萬代亀鏡録

愍諭盲破記:2(日念上人)

正法総滅の寛文六丙午の年は某幼少にてかすかに覚えたり。
信者数人集まりては、自害すべきか、入水すべきか、家を出でて逐電し、ゆき倒れに死すべきか、さても悲しき事哉とて、家業をもやめて節々談合せしを見たる事なり。
されども思い切って身命を捨つることはならず是非に及ばずまず時節を待つべしとて、思い思いに檀那寺を頼みしなり。
その中に強盛なる信者は首をくくりて死したるもあり。
かほどに悲しみしかども、年月を経るに随って次第に心もゆるまり、信心もおとろえたるなり。
しかるを浅き罪のように弘通するは悪鬼入其身にて辛きを蓼葉に習うものなり。
また他書に施主を以て供養を受く。
濁法の看経書写の題目施主を以て開眼す。
云云
諭していわく、他の意を推察するに濁法の看経書写を施主を以て開眼すれば内外清浄の人の看経書写と同等になると得意せりと見えたり。
看経書写も清派の修したるはその体真金の如く、濁法の看経等はその体鍮鉐の如し。
開眼はそれぞれに随って上研ぎをするが如し。
鍮鉐を上研ぎしても真金にはならず。
清派濁派同音の題目も同じ事なり。
清派濁派元来分け立てて異なるものなり。
しかるを同行するは功徳なきのみならず、却って信謗雑乱の失を犯す。
甚だ恐るべし。
上にも云うが如く濁派の内の信は爾前の円の如く仮判の濁を払うことあたわず。
眼前を以て知るべし。
円教を金に喩うるが故に爾前の円も金に喩うれども、金に勝劣あり。
奥師の円珠真偽決に述べ玉える如く、一切の金は閻浮檀金に及ばず。
一切閻浮檀金は梵天金に及ばず等云いて今昔の円を分け玉えり。
これを以て見れば濁法の信と清法の信とは体に勝劣あり。
爾前の円は兼帯の粗法を開することあたわざれば円も過失あり。
妙楽は、細人粗人二倶犯過と釈し玉えり。
濁法の人外相の謗法を払い除くことあたわず。
内の信微弱にして妻子財宝に貪着する邪念を制伏することあたわざるの過失あり。
この道理を以て唱うる処の題目も清派濁派の題目の本体に勝劣あることを知るべし。
勝劣ある時は混乱すべからざる義おのずから皓然たり。

また他書に天台の謗はこれ乖背の名の釈を引いて今の濁法の人は法華経に背かず。
云云
諭していわく、奥師は制法論にこの御釈を引いて大仏供養を受けたる衆を法華に背く堕獄の人と破し玉えり。
外相の濁れるが法華にそむく義なり。
彼の供養を受けたる諸僧内心には大いに悲歎せしか共、公儀の仰せは強し、是非に及ばず供養を受けられたり。
今の濁法の堕落と同じ事なり。
しからばこの天台の御釈は今濁徒を責むるには能き鉄杖なり。
他書の引証顛倒せり。
一笑すべし。

一、他書にいわく、問う、法立として始経導師苦しからずといわば先年導師に付いて異義致し候は如何。
答えていわく、その子細は法難の砌濁法の始経をも致されたる出家もこれ有るに就いて養心と申す発心者肥州へ下り日浣聖人へ参詣仕り、法立として濁法の始経導師致し候いても苦しからず候や。
と御尋ね申し候時御聖人いわく、謗法に成らずと雖も法難の砌なれば脇よりの見分け悪しく候間指留まりて然るべし。
と御申し成さる。
それより帰国し日浣師濁法の始経は無用にして然るべしと御申しの由を世間へ披露し、それより自然と濁法の始経を何れも致さず。
浣師の御心は仏法修行に強弱の二有る中に強を本意と御申し成され候は、法難の砌なれば施主立もしかとこれ無き時分に候えば、法立として濁法の始経謗法に成らず候え共無用と仰せられ候は、もっとも強の辺その時分も施主を立て申す由を達し候わば無用とは御申し成されまじく候。
浣師より作州福渡へ遣わされ候御状あり。
然れば福渡の諸檀那中は余所に違い公儀むきも能く、信心も強盛に御座有るべく候えども、毎年の公場に於いて受不施と名乗り候えば謗法遁れず。
然る故はもし作善の時分には施主を立てらるべく候。
もし施主無き供養候えば僧にも檀那にも謗法掛かり候故、作善却って虚事に成り候。
もし深心を以て施主を立て供養候わば謗法これ無き故に広大の作善と成る事に候。
御文体ここに略す。
この御状の通りを以て存ずる時は、その時より今は内信心も強くその上何れも施主を以て申し達する故に、今を以て昔を察するに、浣師も是非無用とは御申し成されまじく候と存ぜられ候。
法義繁昌の時分も強弱の中へ弱の辺を以て御教化成さる儀も御座候と承る。
また寂照院より日述聖人へ問い申すは、法立の題目に濁法ついて唱え候えば紛れ申すべきかと御尋ね申し候えば、御聖人のいわく、紛れは申さずと御書付参り候。
これ謗法に成り候わば謗法と御申し下さるべき処にその義無く、内信心増進の為もっともと思し召され候や。
如何様深重の義御座有るべく存ぜられ候。
已上他書

報じていわく、他書にいわく、問う、法立として濁法の始経導師苦しからずといわば先年導師に付いて異義起これるは如何。
答えていわく、その子細は法難の砌濁法の始経致されたる出家もこれ有るに付いて、その刻み養心と申す発心者肥州へ下り日浣聖人に参詣等。
云云
この段自問には先年導師に付いて異義起これる事を挙げて、自答にはこの異義の起これる事を隠せるは心底きたなし。
また法難の砌清派の出家として濁派の始経導師せしことを聞かず。
先年導師に付いて異義起こりたるは天和の比の事なり。
宗順と云う清派の発心者濁法の看経講の導師したりしに依って春雄院日雅覚驩@日通同心して彼の宗順を呵責せられたり。
津寺の覚照院日髞゙の宗順に改悔をさすべしと請け合いたれ共、宗順は導師は致さずと強く諍い改悔せざりしに依って覚照院首尾不合の事有る故に一派騒動せる事有りしなり。
この時春雄院覚驩@一同して宗順を呵責せられしは、元来他門と同音の読経謗法と云う制戒を得心せられたる故なり。
さて養心とは養真のことなり。
この人肥州参詣は寛文年中の事なり。
養真は俗名竹内半三郎と云う備前の人なり。
妻子を離れ清派と成って堅固に修行せり。
覚驩@箕嶋に蟄居の時それがしも覚驩@の庵室に滞留して延宝二年寅の春より同三年卯霜月まで居せり。
この両年の間竹内半三郎には節々対顔談話せり。
それがし卯の年霜月末に覚驩@の庵室を立って日州へ渡海す。
同四年辰の二月講師配所へ到着せり。
同年七月九日素玄日珠、竹内半三郎、野上惣右衛門三人日州へ渡海して講師の安否を訪い、同十五日肥州へ赴いて浣師の安否を訪うに、浣師は九日に遷化ありし故に浣師より講師への御形見の物を請け取って日州へ帰り形見の物を届けて乗船帰国せられたり。
半三郎はその後二三年過ぎて出家の願望を日講へ達して剃髪し、出家の数に入って養真と云えり。
天和三年亥九月二十五日死去なり。
然れば養真肥州下向は前なり。
宗順の濁法の始経導師をして春雄院覚驩@呵責有りしは遙かの後なり。
他書の自答にこの事を隠して云わざるは覚驩@始めは濁法の始経を呵責せられかしども、後には悪鬼入其身して濁法の始経導師をする風儀となれる故隠せりと見えたり。
さて養真より尋ねに付き浣師の仰せに、始経導師謗法には成らずと雖も脇よりの見分け悪し、指留むべし。
云云

この見分け悪しと仰せらるるは清濁雑乱をきらい玉えるなり。
雑乱すれば必ず強の辺よりは咎むるものなり。
これに依って異義起これば一派の内破法罪を造ること眼前なり。
破法罪これ謗法に非ずや。
破法興盛する時は、大勢二派に成って同志打ちして互いに大罪を造ることなり。
火事も始めもえ出づる時は一人にてもけし易し。
次第にはびこり大火となれば大勢にても消すこと難きが如し。
浣師は後を勘え玉いて初発を誡めて指留むべしと仰せられたり。
事起こらざる時なれば言柔らかなれども後にはまさしく謗法となるなり。
また他書に、その時分は施主立もしかとこれ無き故に始経無用と仰せられたり。
施主を立て申す由を達したらば無用とは仰せあるまじと。
云云

これは我が勝手に合わせての会釈なれば推量の誑惑なり。
施主はその前方より立てたり。
浣師も御存知の事なり。
その故は寛文五年は備前神道の建立にて自他宗共に破滅せらる。
領掌せざる者をば或いは追放し、或いは成敗せらる。
法華宗にも十二人籠舎、その内六人は成敗、六人は追放せらる。
その追放の内河本与右衛門と云う人は作州へ来たって作州の中の施主となれり。
寛文六年一宗総滅の後は何れもこの人を施主として志を達せり。
それがし十二三歳の時にしてたしかに覚えたり。
その後打ち続いて両人づつ施主を立てたり。
その時分は施主もしかとこれ無しと云う。
大いなる偽りなり。
また作州福渡の衆毎年公場に於いて受不施と名乗ると云えり。
これは何方も同じ。
在家の公儀を勤むる人は仮判を受不施寺へたのみて居る者なり。
公場に於いて不受不施と名乗るべき道理なし。
但しその辺の濁法は公場に於いて不受不施と名乗る人ありや。
一笑すべし。
また他書に、法義繁昌の時も強弱の中に弱の辺を以て教化成され候義も御座候と承ると。
云云
諭していわく、一宗に強弱の二筋はある事なれども、もし一派の中に事起こりたる時強の義にて事治まりがたき儀ある時は、時に臨んで弱の義を以て治むることあり。
されども加様の事は一時の善巧方便にして破法にならざるようにとの手段なれば不断常恒に用うる事には非ず。
堯了の弱は常恒の弱の義なり。
我情を捨てて能く能く工夫あるべし。
また他書に日述聖人へ寂照院より問訊の事を挙げたり。
この述師の御返答に紛れはせぬとあるを以て見れば、清派の看経の時濁法の人その声に付いてなるほど小声かある日口内にて唱うることを尋ねたてまつられたるように見ゆるなり。
しかと定めがたし。
同音同行の事にてあるまじ。
浣師の心と一轍なること明らけし。
堯了の如く同行同拝して功徳勝るると見玉わば専らその旨を仰せられて一同に勧化あるべし。
見分けも悪しく雑乱の濫觴となるに古来先聖の立義の如く強義為正の轍を守り玉えること明白なり。
総じてこの強弱の義を評せば、妙覚寺九箇條の法式の中に、異体同心は繁栄の洪基、立破に於いては強弱を思えとあり。
これ少々の破立に就いての法度なり。
同じ法式の中に誘引方便を用うることあり。
され共寛正年中一宗通同の格式に、日蓮宗の法義強弱有りと雖も強義を以て正と為すとあるに依って天下一宗通同して強義為正を弘通し来たれり。
寛正年中一宗学者通同の格式とし玉えば、これを非義なりと云わば先哲を欺く堕獄の罪人なり。
これは寛正七年丙戌二月十六日諸門流契約六箇條の格式なり。
人王百四代後土御門天皇の御宇なれば、奥師の御誕生より百年のさきなり。
今に至っては二百五六十年に及べり。
天下の諸聖年来この格式に依って立て来たり玉える故に、寛文法難の時も述、浣、講、堯、了、相、庭、養の八師、その外清派の学徒数人皆以て強義為正の一轍の弘化にして内信の衆も一同に隔てなく尊敬せり。
この立義に於いて何の不足あるや。
然る処に堯師遷化の前の年、天和三癸亥年に至って俄に轍を替えて濁法所感の本尊を清派の人同じく拝すべしと云う義を建立し、弟子立賢への状にその旨を顕し玉えり。
この状日堯遷化の翌年貞亨二乙丑の年露顕せり。
これいかなる因果天魔の狂いしにや。
忽ちに早世し玉える述浣両師と教化の轍かわり、存生の講、相、養、庭等に背けり。
轍替わる故に必ず異義諍論強弱二派分かれて同士打ちせんはいかなる者も恐慮あるべき事なるに、その心の付かざるは誠に悪鬼入其身魔障なり。
たとい弱の義に依って濁徒悲愍の余りに内の信に目掛けて同行同拝しても謗法にはなるまじと云う一義ありとも、今総滅の時節合戦に打ちまけて方々へ逃げ隠れたる残党の如くなる一派の内、また二に分かれて従来の法敵浄土受不等よりも強く互いに嫉謗し破斥するようになるは、まさしく破法罪の至極なり。
この破法罪の起これる処は堯師一人に根底せり。
罪は首悪に留まると云う本文あればこの破法罪は日堯一人の身に留むべし。
痛ましとも申すばかりなし。
胸をしずめ枕を傾けて案ぜよ。
正義に付き師を執着することなかれ。
堯了師より延宝三乙卯年備前の有松氏へ遣わし玉える状にいわく、書札に預かり忝なく披見致し候。
その近年心学興行に付き御父元入叟釈家を排棄し儒門に耽着し去年四月二十一日逝去。
貴殿その子として身儒家の門たりと雖も心に釈家の正法を信じ晨昏本尊に向い看経怠り無く相勤められ、親父堕悪を念い悲涙袂を腐す。
昼夜忘れられざるの由、誠に以て孝心仏道に通じ世法に叶う者か。
それに就いて当たる四月二十一日一周忌到来故苦報を救う為家来の信女千代法号妙義施主として回向の為金子一歩宛給い候その御志神妙の至り申し宣べ難く候。
また貴殿老母妻愛に繋がり清浄法流を汲み難く中路懈怠の身と成る由ごもっともの様には候えども世皆泡沫の如し、何ぞ長く親愛する事有らん。
中路懈怠と知りながら何ぞ宝所に進まざらんや。
永劫不失の種を求め置くの由これは勿論に候えども、永劫を経歴して種子生長すともその間の流転何ぞ悲しまざらんや。
一旦の虚夢に拘りて永劫の苦因を招くことなかれ。
早く懺謝して法衆に入り、速やかに法水に浴して二世の父母妻子を救う御思案専要に存じ候。
過って改むるに憚ることなかれの孔言世出に通ずべし。
賢を見ば斉しからんことを思う。
何ぞ世法に限るべけんや。
世間染濁の過を改め、出世聖賢の心に斉しうせられば例えば烏龍が昔に准じて慈父抜苦疑い無き者か。
卯四月十六日  了堯判
有松太郎左衛門殿