萬代亀鏡録

説黙日課:4(日講上人)天和二〜天和四(貞亨元)

天和二壬戌

正月朔日日待御祈祷経拝読終日読経及び学問初め。二日書き初め、かつ試筆を霊前に捧ぐ。かつ年始より観心本尊問答抄の講を拝見す。十三日金丸久左より旧年大坂へ遣わす所の箱今朝出船の処浜口に於いて船破損の故彼の箱汐入りのまま返弁を告ぐ。これを聞き驚動すと雖もまた水も漂わすこと能わずの奇特を信知す。かつ海中の魚鼈等と箱中の本尊と触塵の厚縁を結ぶことを思う。既にして箱を開き本尊の塩を抜かしめてこれを乾す。晩天大雨なりと雖も炉火を点じて親灸せしむ。かつ調達耆婆仏身の血を出すと雖も罪福異なり有るを思い合わす。この具本尊還って大功徳たるべきの心地を決定す。明日晴天日に乾し事成る。但し唐紙の本尊一枚破損墨跡互写二十八枚余。云云 十六日読経の外終日客に接す。近年行後の対面二十二日に至ると雖も今日より更に光陰を惜しむ故に今明両日客に接するの式これを定む。かつ稲葉美濃守免役越後高田に移り小田原を大久保加賀守に賜い、かつ酒井日向守改易等の事を聞く。二十一日吉祥寺の逝去を聞く。頃日了遠院より述師の信記として裏頭を送る。かつつぶさに予州聖山の廟所厳重にして当位秀閑香華を供うる等の趣きを告ぐ。二十六日夜唱法華題目抄の講を創む。かつ松木左門参府の暇乞いの為今日来臨。主膳また来たり閑話す。云云
二月九日覚弥京よりの状到来、かつ慧林院に遣わす状の返書を取ってこれを送る。(重便まさに慧林院正月十八日死去を聞く。また嘉運の訃音を聞く)二十八日万吉参府出駕の為当月朔日城に於いて家中の礼を受く。浅山氏供奉。昨暇乞いの為来たる。云云
三月朔日栄俊の忌月に依り齋を設く。比来集解の講は筆記私考及び分科等に因る。また当年より三五九月の三節句及び八朔祝儀物を送るを停止す。また頃日帯屋久左より予の影像を写し、首題及び判形を加えしめたまへと請う有りてこれを遣わす。以て述師影像の対と為す。云云 かつ我不愛身命の文及び自詠の歌を加う。
 露の身はいづくの浦に消えぬとも誓いし法の名をば流さじ
十九日唱法華題目抄を講じおわって二十三日より顕謗法抄の講を創む。
四月十二日日船師の二十五回忌に依り齋会を設く。十六日活眼再び大光寺に住するを聞く。かつ入院の頌を見る。また大坂大疫止まず鉄玄また癘に依って死すと聞く。云云 二十日集解の講全部成就。二十五日文心解の講を創む。久しく玄講を廃する故心解数座してまずさしおく。
五月三日久廃の玄義を講ず。また頃日万吉着府式部少輔当年入部の儀を受くべしと聞く。云云 二十日松尾宗二二十五回忌に依り齋会を設く。二十一日顕謗法抄の講成就。二十三日より一代大意抄の講を創む。頃日三角氏浅山氏家老と成るを聞く。
六月十九日日充師の三十三回忌に依り齋会を設く。二十九日一代大意抄の講おわって来たる朔日より顕立正意抄の講を創む。
七月三日式部少輔入部城に着き藤井氏を以て祝儀を式少及び主膳等に調う。四日夜妙法尼抄の講を創む。今日覚照の訃音を聞き弔問回向す。明日式少より使者有り。云云 九日浣師の七回忌を迎え門弥齋会を設く。頃日聞く、大機徒弟廟所を営むの屋敷を望むと雖も調わざる故瓜生野に退きまた彼の地を追われ上方に流浪す。云云 十五日盆供等例の如し。かつ聞く、昨夜追っ手若輩の衆党を結び町を出で飛礫を家内に打ち入れ、或いは灯籠を破り狼藉の科他日如何。十七日式少来臨対談やや久しゅうして去る。明日日高氏を遣わしてこれを謝す。他日土産として曝二疋を送らる。(使者町田作太夫)十九日追っ手狼藉の衆十九人各々寺に入りその父また逼塞。酒匂源次郎は宗栄寺に入るを聞く。云云 頃日道亀青木主水物語なりと云って江府野僧の本尊を感得するの人有ってたちまち刀難を免る。その初め頭を刎ねらるると見て本尊代わって苦を受け、その後実の罪人更に来たる故に主君奇異の思いを成しその斬罪を宥すと告ぐ。云云 道亀その氏名を失念し重ねて問うに及ばずして止む。二十六日八代氏より状来たり告げていわく、このころ寺社奉行酒井大和守指紙有って日講の存命を尋ねられ、或いは上意に依るか等と有り。云云 二十八日星下御書の講を創む。比来楞厳略頌を作る。(未治)
八月六日楞厳註経全部十巻の講成就。総合百九十座。慧照等三人今日饗応を設く。十一日良心居士の七回忌齋会を数十人に設く。昨日城より使い有り。今日能興行を告げて招請すと雖も年忌供養を受くるに相似するを恐慮する故招請に応ぜず。云云 明日日高氏を以てこれを謝す。十四日再演楞厳障り無く講を終わるの儀を悦び長編を賦して志を彰す。他日正龍藤井氏日高氏慧照了閑等和韻有り。故に再和長編数通を綴る。云云 十五日天昌の招請に赴く。これ楞厳成就の祝儀なり。馳走慇懃、かつ月見の興を兼ぬ。初更の後帰宅。十六日乙御前御書の講を創む。十七日楞厳首題二十字を以て句首に冠し先句の長編を綴る。他日或いは和韻有り、更に和を作る。云云 十九日三角氏より状来たり七朔江府雷三十余箇所に落つるを告ぐ。云云 頃日楞厳私考を補し、かつ節々釈要の不審を聞く。二十二日総勘文抄の講を創む。頃日朝鮮人の来朝を聞く。かつ馳走の次第一巻を見る。また京都新板の書数多到来す。なかんづく別行玄疏記十不二門枢要養例纂要連日これを閲し朱を加え点を改む。また八代氏江府より帰来。寺社奉行両人及び彦坂壱岐守懇ろに野僧の事を問わるの趣きを語る。
九月十一日新山寺の招請に赴く。頃日天昌来たって当冬江湖を大安寺に結ぶに就き会下の衆に対し楞厳を講ぜんと欲するの趣きを告ぐ。予楞厳従来障碍多きの旨を示し、円覚経の講を勧む。彼能く諾して帰る。十七日観経並びに疏及び妙宗の講を創む。今日町田弥次隠居の儀跡職を調えて佐太夫に附す。(樺山左京の弟)二十九日正龍寺の招請に赴く。これまた楞厳の祝儀。まず駕を久峯に廻し晴景海を望み閑話時を移す。即興の詩及び途中作意有り。かつ正龍より送る所の点心を賞し、帰路榎橋を歴て正龍に至り、饗応閑話連句の興有り。夜に入って帰宅。
十月七日祖伶の招請に赴き、席上日高氏三首の詩に和す。かつ比来式少の命に依り城下の犬若干を殺すを聞き傷心些からず。終日話計り。暮れに及んで帰宅。九日式少の佳請に応じ、城に登り閑談やや久し。饗応丁寧。かつ先刻式少の命に依り道幽より法華の講釈を望まるるの使い有り。登城の後その儀たちまち止む。云云 先刻の案内に就き幸いに紺紙金泥の御経を持参す。故に式少及び在座の衆人をして御経を頂戴せしむ。儒者一閑慎んで頂戴す。夜に入り常舞台に於いて囃五番有り。高砂、頼政、江口、松風、海士。番毎に狂言有り。云云 かつ近来廻状を写し遣わすべきの約有り。かつ主膳より両息を遣わし時宜有り、深更帰宅。後聞く、今日馳走の体たらく江府大名に接する式に異ならずと。これ兼ねて野僧の徳行を貴ぶ故なり。云云 明日藤井氏を以てこれを謝す。昨席兼ねて作意を綴りてこれを謝すべからざるの趣きを告ぐ。十三日齋会を設くること例の如し。かつ先日式少より登城の謝礼有り。今日また廻状の写し六巻を送らる。電覧興を催す。十五日楞厳経の不審を聞くこと今夜に止む。(比来註経一之上おわんぬ)十八日久廃玄義の講を継ぐ。二十三日総勘文抄の講成就。(四十五座)二十八日より始聞仏乗義の講を創む。
十一月十四日法蓮抄の講を創む。
十二月二十六日式少より使い有り、例年の時服一重を送らる。藤井氏を以てこれを謝す。今日主膳また来臨閑話。二十七日より例の如く別行に入る。行中の規矩等例の如し。云云

天和三癸亥

正月朔日日待御祈祷経拝読学初め書き初め。かつ例年道意より送る所の屠蘇白散を賞す。五日夜法蓮抄を講ず。十一日玄義を講ず。昨夜節分日待例の如し。昨今寒気骨に徹す。かつ本尊をしたためまた本尊開眼百数十幅に及ぶ。云云 十四日兄弟鈔の講を創む。かつ従果向因縁起離思機発悟道及び体内権二種有るべし等の深旨を新得す。また頃日観心観仏知礼元照の異義及び彼観仏の義不同、宗果分出纏の妙法無始仏界釈迦同体の義を了知す。また??六即の深旨を得。いわく本具の三千は自他不二。故にもし??を以て能具と為さば則ち所具の三千は仏界冷然寧ろ作仏の義無し。云云 二十一日江府の便りに聞く、旧臘二十八日より九日に至る焼亡止まず。また聞く、水手等扶持を放たるに依って党を結び火を放つ。云云 また昨村上三太夫式少の赦免に依り下着、かつ伝語有り、故に今日門弥三太を遣わす。二十五日早天藤井氏来たって昨夜龍泉院の頓死を告ぐ。則ち藤井氏を式少及び主膳に遣わして弔問し、かつ位牌をしたためて読経回向す。明夜高月院に於いて葬礼の儀有り。云云
二月朔日日芳の二十五回忌を迎え饗応を五十余輩に設け、かつ八句の頌を綴って霊前に備う。また比来憂に就き喜に就き他に施物す時必ず妙法加持法施成種の観を凝らす。かつて土砂加持不思議力を以て妙法加持事理周辺の勝を比知する有り。十六日飯田氏来たり密かに龍泉院かつて命乞いの儀有り等と語る。云云 今夕村上三太夫来臨。十四年来まさに眉に接し互いに衰老に驚き、閑談初更に至って辞去す。十八日十界果因抄の講を創む。二十六日今朝式少参府出駕。昨藤井氏を以て礼儀を式少主膳等に調う。かつ昨夜鹿児島より使者巻物到来城内騒動と聞く。また島津右京向後三才に従い家に帰って家老と共に仕置き沙汰の趣きを聞く。二十七日妙宗を講ずるに因って世相常住及び爾前不明全性起修並びに函蓋不相応等の深旨を新得す。また比日心地観経調伏其心如旃陀羅の文を見て内観を増す有り。云云
三月九日如雲の訃音を聞き牌をしたため回向し、かつ門弥を遣わして往日本尊を授与するの趣きを点示す。十日洛辺鳥羽の僧浄益渡海。初め紫竹に住し後清法に帰伏す。今夜密かに来たって対談深更に至る。つぶさに京都累年の儀を聞き悲喜こもごも集まる。かつ諸方より状来たる。連日本尊等並びに返札をしたためて浄益に送る。十四日に至って帰駕。また頃日龍泉跡亡所と成り家財公より主膳に付与す等と聞く。云云 また主膳龍泉追薦の為普門品を写して一字三礼その功既に成って天昌に託し奥書を野僧に請う有り。予敢えて諾せず、つぶさに宗家の法式を述べ主膳に伝えしむ。二十八日祈祷抄の講を創む。
四月十五日結夏、夏中別けて九十余纂の題に因ってつぶさに柏原智晃抄等の諸論議抄を勘へ朱或いは首書を加う。かつまた朱を華厳合論に加う。
五月十二日蓮住十三回忌に依り慧照饗応を多人に設く。云云 明日四條金吾許御書を創む。二十一日京都武村氏より書籍到来。なかんづく別行涅槃疏十義抄全等に関る。欣幸些からず。御書科文また始めてこれを見る。また春信の梅洞文集を見て感有り。示童記また今便に来たる。二十九日法華行者値難抄の講を創む。
閏五月五日寺泊抄の講を創む。また比来涅槃玄の発源機要及び六即敲門を見て新得これ多し。また作州勝善院よりつぶさに浄永妙永追薦回向の趣きを告げ、妙永の形見として印籠小鏡等多種の物を送らる。云云 十四日真言諸宗違目抄の講を創む。明日玄の一を講じおわって二巻の講を創む。二十二日昨夕三角氏妻子を率いて帰宅すと聞き門弥を遣わしてこれを賀す。今夕三角氏来謝す。二十六日島津主膳来たり閑話し、龍泉の回向等を謝するの語及び廻状沙汰有り。今日慧照等三人玄一成就に就き饗応を多人に設く。かつ鹿児島佐々木万次郎と朝鮮人との筆語を見る。二十八日佐渡抄の講を創む。比来大集経及び僧宝伝に朱を加う。
六月十日公儀より両使を以て示していわく、たとい小部たりと雖も書籍を編立すべからざるの旨江府老中上意に依り諸大名屋敷等に触れらる。云云 相応の返詞を調う。かつ先月江府日光大地震の儀を聞く。また昨夜一如の二字を夢む。十六日終日客に接しかつ大樹の若君去る二十八日西丸に薨御す。これに依り当所また今日より殺生禁断等と聞く。云云 今夜兼約に依り三角氏来たり閑話し、つぶさに江府累年の事を聞く。その中松平越前の乱気及び板倉氏公方の意に乖く等の儀有り。夜半辞去す。頃日三角氏土産三種を送らる。云云 十八日佐州学雄渡海松本氏の宿に到着すと聞く。門弥を遣わし夜に入り密に来たって閑談しかつ江府佐渡積年の体たらくを聞く。なかんづく日養日円不和の趣き覚眼牧野備後の輿の辺に伺候して予の先年の諫状を輿中に入る等。云云 学雄数日滞留両奉行等に託し対面の儀を愁訴すと雖も調わず。但し追って密謁を許すの内意有り。云云 二十一日江府の便に若君徳松殿の道号及び増上寺葬送の儀等を聞く。また昨夜より転重軽受抄を講ず。これより已下十七巻終わりの八通に至る盆後講じ終わる。一一これを記せず。二十六日夜に入り学雄来臨閑談暁天に至る。かつ遠路渡海の志に感じ大幅の本尊を授与し、遺属する所の書籍等を楮面に記してこれを送る。また佐州に於いて万部成就石塔を立つべきの趣き及び日円編む所の徳母抄義正しからざるに非ず、字の点画仮名遣い等多くこれを誤る旨を告ぐ。云云 既にして別緒を述べ辞去す。比来したたむる所の常在庵(妙相建立)の什物本尊等及び諸方の返札等明夜平六を遣わして学雄に与う。明後朝帰駕。云云 また今日三角氏来たり閑話し領主及び家中一同貴師は直人に非ずという等親切の詞有り。二十九日了徳院妙祐の七回忌に依り平六饗応を設け紙塔婆をしたため頌を作ってこれを与う。頃日松元惣右行跡誤り有るに依り切腹、子息追放等の趣きを聞く。牌をしたため丁寧に回向す。かつ村春の訃音を聞く。云云
七月十五日盆供養等例の如し。かつ詩三首を賦して妄慮を制止するの志を述ぶ。比来破奠記及び破鳥鼠論を修補し、慧照をしてこれを清書せしむ。朱をまた頃日大集経法苑珠林等に加う。また当月より二十六日の対面を停止す。云云 二十六日一才予水辺出遊の為提重の支度を告ぐと雖もこれを諾せず、彼をして私宅に持参せしめ、隣室の衆を呼んでこれを賞す。然りと雖も制初の故に対面を遂げず。云云 二十八日身延山抄の講を創む。
八月十五日?時輿に駕して月見の為水辺に出づ。三伯一才等来臨。詠歌俳句等の興有り。帰路町を歴て釈迦堂に入り徘徊二更帰宅。また比来節々写物を伊覚に遣わす。
九月十九日木脇寿算の訃音を聞き門弥を遣わしてこれを弔し、かつ入棺の本尊を与う。
十月二日村岡次郎左来たって讃州一夜庵を再興せんと欲するの縁起及び諸国に廻して発句を集め再興の縁と為さんと欲するの趣き並びに筆海(諸国発句の手鑑なり)を見せしむ。云云 頃日予たまたま歌を吟ず。いわく、
 いつの世より迷い出でけん古郷を心に問わん初めしるやと
十三日朝齋等例の如し。十四日十八巻月水抄を講じ終わり十八日より十九巻三十三蔵抄の講を創む。二十三日再び久廃の宗円記の講を興す。(第四巻より) 久しからずしてまた止む。
十一月十八日藤井氏来たって心地の法門を問う。内証法華を信ずるの志を感じ、つぶさに仏法の大意、宗家綱要事理破顕、待絶二妙、解行趣向、今昔起尽等を示す。彼よく納得す。またかつて本尊を授与すと雖も更に守り本尊に名判を本尊の裏に加えんことを請う。その趣は来年参府に就き在府中守本尊を仏前に掛け朝夕これを礼拝せんと欲するの故に他見を遠慮して名判を裏に求む。云云 他日したためてこれを遣わす。二十三日饗応を数十人に設くること例の如し。昨夜即往兜率天上の六字を夢む。今夜分証究竟並結の六字を夢む。厳寒骨に徹し花瓶皆破る。後日皆いわく、多年かくの如きの寒さを覚えず。然るに二十七日夜に至り巨雷鳴動陰陽偏に塞がる怪しむべし。云云 二十七日米良庄左来たって近日公儀より文庫造立有るべきの趣きなりと告ぐ。これ幸いなり。一昨正龍寺の招請に赴く。云云
十二月三日文庫造立の地を定む。夜身朽高原成白骨名残末代の十一字を夢む。夢裏また末代の下に顕丹心の三字を継がんと欲す。云云 頃日また小庵を広むるの儀を企つ。云云 頃日堀田筑前旧悪露顕諸侍人外の思いを成す。(厳有院殿薨御の砌館林内通の趣きなり) また日光門跡の師範(失名)桂昌院に託して大樹を諫暁し流罪に処せらる。並びに観世新九郎発心し黒谷に入って狂歌を詠ずる等の事を聞く。頃日門番橋口平兵衛重病に依って帰宅。他日松葉三郎兵衛これに代わる。また有馬助兵衛門番隈本藤右衛門に代わる。また比日京の武村氏より書籍到来。なかんづく珍書時々電覧。云云 二十九日夜半十文字町回禄。歳暮の規矩例の如し。今夜六与即非単事非単理約六見之即亦六也約即見之六亦即也の二十五字を夢みて分明に記し得ること甚だ自ら慶幸とす。また当年御書玄義の講に因って新得の法門これ多し。老後の楽しみ何事かこれに如かん。

天和四甲子

正月朔日日待御祈祷経拝読。学初め書き初め例の如し。今日大風甚だ騒ぐ。五日梵音声御書の講を創む。かつ句々の下通結妙名の要路を得。十一日徳雲院殿(良心母堂)の三十三回忌に依り比来高月院に於いて丁寧の法事有り。云云 今月或いは雷電或いは降雹或いは大風はなはだ騒ぐ。
二月朔日朝齋例の如し。今日万部塚及び墓屋敷を定めんと欲して地形を図して三角氏及び松木左門に達す。明日録内十九最末の千日抄を講じ終わって三日第二十巻初め千日抄の講を創む。祖伶来たって三角松木両家老快く万部墓屋敷の儀を諾するを告ぐ。云云 欣幸浅からずまず祖伶を以てこれを謝し重ねて両奉行(村田八右・米良庄左)を以て更に一礼を調う。四日今日庵の地形を平げしむ。四望廓開更に風景を加う。十八日両奉行来たって文庫普請近日興行の旨を告ぐ。故に文庫の指図を作らしめて家老酒匂源左に達す。また頃日島津薩州都於郡に一宿して参府の折節大雨野臥の徒死亡これ多し。云云 また去る頃藤井氏参府に依り暇乞いの為来たる。云云 二十一日兼約に依り新山に赴き論議を開く。論議鈎鎖得失相半す。云云 新山より良英の宅に至り茶菓を賞し愛宕に遊歴し午後帰宅。
三月朔日栄俊日妙の十三回忌に依り齋会を設く。かつ佐州塚原出寺日円の訃音を聞く。明日真善院宗祐三十三回忌に依り慧照饗応を多人に設く。紙塔婆をしたため頌を作ってこれを与う。比来永覚の内外集を見て朱を加う。可有り、否有り。云云 明後飛脚到来、式少婚礼首尾の儀を聞く。米良氏を以て時宜を主膳及び家老等に調う。即刻主膳より謝使有り。かつ近頃廻状を送らる。近年節々の廻状主膳より怠り無くこれを送られ野僧の一覧に備う。尤も芳志に感ず。七日庵の修営成弁す。則ち御本尊御影等を遷し奉る。中心喜々。晴天たちまち小雨有りて止む。節雨法雨の表瑞を祝して頌を作る。庵に在って読経二更に至る。九日今日文庫及び塚屋敷地形普請有り。十五日玄義第二を講じ終わって第三の釈を創む。二十二日文庫棟上げ祝儀を両奉行等に設く。云云 
かつ三才を遊覧するの日限を定む。今夜妙破妙顕破顕不二非二物相合不二本来一法二義の二十一字を夢む。これに依りまた始本不二待絶不二の妙旨を会す。また永覚一向執亡能所義忘失始覚相対の辺を会す。二十五日暁天勤行を弁じおわって遊覧の為三才に赴き日出輿に駕す。(米良氏乗馬供奉せらる) 兼約有るに依って路次まず光照隠居の閑亭に入り溟海に望み風光に嘯く。(日高氏前に在り村田氏後に来る) 即席の詩興有り。蕎麦を賞し終わって光照寺裡を巡見し都於郡町荒竹村下宮上宮等(細川繁く隘路多し)をへ午前三才の仮屋に至り竹檻により巨川に臨み頻りに吟眸をめぐらし久しく詩情を凝らす。飯を喫し茶を喫し閑談の後まさに大川を渉る。激波人面を撃ち、早瀬馬足を労す行半里程にして夜討の観音堂に休い入って観音の像を見る。肘後ろに疵を蒙る痕有り。云云 客殿を巡見するに隠元等の牌有り。まさに黄檗派の寺なるを知る。かつて不庵禅師正月二十日に遷化すと聞く。名主日高氏に託して重を提げて来たる。菓を賞し茶を喫し清話時を移す。予興に乗じて夜討観音名実相乖くの狂詩を作る。既にして島津左京の別墅(村田を遣わし時宜を調う)及び月中原興善寺村等を経てまさに亀割坂に登らんと欲して断橋の難有り。竹輿を中にフげ深水を飛び越ゆ。云云 滝の天神を眺望して本丸(伊東古城)に登りしばらく徘徊す。兼約有るに依り黒貫寺に至る。饗応丁寧。池辺興を催し詩を賦し、日入り帰輿。春宵一刻値千金の美景、吟詩また熟す。燭をとって帰宅。今日希代の慰み多日の鬱陶を散ず。読経深更に至って休む。かつ文庫大工の作る所すでに終わると聞く。翌日光照寺黒貫寺及び右京より謝使有り。他日路中吟及び律詩等を修補す。二十九日善了浄雲の一周忌に依り朝齋を多人に設く。云云 また今夕三伯等饗応を私宅に設け閑談やや久し。明日詩を賦してこれを謝す。
四月三日二十巻末光日抄を講じ終わる。四日文庫成就両奉行を以て一礼を家老に達す。今夜二十一巻持法華問答抄の講を創む。かつ相待遮詮実相絶待表詮実相の十二字を夢む。云云 また比来文庫の北面に築山を営み風景を添う。また暇有れば朱を礼記大全に加う。十二日讃州日堯二月十日遷化すと聞く、感傷些からず。牌をしたため丁寧に回向す。十五日結夏例の如し。更に文庫日中の勤行を加う。頃日多く文庫に在って謹学す。頃日三角氏病中華厳を一覧せんと望むと雖も異見を加え華厳を停止し法華を熟覧せしむ。かつ法華霊験伝日朝草案等を貸与す。また比来かつて今村道快に誂える所の一時軒の額到来す。一は鷲峰庵、一は鶴樹軒、一は説黙亭。当位書院及び庵庫の三所に掛く。
五月七日昨今大雨風或いは庵を破り或いは庫を損ず。因って風雨またこれ火宅の観を凝らす。頃日従真(日明弟子)誕生寺貫首と成ると聞く。因って日明偏愛の致す所なるを推す。二十五日大坂より便り有り。まさに覚照院覚驩@不和の趣きを聞く。かつ妙順の死去を聞き牌をしたためて回向す。
六月二十七日妙宗の中巻を講じ終わり、また一昨日御書二十一を講じ終わって昨日より二十二巻初心成仏抄の講を創む。
七月四日佐州より便り有り。学雄万部立塔の屋敷すでに調うを告ぐ。八日今年より今日を以て別行に入るの始めと為す。比来悲華経弥勒六部経等及び宋の景文集に朱を加う。十五日解夏修法等例の如し。十七日今日より瑜伽論を見る。全部百巻朱及び首書を加うを期す。二十日日相世雄院より状来たり、かつ新庄村春雄院日指村覚驩@の立義の非を示す。ここに因って向後野僧また両僧と義絶の志なり。かつ善了をして春雄寂照等と通ぜざらしむ。然りと雖もかくの如きまず慧照善了をして一往異見を両僧に加えしむ。委細の趣向後節々の往復つぶさに別記の如し。また比来瑜伽を見新たに得るところ多し。不如理思惟睡眠起纏を以て三病と為し、食欲等を離るの法追求受用変異三種の過患及び依善起悪立失を示す等なり。
八月朔日瑜伽全部の加朱成就す。首書またようやくこれを加えんと欲す。今日より朱書を大論宗鏡録等に加う。また頃日新得所読所縁妙法の境及び能読の人所顕の功徳各三徳を備うと雖も所縁の経を以て束ねて法身と為し、能読の人を以て般若の智に属し、所顕の功徳を以て解脱の徳と為す。これ則ち三法互融の妙旨にして即身成仏の要道なり。それ経の文字真仏を顕すというなかれ。云云 また昨日式少より菓子を送らる。村田氏を以てこれを謝す。八日庵の天井成就(更に天井を張ること上より虫落つるが故) 十八日式少来儀、対談やや久しゅうして帰路の次で式少庵へ登り佳景を見て興を催さる。かつもし屋敷の望み有らば更にこれを与うべし等の懇情有り。即ち米良氏を以てこれを謝す。また頃日有丙公儀の勘略に就き合力銀を受くべからざるの趣きを浅山氏に告げ、式少の公聞に達せんと欲す。云云 十九日二十二巻の末聖人御難抄を講じ終わる。明日より二十三巻阿弥陀堂法印抄を創む。この後平六口中を痛むに依ってまず御書の講をさしおく。また比来更に築山を広め庭景を添える有り。二十五日平六快気に依りかつて三角氏の病中を慰むる為集むる所の道歌等を清書せしむ。今夜より御書の講を継ぐ。
九月三日三角氏内室の訃音を聞く。門弥を遣わしてこれを弔し、牌をしたため終日回向す。かつ今日庭普請を止む。云云 七日教行録慈雲四明往復の頌文を見るに因り四明随智二諦を以て倶に真と名付くるの格言もっとも肝に銘ず。云云 八日万部立塔及び墓屋敷の図をしたため浅山氏に託して式少の一覧に備う。首尾いよいよ美し。云云 十日石経を書写して万部塚の底に埋め入れんと欲するの願を起こし、今日平六等を河原に遣わして小石を拾い取らす。かつ聞く、先月二十八日江城に於いて執権堀田筑前守稲葉石見守に刺殺さる。筑前の親類即ち石見守を殺し未だその意趣を知らず。これに依って府内道中殊の外騒動すと。云云 後日飛脚有り、江府無事を告ぐ。十六日米良氏池上権左松木宇右及び宇宿六郎兵衛を率い来たり後日の為経塚地形の分限を定め並木の松を以て印と為す。ただ下段を除く故重ねて米良氏を以て地勢下段を除き難き旨を浅山氏に達す。敢えて相違なく下段を加えらる。二十日暁読経の後庵に登り日天子に向かって石経の書写を創む。毎日首題三返宝光日天子の号一返これを唱う。頃日新山に託して向後当所衆の饗応を受くべからざるの趣きを告ぐ。明夜二十三巻種々御振舞抄を講じおわる。但し当体義抄災難対治抄を後日に譲る。二十三日二十六巻教機時国抄の講を創む。(十勝抄太田抄後日に譲る) 頃日智旭起信裂網を見て唯識中論起信混一の和会及び凝然真如所立等に斥うの新意を宣ぶ。一往その所以有るに似たりと雖も一家の規矩に乖く故もっとも用捨有るべし。云云 また頃日酒匂氏三角氏同じく病気に就き家老職を辞退するの処、公儀三角氏の役を免じ酒匂氏の辞退を許さず。かつ宇宿大学三角氏の代わりとして加判役を諾すと聞く。云云 予公許の取捨宜しからざるを思惟す。
十月二日正龍寺の招請に赴き、夜遊の兼約有りと雖も雨天故に止む。四日饗応を正龍寺新山寺両奉行等の多人に設く。比来頌を作り妙経を讃する等の好夢これ多し。繁き故に記せず。十三日朝齋等例の如し。頃日主膳金丸久左に託して施徳我徳世尊八十三の九字を夢みるの趣きこれを告げその意を問評す。云云 かつ聞く松木左門江戸に於いて御朱印の儀に就き無調法有って逼塞す。子息三郎五郎また当地に於いて遠慮。云云 二十九日二十六巻下山抄を講じおわる。明日より二十七巻諫暁八幡抄の講を創む。頃日天昌寺書き置きを家老及び大安寺に遺し置きて退院す。後に聞く、科條多しと雖も第一謀書を作り本寺を欺くの科に依り本寺より鹿児島福昌寺に命じ天昌寺を追出さしむ。云云
十一月二十三日朝饗多人例の如し。今日樺山主馬来話す。一昨日二十七巻末宝軽法重抄を講じ終わり、明日より二十八巻十如是抄の講を創む。
十二月十日門弥来たる正月住心院宗信十七回忌の追薦を引越し、今日饗応を多人に設く。紙塔婆をしたため頌を作ってこれを与う。十一日二十八巻末治病抄を講じおわり、明日より二十九巻頼基陳状の講を創む。十五日二十九巻末強仁状御返事を講じおわり、明後日より三十巻善無畏抄の講を創む。頃日聞く、稲葉石見守の書き置きを上覧に達するに依り、筑州の子息下総守官職を止めらる。知行また減碌所替えの儀有り。世人皆石州を褒め筑州を毀る。云云 また明夜三角氏来たり松木左門身体はなはだ危うきの趣きを話す。及び年来世人一同に左門をにくむ等の事これを聞く。二十六日煤掃き。今日村田氏を城に遣わして歳暮の礼儀を調え、かつ御朱印頂戴の儀を祝す。また聞く、鹿児島より内証有り、山田半左昨より閉門。云云 式少よりまた今日使い有り、(酒匂吉右衛門)例年呉服の目録を送らる。明日平六をして累年信施の記公儀万諸雑用の帳をしたためしむ。二十九日読経の部数を記録する等の事及び行中の規矩例の如し。今夜三十巻末十章抄を講じ終わる。また頃日つぶさに日相と備中衆と不和の趣き及び春雄院日雅十月六日逝去を聞く。また世雄より形見として小袖を送る。云云 晦日暦遅れ来たるに依り近頃今夜の節分を知る。故に読経重畳来春に引く。云云