萬代亀鏡録

説黙日課:3(日講上人)延宝六〜延宝九(天和元)

延宝六戊午

正月朔日日待御祈祷経拝読、及び書き初め本尊をしたたむること等例の如し。左遷以来まさに郊外の春の心地を知る。二日仏前に於いて御書及び三大部を開いて学問初めを為す。向後例年式と為す。九日江府より便り有り、初め碑文谷日禅去秋遠行の訃音を聞き懐旧感慨些からず。即ち位牌をしたため妙経全部を読み慇懃に回向す。十六日読経の外しばしば来客に接す。かつ両奉行を以て旧臘例年の呉服代を送るの儀を家老に謝す。かつ当年より例年加勢銀及び呉服代を受くべからざるの趣きを達す。云云 かつ一昨夜大機逐電して瓜生野に至ると聞く。大機既に大光寺を退き新たに普請を望むと雖も公庭沙汰無き故に述懐して退院す。云云 十九日島津主膳年始の礼の為来たり尤も境致の美を賞す。また領主又吉より書札始めて来たり、今日両奉行来たって家老返詞を告ぐ。前代より例年の式法故加勢銀等辞退の儀有るべからざるの趣きなり。予重ねて道理を以て辞退の旨を宣ぶる故家老再び重便に答え堅くその趣きを又吉に達すべしと。二十一日江府より飛脚有り、江府大火の事当屋敷また焼失の儀を聞く。また聞く、呼び廻さるるに依って大機昨夜玄盛院に還る。褒貶区別なりと雖も多分は首尾合わず、自語相違するを譏る。頃日向井吉兵衛苑の高台を当屋敷内に借り入れ、休息所小庵を遷す嘉景興を添え四望碍無く一心楽しみ有り。云云
二月朔日朝齋例の如し。但し当年より客の相伴を勤むる儀を停む。独り書院に在って喫飯の式これを定む。三日夜名目を講ず。比来客人繁く屏及び雪隠等小普請有るに依る故に久しく講釈を廃す。また隣室津曲七郎左衛門の所慣閙にして閑居を妨ぐる故に頃日両奉行を以て移宅の儀を家老に達す。三角氏才覚に依る故にその儀速やかに調い、近日彼の家を他所に移し野僧また移家の雑用を津曲氏に恵む。十八日梵網を講ず。二十六日新山寺の招請に赴きまず駕を本丸に廻らし遠望やや久し。寺に至り饗応丁寧(不動寺相伴)閑談興有り。明日詩を作ってこれを謝す。また昨日久しく廃せる山谷の講を興す。頃日家老より辞退する所の加勢銀等の事いよいよ叶うべからざるの趣きを告ぐ。
三月十一日島津主膳近日江戸に赴かるる故暇乞いの為来臨閑話時を移して辞去。二十三日諸左を主膳に遣わし明日の発足を賀す。かつ的便の故に清見潟蒔絵の硯函を又吉に献ず。云云 また三伯の参府に就き昨日送行の長編を(二十八句)したためてこれを遣わす。また先月以来境致の景に就いて三伯、三角氏、藤井氏、浅山治右、村田八右、同姓又兵衛、田村善兵、道活等詩を賦して送る。或いは長編或いは律詩一々これに和す。云云 二十五日早に看経を弁じ遊覧の為住吉に赴き路次石崎を経て浜辺に入る。雨に逢う。両奉行後よりかつ金丸源常に依って兼ねて野僧今日出駕の儀蓮光寺饗応の支度あるを告ぐ。予かつて知らざる故に蓮光寺に立ち寄らざる等の殺風景有り。まさに住吉に至って幸いに雨止みようやく海辺晴景を催す。席を設け飯を喫し眺望時を移し長編の律詩等の草案相成る。帰路平等寺に入り住持に謁し寺内を巡見す。また詩作有り。日暮れ帰宅。他日平六を住吉に遣わすの次で蓮光寺饗応支度の儀を追謝す。
四月八日庵に登り仏誕生の長編数十句を綴る。比来黒貫寺の大般若を借用し連々周覧これを抜書せしむ。
五月三日髑P院要三、河本六兵衛渡海す。松木氏才覚を以て今夜三客来臨し、対面閑談深更に至る。要三の語中可有り、否有り。云云 連日本尊等をしたため三客に遣わす。六日早天三人帰駕。かつ三昨夜松木伊織の逝去を聞く。今朝覚弥を遣わして弔問し、法名を位牌にしたためて回向す。また三客の便りに覚伝の死去を聞きて懇ろに回向す。十日樺山左京来たり閑話。(当三日江戸より帰宅) 十七日寿仙の訃音を聞いて講を止め覚弥を遣わして弔問す。今夜火葬一片の煙と登り、無常眼を遮り、臭気鼻を蔽う。これより洞嶽山上煙雲の景殺風景に変ず。云云 かつ頃日酒匂氏斎宮の場に於いて大安寺はなはだ天昌正龍の禁酒を呵するを聞く。可否如何。二十日楞厳経講を創む。先年すでに楞厳の講を成就すと雖も天昌正龍寺の懇望に依って再び講説を企つ。二十八日庵の造作成就す。方丈の室に擬し仏像を遷し経巻を安んじ、向後毎日朝暮の看経を勤修す。庵を号して鶴樹軒と為し書院をかつて鷲峯庵と称す。他日縁を求め難波の一時軒をして額を書せしむ。幾程も無く額調い来たる。
六月五日名目の講成就す。四巻の條箇を以て逐一細講の故に総じて百三十三座。明日楞厳の聴衆饗応を設く。十九日正龍寺の退院を聞く。大安寺かつて禁酒を呵するに依る故なり。云云 これに依ってまず楞厳経の講をさしおく。また禁酒呵責の儀に就いて天昌正龍比来不和を聞く。云云 二十日大坂より便有り中正論板行世雄まず五巻を送る。連日周覧するに可有り、否有り。二十六日正龍寺華園より書札を勝手に送り急に発足の故に暇乞いを遂げず、及び楞厳の講を聞かざるの残念並びに数年厚恩を蒙る等の趣きを陳謝す。云云 頃日覚弥平六両人の一人僧形と成り仏前の香華灯明に勤めしめ度の趣きを愁訴す。云云 二十九日妙祐の一周忌を迎えて齋会を設く。かつて形見の為小袖一重を送る。
七月三日新山寺髟の所に往くに因って先日の返書をしたためしめ、かつ別紙を以て道理を立て帰寺の異見を加う。この後予大安正龍和融の手段を才覚す。新山を黒貫寺高月院等に遣わしかつ他日龍泉院龍堂を華園に遣わし異見を加えらる。諸方縁熟して当十四日髟帰寺。峰陳謝していわく、帰寺の意発すること貴師十箇條の異見に依る。云云 九日日浣の三回忌に依り饗応を設く。一昨夜別円二教是歴劫人の八字を夢む。十五日盆会例の如し。十九日梵網発隠の講成就す。正龍列座。二十一日久廃の楞厳を講ず。頃日破奠記を再治す。二十九日天昌寺の饗応に赴いて発隠成就の祝志に擬し、まず茶店を古城に構え遊興時を移す。時至り喫飯の後後峰の庵に昇り閑談むぎこを賞し黄昏れ帰宅。比来浅山氏と詩歌の往復有り。かつ寿仙追薦の頌を遣わし、また日高氏当山の境致を賞美するの詩五首に和す。
八月五日大風洪水居室船の如く大破損有り。云云 九日新山寺の饗応に赴き黒貫寺快心に謁して閑談す。倶に羽田に往きて名水名物の柿を見る。十一日良心居士の三回忌を迎え齋会を設く。晩また饗応有り。かつ頌を綴って牌前に備う。十五日夜庵に登り月見の興を催す。藤井氏日高氏来臨詩連句有り、深更に至る。十九日早に看経を弁じ遊覧の為鬼津久馬に赴く。路次木脇寿算亭に立ち寄りかつ大光隠居活眼の閑居に入って清談やや久しゅうす。詩連句の興有り。予の正句活眼対句有り。予即席の詩に活眼他日和韻して送る。既にして鬼津に至り、洋を望み久座茶を喫し菓を賞す。盛岩寺兼ねて饗応を約する故彼の所に至って飯を喫し閑談興有り。?半船に乗じて帰る。舟中眺望もっとも詩興を催す。云云 二十日讃州日堯日了より書札到来す。今日返翰をしたため船便に附して遣わし、かつ律詩二首を賦して盛岩寺に遣わし昨夜丁寧の馳走を謝す。
九月九日日高氏龍泉院の茶店及び新山寺を借り饗応を野僧に設く。茶店に詩連句の興有り。もっとも美景を賞し新山に於いて丁寧の馳走、閑話初更に至って帰宅す。また今日龍泉院より上山三左を以て菓子を送らる故に今夕藤井氏を以てこれを謝す。明日詩二首を賦して日高氏に謝す。十一日江府より便り有り、左門の細書到来しつぶさに又吉主膳と内談の上日講日向一国路次御免の儀密かに久世和州及び寺社奉行松平城州に伺わると雖も敢えて許諾の儀無く、そのついでに一人僧形と成るの儀を窺わると雖もこれまた調わざるを告ぐ。云云 かつ城州に向かってくわしく予の徳行比類無き趣きを語る等の儀枚挙にいとまあらず。しかも一人僧形の儀公庭に達し野僧の所存と違却すと雖も是非に及ばず。云云 十八日家老より両奉行を以て今般国御免の訴状両通を見せしむ。一通は寺社奉行板倉石見守(内膳子息)松平山城守、一通は東叡山日光御門跡取次観理院。云云 予一覧しおわって相応の挨拶を以てこれを謝す。かつ昨日春成清心の死去。今日不動寺及び元江(村田角兵内儀)の死去を聞き明日の講を止む。
十月朔日飯田氏来たって天昌寺昨夜巨難に逢うて退院せりと告ぐ。(野久尾若輩衆大勢入寺狼藉)昨天天昌寺より使い有り、不慮の儀に依り大安寺に蟄居す。云云 九日祖伶の招請に赴き路次古屋敷及び不動寺を歴覧して感慨を生ず。かつ九月十四日松平左馬頭薨去を聞く。十三日会式齋会等例の如し。かつ去る夜夢想の歌
 法の雨沾い暫し止みぬとも結びし水の縁は朽ちせじ
 また下の句 世の楽しみを西に極めて 上句失念
十五日臘旦に入り毎月対面の日限を定む。(毎月六箇日) かつ大機今日東漸寺に於ける結夏小参の儀式に列なり、かつ宗円良英脇士に似る等の事を聞く。頃日京都書籍到来の内垂裕記有り。故に時々朱を加う。一覧するに新得これ多し。比来安国論、国家論等諸御書の読曲を慧照に教示す。二十二日大坂より便り有り紫竹住持職残清(近年了聖院閑主役を勤む)等の趣きを聞く。二十六日集註の講を創む。正龍また講を聞く。かつ比来天昌寺狼藉の儀に依り松木宇右、調所新七、長友甚右閉門。円骭使有って昨日帰寺。還って三人閉門免許の趣きを愁訴。然るに八重尾氏内々密かに円驍フ諸事不首尾世上嘲弄末寺不参等の旨を語る。故に彼の僧他日私宅に来たると雖も謁せず。重来の時やむを得ずして対談しほぼ不首尾の儀を述べて向後私宅に入り来たるの儀を停止せしむ彼の僧赤面して座を立つ。云云 この後彼の僧改心無き故に累年通ぜず。云云 また頃日工夫の趣きみだりに他の無礼無音等を糺すはこれ痴煩悩。狂狗つちを逐うが如し等。云云
十一月十三日朝齋十余輩例年の如し。像師忌月の故なり。二十三日悲母日漸の二十五回忌を迎えて朝齋を設く。晩また饗応有り。かつ頌を綴って霊前に備う。頃日吉祥寺飯田氏を以て懇望するに依りことさらに円頓者をしたためてこれを遣わす。
十二月八日龍泉院及び主膳の奥飯田氏を以て懇望の故に金泥銀泥二部妙経を遣わす。飯田氏に託してこれを頂戴せしむ。この時まず飯田氏をして慧照所持の経を頂戴せしむ。しばらく法華宗と成るの意許りなり。云云 今暁名聞利養仏即法性仏即真仏の十二字を夢む。もっとも明了なり。十六日夜六物図の講を創む。歳暮の規矩例の如し。かつ当年の言行を点検するに可有り、否有り。可は多く否は少なし。かつ重障の瞋恚発起すること僅かに十度に及ぶ。もし重者を制すれば余惑自ら去るの名言もっとも肝に銘ずべし。来年更に修心練行進歩を欲す。云云

延宝七己未

正月朔日日待御祈祷経拝読、学初め書き初め等例の如し。かつ当年の規矩を定めんと欲し略頌を作っていわく、当日当座検非惜陰念々口々首題現前、離我離執不糺違境志懐忘外可進自行。云云 また年の始めより本尊抄を拝し、十六日始めて客に接し、夜六物を講ず。かつ村田道幽の詩に和す。十九日東漸寺当十五日解臘の時松岩寺等町の風呂に入り、かつ飲酒等放逸の作法有り。大機強く呵責する故会下矛盾重ねて結夏せんと欲すと雖も首尾難かるべし。云云 二十一日旧冬又吉式部少輔に任ぜらるるの便りを聞く。藤井氏を以て祝詩を家老等に達す。比来吉蔵の法華義鈔を閲して朱を加う。
二月六日映後正境寺の招請に赴く。まず仮屋を原上に構え眺望やや久し。即ち春野吟眸を楽しみ、滄溟自波無しの正句を綴る。藤井氏対句有り。云云 虎仙重を持って来たる殺風景有り。既にして寺に至る。饗応慇懃なり。便りに因って正龍黄檗派に執するの非有り、これを糺明す。けだし護法の寸志なり。後今日黄檗派を破する儀城及び世上に於いて専ら沙汰有りと聞く。云云 暮れに及んで帰宅す。明日正龍来謝し、かつ自身黄檗派に著せざるの趣きを陳ぶ。虎仙また来たって頃日の無礼を謝す。云云 今日田原市日高氏また座に在って黄檗を破するを聞く。大抵は永覚の晩録及び雲棲等捧喝を行ずる者を罰するの格式等を條を立てこれを破す。云云 二十六日田原氏の佳招に赴き、駕を七騎廻りに廻らす。巨田八幡に遊覧し、観音院に入り鷲霊山の額を見る。高月院の隠居水辺の亭に立ち寄りて遠望興有り。云云 既にして田原氏の隠居所に至り閑談和歌の興有り。点灯方に帰宅し看経の後今日路中吟の長編を修補す。頃日井辺の小池を弄する有り、興を催し詩を賦す。云云 また藤井氏見計の旨を記し平六に送る有り、往返数回彼ついに承伏す。
三月五日新山の招請に赴き諏方坊及び不動寺に謁して共に関左の風俗を話し一笑を発す。また便に因って禅及び真言を破する有り。云云 九日奥師の五十年忌を迎うるに依って今日待夜齋会を五十余輩に設け、かつ列座の衆をして金泥銀泥両部の経を頂戴せしむ。またつぶさに祖師の立義不受不施の旨及び大仏供養以来の儀を語る。明日早天より読経並びに本尊をしたためて終日。かつ円頓者二幅を書して祖伶と厨子山寺とに遣わす。頃日大坂より中正論の余残到来全部二十冊。この後時々披覧。またかつて天昌寺に借用する所の大般若頃日返弁す。前後乱雑の処を修補して後見の人に便す。二十五日寅に起き早に勤行を弁じ、日出のころ輿に駕して遊覧の為長谷の観音に赴く。天気晴朗、路程景多く頻りに一興を発す。三納柳田浮右衛門茶店を高岳に構え饗応丁寧。かつ菓子を観音堂に送る。帰路黒生野を歴て水に傍うて行き肥後淵辺に休息す。茶を啜って更に興を催し帰宅。今日の路中吟百句及び長谷地景の律詩五首草案明日再治す。云云 柳田氏来たりまた謝す。頃日書院の北山に傍うて池を鑿り水を湛えて楽しむ有り。云云 比来写物を河野伊覚に遣わす有り。累年止まず。
四月十五日入夏の軌則例の如し。かつ島津主膳江府より帰宅の儀を聞きて明日藤井氏を遣わしてこれを祝す。十九日吉祥寺新山に来たり一字三礼の御経を拝見せんことを懇望す。即ち平六を遣わし、彼をして紺紙白紙の御経を頂戴せしむ。二十一日天台観心論の講を創む。この論講釈の内節々厳密の禅破有り。
五月十六日島津主膳来臨。去年已来江府相続の儀を閑話す。かつ新板の江戸鑑二冊を賜う。二十三日終日本尊等をしたため、夜に入って客有り。年来毎月二十三夜客を招すと雖も寸陰を惜しむ故来月の月待より集客を停止す。
六月二十二日たまたま己心北斗を見る。(八重尾氏より送る)即時周覧感少なからず。もっとも霧海南針の迷執を破却するに足る。云云 頃日鹿児島福昌寺の僧浄光明金剛経講釈の場に臨みて金剛の名本来有りや否やの旨を問答し後に狼藉に及んで公庭に達するを聞く。云云
七月九日大坂の世雄より三田問答を送る。他日逐一能破を加う。云云 十日大風洪水、私宅廊架の壁倒る。云云 十五日暁天大電。盆供例の如し。明晩新山来臨。帰路井辺に毒蛇にささる。紫金錠及び寿命散を遣わす数日通悩して後癒ゆ。十八日善種院妙務の三十三回忌を迎えて齋会を設く。かつ久世和州の訃音を聞く。頃日主膳より西国太平記を借りて周覧す。云云 また比来伊覚をして金山抄を抜書せしむ。その謬を糺さんと欲する故なり。
八月二日大坂より便り有り、日堯の返翰到来す。かつ寿徳院日季四月九日逝去の訃音を聞き感情少なからず。今日講を止め読経回向す。また武村氏より科三大部等到来す。云云 七日宗円記の講を創む。(これまた再興)この後大乗止観科釣物を編立す。かつ伊覚をして新たに宗円記全部を写さしむ。板本前後の違乱及び文字の脱誤等を改糺し新たに正点を加うるに依る故なり。十一日良心居士の忌月に依り多客を招き朝齋を設け、向後毎年恒例と為す。十五日午後輿に駕して月見の為浜辺に赴き、佐加利より舟に乗じて一興極まり無し。舟中逸詩伝に加朱す。狐島に休み弁当を披く。また舟に駕して浜に出で大円鏡を海面に掛け誦経三拝やや久しくして舟を帰す。詩歌の興有り、二更帰宅。明日始めて酒匂源二郎に謁す。頃日龍堂上方に於いて払子及び色衣等を奪わるるの事を聞く。
九月五日島津右京と樺山左京と縁辺の儀に就いて確執出来し、人皆歎じて家中の大事と為すと聞く。云云 他日種々の曖有りと雖も右京の憤り止まざるに依り左京閉門。去るころ長谷観音蓮華の葉いろわざるに自ら落つ。かつ五月湊柱家老の波計甚だ凶なり。人皆この凶瑞なるべしと云う。上山五太夫またこの事に依って蟄居す。頃日榊原九衛門尉息女文を以て本尊を懇望する有り、即ちしたためてこれを遣わす。また戸川十左衛門の内室信札有り、これ日秀の遺言に依る。云云 十五日夜戒本宗要の講を創む。
十月朔日江戸より便り有り。覚眼院より中村談林長江平六に遣わすの状を達す。彼かつて覚眼に託し世間通用を望む故なり。十三日会式饗応等例の如し。二十六日山谷全部の講成就。藤井氏饗応を設く。
十一月二日戒本宗要の講成就。四日三教指帰の講を創む。また日高氏三伯等周易の講を懇望するに依り夜下経恒卦を創む。今日正龍新山饗応を私宅に設く。頃日身延日延佐竹右京太夫の預かりと成り、身延院家五人遠島、六人追放、後住日脱と聞く。云云 予推するに日延不受の志を挿み院家と密談するに依るか。云云 十九日今日の易講より付紙の格を定め諸生をして吟味せしむ。比来浅山治右衛門、黒木仁兵衛また出座。
十二月九日野久尾近所の衆より私宅に饗応を設く。対面せずと雖も障子を隔てて語る。云云 十二日了円日猛の五十回忌に依り四十余輩に齋会を設け慇懃に回向し、かつ進修院の号を贈る。十三日夜自我偈の講を創む。また今日紺紙金泥一字三礼の追補の礼を成就す。また頃日了閑奉公を勤めんとして渡海の儀すでに治定の趣きを聞く。かつ智厳日定上総馬場村に頓死するを聞く。或いは横死なるを疑う。歳暮の規矩例の如し。かつ平六をして読経の数及び本尊をしたため授与帳書籍総目録等を算勘せしむ。

延宝八庚申  五十五歳

正月朔日日待御祈祷経拝読学初め書き初め等の例の如し。かつ年始より三大部を閲書し往々朱を加え或いは首書。夜世間依見為空の六字を夢む。暗禅を破するの言に似たり。明夜また円大円蔵系図の六字を夢む。三日庵に登り月を拝するの砌たちまち覚弥誤って注連を収むるを見、呵責せんと欲すと雖も宥過無大の言を思惟し、かつ空観を凝らして止む。十一日夜自我偈を講ず。かつ奥師の記、世間浮雲目当並びに不思前不思後当位不乖仏天の言有り。これを見て肝に銘ず。また当年よりいよいよ世事を省かんと欲し、今月読経毎日午後に到る。
二月朔日夜四分戒本の講を創む。五日日高氏の嘉招に赴く。饗応丁寧。かつ輿に駕し御城の池辺に遊歴し彼の宅に還って二階に昇り閑談。初更帰宅す。明日律詩を賦してこれを謝す。十七日了閑渡海しまず松元氏の室に入り宗旨手形分別せず。十年季の限りこれ無きに依り妨げ無きを欲すと雖も日高氏才覚を廻らす故に無事。私宅に入り閑談時を移す。明日宗旨改めの為札を奉行所に遣わす。相違無くて安堵。かつ藤井氏を家老に遣わし了閑渡海の一札を宣ぶ。また了閑を改めて門弥と名付く。頃日関左の立雪書翰を送り両條を告ぐる事有り。云云 頃日聞く、大機広博の屋敷七堂建立及び大分の扶持方を公庭に望むと雖も敢えて酬答無し。云云
三月七日江戸より便り有り、大樹気色例ならざる及び式部少輔公家衆の馳走役に相当たると聞く。云云 十九日浅山治右衛門の佳招に赴く。座辺奇麗、庭前風流、饗応慇懃、閑談もっとも熟す。かつ江城連歌及び寿仙追悼の連歌、独吟百句を見せしむ。暮れに及び帰宅す。明日詩二首を賦してこれを謝す。一首乾坤等八卦の字を用いて八句と成す。彼また謝せん為来たり、他日和韻を送る。二十二日集註の講成就総合百六十二座。正龍祝儀の饗応を設く。二十四日三教指帰の講成就。二十五日兼約に依り黒貫寺の佳招に赴く。晴天路次の春景眼に満つ。まず雲海山亭に往き唔語時を移す。雲海頃日洛より帰る故に細かに洛中洛外の事を語る。なかんづく絹笠山法皇御製
 問わばやな絹笠山の秋の色きて見よとてや紅葉するらし
また泊如第三重論議の鈔物数十巻を編するを聞く。云云 既にして黒貫に至り池辺興を催し詩を作る。馳走丁寧。黄昏帰宅。二十八日黒貫の両法印謝礼有り。かつ先日即席詩の和韻を送る。八句二首の再和を綴って他日便に附してこれを遣わす。
四月朔日戒本を講ず。正龍遅れ来たる。強く呵責を加え、彼をして帰宅せしめおわってまさに講ず。他日正龍新山及び大蔵を以て陳謝す。故に本に復し無事。二日発微録の講を創む。三日北峯教義の講を創む。七日松木左門の佳招に赴く。座間庭際新奇これ多し。かつ席を後園の池辺に設けて逸興更に催す。帰座の後囃六番有り。点灯後まさに辞去す。他日長編をしたためてこれを謝す。比来北峯要文を集め平六をしてこれを書かしむ。また主膳右京兄弟不和の趣きを聞く。入夏の軌則例の如し。二十八日松木左門より長編の和韻到来、一閑これを作る。まさに一閑の作意宜しからざるを知る。云云 また去年より自我偈を講じおわり更に寿量品の題号を講ずと雖も頃日まずさしおく。
五月十一日北峯を講ずるに因み浄覚但除其病等の文の会通及び所顕の法空中と三千性との両向有って自他に配するの養趣を得心す。十九日池上樹師の五十回忌に依り齋会を設く。二十一日江戸より飛脚有り、大樹八日薨御及び館林右馬頭殿その芳躅を継ぎ諸大名継目の一礼既におわる等の儀を聞く。かつ三角氏の状を開きことごとく御病中の体たらく並びに三家老(酒井雅楽、稲葉美濃、大久保加賀)城中に於いて能興行、饗応山海の珍物をつくし、道具古今の寄種を集む等を知る。云云 他日浅山氏江戸の廻状を送らる。故にいよいよ事実を知る。明日より領内殺生禁断かつ八音をとどむ等の禁制これ有り。これに依って野僧講釈またさしおく。かつ藤井氏を以て薨御の悔やみを主膳及び家老中に達す。予大坂落城のころ薨御を思い合わす有り。始め有れば終わり有り。この後節々早飛脚有り。云云
六月二日大雷鳴動。かつ雷城の台所に落ち、茶道暫時気を失う等の儀を聞く。十六日主膳より書付を送り公方御死骸五月十四日東叡山に渡御し法事まさに六月に至るべし。かつ増上寺異儀を構うるの故渡御の時路次用心。その後酒井雅楽頭松平山城守彼を宥めん為増上寺に赴く等の事を示さる。二十一日領分禁制今日に至って止む。野僧講釈先月末方より怠り無くこれを勤む。頃日浅山氏より堀田上野自害遺言等の書付を送らる。また比来松岩寺より作意を送らる。詩有り引有り。かつて和韻等をしたためてこれを送る。二十九日大機黄檗より帰り草庵を天節屋敷に結ぶの旨を聞く。修性時節の四字を夢む。
七月九日当十四日の日安十三回忌を引越し今日齋会を設く。頃日日堯より書翰有り。予かつて山中指南を著述し、金山鈔及び中正論を並べ挙げその誤り並びに理不尽の処を糺明せんと欲するの旨野札を附してこれを告ぐ故を以て今度の書中異見を加えらるる有り。その趣き両書すでに板行の上は更に指南を作し、為点雖喰かくの如き参者他日世間流布の時却って宗義の区別を疑い、かつ他宗より或いは宗義一貫せざるの嘲弄のとがめ有るべきの段遠慮有るべきか等。云云 異見の趣き余儀無く納得す。故に指南の著述を停止しかつ心に他日御書の鈔物を編するの砌両書の理不尽の処及び真超破の残す所に就いて便に因ってその旨を鈔物の中に含容せんと期す。云云 十五日盆供等例の如し。明日三角氏よりの状来たり具に厳有院殿御病中老中御茶献上丁寧の次第及び落書二通、当将軍綱吉公浄土宗に改め増上寺に帰依す。等の趣きこれを示す。二十三日江戸より飛脚有り、主膳厳有院殿贈官及び増上寺法事中障碍有る等の事を告げらる。作太の状を見てつぶさにその趣きを知る。
六月二十六日増上寺法事の仏前に於いて内藤和泉守かつて意趣有って永井信濃守を殺害し、寺内門外狼藉程無く無事。翌日検使有り和泉守切腹等。云云 二十七日慧照等に対して開目抄の講を創む。
八月十四日備前より江田彦七渡海。密かに対面を遂げ、連日透々本尊等日堯返翰等をしたためて彦七に送る。(二十一日帰駕) 十五日新山の招請に依り、寺後の断岸に出でて月見の興を催す。三伯等来臨詩の連句を催す。云云 二十九日四分戒本の講成就。合して三十四座。
閏八月三日久廃の楞厳を講ず。(かつて天昌将護延引すと雖も彼帰伏の実無き故今月より講ず) 六日集解の講を開く。頃日仙洞の崩御を聞く後水尾院と称す。また江府将軍宣下の粧いを聞き、かつ宣明の写しを見る。
九月九日藤井氏の佳招に赴きまず駕を枉げて愛宕後ろの険を凌ぎ、吉祥寺を歴て佐加利に出で、扁舟に駕して田上に至り釣鐘松を見、主膳の茶店に休息す。かつ仙洞御病中の狂歌を聞く、
 老の山ただかり人はなけれども次第次第にししはおちけり
?時藤井氏の宅に至り饗応閑話、二更帰宅。明日詩を賦してこれを謝す。十五日発微録の講成就。町田弥次より仙洞御葬礼の行列の次第等を送る。また頃日覚眼院より厳有院殿御葬礼の時新受小湊等御布施五十貫宛を頂戴し、なかんづく日明邪義の張本と成り進んで謗施を受け却って猶予の人を罵るを告ぐ。云云
十月四日壱岐道意饗応を私宅に設く。比来華厳合論、三蔵法数等を電覧す。十三日会式齋会等例の如し。
十一月二十五日鹿児島より使者有り、樺山左京隠居同姓主馬加判の儀を定むと聞く。夜授戒説法の儀式を夢む。頃日西方に怪星出づ。或いは太白の変か。云云
十二月二十二日玄義の講を創む。秋来大抵毎夜開目抄を講ず。二十六日島津主膳来たって閑話し、かつ徳松殿(大樹の息)西丸に移徒し、甲府殿十万石を加増する等の事を聞く。歳暮の規矩例の如し。当年世味いよいよ淡く水の如くなり。毎日厭欣の心頻りに生ず。云云

延宝九辛酉

正月朔日日待御祈祷経を拝す。学初め書き初め等例の如し。夜情具智八識浄分智行種子非境生也の十五字を夢む。分明に記す。また旧臘或夜増長二十の四字を夢む、明夜法華八講及び頓写の儀式を夢む。二日三角氏より状来たる。桂昌院殿三丸に移徒し、かつ頃日屋門龍口及び馬場前の三門下馬所と成る。(他日また下馬所落害有り、程無く本に復すと聞く)云云 四日昨今本尊数十幅をしたため、夜四箇條の法門を夢む。一には所捨権体。二には体内の権は実性に対し名を得。三には体外権とは即ち離の中に行門の日迷執を恐れ破を以て正と為す。四には体内権は世人思う所の如きの区別に非ず、唯一絶待の妙法なり。已上この四箇條ともに法門の格式と成るべき義分なり。なかんづく唯妙法三法差無き故にもっとも区別の義有るべからざるなり。得心慶幸些からず。五日夜開目抄及び玄籤の講を創む。向後大抵御書と玄義と隔夜これを講ず。かつ当春より別に密家の書籍を勘う。かつ剃髪断惑浴身洗業休臥数息等の託事観を凝らす。十六日日高氏を主膳及び家老に遣わして年始の礼節を調え、諸方の返札また例の如し。聞く、頃日領内平野衆米良久右衛門を将とし有馬領の内に出奔し、有馬左右衛門よりその趣を江府老中に達す。故に当所家老また使者を江戸に遣わす。云云 二十六日島津主膳年始礼の為来臨。かつ酒井雅楽頭隠居執権の役儀御免板倉内膳若君の家老と成り、また越後殿の家老三人三所に預けらる等の事を告げらる。かつ江戸鑑新板持参。明日上山三左を以てこれを謝す。また聞く、昨夜大雪、雪打に就き尾籠有り、口論と成らんと欲す。云云 
二月十六日江戸より便り有り、聞く、正月二十四日大樹諸大名を将い増上寺山門より御魂屋に至り、装束の行列希代の儀及び牧野備後出頭無比等の事を聞く。また吉賀十左の死去を聞く。云云 また聞く、頃日樺山左京この所を去らんと欲すと雖も、公私の異見有るに依り無事安住。云云
三月四日天昌寺来臨対面。かつて藤井氏等に託し非を悔い楞厳の講を聞かん事を懇望するに依る故なり。向後講席出座、かつ付紙不審の役を天昌正龍慧照了閑に配してこれを勤めしむ。頃日英碩の訃音を聞く。二十六日島津主膳の佳招に赴き、始めて子息内膳及び又十郎に謁す。珍膳芳茗馳走丁寧なり。かつ弁峰に登り逸興窮り無し。帰座の後囃五番有り。閑談時を移す。燭をとって帰宅し、他日長編を賦してこれを謝す。
四月四日正龍寺の佳招に赴きまず駕を宝塔山の絶頂に枉げ巨松の下に席を設け遊覧時を移す。休心道亀等の弟子煎茶持参に及びもっとも興有り。既にして正龍に至りて閑話賞翫饗応暮れに及んで帰宅す。今日儒仏問答五冊を正龍に借る。頃日浅山氏来たって告ぐ、雅楽頭かつて有栖川兵部卿親王を以て家綱公の養子と為すの手段有り。綱吉公の意に乖くか、累代の執権役御免の上大手上屋敷また召し上げらる。堀田備中筑前守に任じその屋敷を賜い執権職を勤め、また加賀爪甲斐守旧悪僉議の上土佐に配流せられ、かつ上方飢饉道中津浪等の事これを告ぐ。云云 五日主膳より長編の和韻(一閑これを作る)倭歌二首(前書有り)を送らる。即刻小序及び絶句を作って再酬に備う。九日日秀の三回忌を迎え饗応を四十余輩に設く。かつ当夏中大抵毎日楞厳を講ず。かつて一閑古風を知らず誤って排律と為すを糺す。云云 また主膳より江戸方角図を借りて電覧。十六日開目抄の講成就し撰時抄を創む。二十二日三角氏より状来たり、つぶさに小栗美作弁侫にして非を飾り、阿部豊州その陳報の言の中に就きこれを糺明し罪科を決定し、及び美作の事に就き渡邊大隅役を止めて閉門、松平越前守近習二人切腹等の事を告ぐ。
五月二十一日三角氏より厳有院殿一周忌法事次第の書付を見せられ、また大樹及び堀田筑前の詠歌等を見る。云云 頃日主膳金丸文左を以て、法華八句の偈を問う有り、つぶさにその旨を告ぐ。かつ他日懇望に依り、八句の偈数通を書写し、主膳夫婦かつ龍泉院等に遣わす。
六月二十七日伯母妙秀の二十五回忌を迎え朝齋を設く。頃日浄土十勝論を閲し、かつ條箇をしたためてその邪義を糺す。
七月三日江戸より便り有り、島津隅州内証有る故に万吉(当年六才)近日参府等の趣きを聞く。かつ新山寺山方より帰宅来謁。また頃日龍泉院飯田氏に託し広島御前自昌院殿より野僧に遣わす所の親切の文を見んことを懇望す故に即ち自筆祐筆二通の長文を送る。七日御経本等の虫払い例の如し。かつ反故を見分け無用の物は丙丁童子に付与す。十日三角氏より状来たる。かつ越後出入りの始終廻状の写し等を示す。繁き故にこれを記せず。所詮越後殿三河守殿配流、小栗美作切腹の体たらくなり。十五日盆供等例の如し。頃日覚弥の代わりとして善了渡海治定の趣きこれを聞く。かつ覚弥十年季当年成満の故その替わりを求むるの旨家老に達す。他日家老の返詞に敢えて別條無し。
八月九日三角氏より状来たり、酒井河内守久世出雲守閉門の事を聞く。覚眼院より野僧述作の守正護国章上聞に達するの旨を告ぐ。また本地院日真の訃音を聞く。また中村談林長江より状来たり、つぶさに当代受不施中学問秀発の能化等の名及び自身生涯の心操憂喜相半す等の旨を書す。云云 他日また酒井雅楽頭去るころ卒去。(世間或いは自害を疑う)堀田筑州日光代参等の儀を聞く。十五日夜庵に登り看経の後独り清光に対して興を催す。云云 明日高鍋煙?蔵より火起こり死人これ多し。その響き居室を震動するに至る。云云 二十一日覚弥饗応に依り阿部松良英の屋後遠見に宜しき処に至り閑談興を催す。云云 二十六日主膳来たり閑話し、かつ鶴姫君紀州と縁辺の内約及び戸田越前松平因幡等知行加増等の事を告ぐ。晦日撰時抄の講成就す。
九月二日報恩抄の講を創む。十二日新山入仏雲海導師比来一七日開帳群集。云云 二十六日新山寺の佳招に赴く。
十月朔日江戸より便り有り、述師九月朔日遷化の訃音を聞き驚動感傷、読経回向す。かつ後便にこれを聞く。
朔日の暁(述師日待)少しく不例に依り忽ち仏前に向かい病苦無く眠るが如く臨終す。かつ遷化を江府老中に達し往還の日限を歴て後方に火葬に行う処敢えて臭気無し。及び領主より聖山を廟所に賜い、まさに骨を埋めんと欲し、地を鑿り法華一部を書写したる巨石一箇を得。諸人皆不思議の思いを成す等。云云 頃日また上方疫死餓死数万に及ぶ等の儀を聞く。十三日朝夕ともに饗応を設け、かつ来客をして金泥銀泥の御経を頂戴せしむ。元祖四百年忌に依り丁寧にこれを勤む。云云 当冬臘より毎月対面の日を両箇に定む。(十六日二十六日)また頃日年号を天和と改むと聞く。また禁中一の宮五の宮位諍い有るを聞く。二十一日覚弥帰国の門出饗応を設く。近頃師弟契約の為本尊を授与す。また昨述師尽七の忌を迎えて朝齋を設く。
十一月七日周易の講成就。(未済卦上経及び繁辞已下に至る先年すでにこれを講ず)十四日覚弥帰国発足首尾はなはだ好し。かつ心鏡かつて懇望する所の勧発唱題縁起の長編当便にこれを遣わす。云云 頃日たまたま仮名書き越後騒動根元記を見る。
十二月二日善了渡海私宅に到着し対面閑談時を移す。かつ諸方の状を閲す。云云 明日名を善亮に替えて日高氏に遣わし、宗旨改めの儀敢えて別條無く、帰宅の後改悔の作法を勤めしむ。十六日大機食傷に依りたちまち逝去すと聞く。かつ大機位牌諱を避け上大下機と書し、別に道範と号す等の事を聞く。十九日不時の大雷。云云 二十一日報恩抄の講成就。二十六日主膳来たり閑話しつぶさに廻状の趣きを告ぐ。云云 今日保昌太夫かつて懇望する所の一家の本尊等をしたため便に附してこれを遣わす。夜法華取要抄の講を創む。頃日檀度を行ずると世儀を止むるとの甲乙を比校しその傍正を定むる有り。また順敵逆知の工夫愛憎を亡するの切要を新得す。また去る頃上田了雲及び主計当処を去り鹿児島領分に赴くの変有り。云云 当冬寒中暖気あたかも春陽の如し。これまた時節叛逆の一部か。二十七日別行に入り行中首題及び本尊をしたたむる等の日課これを定む。かつ毎夜御書の講釈。二十九日に至り晦日及び年の始めの三箇日を除き四日より夜講の式これを定む。その外行中の規矩大抵例の如し。