萬代亀鏡録

愍諭盲破記:1(日念上人)

近きころ或方より一巻の書を送れり。
披いて見れば除講記と題せり。
これ先年日講より堯了二師の異轍の書を評破せられたり。
これに依って今その再答を作って却って日講の書を破斥せり。
その義浅薄にして妄りに悪口を吐けり。
かようの事は返答も無益なるべけれども惷愚多き世なればもしこれを見てますます異途に陥らん事を悲愍する故に聊か取り取りを拾摘して答うるものなり。

彼の流れに入れる者は我情の業火上りて智眼盲い、先聖弘化の直道を見ることあたわず。
智眼盲いたるが故に忽ちに険隘荊棘に入りて行足いたずらに疲れたり。
今後の迷倒を憐愍して直道引入の指南の車轍を示諭す。
これに依って愍諭盲破記と題せり。

これを見給わん人は自他の偏党を離れて明らかに義の邪正をわきまえ、一旦の名聞を捨てて鎮かに永劫の善苗を植え玉わば、これ愚子が幸いならん。

一、他書にいわく、日講内心に悪義深重にして日堯日了の志意趣を知らず、後代の嘲弄または罪障を顧みずして卒忽に破し給うと見えたり。
その様子不知案内ならば此方へ尋ねて書き玉うべき処に、君子は下問に恥じずと有り。
然るに我慢偏執を以て書き散らす。
悪名天下に流布せん事必定なるべし。
今還って彼の悪義を払い除く故に除講記と題を云うべし。
云云

報じていわく、日講内心に悪義深重にして堯了の志意趣を知らずとは何の意趣ぞや。
堯了の意趣とは、今法滅に及んで一宗の徒心ならず他宗の判形を頼んで公儀の難を遁れ身命を捨つる事能わず。
その謗罪を悲しみ懺悔心を起こし朝暮本尊に向かって彼の謗罪を悔ゆる故に、その内心は他宗受不悲田とは替わり経文の筋目元祖の所立を内心に信仰する者なれば、その内心は清浄なり。
施主を立てて三宝供養を営む故に此処に便りて本尊を授与す。
これに依ってこの内心清浄の人の感得の本尊を彼の清浄の心に目掛けて内外清浄の行者も礼拝して妨げなく、斉しく利益を蒙って得道す。
かくの如く互いに本尊を拝する故に看経講の時も清派濁派同音に勤むと云う事なるべし。
この外に別に隠密の深義はあるべからず。
日講この意趣を能くしられたるが故に先年堯了状を破斥せられしなり。
今除講記の始終に述ぶる堯了の意趣右の趣を出でず。
この外に堯了の深義あらば今何ぞ出さざるや。
また不知案内にもあらず。
日講この堯了能破を書かれたるは元禄二年己巳三月の事なり。
今に至って三十余年を隔てたり。
備州より逢沢清九郎、須股長兵衛二人渡海して先年預け置く処の日堯日雅二幅の本尊並びに堯了状一通を取り返しに来たれる時の述作なり。
その五六年以前より日指、津寺の諍論に依って一派ついに二に分かれて互いに嫉謗する故にその和睦のあつかいの事を日了より日講へ懇望ありし故に双方の義飽くまで納得の上和睦の手段までを致されたれば不知案内にもあらず。
もし別に日堯の深義あらば先年日了より日講へ呈露あるべき事なり。

その砌日講より日了への状にいわく、日堯春雄院の本尊同じ趣にて信謗同一の授与にて候
乃至
寛正年中一宗通同の格式に、日蓮宗の法義強弱有りと雖も強を以て正と為すと御座候えば、既に両義分かれ候上には法灯の批判には強き方に随い候が本意にてこれ有るべく候。
この砌強いて拝の義を募り候えば異義に成り候いて諸人疑惑の基に候。
その上弱の義を申し立て候わば権実雑乱の潤色に成るべき様に存じ候えば法滅の時にても一向清浄の徒少分にても世上にこれ有る内は信謗混乱せざる様に掟を定め候事仏祖の本意に契当申すべき様に存じ候。
然れば野僧非器の身たりと雖も時に当たって法灯の一分に候えば、この義を興行致し貴師並びに日相も野僧と相談の趣にて向後不拝不同行の義を正義に定め置き申したく候。
云云

日了よりの返状にいわく、春雄院の御本尊日堯因州へ授与の本尊と同じ趣にて信謗同一の授与書紛れ無く候。
乃至
寛正年中一宗通同の格式に、日蓮宗の法義強弱有りと雖も強を以て正と為すと御座候えば、既に両義に分かれ候上は法灯の批判には強き方に随い候が本意にてこれ有るべく候。
この文言深重の義殊勝有難く感歎仕り候。
云云

この両師の書面を見るべし。
日講の状に向後不拝不同行の義を正義に定め置きたく候と申さるるは、日堯の同拝の義を破る趣なり。
もし日堯の深義慥かなる遺言か遺書もあらば、日堯建立の意趣の筋目はかくの如くこれ有り候。
御覧の上料簡あれと返答あるべけれども、別に深義の遺書もなき故に日了より呈露もこれなし。
汝子細ありげに云え共別義のなき事必然なり。
また汝が書に、此方へ尋ねて書き玉うべき処にと。
云云

此方とは誰を云うや。
汝が身を云うや。
汝は日了より高徳なりや。
しからば先年二派に成って騒動せし時何ぞ汝出でて日了を押しのけて日堯の深義を述べざるや。
汝が仏の如く仰ぐ処の日了より呈露なきは如何。
黄吻の汝が分際に過ぎたる君子は下問に恥じずの語を引けるは慮外千万なり。
一笑すべし。

一、他書に自問自答していわく、内信心と云うは総滅の時刻たりと雖も内に不受の道理を尊敬し、外相の仮判を悔い施主を立てて清派の僧を頼みて三宝を供養す。
ここを以て施主に便り人法不二の義事相に顕る、これを内信心と云う。
これ堯了義なり。
日講の義は施主を構えず濁法の内に不受を尊敬する、これを内信心と意得給うと見えたり。
施主を以て内の徳顕るるを内信心とは合点申されず。
もししからば受不悲田も内証に不受を本意と思う者自然に有るべし。
これをも内信心と云うべきや、如何。
堯了師の大綱は施主を目掛けると濁法の内徳とを以て人法一致と事相に顕すを内信心と得意し玉うと見えたり。
日講の義は施主に目掛けず内に不受を尊ぶを内信心と得意し玉うと見えたれば、台家の理観に似たりと。
云云

報じていわく、今正法総滅の時に及んで在俗の信者妻子居宅を捨てて、流死の難にあうことあたわず、謗法遁れなきことを悲歎落涙して力及ばず他門の寺をたのみ公儀を脱れたり。
せめてこの謗罪少しは滅すべきかと、施主を立てて三宝を供養す。
この施主を立つる功に依って仮判の謗罪消滅するや。
今施主に便りて人法不二の義事相に顕るると云うは、いかように人法不二を立つるや。
妻子所領を捨てて命を法華経に奉るを身軽法重の行者と云えり。
今の濁法の人は妻子を愛し所領に貪着して仮判を以て難を脱れたれば身重法軽の者なり。
妻子等にかえて法を軽んずるほどの信心の弱き者なれば、仮判の濁りと内の信の弱きとこの二が事相に人法不二と顕れたる義なれば、内信心の名さのみ賞翫すべき処もなし。
内の信心微弱なる故に外相仮判の謗法を払い捨つることあたわず。
爾前の円の兼帯の粗法を開することあたわず。
善も供に悪と云われて、細人粗人二倶犯過と釈し玉えるが如し。
また内心の名をおこがましく云い立つれども、経論などに出でて深き義あるにも非ず。
これは他門の判形を仮って外相の他宗などに対して内信心と名付けたる事なり。
今の濁法の人は他宗受不悲田に勝れたれども、内外清浄の行者には遙かに劣りたる中分の者なり。
また施主を立つることは一向の他宗の上にある事なり。
今の濁法の徒外相は一向他宗と同じき故に施主を立つるなり。
しかれば外相は濁り、内心の得意は清く、既に人法清濁の二となれり。
これを人法不二事相に顕ると云わんや。
一笑すべし。
内外清浄の人をこそ人法不二事相に顕ると云うべけれ。
また施主を立つるに依って仮判の謗法罪滅せば新たに清派と成って身心苦労して詮なし。
只いつまでも施主を立てて心安く居て成仏したるがよし。
また堯了の得意施主にたよらねば内信心の名立ちがたきように云えるは何なる意ぞや。
先年法滅の砌は施主なき処もあり。
後々に至ってこそ希に施主を立てたれ。
施主の有無に依って内信かわることはなきものなり。
また受不悲田等は内信心と云わずと云えり。
これは内信と云うべき道理なし。
従来内外供に濁って外相の濁りを悔ゆる者には非ず。
また自然と他宗受不等の中にも千万人に一人も希に過去の善の発したる人は正法に入る者もあるべし。
今論ずる処の仮判の人は数多き事なれば内信とも濁派とも仮判とも云うなり。
この故に内信と云うこと定まれる名には非ず。
何ぞ事新たに詮もなき名を論ずるや。
堯了の得意内信と云うに深義あるように誇耀すれども濁法の体臆病不覚の見の分類なり。
また日講の義は台家の理観に似たりと云えり。

今反詰していわく、堯了の義は外相の濁の処を目掛くるや、内心の信に目掛くるや、既に堯了は濁法の内徳へ目掛くと云えり。
しからば日講の義と何の異ありや。
日講の義台家の理観に似たらば堯了の義も台家の理観に似たり。
何ぞ堯了を咎めざるや。
およそ当家の本尊は元祖大薩?天台の理観に簡異して事の一念三千を立て玉う根底の御本尊なれば、いかに云うても理観には似ざる者なり。
色心の二に目掛けて授くる本尊なり。
内心信仰しても無言の処へは授与せず。
心に起こって口に伝え唇を動かして懇望す。
また手を又え足を跪く。
これ色心の二に亘れるに非ずや。
これ内心に目掛くとばかりは云うべからず。
能授の人は殊に濁派の色の穢れをこの本尊に依って何とぞ払って色心清浄の人となれかしと祈念して授くるは定まれる法なり。
この意趣は誰とても同事なり。
何ぞ日講と堯了と得意替われりなどと浅々しく云うや。
愚痴の至りなり。

また施主を目掛くると云え共施主は別人にして濁法の身体の内に入りたる者には非ず。
体の外のものを取り添うるは甚だ非義なり。

一、他書にいわく、堯了師濁法へ本尊を遣わすは内証に不受を尊敬し、外相の仮判をしばらく方便として施主を立て、自今以後は法難来たらば不惜身命を志す程の内信心なるに依って、施主と内徳とを目掛けて遣わす本尊なり。
何ぞ法立として拝せざるや。
また法立として濁法の始経導師も前の如く謗法に成らず。
内信心増進の為なり。
もししからば日堯書付の中に濁法の施主立の義見えず。
また始経導師の義も載せず。
何ぞ二義を云い立つるや。
不審もっともなり。
去りながら、天台の釈に、明者はその理を貴び、暗者はその文を守る。
已上
この意を以て合点すべし。
書付の中に濁法施主立態と顕露に出し玉わず隠密す。
有子細の三字この書の中の肝心なり。
能く能く工夫あらば施主の道理分明成るべし。
日講有子細の三字を没略し給うは大なる曲者は彼の僧なるべし。
施主を目掛け濁法本尊拝の義合点あらば始経導師自然と得意あるべし。
その趣は濁法より施主を以て供養を受け、また濁法の看経書写の題目施主を以て開眼す。
濁法内に不受を専らとし、外相の仮判を悔い、滅罪生善の故に法立の題目に引かされつれて唱題せん。
何ぞ謗法と成るべき。

天台のいわく、謗はこれ乖背の名なり。
云云
この意は法華経に背くを謗法と云う。
今の濁法は内に不受を尊敬し、外に施主を立てて随分法華経を信仰する志あり。
これを謗法と云うべきや。
諸人取捨し給えと。
云云

報じていわく、堯了二師濁法へ本尊を授くる事内に不受を尊敬し、外相仮判をしばらく方便として施主を立て自今以後法難来たる時は不惜身命を志す程の内信なるに依って、施主と内信とを目掛けて授くる本尊なれば、濁法の本尊清派拝せざらんや。
始経も前の如し。
云云
この中に外相仮判をしばらく方便とすと云うは此方より態と好んで仮判をなすや。
およそ方便と云うは大事を成就せんが為に仮に設けたる手段を方便と云うなり。
故に方便と云うは大なる徳を見付けて小事を破って大事を成ずるなり。
武蔵坊弁慶が戸樫の関にて主君義経を打擲して義経を扶けたるが如し。
今仮判は方便には非ず。
公儀よりしげしく責むる故に妻子所帯を捨てて謫戮の難にあう事は恐ろしければ、せん方なさに他門の寺を頼める者なり。
また心に悲しめども時節来たらざれば多年を送る故にしばらくとは云うべからず。
また法難来たらば不惜身命を志す程の内信と云えり。
この間数度しげしき法度ありしかども誰人か公儀へ出でて不惜身命を立てたりや、その人を出すべし。
信力随分弱く身重法軽の人なる故なり。
されども公儀の帳面をのがれたる隠居の老人などは処々にあり。
これは内々庄屋年寄五人組頭分の人を折々酒食をふるまい、音物を送りて、何とぞ当年の改め帳を迦して給われと懇ろに頼む故に、心柔らかなる庄屋などは中間相談して隠密に帳を除くなり。
その上にも何ぞ障りあれば、まず当年は待ち玉え、来年は何とぞ帳を迦すべしと云えば、力及ばず来年を待つ事なり。
これ諸人にわたりて大抵かくの如し。
これほど信力の勇もなき者を押し並べて不惜身命を志す程の内信と誇耀するは何なる心ぞや。
かくの如く外は濁り内は弱き者を内信に目掛けて授くる本尊なれば、清派も礼拝すべしとは何なる顛倒ぞや。
清派の人とは内外共に替われり。
故に濁派と同行すれば清派の人は雑乱の失を犯し、濁派の人は清派を汚す罪業を造る。
これ自他共に流転の業を造るなり。
また他書に堯了状挙げてこの中に施主立と導師始経とを隠密せり。
有子細の三字この書の中の肝心なり。
天台の釈に明者は其の理を貴び、暗者はその文を守ると云う。
日講有子細の三字を没略せるは大曲者なりと。
云云

反詰していわく、除講記の作者は天台の釈を引いて自身を明者に比して自讃せり。
有子細の三字に施主と始経導師とを含めりと見られたるは明者に似合わざる粗見なり。
今本書を出すべし。
堯了状にいわく、また能持の人濁法なれば御本尊も濁本尊と云わば、内心清浄の人は本来他宗と同じか。
もししかなりといわば何ぞかようの悪人に口入れして遣わすや。
もし本来他宗とは格別といわば何ぞ授与の御本尊を拝せざるや。
受不悲田等の御本尊と同ずる事謗罪を招くに非ずや。
濁法の方へ御本尊遣わす事大いに子細有り。
本を明かさず枝葉に付き無義の法式を定む。
前後相違本末不対の語なり。
能く授与の根本を案ぜば不審有るべからず。
已上
この中に有子細の三字あり。
この子細と云うは濁法の人は本来他宗と格別にして内に正法を信ずること実なり。
その内証の信の処を本とし、外濁の処を末とせり。
前後の二字も内を前とし、外濁を後とす。
授与の根本と云うは本末の事なり。
これ施主の有無に拘らず内の信へ目掛くる義なり。
兎角施主を立てざれば内信とはいわれずとならば、堯了は施主なき人には本尊授与なかりけるや不審なり。
有子細の三字は本末を含める義明らかなり。
能く能く堯了の文を見るべし。
明者に似合わざる料簡なり。
また日講この三字没略せり。
大曲者と書ける事謂われざる破言なり。
上に云うが如く子細とて何の別義もなければ筆を労すべきに非ざれば略せられたるなり。
また外相の仮判をしばらく方便なりと軽々しく云えども軽き罪には非ず。
文禄年中の大仏供養を受けたる諸僧、誰か好んで出でたるや。
諸寺に於いて本寺の聖人節々談合ありしかども、公儀の仰せは強し、不惜身命を立つる器量はなし。
是非に及ばず落涙して出でられたり。
しかるを奥師より堕獄の根源なりと度々糺明ありしなり。
今の濁法の堕落の有様彼の大仏供養の出仕と少しも替わらず。