉公あれども君の敵を知りながら奏せず、私にも怨まずんば日ごろの奉公皆失って還って失に行わるが如し。
当世の人々は皆謗法の者と知ろしめすべし。
大悪魔貴き僧と成り父母兄弟等に付いて人の後世をば障るなり。
何と申すとも法華経を捨てよと欺りげに候わんをば御用い有るべからず。
但し日蓮一人こそ読み侍れ。
我不愛身命但惜無上道これなり。
されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。
もし前に立たせ給わば梵天帝釈四大天王閻魔大王に申させ給うべし。
日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりとなのらせ給え、よも芳心無き事は候わじ。
但し一遍は念仏を申し、一遍は法華経を唱えつ。
二心ましまして人の聞くにはばかりなんどだにも候わば、日蓮が弟子と申させ給うとも御用い候わじ、後に恨みさせ給うなよ。

秋元鈔二十一巻十六丁にいわく、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給えり。
南無阿弥陀仏は仏種にはあらず。
今日本国もまたかくの如し。
持戒、破戒、無戒王臣万民を論せず一同の法華経誹謗の国なり。
たとい身の皮をはぎて法華経を書き奉り、肉を積みて供養し給うとも、必ず国も滅び身も地獄に堕ち給うべき大なる科あり。

初心成仏鈔二十二巻十八丁にいわく、当世の人は何と無くとも法華経に背く失に依って地獄に堕ちん事疑いなし。
故に兎も角も法華経を強いて説き聞かすべし。
信ぜん人は仏になるべし。
謗ぜん者も毒鼓の縁と成って仏になるべきなり。
何にしても仏の種は法華経より外に無きが故なり。
権教を以て仏になる由だにあらばなにしにかは仏は強いて法華経を説いて謗ずるも信ずるも利益あるべしと説き、我不愛身命とは仰せらるべきや。
能々道心ましまさん人は御心得あるべきなり。
経文の如くならば末法法華経の行者は人ににくまるる程に持つを実の大乗の僧とす。
また経を弘めて人を利益する法師なり。
人に吉と思われ人の心に随って貴しと思われん僧をば法華経の敵、世間の悪知識なりと思うべし。
この人を経文には、猟師の目を細めにして鹿をねらい、猫の爪を隠して鼠をねらうが如くにして在家の俗男俗女の檀那をへつらい、いつわり、たぶらかすべしと説き給えり。
その上勧持品には法華経の敵人三類を挙げられたるに、一には在家の俗男俗女なり。
この俗男俗女は法華経の行者を憎み、罵り、打ちはり、きり、所を追い出し、或いは上へ讒奏して遠流し、なさけなく怨む者なり。

二には出家の人なり。
この人は慢心高くして、内心には物も知らざれども、智者げにもてなして世間の人に学匠と思われて、法華経の行者を見ては怨み、嫉み、軽しめ、賎しみ、犬野干よりもわろきようを人に云いうとめ、法華経をば我一人心得たりと思う者なり。

三には阿練若の僧なり。
この僧は極めて貴き相を形に顕し、三衣一鉢を帯して山林の閑なる所に籠もり居て、在世の羅漢の如く諸人に貴まれ、仏の如く万人に仰がれて、法華経を説の如く読み奉らん僧を見ては憎み嫉みていわく、大愚痴の者、大邪見の者なり。
総じて慈悲なき者、外道の法を説くなんど云わん。
上一人仰いで信を取り給わば、下万人も仏の如く供養をなすべし。
法華経を説の如くよみ奉らん人を必ずこの三類の敵人有って怨まるべき時なりと仏説き給えり。

聖人御難事御書二十二巻三十二丁にいわく、月々日々につより給え、すこしもたゆむ心あらば魔たよりを得べし。
我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事にはおそるる心なし、一定として平等も城等もいかってこの一門をさんざんとなす事も出来せば眼をひさいで観念せよ。
当時の人々のつくしへかさされんずらん。
またゆく人、またかしこに向かえる人々も我が身にひきあてよ。
当時まではこの一門にこのなげきなし。
彼等はげんにはかくのごとし。
殺さればまた地獄へゆくべし。
我等は現にはこの大難にあうとも後生は仏になりなん。
たとえば灸治のごとし、当時はいたけれども後の薬なれば、いたくていたからず。

阿弥陀堂鈔二十三巻六丁にいわく、疑いていわく、法華経の行者を怨む者は頭破作七分と説かれて候に日蓮房を毀れども頭もわれぬは日蓮房は法華経の行者には非ざるかと申すは道理と覚え候は如何。
答えていわく、日蓮を法華経の行者にてなしと申さば法華経を抛てよとかける法然等、無明の辺域とくらませる弘法大師、理同事勝と定めたる善無畏慈覚等が法華経の行者にてあるべきか。
また頭破作七分と申す事は何なる事ぞ。
刃を以て切るようにわるると意得るか。
経文には如阿梨樹枝とこそ説かれたれ。
人の頭に七滴あり、七の鬼神ありて一滴を食えば頭をいたむ。
三滴を食えば命たえんとす。
七滴皆食えば死するなり。
今の世の人々は皆頭は阿梨樹枝のごとくにわれたれども悪業深くして知らざるなり。
例せば手を負いたる人の或いは酒に酔い、或いはねいりぬれば覚えざるが如し。
また頭破作七分と申すは或いは心破作七分とも申して頂の皮の底にある骨のひびたうるなり。
死する時はわるる事もあり。
今の世の人々は去る正嘉の大地震、文永の大彗星に皆頭われて候なり。
その頭のわれし時ぜひぜひやみ、五臓の損ぜし時、赤き腹をやみしなり。
これは法華経の行者を毀りし故に当たりし罰とはしらずや。

如説修行鈔二十三巻二十九丁にいわく、さればこの経を聴聞し始めん日より思い定むべし、況滅度後の大難三類甚だしかるべしと。
然るに我弟子等の中にも兼ねて聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝を消して信心を破りぬ。
兼ねて申さざりけるか、経文を先として猶多怨嫉況滅度後。況滅度後と朝夕教えし事これなり。
予が或いは所を逐われ或いは疵を被り、或いは両度の御勘気を蒙って遠国に流罪せらるるを見聞すとも今始めて驚くべきにあらざる物をや。

問うていわく、如説修行の行者は現世安穏なるべし。
何が故ぞ、三類の強敵盛んならんや。

答えていわく、釈尊は法華経の為に今度九横の大難にあい給う。
過去の不軽菩薩は法華経の故に杖木瓦石を蒙り、竺の道生は蘇山に流され、法道三蔵は面に火印をあてらし、師子尊者は頭をはねられ、天台大師は南三北七にあだまれ、伝教大師は六宗ににくまれ給えり。
これらの仏菩薩大聖等は法華経の行者にしてしかも大難にあい給えり。
これらの人々を如説修行の人と云わざれば、何くにか如説修行の人を尋ねん。
権実雑乱の時法華経の怨敵を責めずして山林に閉じ籠もり摂受を修行せんは、豈法華経修行の時を失うべき物怪にあらずや。
されば末法今の時は法華経折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給う。
誰人にても坐せ諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりとこえも惜しまずよばわり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ、
三類の強敵来たらん事は疑い無し。

種々御振舞鈔二十三巻四十一丁にいわく、日蓮悦んでいわく、本より存知の旨なり。
雪山童子は半偈の為に身を投げ、常啼菩薩は身を売り、善財童子は火に入り、楽法梵志は皮をはぐ。
薬王菩薩は臂を焼き、不軽菩薩は杖木を蒙り、師子尊者は頭を刎ねられ、提婆菩薩は外道に殺さる。
これらは何なりける時ぞと勘うれば、天台大師は適時而已と註され、章安大師は取捨得宜不可一向と註され、法華経は一法なれども機に随い時に依ってその行万差なり。

仏記にいわく、我滅度の後の正像二千年過ぎて末法の始めにこの法華経の肝心題目の五字ばかりを弘むる者出来すべし。
その時悪王、悪比丘等大地微塵よりも多くして、或いは大乗、或いは小乗等を以てあらそわん程に、この題目の行者に責められ、在家の檀那等を語らいて、或いは罵り、或いは打ち、或いは籠に入れ、或いは所領を召し、或いは流罪し、或いは頸を刎ぬべし。
然りと雖も退転なく弘むる程ならば、怨を成す者は国主はどし打ちを始め餓鬼の子を?うが如くならん。
後には陀国より責めらるべし。
これ偏に梵天帝釈日月四天等法華経の敵となる国を他国より責めさせ給うなるべしと説かれて候ぞ。
各々我弟子と名乗らん人々は一人もおくし思わるべからず。
親を思い、妻子を思い、所領を顧みる事なかれ。
無量劫よりこのかたの事を思うに、忽ちに親の為、子の為、妻の為、所領の為に身命を捨つるは大地微塵より多し。
法華経の御故には未だ一度もすてず。
法華経おわりこわく行ぜしかどもかかる事出来せしかば退転してとどまりにき。

譬えば湯をわかして水に入れ、火を切るにとげざるが如し。
各々思いきり給え。
この身を法華経に替ゆるは石に金を替え、糞に米を替ゆるなり。
乃至 法華経の肝心諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提に弘まらせ給うべき瑞相に日蓮先がけしたり。
若党共二陣三陣つづいて迦葉阿難にも勝れ、天台伝教にも越えよかし。
僅かの小島の主等がおどさんに恐れては閻魔王の責めをば如何すべき。
仏の御使いと名乗りながらおくせん事は無下の人々なりと申し含めぬ。
乃至 日蓮これを見て思う様、日来月来思い儲けたりつる事これなり。

四恩鈔四十巻二丁にいわく、このたばかりも詮ずる所は仏に法華経を説かせまいらせじの料と見えて候。
その故は魔王の習いとして三悪道の業を作る者をば悦び、三善道の業を作る者をばいとう歎かず、三乗と成らんずる者をばいとう歎く。
また三乗と成る者をばいとう歎かず、仏となる業をなす者をば強ちに歎き、事にふれて障りをなす。
法華経は一文一句なれども耳にふるる者は既に仏になるべきと思いて、いとう第六天の魔王も歎き思う故に、方便をまわして留難をなし、経を信ずる心を捨てしめんとたばかる。
しかるに仏の在世の時は濁世なりと云うとも五濁の始めたりし上、仏の御力をも恐れ、人の貪瞋痴邪見も強盛ならざりし時だにも、竹杖外道は神通第一の目連尊者を殺し、阿闍世王は悪象を放ちて三界の独尊を怖し奉り、提婆達多は初果の阿羅漢蓮華比丘尼を害し、瞿伽利尊者は智慧第一の舎利弗に悪名を立てき。

何に況や世ようやく五濁の盛に成りて候をや。
況や世末代に入って法華経をかりそめにも信ぜん者の、人にそねみねたまれん事はおびただしかるべきか。

故に法華経にいわく、如来現在猶多怨嫉況滅度後、云云。
始めにこの文を見候いし時はさしもやと思い候いしに、今こそ仏の御言は違わざりけるものかなと、殊に身に当たって思い知られて候え。
乃至 これ偏えに法華経を信ずる事の余人よりも少し経文の如く信をもむけたる故に、悪鬼その身に入ってそねみをなすかと覚え候えば、これ程の卑賤無智無戒の者二千余年已前に説かれて候法華経の文にのせられて、留難にあうべしと仏記し置かれ参らせて候事のうれしさ申し尽くし難く候。

この身に学文仕りし事ようやく二十四五年にまかりなるなり。
法華経を殊に信じ参らせ候いし事はわずかにこの六七年より以降なり。
また信じて候いしかども懈怠の身たる上或いは学文と云い、或いは世間の事にさえられて、四日にわずかに一巻一品題目ばかりなり。
去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。
その故は法華経の故にかかる身と成って候えば行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候え。
人間に生を受けてこれ程の悦びは何事か候べき。
凡夫の習い我とはげみて菩提心を発して後生を願うと云えども、自ら思い出し十二時の間に一時二時こそははげみ候え。

これは思い出でざるにも、経を読まざるにも、法華経を行ずるにて候か。
無量劫の間六道四生を輪廻し候いけるには、或いは謀叛をおこし強盗夜討等の罪にてこそ、国主より禁を蒙り流罪死罪にも行われ候らめ。
これは法華経を弘むるかと思う心の強盛なりしに依って、悪業の衆生に讒言せられてかかる身に成って候えば、定めて後生の勤めには成りなんと覚え候。
これ程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は末代には有りがたくこそ候らめ。
また止む事なく目出度事侍り。無量劫の間六道に廻り候いけるには、多の国主に生まれあい奉って、或いは寵愛の大臣関白等とも成り候いけん。
もししからば国を給わり財宝官碌の恩を蒙りけるが、法華経流布の国主にあい奉りその国にて法華経の御名を聞いて修行し、これを行じて讒言を蒙り流罪に行われ参らせて候。
国主には未だあいまいらせ候わぬか。

法華経にいわく、この法華経は無量の国中に於いて乃至名字をも聞くことを得べからず。
何に況や見ることを得、受持し読誦せんをや云云。
さればこの讒言の人国主こそ我が身には恩深き人には御坐しまし候わめ。

発心即到記 終